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2026年6月

2026年6月30日 (火)

遺品あり岩波文庫「阿部一族」  戦場に殉じた戦友の覚悟を突き付ける

Photo_20260630131501            「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」

 今号は「治安維持法101年」と新興俳句事件で弾圧を受けた橋本夢道や渡辺白泉などをメインにした「論考」を書こうとした(結果的には「忘備録」のようになってしまったがー)。そのため「京大俳句」など新興俳句のさまざまな俳句をチェックする機会ともなった。主に昭和十年代の「戦火俳句」「銃後俳句」と言われる作品だが、当時の優れた句は夢道や白泉ばかりでなく、キラ星のような俳人がいたことを知った。いやはや遅ればせながらと頭をかきたいところだ。

 西東三鬼、高屋窓秋、栗林一石路、石橋辰之助、仁智英坊、三谷昭、井上白文地、藤木清子、三橋敏雄などだ。ほとんどが新興俳句事件に連座した俳人たち。それらのうちでも鈴木六林男(すずき・むりお)のその一句は特に「はっ!」とさせられたひとつ。冒頭に挙げた「遺品ありー」だ。アジアの戦場に散った若者が遺したのは一冊の岩波文庫であり、それも武士道残酷物語を描いた森鴎外の有名な作品だった。その「情景」を映画のシーンのように写し取っているように感じられたからだ。

 その感覚をさらに深く感じさせられたのは、川名大(かわな・はじめ)の『現代俳句 上』(ちくま学芸文庫 2001年5月9日第一刷)のこの句の解説によって。少し長いが、書き残したい。たった12字のこの句が何を語っているかをていねいに伝えているため。以下は川名大の筆だ。

 この句は第二次世界大戦で最も過酷悲惨な戦闘といわれたフィリピンのパターン・コレヒドール戦の体験に基づいている。方法的には戦友の視点から句の中に有名な署名を引用し、過去の歴史と現在とにモチーフを重ね、重層的なドラマを演出した高度な語りである。戦死した戦友の雜囊の中から出てきた一冊の岩波文庫。それは森鴎外の『阿部一族』であった。

 この歴史小説は江戸時代に主君への殉死を許されず、意地を貫いて反抗し死を選んでいった阿部一族の悲劇を描いたもの。この句ではその阿部一族の生き方や死生観が戦場の兵士たちのそれと重ね合わされている。だから、遺品『阿部一族』は戦争を深く懐疑しつつ、戦争に殉じた戦友の精神として、生き残った兵士の胸に死生観や死の覚悟を鋭く突き付けてくるのである。

 こうした優れたいくつかのかの句の解説を読んでいると、「こんな句を私にもつくれたらいいのだがー」と思わされることしきりだった。これが今回の「序説第33号」に関わった思わぬ収穫のひとつかもしれない。なお、「遺品ありー」のこの句の初出は「蠍座」第31集(昭和17年8月)とある(富岡洋一郎)

 

2026年6月28日 (日)

花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ  夢道の句碑は故郷の正法寺川沿いに

「ウィキペディア」によると、自由律俳人、橋本夢道(むどう)は 丁稚奉公から世の中に出て行った苦労人であることがわかる。の終わり徳島県名東郡北井上村(現在の板野郡藍住町)の小作農に生まれる。本名・橋本淳一。小塚尋常小学校卒後、藍玉問屋の奥村商店に丁稚として奉公。14歳のとき深川の東京支店に抜擢される。このころ『萬朝報』に載っていた荻原井泉水の句に惹かれ句作を試みる。

1922年より自由律俳句誌「層雲」に投句、井泉水に師事する。1929年、俳句を通じて知った荻田静子と結婚。しかし、奥村商店は自由恋愛を禁じており、プロレタリア俳句運動に関わったこともあって奥村商店から解雇される。1937年、プロレタリア俳句誌「旗」を創刊。その後「プロレタリア俳句」「俳句の友」と改題するが発禁となる。1934年、一石路らとともに「俳句生活」を創刊、編集を担当する。

 そして、1941年、「京大俳句」事件を始めとする新興俳句弾圧事件に連座し、2年の間拘留される。

 夢道は1974(昭和49)年10月9日死去。71歳だった。この年、私は大学6年生だったが、「除籍」を選び、東京へ向かっていた。

夢道の句碑がふるさと、徳島県板野郡藍住町の正法寺川沿いにある。高さ2.7㍍、幅2.2㍍の巨大阿波青石に刻まれている(『藍住町議会だより』2013年2月25日など)

 

「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」           

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2026年6月27日 (土)

戦争が廊下の奥に立ってゐた   鋭いイロニイ込めた渡辺白泉

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戦争が廊下の奥で立ってゐた

 

 「京大俳句弾圧事件」に連座した俳人に渡辺白泉(1913~1969)がいる。とくに「銃後俳句」として名高いのが、この2句だ。

 

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(昭和13年)

「銃後といふ不思議な町を丘で見た」(昭和14年)。

 

 この句について、『昭和俳句の検証 俳壇史から俳句表現史』(川名大 笠間書院 2015年9月15日第一刷)がこう評価している。「俳句における社会性の表現という新興俳句における最も困難な課題は、やがて、銃後俳句において白泉自身の手によって果たされるようになる」。

 この「戦争が廊下のー」の句については、「『戦争』が銃後の日常へも否応なく侵入してくる恐れを戦慄的なイメージによって鷲づかみにした傑作」、「銃後といふ不思議なー」についても、「銃後という何の不思議もなく日常化した共同体から抜け出し、丘の上から眺めると、『不思議な町』として目に映るというイロニイによって閉塞の時代状況への違和感と批判精神を込めた傑作」と大きく評価している(同書36頁「戦前・戦中篇」)。

 372頁というこの大著で、白泉はこんな皮肉った、というか、そうと思わせながら、実の意味はまったく逆のことであることを示唆した、いわば鋭いイロニイを「隠し味」にした白泉の銃後俳句を紹介している。川名大は「銃後俳句において最も果敢に斬新な表現の開拓に試みたのは渡辺白泉」と指摘している。その句として次の2句を挙げている。

 

「戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり」

「繃帯を巻かれ巨大な兵になる」

 

 この解説がふるっている。というか、私たちの直感を言葉でていねいに示しているというべきか。

 「戦場へー」の句についての解題は以下のようだ。

「ここで用いられているのは白泉が最も得意とするイロニイの方法。一見、躍動する勇壮な出陣行進のように見せかけて、『手ゆき/足ゆき/胴ゆきて』と分節化することで、マリオネットのようなぎこちない動きを伝える。そこには自由な意志を奪われた兵隊たちが否応なく戦場へと送り込まれていくことへの鋭いイロニイが込められている」。

 

 「ウィキペディア」によると、白泉は1936年に慶応大経済学部を卒業。1933年、水原秋桜子の『俳句の本質』に啓発されて「馬酔木」に投句、実作のほか無季俳句論など評論でも活躍、新興俳句の新鋭として認知される。大学卒業後は三省堂に勤務。「句と評論」の句会を通じて西東三鬼と親交を結ぶ。1937年、「句と評論」を辞し、小沢青柚子らとともに「風」を創刊。1939年、三鬼の斡旋で「京大俳句」会員となる。1940年、新興俳句系の俳誌「天香」創刊に加わり責任編集者の一人となるが、同年「京大俳句」を中心に起こった弾圧事件(新興俳句弾圧事件)に連座、執筆活動停止を命じられ起訴猶予となる。1944年応召、横須賀海兵団に入団。復員後はあまり俳壇とは関わらず、中学・高校の教員として勤めた。

 

 

2026年6月26日 (金)

