
最後は核兵器と核発電(原発)の問題」「原発から一刻も早く撤退すべきです」
山本義隆 『相対性理論入門講座』の結語
「福島の事故では、危険な放射性物質が爆発で大量に大気中に放出されただけではありません。冷却機能の喪失で使用前後の核燃料が圧力容器の外に溶け落ちて、今後は何年も、何十年も、何百年も強い放射線を出し続け、汚染水を生み続け、私たちの子孫を悩まし続けることになるでしょう。原子力発電からは一刻も早く撤退すべきです」(了)
これが『物理学の発展 山本義隆自選論集Ⅱ』(ちくま学芸文庫、2025年6月10日第一刷り)にある長文論考「相対性理論入門講座」(299頁~458頁の計159頁)の結語だ。
「相対性理論入門講座」の目次は、「第一章 ニュートン力学の相対性」「第二章 電磁気学の問題」「第三章 特殊相対性理論」「第四章 相対論力学」「第五章 公式E=mc2をめぐって」―。
このような目次から「いったい、『まとめ』はどのようになるのだろう?」という思いで斜め読みしていた。この講義では多くの数式がひんぱんに記述されているのだが、数式はパスして、文章だけを追っていたためだが(それは邪道だと承知しているのだがー苦笑)。半可通で読み通していたら、最後は福島第一原発事故が語られていた。そして「原子力発電からは一刻も早く撤退すべきです」で終わっている。このとき、「そうきたのかー」と思った。
浅学非才なので、「あれ?相対性理論入門講座がどうして福島第一原発事故のことが結語にー」。そう考えていたが、この本の「あとがき 物理学についてこれまで私が書いてきたもの」(2025年4月)を読んでみて、「なるほど、そうだったのか」とうなずけた。
というのも、この「あとがき」によると、山本さんは「教育者」としては、勤め先の駿台予備学校および関連する出版社・駿台文庫からの依頼で、受験生のための参考書「新物理入門」などを書いている。この「新物理入門」の前身は1987年出版の「物理入門」だという。
そこで力を込めるかのように以下のように説明している。
「いずれも最後は原子核物理学を語り、核分裂の連鎖反応とその技術的応用としての核兵器と核発電(原発)、その両者とりわけ原発の問題点(事故の危険性と核のゴミ)の指摘で終わっています。核兵器と核発電は100%物理学理論の産物である以上、物理学を学ぶに際して、その問題は知っていてもらいたいと思ったからです」
この「あとがき」の結びも読ませる。
「東大闘争で(山本さんは東大全共闘議長だった)物理学の研究者の世界からは外れましたが、予備校で物理学を教えるということで、物理教育に半世紀近く関わってきました。かくして人生の晩年を迎えた現在、その物理学が生み出した核分裂連鎖反応の技術的使用という負の遺産の現実に直面し、人類と地球の存続条件自体が危ぶまれ、あまつさえ、世界が戦争とファシズムの瀬戸際に来ているように思われる局面に遭遇し、危機の感を強めています。80余年の人生の終活は、60余年の活動の総括でなければならないでしょう.
大佛次郎論壇賞を受賞している3巻本の『磁力と重力の発見』(2003年)や『十六世紀文化革命』(2007年)などで知られる科学史家、山本さんは『福島の事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(2011年8月)、『核燃料サイクルという迷宮』(2024年5月)といった原発問題そのものをテーマにした本も書いている。
「科学史家がそこまで原発にこだわるのは何だろうか」と思ってきたが、今回、この『物理学の発展』の「あとがき」で、その疑問が解けたー。同時に改めて「社会正義」にも反する原発と核に私たちがこだわり続けなければならない基本的な理由、背景、根拠の大きなひとつを示してくれたとも思えた。
第一回 地租改正
第二回 神風連の乱
第三回 戦前の天皇制
第四回 大アジア主義
第五回 日露戦争
第六回 頭山満
来歴
日活映画の活動弁士であった父・次郎と母・かね子の子として京都府紀伊郡深草町(現:京都市伏見区深草)に生まれる[2] 。誕生日は8月1日となっているが、これは出生届の提出時に父が間違えたもので、実際の誕生は9月1日という[3]。
1938年(昭和13年)、当時大陸で映画館の支配人をしていた父を追って中華民国・北京に移住、その二年後に大連に移り、南山麓小学校から大連第一中学校へ進む。1947年(昭和22年)、大連から日本に引揚げ、戦災で母の実家が身を寄せていた菩提寺の六畳間に寄寓する。
旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)に日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。
法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年には熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就いた。
2022年12月25日死去[1]。92歳没。
著述
受賞