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2026年7月

2026年7月31日 (金)

戦後という時代の一種のお葬式   つかみどころがない空気のようなもの 

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「なるほど~」とうなづける論。それも憲法の専門家の厳しい、というか、鋭い批判だ。そこで「現代俳句」を読みたいなとー。
●まさか立ち合うとは思わなんだ戦後のお葬式
●空気のようにいつの間にか忍びの者が廊下の奥に
●つかみどころがないものに罰と罪の形を着せる
●何と率先して破壊工作に手を染めた私たちの国
●客観的に事情を総合的に勘案すると「気持ち悪い」?
(天下の悪法、「国旗損壊罪」について)
朝日新聞7月31日(金)13版4面

日本の国旗を傷つける行為を禁じる国旗損壊処罰法が先の特別国会で成立した。今後どのような問題、課題が生じるのか。参院審議に参考人として出席し、「違憲のおそれがある」と反対意見を表明した中央大学法学部の橋本基弘教授(憲法)に聞いた。

 ■要件や刑罰わからず、違憲のおそれ

 ――成立するまでの過程をどう見ましたか。

 そもそも国旗がたくさん損壊されていて社会不安があるという立法事実がない。内閣法制局での厳格な審査を、議員立法にしたことであえて回避したから、ずさんな法律になったのだろう。

 ――法律のどこに問題があるのでしょうか。

 「国旗を大切に思う国民感情の保護」が立法目的とされているが、これは空気のようなものだ。つかみどころのないものを処罰するから、たちが悪い。「嫌だ」「気持ち悪い」で処罰する法律は他にはない。

 犯罪の構成要件も甘く、何がどこまで適用されるのかが全く見えない。処罰対象とする「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」とはどのような方法なのか。判断は「客観的な事情を総合的に勘案して行う」としている。これでは「後出しジャンケン」と同じ。法に対する信頼が損なわれる破壊行為、破壊工作だ。

 ――参考人質疑では、法律が成立しても実際の適用は難しいとの見解を示しました。

 憲法違反と指摘される可能性があるからだ。何が犯罪で、どういう刑罰が科せられるのかが前もって明確に法律で定められていなければいけないという、罪刑法定主義の明確性の原則に反する。国への最も強力な抗議の手段となる国旗を焼く行為が処罰対象になると、表現の自由にも抵触する。検察は器物損壊罪など別の罪状で起訴するのが無難と考えるだろう。

 ただ、為政者にとっては、実際に適用されなくても、「適用されるかもしれない」という心配が広がれば十分とみているかもしれない。その意識が共有されるだけで、この法律は萎縮効果を発揮することになる。

 ■政府を批判できた「戦後」のお葬式

 ――表現の自由を侵害するおそれのある法律ができたことで生じる影響とは何でしょうか。

 表現の自由の一番の目的は政府を批判することだろう。あるアメリカの憲法学者は、反対意見は「公共財」だと言っている。反対意見を言うことによって、問題点が多くの国民に認識され、考えるよすがになる。それが民主主義としてとても大事なことなんだ、と。

 ある政策が正しいかどうかは、反対意見があって初めて立証される。そういった相互の検証によって初めて何が良いのか、悪いのかがわかってくる。それが省略されてしまうと、正しいものと正しくないものを政府が決めていくことになる。

 表現の自由は、その国が民主的な国家であるか、自由な国家であるかを測るバロメーターだ。

 ――ただ、世論調査では賛成意見が6割を超えています。

 国旗損壊行為を「表現の自由」として認めた米国の有名な裁判がある。弁護人を務めた弁護士が「国民の多数は処罰に賛成であっても、それでも違憲だと言えるかどうかは非常に難しい問題だ」と語っていた。

 世論が歓迎していても、どんな問題が出てくるのかを説明していくことは、我々法律家の役割だ。やはり、この法律は憲法違反だと言わなければならない。

 戦後、政府を批判しても処罰されなかった時代が続いてきた。政府批判のために日の丸を焼いたら処罰される可能性のある法律ができたことを重く受け止める必要がある。戦後という時代の、一種のお葬式のように感じた。(野平悠一)




 

2026年7月30日 (木)

県政出前講座「栃木県における再エネの状況」  7月31日(金)14時~日光市民活動支援センター

7月31日(金)14時~15時20分、「県政出前講座」(「日光の会」自主講座)、「栃木県における再エネの状況」をテーマに日光市民活動支援センター第4・第5会議室で開きます(参加無料)。県気候変動対策課の二人の担当者が解説します。講座はプロジェクターを使い、1時間ほど、質疑応答に20分ほどを予定しています。レジュメ(A4版24頁)も用意しました。ぜひご参加ください。Photo_20260730210701

2026年7月29日 (水)

7月31日(金)「県政出前講座」レジュメは計48枚  テーマ「栃木県における再エネの状況」

7月31日(金)14時~15時20分、日光市民活動支援センター第4・第5会議室で開く県政出前講座「栃木県における再生可能エネルギー」(参加無料)について、講師となる県気候変動対策課から当日の「レジュメ」(A4版48枚)が届きました。この48枚はA4版1枚に2枚ずつ、計24枚に整理しました。これをA3版1枚に表4枚、裏4枚の4×2=A4版8枚で印刷。ひとつのセットでA3版6枚(8×6=48画面)にまとめ、講座参加者用として、計30セット(A3版180枚)をつくりました。 Photo_20260729225201 Photo_20260729225201