違憲と判断される可能性が非常に高い 「国旗損壊罪」で志田陽子・武蔵野美術大教授

「国旗損壊罪」についてPhoto_20260626150201 受けて、志田陽子教授の著書『「表現の自由」の明日へ』を日光図書館から借りて読んだ。ただ著書は表現をめぐる全般的な内容で教科書風だ。やはり、この朝日のインタビューの内容が光っている。なお、内閣委員会での参考人の意見聴取はきょう26日(金)の朝日新聞4面に『国旗損壊罪「憲法抵触』指摘も』に。内閣委員会で志田陽子さんは「現在の案では将来憲法訴訟になったときには、違憲と判断される可能性が非常に高い」と指摘したとある。「指摘した」というより、いわば「警告した」あるいは「注意した」というべきかー

(インタビュー)自国国旗の損壊罪、必要? 憲法学者・志田陽子さん

写真・図版
「刑法が外国国旗の損壊を禁じている理由は外交の円滑化であり、外国の名誉を守るためではないと私は思います」=友永翔大撮影

 自国の国旗を傷つけることを法律で禁止する――そんな国旗損壊罪の新設を目指して、自民党や日本維新の会などが動き出した。首相の高市早苗氏が長年取り組んできたテーマでもある。憲法学者の志田陽子さんは、そもそも新たな規制が必要かどうかをまず吟味してみましょうと言う。どういうことか。

 ――自民党と日本維新の会は「日本国国章損壊罪」の制定を目指すことを連立合意書に記しました。参政党も10月末、同趣旨の刑法改正案を提出しています。このうち自民党は、2012年にも国旗損壊罪を創設する刑法改正案を提出して廃案になっていますし、21年にも再提出をする動きを見せていました。

 「自国の国旗を損壊する行為を処罰する――そんな法律を作る必要性が今どれだけあるのかを、きちんと吟味すべきだと思います。国家の統合や治安、国家への愛を、法律で強制しなければ確保できない状況に、日本はあるのでしょうか」

     ■     ■

 ――外国の国旗を損壊する行為を罰する規定は刑法92条にあるのに、自国の国旗を損壊する行為を罰する規定がないのは矛盾だ、という主張があります。

 「矛盾ではないでしょう。多くの人が指摘している通り、刑法92条は他国との外交関係が悪化することを防ぐためのもの、つまり外交上の国家利益を守るためのものだからです。自国の国旗を損壊する行為に触れていないのは当然なのです」

 ――とはいえ、自国の国旗を損壊する行為は極端な問題行為だと思う人もいそうです。

 「国旗が焼かれたり汚されたりするのを見て心が痛んだり不快に思ったりする気持ちは、私にも理解できます。他方で、自国の政治のあり方が間違っているという思いからぎりぎりの抗議の表現として国旗を焼いたりすることは歴史上、各地で行われてきたことでもあります」

 「たとえば近年では香港で、民主的な自己統治を求めて中国政府による支配に抗議した人々が、国旗を侮辱したという理由によって逮捕されています」

 ――今もし誰かを公然と侮辱したら、刑法で侮辱罪に問われうる現実がありますよね。それならば国旗や国家への侮辱も禁じられてしかるべきでは、との考えについてはどうでしょう。

 「生身の人間への侮辱とは異なり、国家に対する侮辱には『法的な被害者』が存在しません。また国旗が損壊されるのを見て心が痛んだりする国民がいたとしても、その人の権利が侵害されたとまでは言えません」

 ――国旗損壊を見て不快な思いをしたり、国家の統合や秩序が揺らぐのではないかと不安を感じたりする人が出てくる可能性は、どう考えるべきですか。

 「その可能性はあると思います。ただ、不快な思いを与える表現だったことを理由に法で処罰することは、表現の自由に照らして問題があります。あくまでヘイトスピーチのような人権侵害の事例に限るべきです」

 「統合や秩序が揺らぐという不安については、憲法で保障された国民の自由に制約を加えなければならないほどの無視できない『実害』が本当にあるのかを考えてみるべきでしょう。処罰の必要性を根拠づける『立法事実』があるのか、処罰で強制してまで保護すべき法益があるのかをチェックする作業です」

 ――志田さん自身は「ある」と思いますか。

 「誰かが日の丸を破ったり焼いたりすることによって日本社会の統合や秩序が危険にさらされている状況があるとも、そうなることが確実視される状況があるとも、私には思えません」

 「過去に注目された事例としては、沖縄国体の会場に掲揚された日の丸が焼かれた事件がありますが、今から38年も前のことです。また、それを実行した男性は罪に問われなかったわけではなく、器物損壊などの罪で有罪判決を受けてもいます」

 ――国旗損壊という行為が問題になりうるケースとは、具体的にどのようなものでしょう。

 「大きく二つに分けて考えたらいいと思います。第一のケースは、政府や自治体などが所有する日の丸、つまり公の財産である国旗が損壊される例です」

 「もし国家施設や公的行事などで掲げられている日の丸を誰かが破いたりしたのなら、『他人の持ち物』を壊したことになりますから、今ある器物損壊罪などで処罰できます。そのうえに新たな規制を設けたら『屋上屋』になってしまいますので、国旗損壊罪を新設する必要はないことになります」

 ――では、もう一つのケースとは何でしょう。

 「一般市民が、自分で買ったり、紙や布で作ったりした日の丸という表象を、自らの表現行為に利用するときです」

 「自分の持ち物ですから、処分権は本来その人にあるはずです。にもかかわらず、個人が自分の所有する日の丸を損壊する行為までを処罰対象とすれば、それは表現そのものを規制することになります。使い方を規制するということは、『使い方に込められたメッセージ』を統制することになるからです」

     ■     ■

 ――何を守ろうとする法律だということになるのでしょう。

 「国旗というものが持つ『象徴的な価値』が公然と毀損(きそん)されること、を防ごうとするものなのでしょう。実際、高市早苗首相は過去(21年1月)に自身のホームページで、国旗損壊罪の創設を通じて侵害から守るべきものとして次の二つを挙げています。『国旗が象徴する国家の存立基盤・国家作用』と『国旗に対して多くの国民が抱く尊重の念』です。いずれも、モノとしての日の丸ではなく、国旗の持つ象徴的な価値に焦点を当てていると言えます」

 ――国旗損壊罪を制定しようとする人々からは、あくまで侮辱目的での損壊を規制するだけで、政府への抗議の表現まで取り締まるものではない、との反論も予想されます。

 「警察での取り調べや裁判など実際の運用場面を考えると、『あのような表現が侮辱的だということは当然認識できたはずだから、侮辱の目的があったと推定される』といった論法で有罪視されてしまう事態が容易に予想されます。なので、侮辱目的に限るとの規定が実際に歯止めになるかどうかは疑問です」

 「また、逮捕された人が『目的は侮辱ではなかった』と証明するためには、自分の思想信条を捜査機関に明かさなければいけなくなります。その意味で国旗損壊罪は、捜査機関が個人の思想信条に踏み込むきっかけを作り出す法律でもある。法や公務員が個人の内面に踏み込むことを禁じ、思想・良心の自由を保障した憲法19条に抵触する可能性があると私は思います」

 ――国旗損壊罪は米国にもあると言われていますね。

 「ええ。ただ、1989年に重要な司法判断が出されていることも確認しておくべきです。自国政府への抗議デモで星条旗を焼いた男性が、国旗を侮辱した罪に問われた事件で、連邦最高裁は、国旗を損壊する表現を禁止・処罰するテキサス州法は違憲だとの判断を示しました。政府への抗議を表すための国旗損壊を、憲法が保障する『政治的な表現』と認めた形です」

 「この判決は保守派の反発を招き、連邦議会は星条旗への保護を強めようとして連邦法を改正しましたが、連邦最高裁は90年、この改正法についても違憲だとする判決を下しています」

 ――一方でトランプ米大統領は、それらの司法判断に対する不満を表明してきました。

 「ええ。トランプ大統領は今年、星条旗を焼くなどの行為をした人を起訴するよう命じる大統領令に署名しています」

 ――国旗損壊罪を制定しようとしている人々は、フランスやドイツ、中国などにも同様の法律があると訴えています。

 「それぞれの国がどのような実害を踏まえて、いつ導入し、表現の自由との衝突をどう調整しているのか、英国やカナダにはなぜないのか……。調べた方がいいことが山積みです」

     ■     ■

 ――国旗損壊罪の制定に反対すると、一部の人々から「日本を愛していないのか」「それでも日本人か」という非難が寄せられてしまう状況もあります。

 「愛と追従は違います。自国や郷土への愛があるからこそ、そこで起きている問題や過ちに対して内側から厳しく批判・抗議する人々は、歴史に繰り返し登場してきました。国や郷土をあっさり見捨てて離脱するタイプではないからこそ、表現もときに辛辣(しんらつ)になるのです」

 「愛や尊敬は結果としてついてくるものです。それを法と警察力で強制すれば、萎縮による追従は得られても、人心の内実は離れ、国への尊敬や帰属感はかえってもろいものになります。尊敬される国政を実現することに専念すべきでしょう」

 (聞き手 編集委員・塩倉裕)

2026年6月25日 (木)

治安維持法の教訓を活かすために 内田博文の大著『治安維持法の教訓』

岩波新書「治安維持法と共謀罪」(2017年12月)を書いている内田博文さんは大著「治安維持法の教訓」(2016年9月)も発刊していたのを知りました。値段はなんと、びっくり。「9.900円」ー。今時、こんな値段の本を買う人がいるかと思うほど。ともあれ、「だめもと」で、栃木県内のどこかの図書館にあるかどうか、日光図書館に問い合わせてみようと思う。それにしても、こんな高価な著作を知るのは初めて。たぶん学術研究用なのだろうかなとー。いずれにしろ、内田博文さんの筆さばき、というか、この治安維持法の問題点への鋭い切り込みは、岩波新書「治安維持法と共謀罪」でよくわかっている。なので、一度は目を通したい本だとは思う。
治安維持法の教訓

権利運動の制限と憲法改正

みすず書房 内田博文 

価格 9,900円(本体9,000円+税)
発行年月 2016年09月

大正14年公布、改正の度に進化した治安維持法。帝国議会の審議と大審院判例から制定と運用の過程を読み解き、あらゆる「権利運動」を抑圧した法理論とその帰結を解明する。歴史研究による刑法学。

第1部 治安維持令と治安維持法(治安維持令の公布;治安維持法の成立;治安維持法の適用)
第2部 昭和三年改正法(昭和三年改正法の成立;昭和三年改正法の適用)
第3部 昭和九年および十年の改正法案(昭和九年および十年の改正法案の不成立;法改正挫折後に進んだ拡大適用)
第4部 新治安維持法(新治安維持法の制定;新治安維持法の施行とその法適用)
第5部 治安維持法の亡霊(治安維持法の教訓を活かすために;権利運動の危機と憲法改正)

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2026年6月24日 (水)

なぜ「法の暴力」が蔓延したのか  『検証 治安維持法』(平凡社新書 荻野富士夫)

 

『検証治安維持法 なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』

 

 新興俳句弾圧事件を語るには、「京大俳句会Photo_20260624233801 事件」から始めるのが常道だと思うが、それには、この方面の第一人者である荻野富士夫の平凡社新書『検証治安維持法 なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(2024年12月13日 初版第一刷)から教えて阿多もらうのがてっとり早いかもしれない。新書だが、全8章501頁にもなる同書だが、読ませるのは『第1章 治安維持法小史-施行から廃止まで』、『第2章 治安維持法はだれが、どのように運用したのか』、『第3章 戦時下抵抗と治安維持法の「法の暴力」』、『第7章 治安維持法の威力の震源=「国体」とは何だったのか』だ。

 「京大俳句会事件」は第3章『―「法の暴力」』に詳しい。同書から概要を引き出すと以下の内容だ。新興俳句運動の中で最初の標的とされたのが京大俳句会である。1940年2月の平畑静塔(富次郎)、波止影夫(福永和夫)、仁智永坊(北尾一水)ら8人の検挙につづき、8月までに15人が検挙された。京大俳句会を内偵中だった京都府特高課によるもので、「此の指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」とされた(警保局『社会運動の状況』1940年版)。

 続いて1933年に創刊された「京大俳句」の「創刊同人」のひとりで、後年、関西医科大学教授も務めている平畑静塔(1905~1997)の場合をとりあげている。

平畑は五条警察署と太秦警察署で取り調べを受け、400字詰め原稿用紙1000枚以上の(手記)を書かされた。思想係長の警部は「花鳥諷詠の俳句なら又作っていいのだよ」と「忠言」したというが、平畑は戦時下の句作を絶った。平畑は1940年8月の起訴、12月の予審終結を経て、1941年3月の公判で懲役2年・執行猶予3年を言い渡された。

 新興俳句運動に特高の目が光るようになったのは、「戦争俳句」を積極的に発表するようになった1937年後半以降のことであろう。京大俳句会についても、「徹底的戦争反対の立場を採り、戦争に因る惨禍、物資の欠乏、労働強化、生活不安を指摘し、現実暴露、戦争反対を通じて共産主義思想の啓蒙を行い居りたるもの」ととらえていた(『社会運動の状況』1940年版)。「京大俳句」が多くの共鳴者を得た理由の一つに「俳句の世界ではまだ自由に物が言え、書けるようだ」というムードがあったからだと、平畑静塔は語る(『「京大俳句」と「天狼」の時代 平畑静塔俳論集』) 

 

 「京大俳句」の俳人を検挙した理由は、先に挙げたように、「指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」ため。もう少し突っ込んだ理由として同書が挙げているところがある。

 1940年夏頃、京都地裁検事局思想検事は「一見何でもない様に見ゆるものが、内部に相当突き進んだものを含んでおり、直感的に反戦反軍的なものを感ぜせしむる様なものが多く見受けられる・・・戦傷の寂しきす姿、戦死者遺家族、特に寡婦の寂しき生活状態、或は下層階級の惨めなる生活状態等を表現して居る」(『「京大俳句関係事件概要」「太田耐造関係文書」』)と報告している。

 

 

2026年6月23日 (火)

「弾圧の嵐」や「広がる俳人弾圧」などの各章を読みたい   「新興俳人の群像 『京大俳句』の光と影」

新興俳句弾圧事件のことを調べていくと、どうしてもその発端となった「京大俳句事件」における俳人と俳句を詳しくチェックしていく必要がある。日光図書館経由で栃木県内の全図書館を検索しても、これだけは県内蔵書がなさそう。でも、なければないで、さらに読みたくなるのが人情だ。ネット書店「本やタウン」をチェックすると、販売中とある。このところ、俳句弾圧事件、治安維持法、プロレタリア俳人・橋本夢道を調べるのに、日光図書館の世話になりっぱなし。なのでこの際、いまから20年前、2005年7月発刊というこの「新興俳人の群像 『京大俳句』の光と影」(消費税込み2530円)を買い求めたいと。新興俳句弾圧事件の読みを深めるには、「日中戦争と俳句」、「弾圧の嵐」、「広がる俳人弾圧」などの各章が盛り込まれているこの著作はいわゆるぜひものだと思う。

Photo_20260623205501 新興俳人の群像

「京大俳句」の光と影

思文閣出版 田島和生 

価格 2,530円(本体2,300円+税) 発行年月 2005年07月 判型 B6

昭和8年(1933)、平畑静塔、井上白文地、中村三山、波止影夫、鈴鹿野風呂、日野草城、水原秋桜子、山口誓子、五十嵐播水らを顧問に発刊した「京大俳句」。やがて西東三鬼や三谷昭、高屋窓秋、石橋辰之助、渡辺白泉ら全国の有力俳人も次々と参加…。本書は、「京大俳句」の成り立ち、新興俳句と日中戦争、新興雑誌「天香」の爆発的人気、特高の厳しい取り調べ、獄中俳句、スパイ俳人の暗躍、「文学報国」時代の俳句など、「京大俳句」を中心に新興俳句運動の盛衰を克明に紹介。

第1章 新興俳句運動の萌芽
第2章 新興俳句の金字塔「京大俳句」
第3章 新興俳句運動のうねり
第4章 日中戦争と俳句
第5章 弾圧の嵐
第6章 広がる俳人弾圧
第7章 「俳句報国」時代

 

2026年6月22日 (月)

栃木県における再生可能エネルギーの状況  「とちぎ県政出前講座」を申し込み

Photo_20260622225701  とちぎ県政出前講座(無料)申し込み。Photo_20260622224901 希望テーマ「栃木県における再生可能エネルギーの状況」を昨日の6月21日(日)、電子申請で申し込みました。出前講座希望は「174番 テーマ 地球温暖化と気候変動」(担当 気候変動対策課・気候変動適応担当)。

 出前講座希望日は「7月31日(金)13時~(14時20分)」、会場は日光市民活動支援センター第4、第5会議室(予約済み)。参加見込み「15名」で申し込みました。

 以下は電子申請の「申し込み手続き完了」通知と申請書の「講座理由と説明希望事項」と「講座に併せて実施する行事など」についての当方の書き込みです。


栃木県電子申請システム 希望講座:174 地球温暖化と気候変動

実施希望日時:20260731 1300分 

とちぎ県政出前講座の申込み手続きが完了しましたー。

2026年6月21日 (日)

「夏至」という特別な一日だったのだがー  そろそろ夏の訪れを感じたい霧降高原

Photo_20260621193301 きょう6月21日は「夏至」(げし)ー、夜になってから気づいた。「特別な一日」と言えるが、霧降高原はどんよりとした曇天模様だった。あす以降、「夏」の足音を感じることができるだろうかー。ということで、ネットで拾った「夏至」についてー。

一年の中で、昼と夜の長さが大きく変わる節目があります。そのひとつが『夏至』です。太陽が最も高く昇り、昼が一年で最も長くなるこの日は、季節の移り変わりを感じる特別なタイミングといえるでしょう。
■夏至の意味
夏至(げし)は、一年で最も昼が長く、夜が短い日を指し、毎年 6月21日頃 に訪れます。読み方は「げし」です。この日は太陽が最も高い位置に昇るため、北半球では夏の訪れを感じる時期となります。夏至を過ぎると、少しずつ日が短くなり、本格的な暑さを迎える準備期間とも言えます。日本では冬至ほど大きな行事はありませんが、関西ではタコを食べる風習があり、地域ごとの伝統が見られます。また、農業においては田植えが終わる節目として重要な時期でもあります。
■夏至の由来
夏至の起源は、中国発祥の 二十四節気 にあります。二十四節気は太陽の動きをもとに一年を24の季節に分けたもので、夏至はその 10番目の節気 にあたります。日本には奈良時代に伝わり、農業や季節の目安として長く使われてきました。世界各地でも夏至を祝う文化があり、北欧では「白夜の祭り」、イギリスのストーンヘンジでは「夏至祭」が行われます。日本でも古くから太陽の恵みに感謝する風習があり、現在も地域ごとに伝統的な行事が受け継がれています。

 

2026年6月20日 (土)

「再エネ」を有力な手段の事例を紹介  環境省特設サイト「GOOD ECHO」

Goodecho 環境省 特設サイト「GOOD ECHO」

この特設サイトでは、地域ごとに異なる具体的な課題に「再エネ」を有力な手段として活用している事例を取り上げています。これらは、再エネの導入に際して、地域への貢献や自然との共生などに目配りしつつ、話し合いと選択を重ねながら、地域との共生を進めている事例です。以上は「GOOD ECHO」についての環境省の説明です。特設サイトをチェックすると、栃木県では、那須塩原市の太陽光発電が取り上げられています。URLは下段です。

栃木県 那須塩原市

景観と両立する太陽光発電

https://policies.env.go.jp/policy/roadmap/goodecho/

 

2026年6月19日 (金)

「東海第二いらない!」首都圏第20波一斉行動  「日光の会」は神橋そばで脱原発アピール

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6月19日(金)「東海第二原発いらない!第20波一斉行動」について

13時~13時50分、神橋そばの脱原発サイレントスタンデングアピールに役員5人が参加しました。梅雨の合間の汗が吹き出す暑さの中、「東海第二原発はいらない!」「原発はまっぴらゴメン!」の横断幕などで脱原発をアピールしました。小一時間で小中学校の修学旅行とみられる観光バスが30台以上も通りましたが、その観光バスと互いに手を振り合いながら、「交流」しました。外国人観光客のうち何組もが共感まじりに私たちの脱原発アピールにカメラを向けていました。マイカーでは「大宮」ナンバーを何台も見かけました。遠くは「山口」、「京都」、「奈良」から。近くは「高崎」、「群馬」、「つくば」、など。「横浜」、「千葉」、「足立」など首都圏と関東地方が大半でしたが、観光シーズンからやや外れた季節なのか、「二社一寺」の世界遺産に向かう観光客はふだんに比べて少なく感じられた「第20波一斉行動in神橋」でした。

 

2026年6月18日 (木)

そんなもの、溶けて消えてしまってもいい    アイスメーカーカルテル事件と宮澤賢治 

Photo_20260618183001 18日(木)の「天声人語」は、大手アイスクリームカルテル事件と宮沢賢治のアイスクリームの記事で、一読して「これはなかなか~」と。だれもが教科書で一度は読んだであろう宮澤賢治の詩「永訣の朝」とアイスクリームカルテル事件、それを結びつけた発想がいいねと。改めて宮澤賢治を振り返る機会かもしれないともー。


天声人語 アイスクリームの幸せ
2026年6月18日

 宮沢賢治は、父親への手紙に書いている。腸チフスの疑いで急きょ入院した妹トシの発熱が続き、食欲もないまま、喉(のど)の渇きを盛んに訴えていることを。1919年の年初のことである▼病気はのちにインフルエンザとされたが、発熱と食欲のなさは続いた。妹思いの賢治は、牛乳や卵を病院に持ち込み、アイスクリームを作ってもらって、彼女に食べさせたそうだ。トシは喜び、賢治もうれしかったのだろう。〈今後も毎日之(これ)を取るべく候〉と手紙にはある▼大手アイスメーカー6社が、公正取引委員会の立ち入り検査を受けた。各社が示し合わせ、アイスの卸売価格を不当に引き上げた疑いという。事実なら、がっかり。「裏切られた気持ち」との消費者の声が本紙にあった。同感だ▼アイスはひとを元気にし、ひとときの幸せをもたらす不思議な食べ物である。雪見だいふく、パピコ、チョコモナカジャンボ、ガリガリ君、エッセルスーパーカップ、パルム。各社の主な商品を見ても、衝撃は大きい▼いまや何でも物価高であり、値上げは仕方ないのかもしれないが、カルテルは市場を歪(ゆが)める。世の目は甘くない。正直者が損をするような利益なら、そんなもの、溶けて消えてしまってもいい▼冒頭の話の3年後、妹トシは逝った。かつての彼女の笑顔を思い出し、賢治は「永訣(えいけつ)の朝」に記す。〈わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ〉。妹が末期に口に含んだ庭の雪が、どうか、天上ではアイスクリームになってほしいと。

 

2026年6月17日 (水)

「その自由が君らの目的なんだろう」  「新興俳句弾圧事件」に橋本夢道も治安維持法で

 

 Photo_20260617232201 1940(昭和15)年秋、橋本夢道は月島署に呼び出された。特高の刑事は、「君たちの俳句はあまり風流ではなさそうだな。君たちは芭蕉なんかと違って、風流を求めないのかね」と質問した。

 夢道は「私たちは、自由律俳句といって、身の回りの出来事を自由に詠んで俳句にしているのです」と答えると、その刑事は「その自由が君らの目的なんだろう」と言った。

 時代は「社会主義」だけではなく、「自由」という言葉さえも、許せなくなっていたのだ。夢道はいよいよ身の危険を感じ、一石路(栗林一石路 同盟通信社会部記者、その後、同通信社会部長)と相談して、「俳句生活」をしばらく休刊することにした。

 『橋本夢道物語』(殿岡駿星)の「うごけば寒い」(215頁~216頁)によると、1940(昭和15)年2月14日、「京大俳句」の同人8人が逮捕された。5月3日には「戦争が廊下の奥で立ってゐた」で知られる「天香」の同人、渡辺白泉ら6人が逮捕された。8月31日には「天香」の西東三鬼が逮捕された。「京大俳句」「天香」の主要同人が逮捕されたので、次は東京の同人誌ではないかとうわさされた。

 プロレタリア俳句への弾圧が始まった。いずれも治安維持法違反容疑で特高の餌食になった。「京大俳句」を皮切りに始まるいわゆる「新興俳句弾圧事件」、「昭和俳句弾圧事件」だ。

 同書によると、1935(昭和10)年から「俳句生活」の編集発行人は夢道になり、発行所も自宅の月島西仲通りに移った。1936(昭和11)年7月、「俳句生活」に「渡満部隊」と題して連作十句を発表した。

 このときの夢道の俳句を眺めても、「戦争が廊下の奥で立ってゐた」のようなそのまま反戦俳句とわかる句ではない。ただし、一歩踏み込めば、社会の風潮をよしとしない気分が反映されていることはわかる。

 

 渡満部隊をぶち込んでぐっとのめり出した鉄輪

 

 歴史的に部隊が西へ行くこの国の資本がふくれてくる夏

 

 守り札も肌身にひとりの兵が真白の銃と何を思う

 

 

 

2026年6月16日 (火)

「公園暮らし20年の記録」  タイトルに魅かれる「ホームレス文化」

Photo_20260617205001公園暮らし20年の記録」ーというだけで「えっ!」と。それが「隣人たちと織りなす生活を綴る」と。出版社の解説を読んだが、いまいち全体像がつかめないが、「魅力的な」タイトルだ。たぶん大変な日常を抱えながらの生活が想像されるが、それを超えて、「20年間」、どんな暮らし方をしてきたのか。生活、心情、信条などを含めていずれ読みたい本の一冊だ。以下は出版社のHPから。

公園に暮らし20年、隣人たちと織りなす生活を綴る
都会の公園の一角、ホームレスの集住地。20年前、そのコミュニティの豊かさに衝撃を受け、自らもテントを建てて暮らし始めた小川てつオ。
以来、排除の圧力や社会の変化をくぐり抜け、隣人たちと織りなす生活をブログ「ホームレス文化」で発信し続けてきました。本書はブログより記事を厳選・再構成し、テント村20年の生活史として世に送るものです。
差別や暴力の標的、一方で支援の対象とだけ見なされるホームレスという存在。しかし、ここには生活があり、「見えない豊かさ」がある!
「存在そのもの」で生きる魅力的な隣人たちとの日常や支え合う知恵が、いきいきとした筆致で描き出されます。公共地に暮らすことで見えてくる、この社会の本質もあぶり出されていく。本書はテント村の物語であると同時に、ホームレスの「地点」から紡ぐ、生きた思想の書でもあるのです。
——ホームレスの存在こそが、もう一つの世界の始まるべき地点なのだ。
未来はこちらにこそ、ある。
小川 てつオ著『ホームレス文化』
四六判並製 384頁 本体2400円+税 装丁 西田優子
2025年9月3日発行 ISBN978-4-9902637-8-2

 

2026年6月15日 (月)

理不尽な弾圧への嘆き、「うごけば寒い」  『橋本夢道物語』(殿岡駿星)

Photo_20260616222201うごけば寒い」

橋本夢道の一句。なんて言うこともない短い感慨であり、そのまま素通りしてもおかしくない。だが、この6字を書かせた時期や背景を知っていくと、「確かにそういう意味が込められているのだねー」と、改めて感嘆してしまう一句だ。

 というのも、この句が作られたのは、治安維持法で逮捕された夢道が東京拘置所で独房生活をしていた1942(昭和17)年。逮捕は前年の1941(昭和16)年2月5日、38歳のとき。それから2回目の冬を迎えた時期。この境遇を背景にこの句についてうまく解説しているのが、『橋本夢道物語』(2010年11月21日、勝どき書房)の著者、殿岡駿星。2002年に定年退職するまで朝日新聞記者だった書き手だが、夢道の次女の旦那さんであり、夢道の縁者だ。

 殿岡がこう書く。「読み」といい、なかなか読ませる文章だ。

「真冬の獄は寒い。火の気は全くない。こたつもなければ、湯たんぽもない。独房に敷いた布団の中で、ただ震えている。コンクリートに囲まれた独居房は体温が奪われるだけだ。夢道は、冷たい紙石板に、かじかんだ手で石筆を持って、震えながら作句した。『うごけば寒い』は単純に読めば、真冬の独房の布団の中で、寒いのを我慢してじっとしている姿が想像できる。少しでも動けば、冷たい空気が隙間から入ってきて、よけいに寒くなる。足の指一本でも動かせない寒さだ。文字をそのまま解釈したら、そういうことになるが、句の意味はそれだけではないと思う」

続いて、この句の意味を問う。「うごけば寒い」は、夢道の代表句のひとつとされている。確かに以下の解説というか、分析を読むと、この句が「代表句と言われるのも、確かにもっともだな」と思える。

「『動けば』の言葉の裏には、自由を求め、反戦を主張して活動することで、その先に待っているのは、『寒い』非人間的な結果、ということではないか。奥村商店の封建的な規則に反しての「自由恋愛結婚」で首になった。虐げられた労働者や農民の立場に立って『自由律』という形式でプロレタリア俳句、反戦俳句へ『うごけば』、その結果『寒い』獄の中に入れられる。じっとうごかず、ぬるま湯の中にいれば、夢道の人生は安楽だったかもしれない。しかし、夢道はうごかずにはいられなかった。その結果、理不尽な弾圧が待っていた。夢道は獄中でつくづく、『うごけない』日本人の置かれた状況を嘆いたのだろう」(同書229頁~230頁)

 

2026年6月14日 (日)

大戦起るこの日のために獄をたまわる   橋本夢道「東京拘置所」俳句

橋本夢道俳句 治安維持法違反で東京拘置所にいたときの1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。その当日に読まれた夢道の俳句をチェックしてみた。『橋本夢道全句集』(1977年10月31日第一刷、463頁、未来社)。定価は4800円ー。当時、地方の下宿代は1カ月2万円もしないだろうから、かなり高額な本であったことがうかがえる。

 

「夢道有名俳句」でチェックすると、このうち、「大戦起るこの日のために獄をたまわる」ーが必ず取り上げられている。確かにそういう、いわば「いい句」なのだろうなと。とくにこの結びの「獄をたまわる」が微妙な語感がある。気になったのでネットで調べると、AI回答は以下のとおり。そこではこの「たまわる」は、「諦観と告発」とある。だが、ワタシに言わせると、いわばいらないのに、それを「いただく」のだが、「たまわる」という言い方で、治安維持法拘留について、皮肉を込めたその一言だと思う。ということなら、これはどうしても「たまわる」でなければならかったかも知れないー。

句の出典と作者(AI回答)

の一句は、自由律俳人 橋本夢道 の有名な獄中句です。
句は次の通りです。


大戦起るこの日のために獄をたまわる

戦時下の俳句や短詩の資料、俳句サイトなどで、橋本夢道作として紹介されています。(gendaihaiku.gr.jp)

📖 意味と背景の概要

この句は、太平洋戦争へ突き進む日本で、治安維持法などにより思想弾圧を受けた俳人自身の境遇を詠んだものとされています。
「獄をたまわる」という言い方は、皮肉をこめつつも「国家から授かったもの」として自分の投獄を捉え、大戦に向かう体制の一部として自分が排除されている現実を、冷徹に見つめる表現になっています。(taka.no.coocan.jp)

✏ ざっくりした読み

とても大づかみに言うと、

「大戦が始まる、この日のためにこそ、自分はあらかじめ牢屋に入れられたのだ」

という、時代への諦観と告発が同居した一句だと読まれます。
戦争に異を唱える者が、戦争開始の前に排除されたという構図が、短い言葉の中で強く示されています。(sengohaiku.blogspot.com)

 

東京拘置所(1941年2月5日逮捕、留置場で8カ月、1941年9月4日、東京拘置所へ。1943年3月27日保釈 懲役2年、執行猶予3年)

雑役が走って来てああ大戦ハワイに起る

大戦起る獄に尋常にいるほかなし

大戦起るこの日のために獄をたまわる

九つの渦も巻かばや真珠湾

大戦起る満天の星を獄舎の上におく

 

Photo_20260614224401

ネットAI回答

「九つの渦の巻かばや真珠湾」という言い回しは、既存の有名な句や作品タイトルとしては見当たりませんでした。(w.atwiki.jpそのため、次のようなイメージ表現として読むのが自然です。

  • 「九つの渦」
    大きな力や作戦、要素が幾重にも絡み合うイメージを連想させます。
  • 「巻かばや」
    「巻いてほしい」「巻き起こればよいのに」という願望の古風な言い回しです。
  • 「真珠湾」
    もちろんハワイの真珠湾攻撃を想起させる言葉です。(kodansha.co.jp)

合わせると、真珠湾をめぐる多くの渦のような力関係や運命が巻き起こればよい、あるいは巻き起こっているさまを詠嘆しているような、オリジナルの詩的フレーズと受け取れます。

 

2026年6月12日 (金)

ドン河は上流と下流で真っ二つに    「静かなドン」第5巻(新潮文庫)

物語はさらに進む。ドン河は上流と下流で赤と白と真っ二つに。主人公グリゴーリーの兄が戦闘で銃殺されしまうのが悲しい。2巻から5巻まで「副主人公」たちが生き残ると思いきや、次々と闘いに倒れてしまう。ため息をつきながら、1巻約320頁をめくっている。以下は「静かなドン、ショーロホフ、第5巻、新潮文庫」のキイワードでネット検索したところ、いくつかコメントがあったが、あらすじをかいつまんで紹介してくれた文章だ。

 

1918年、ドン河上流地方は赤、下流地方は白と真っ二つに分裂する。 連合国の軍事使節団が白衛軍へ援軍を寄越すというのも噂だけにとどまり、下流地方の戦いは徐々に赤衛軍が優勢になっていく。戦線を撤退し、部落に留まる決心をしたグリゴーリーのもとに赤軍が忍び寄るが、事前に情報を得て逃走。その後、コサックの反乱があちこちの部落へ飛び火し、白軍が優勢になってきたことを知り、また部落へと舞い戻る。銃殺された兄の遺体を前にし、ともに過ごした幼い頃の思い出に揺れるところで終わる。 Photo_20260612102501

2026年6月11日 (木)

激動の1917年が到来した   歴史の渦の「静かなドン」(文庫第3巻)

 

「静かなドン」の「新潮文庫版」(全8巻)を手にしています。その解説をネット検索すると、いくつものコメントがあるが、その中でも第3巻について短くわかりやすく説明した文章を見つけました。その解説を以下に示して、「歴史の渦」がさかまく1917年を伝えます。Photo_20260612102501

 

激動の1917年が到来した。二月革命、コルニーロフの乱、十月革命と、状況は目まぐるしく変化し、コサック兵たちも否応なしに歴史の渦に飲み込まれていく。様々な立場の人間が入り乱れ、味わい深い政治小説、歴史小説だ。その中でも、グリゴーリ―は兵営の中での食事がまずいことに文句を言い、夫を待つナタリヤは双子を生み、同じく夫を待つダーリヤは寂しさのあまり不義に走る、という人々の息吹が根付いている。影のような男ブンチュークは政治的信条を胸に、不穏な行動に打って出て、今後の活躍が期待される。

 

2026年6月10日 (水)

特高課長らが次々と戦後の大臣に   『治安維持法 新しい「戦中」にしないために』

北海道知事で知られる町村金吾がもともとは内務省警保局長だったことなどは知らなかったー。文部大臣として知っている奥野誠亮が鹿児島県特高課長だったことも初めて知った。

(以下は 桜井千恵美さんのコラム「特高官僚 思想検事の戦後」から)Photo_20260610203901  

 

 1950(昭和25)年6月に朝鮮戦争がはじまると占領政策の円滑な遂行を目的に、1951(昭和26)年9月以降、罷免された特高関係者の復権を図り、自治省(現・総務省)、警察庁、公安調査庁、防衛庁(現・防衛省)、文部省(現・文部科学省)などに復職していった。また、GHQは特高警察、思想検事らの追放を解除した。特高関係者は公職追放解除後いち早く政界に進出したが、思想検事や裁判官らは「人権指令」で罷免されることなく(一部は公職追放)、そのまま戦後の司法界に復帰していった。

 特高関係者で政治家になり、大臣にまでなったのは、丹羽喬四郎(京都府特高課長、運輸大臣)、増原恵吉(和歌山県特高課長、防衛庁長官)、奥野誠亮(鹿児島県特高課長、文部大臣、法務大臣、国土庁長官)らである。奥野は、国土庁長官のときに、日中戦争について、「日本に侵略の意図はなかった」と発言して辞職した。その後、自民党の「歴史・検討委員会」の中心メンバーとなり、「大東亜戦争」は侵略戦争ではなかった。南京大虐殺や「慰安婦」はでっちあげだと主張し、「大東亜戦争の総括」(展転社、1995年)にまとめて出版した。

 特高警察の指揮をした内務省警保局長の経験者でいえば、天皇機関説事件や大本教事件などを指揮した唐沢俊樹は岸内閣の法務大臣、三木清の逮捕・投獄を指揮した古井喜美は池田内閣の厚生大臣となった。

 横浜事件の弾圧を指揮した町村金吾は北海道知事を三期続け、その後、自治大臣、国家公安委員長をしている。東久邇内閣の内務相として、全国の左翼の動向を蒐集し、特高の維持に執念を燃やした山崎巌は、池田内閣の自治大臣、国家公安委員長になった(『安維持法100年 新しい「戦中」にしないために』 139頁~140頁、コラム「特高官僚、思想検事の戦後」・桜井千恵美 大月書店 萩野富士夫・歴史教育者協議会)

 

 

2026年6月 9日 (火)

ドラマのある生涯を送った俳人に分け入る  社会の矛盾に鋭い視点の「橋本夢道」

「橋本夢道物語」ー。このキイワードでネット検索すると、AIが以下のような回答をしてきた。「俳人としては少しマイナーですがー」とあるが、確かにそうなのだろう。ただ「とてもドラマのある生涯を送った」「社会性の強い俳句を多く詠み、弾圧や戦後の社会状況とも深く関わりを持った」とある。夢道の俳句はまだ読み始めたばかりだが、こうした「ドラマ性」、「社会性俳句」、「弾圧俳句」ーといった点にどうやら惹かれるのだろう。これらから夢道俳句と治安維持法の周辺について知っていきたいと思っている。ただし、今の段階では手探りの状態。いわば「海のものとも、山のものともー」といったところだ。逆に言えば、まだ多くを知らないだけに、これから分け入っていく感覚や気分が楽しめそうだと。以下は「橋本夢道物語」についてのAIの回答だ。Photo_20260610005401

橋本夢道について関心を持ってくださったのですね。俳人としては少しマイナーですが、とてもドラマのある生涯を送った人です。

💡 橋本夢道とは

橋本夢道は、大正から昭和にかけて活動した俳人で、本名は橋本正雄とされています。社会性の強い俳句を多く詠み、戦前・戦中の弾圧や戦後の社会状況とも深く関わりを持ったことで、文学史的にも独特の位置を占めています。徳島県吉野川ゆかりの俳人としても触れられることがあります。(city.yoshinogawa.lg.jp)

📚 『橋本夢道物語』とは

研究者による論考の中で、橋本夢道の生涯と作品世界をまとめたものとして『橋本夢道物語』というタイトルが言及されています。これは一般向け娯楽小説というより、年譜的・評伝的に彼の人生と俳句をたどる資料、あるいは連載的な文章の総称として使われているものです。(teri.or.jp)

✏ 物語になるポイント

橋本夢道の人生が「物語」として語られるときには、だいたい次のような点が強調されます。

 

  • 農村・地方に根ざした暮らしと視点
  • 戦争や社会の矛盾を見つめる鋭い眼差し
  • 弾圧や困難の中でも俳句を作り続けた姿勢
  • 戦後も弱い立場の人々への共感を失わなかったこと

そのため、彼の歩み自体が一つのドラマチックな「物語」として語られてきました。(teri.or.jp)

🔍 読むにはどうするか

橋本夢道や『橋本夢道物語』に関する資料は、一般書店よりも以下のような場所で見つかりやすいです。

 

  • 大学図書館や公共図書館の郷土資料・文学研究書コーナー
  • 俳句・短歌の専門雑誌や同人誌のバックナンバー
  • 地方史・文化を扱う研究紀要やPDF資料(teri.or.jp)

 

2026年6月 8日 (月)

「制度はひとりでに増殖していく」 適用を拡大していった「治安維持法」

『治安維持法 なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』(中公新書 中澤俊輔 2012年6月25日発行)から。1925(大正15)年4月に公布された治安維持法は1928(昭和2)年、1941(昭和16)年と二度にわたって内容を拡大して改正されている。。「制度というものの通弊で、ひとりでに増殖していく」。その後、予防拘禁所長となった思想検事の回顧がいかにも「制度」の持つ危うさを伝えている。「そういうものなのか、なるほどねー」と思うと同時に「そんなことにならないためにはーさて」とも。

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1925(大正15)年4月22日に公布された治安維持法は1930年代後半も、宗教団体、人民戦線運動へとその適用を拡大していった。さらには研究や文化運動にも適用を拡大すべしとする意見が現場では強まっていた。1937年10月には、京都の同人活動の『世界文化』、『学生評論』、『土曜日』の関係者7名が検挙された。また1938年11月には、検挙を恐れて解散していた戸坂潤ら唯物論研究会のメンバーが次々に検挙された。芸術活動としては、1940年8月のプロレタリア演劇の『新築地劇団』、『新協劇団』、1940年10月の京都大学俳句の会に対する適用があった。俳句の会にはさすがに異論もあったが、京都府特高課の方針は覆られなかった。思想検事たちも治安維持法がすでに当初の範囲を超えていることを自覚しており、それゆえに改正を希望していた。ただし、改正はもはや、誰かがリーダーシップを発揮して行うのではなかった。のちに予防拘禁所の所長となる思想検事の中村義郎は、治安維持法について、「制度というものの通弊で、ひとりでに増殖していく」と回顧している。

 

2026年6月 7日 (日)

戦争が廊下の奥で立ってゐた  「新興俳句弾圧事件」に連座した渡辺白泉

戦争が廊下の奥で立ってゐた  「この印象的な俳句はだれがつくっただろう」、そう思うことがしばしばだったが、ネット検索で超季派と呼ばれる渡辺白泉(わたなべはくせん)の作句であることを知ったのは、つい最近。戦時中に「新興俳句弾圧事件」が起きたことは知っていたが、詳しい内容までは知らなかった。ただ、その中でこの「戦争がー」という句は妙に印象に残っていた。この句の解説にもあるが、戦争が日常生活に押し寄せている状況をわずが5・7・5に込めたことはわかる。その意味では次の句もそう言える。銃後といふ不思議な町を丘で見た ということで『渡邊白泉の100句を読む』(川名大)という本があるようなので、この本を手にしたいと思っているところですー。

 

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渡辺白泉

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1969年1月30日)は、東京出身の俳人。本名威徳(たけのり)。昭和初期の新興俳句運動において無季派(超季派)の俳人として活躍。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」など、戦争の本質を鋭く突いた「銃後俳句」と呼ばれる無季俳句が特に知られる。




経歴

東京市赤坂区青山(現・港区)生。本籍地は山梨県で、父は同地の地主の息子であったが青山で呉服店を営んでいた。白泉は長男で一人っ子だった。青南尋常小学校、慶應義塾普通部を経て、1936年慶應義塾大学経済学部を卒業[1]

16歳のとき正岡子規の『子規俳話』を読んで俳句に興味を持つ。大学時代の1933年、水原秋桜子の『俳句の本質』に啓発されて「馬酔木」に投句、翌年より「句と評論」にも投句。後者で頭角を現し、実作のほか無季俳句論など評論でも活躍、新興俳句の新鋭として認知される。

大学卒業後は三省堂に勤務[1]。「句と評論」の句会を通じて西東三鬼と親交を結ぶ。1937年、「句と評論」を辞し、小沢青柚子らとともに「風」を創刊。かねてより傾倒していた高屋窓秋を同人に迎えたが、翌年同誌は「広場」に合流、白泉は11月号までで運営委員を辞す。1939年、三鬼の斡旋で「京大俳句」会員となる。同年結婚、翌年に長女が生まれたが早産で間もなく死亡した(その後1942年に長男が生まれている)。1940年、新興俳句系の俳誌「天香」創刊に加わり責任編集者の一人となるが、同年「京大俳句」を中心に起こった弾圧事件(新興俳句弾圧事件)に連座、執筆活動停止を命じられ起訴猶予となる。

以後、戦中は阿部青鞋三橋敏雄らとともに、年来進めていた古俳諧の研究に没頭し、水面下で句作。石田波郷の「」に変名で投句したりもしていた。1944年応召、横須賀海兵団に入団。復員後はあまり俳壇とは関わらず、岡山三島沼津で中学・高校の教員として勤めた。1969年1月29日、通勤中に脳溢血の発作で倒れ翌日に逝去。墓所は多磨霊園(24-1-20)。

生前句集を出していなかったが、ほどなく職場沼津市立沼津高等学校の重要書類用ロッカーより自筆の句稿本が発見され、門人であった三橋敏雄らの尽力で『渡辺白泉句集』(1975年)、『渡辺白泉全句集』(1984年)が刊行された。



作品

  • 街燈は夜霧にぬれるためにある
  • 鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ
  • 戦争が廊下の奥に立つてゐた
  • 銃後といふ不思議な町を丘で見た
  • 玉音を理解せし者前に出よ

などが代表句。新興俳句運動の流れの中、先達の高屋窓秋篠原鳳作に傾倒しつつ無季俳句の可能性を追求。評論「季語の作用と無季俳句」(『句と評論』1934年9月号)では古来の伝統俳句にまで遡って季語の作用を分析、無季俳句を「季感を有せず、季語を有する」句と「季感を有せず、季語を有せざる」句の二種とし、季語の有無によらない超季派としての認識を明らかにしている[2]仁平勝は、窓秋、鳳作や富澤赤黄男といった無季派の俳句が近代詩のレトリックに近づいたのに対して、白泉の句は題詠の方法を季語以外の題に適用することで成っていると論じている[3]

戦中は鋭いアイロニーを持つ銃後俳句によって戦争の本質に肉薄したが、その前後に戦火想望俳句の「支那事変群作」(1938年)や、応召後に従軍体験を詠んだ作品も残している。また検挙後は古俳諧を学んだ経験から、「檜葉の根に赤き日のさす冬至哉」のように季題の情緒を生かした作品も作った[4]

 

2026年6月 6日 (土)

すべての政治・経済・社会・学術・文化・宗教運動にまでー  1941(昭和16)年5月15日施行「新治安維持法」

 Photo_20260607000901 戦前の「新興俳句弾圧事件」をさらに知ろうと、『治安維持法と共謀罪』(岩波新書 内田博文 2017年12月20日第1刷)を手に。「悪法」の見本とされる治安維持法がホップ、ステップ、ジャンプでさらに無軌道ぶりを。そのジャンプが1941(昭和16)年5月15日から施行された新治安維持法だ。列記された適用対象を改めて確認すると、「あららーなんと」ー。

 その適用対象は飛躍的にその裾野を拡げることになった。治安当局によると、自由主義や民主主義に立脚して反ファシズムを唱える、あるいは戦争反対を表明するサークルなどの活動も取締りの対象とされることになった(中略)。「偽装せる共産主義運動」という論理もこの期の大審院判例の特色を示すものであった。これにより治安維持法の適用対象はすべての政治・経済・社会・学術・文化・宗教運動にまで拡がることとなった。「反ファッショ運動」や「帝国主義戦争反対」運動も、さらには「国民生活安定」を求める運動、「政治的自由の剥奪反対」の運動、「官僚独善的対外対内政策反対」の運動、「長時間労働の短縮、なかんずく徹夜作業絶対反対」の運動、「小作料減免、減税、強制献金反対」の運動、「兵士の給与の改善、即日帰還」の運動、「公債の強制反対」の運動、「重工業偏重かつ経済実情無視の統制反対」の運動などなどでさえも、しかも、たとえそれが自由主義や民主主義に基づくものであったとしても、「人民戦線運動」(=「偽装せる共産主義運動」)だと見なされればいつでも治安維持法違反で検挙され得ることになった(同書40頁~41頁)。

 

2026年6月 5日 (金)

必死の生と様々な死から「昭和の闇を解く」  澤地久枝『昭和・遠い日近いひと』

Photo_20260604213001 澤地久枝さんが「必死の生と様々な死から昭和の闇を解く」とうたっている書籍『昭和・遠い日近いひと』は一度読んだ記憶があるが、「治安維持法下の愛と死」などの章などはどうも?。流し読みしてしまったかも知れない。単行本で読んだのだが、ただ今調べている「治安維持法」をキイワードに検索していたら、2000年に文春文庫で発刊されていたことを知る。この単行本をまずは探してみるが、「576円」とお手軽なのでこの文庫本も手元に置きたいなとー。「本やタウン」の読書情報を以下にー。

昭和・遠い日近いひと



文春文庫 さ7ー21

文藝春秋
沢地久枝 


価格 576円(本体524円+税) 発行年月 2000年12月
判型 文庫
治安維持法下に非命の死を遂げた川柳人、鶴彬とその足跡を辿ることに半生を賭けた男の執念。松川裁判に奔走した作家、広津和郎の私生活の修羅。シベリアに八年間抑留された鹿野武一がラーゲリから妻に書き送った手紙。―有名無名の九人の男と女が紡いだ必死の生とその果ての様々な死から昭和の闇を解く。

治安維持法下の愛と死
「父いづこ」という環
反戦川柳作家、鶴彬
「太田伍長の陣中手記」以後
アッツ島玉砕者のたより
占領下の花、鈴木しづ子
広津和郎、男としての誠実
山村農家の母の自死
シベリア抑留八年夫と妻

 

2026年6月 3日 (水)

たまには「やきそば」もいいね!  副食はキャベツにナスとショウガで

たまには「やきそば」もいいね!一カ月に1回ぐらいだが、妙にやきそばが食べたくなるときがある。たぶんキャベツが欲しくなるのかもとー。副食は焼きナス、冷奴、じゃがいも、生姜、それにめんつゆも。それにしても、最近は食が細く。このやきそばにしても全部は食べられず、3分の1は残してしまった。ご飯でもうどんでも同じだ。しっかり身体のチェックを意識しないといけないかもー。食べることを大事にしないといけない。そのことは承知しているので。う~ん、これも年齢のせいかもしれない。

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2026年6月 2日 (火)

「唯幻論」で大いにお世話になりました  フロイト思想家・内田秀さん逝く

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「唯幻論」には大いに「お世話」になりました。感謝と合掌ー。

心理学者・評論家の岸田秀さん死去 「ものぐさ精神分析」
2026年5月28日 12時03分
 「ものぐさ精神分析」の著者として知られる心理学者・評論家の岸田秀(きしだ・しゅう)さんが25日、老衰で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で行う。

 香川県出身。精神分析の視点から、組織や社会、国家などを論じたことで知られる。和光大学で教授を務めた。

 雑誌「ユリイカ」の連載をもとにした1977年の評論・随筆集「ものぐさ精神分析」では、言語や性など、文化の多様な側面を考察。人間は本能の壊れた動物という前提のもと、自己や国家など、すべてが幻想である、という独自の「唯幻論」をかかげ、注目を集めた。

 同書のほかに、社会をにぎわせた事件などを「嫉(ねた)み」に着目して読み解いた「嫉妬の時代」、国家や民族が直面する「精神分裂」を描いた「二十世紀を精神分析する」、「幻想の未来」などの著書がある。対談集や共著、翻訳書も多い

 

2026年6月 1日 (月)

ナス、ピーマン、スイカ   我が家の「ベランダ菜園」が始動

初夏となり、我が家の10鉢ある「ベランダ菜園」も始動した。ナス、ピーマンを中心にスイカも少々。「コメリ日光店」で一株60円とか98円とか。手軽な値段で入手してきた。ただ、スイカだけは確か200円したか。まぁお値段よりも関心を寄せているのが、これからいかに育ってくれるか。肥料がやや少なめなのでやや心配ではあるのだが。ともあれ、水を与えながらしばらく様子を視てみることに。と、水の心配もしていたら、あさって水曜日の6月3日にはきょう1日、沖縄に最接近している台風6号が関東にも。水がどうのとか言っている場合ではないかもー。さて、日光でも強風と大雨に要警戒しないと。

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