2026年7月28日 (火)

「中世」と呼ばれる時代を知りたくて   「乱世の流儀 室町ワンダーランド」

歴史には関心や興味がある方なのだが、どうも「中世」と呼ばれる、室町時代は何かはっきりしないというか、姿がいまいち良く視えないー、いつもそんな気がしているので、この本はそれらの「水先案内人」になるのかもしれない。さて、文庫本を買い求めるか、あるいは単行本を図書館から借り受けるか。いずれにしろ、近く手にしたいと思っています。

以下は「本やタウン」の本の紹介から。

乱世の流儀 室町ワンダーランド

文春文庫 しー74ー1 文藝春秋 清水克行

価格 968円(本体880円+税)

発行年月 2026年07月 判型 文庫

600年ほど前の日本。“中世”と呼ばれた時代に人々は、どのように日常を送り、命をつないだのか。暴力や呪術の支配に一定の折り合いをつけ、いまへとつながる文化が生まれた室町時代。気鋭の歴史学者である著者が、現代社会と遠い日々を往復しながら、平易なことばで綴る歴史エッセイ、待望の文庫化。巻末特別対談・米澤穂信。 

第一章 中世は本日も荒れ模様(室町捕物帳;相撲の果てはケンカ ほか)
第二章 ある中世人の肖像(乞食の門次郎;楠木正成の実像 ほか)
第三章 ルーツはここにあり?(ワリカンと日本文化;オトナの社交場 ほか)
第四章 室町は遠くなりにけり(妖怪と×印;悲願の橋 ほか)
第五章 歴史家の頭の中(歴史ドラマの現実味;「片目」の戦国武将 ほか)
【特別対談】米澤穂信

 

 

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2026年7月27日 (月)

信州に一茶あり、井月ありー    幕末から明治の俳人「井上井月」(せいげつ)

 

つげ義春の作品に江戸末期の俳人「井上井月(せいげつ)」を対象にした作品があったのだった。そのドキュメンタリー映画「ほかいびと 伊那の井月」Photo_20260726195701 もできていたとは。「つげ義春 夢と旅の世界」(新潮社)のつげ義春の4時間インタビューを読んでいて気づいた。『無能の人』の最終巻「蒸発」に触れたところがあり、「そういえば」と。ここでの主人公が井上井月だったのだ。ウィキペディアで、井上井月を世に知らしめたのは、芥川龍之介ということも知った。漂白の俳人である山頭火が井上井月を尊敬し、その墓参の旅をしていたことも。この映画の予告編を観てみて、この本編も観てみたいものだと。

(以下はウィキペディアから一部)

井上 井月(いのうえ せいげつ、文政5年(1822年)?[1] - 明治20年2月16日1887年3月10日[1][注釈 1]は、日本の19世紀中期から末期の俳人。本名は一説に井上克三(いのうえかつぞう)。別号に柳の家井月など[1]。「北越漁人」と号した[3]信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた。その作品は、後世の芥川龍之介種田山頭火をはじめ、つげ義春などに影響を与えた。

安政5年(1858年)ごろ、30代後半の壮年であった井月は突然伊那谷に姿を現す。以来約30年の間、この地で死去するまで上伊那を中心に放浪生活を送り続けた。井月の少年期から伊那谷に現れた30代半ばまでの行状は全く不明であるが、巷説によると天保10年(1839年)に一旦江戸に出た後、象潟から明石まで漂泊したとされる[1]

嘉永5年(1852年)に長野にて版行された吉村木鵞の母の追悼集に、井月の発句「乾く間もなく秋暮れぬ露の袖」が見える[1]。また翌年、同じく長野で開板された吉村木鵞編纂の句集『きせ綿』に「稲妻や網にこたへし魚の影」の句が採られており[1]、この頃には俳人として活動していたと推測される。

元来、伊那谷は「多少好学の風があり、風流風雅を嗜む傾き」のある土地[5]であったため、書が上手く俳諧の道に練じていた井月は、文化人として伊那谷の人士から歓迎された。こうして井月は伊那谷の趣味人たちに発句の手ほどきをしたり、連句の席を持ったり、詩文を揮毫する見返りとして、酒食や宿、いくばくかの金銭などの接待を受けつつ、南信州一帯を放浪しながら生活した。井月は「典型的な酒仙の面影が髣髴とする」ほどの酒好きであり、「人の顔さえ見れば酒を勧める」悠長な土地柄であった伊那谷は、ほとんど金銭を持たず蓄えも無かった井月にとっていつでもの相伴にあずかることの出来る魅力的な土地であったようである。体中だらけで、直ぐに泥酔しては寝小便をたれたという井月を土地の女性や子供たちは「乞食井月」と呼んで忌避したが、俳句を趣味とする富裕層の男性たちが井月を優遇し、中には弟子として師事するものもいた[6]

文久3年(1863年)5月、高遠藩の当時の家老・岡村菊叟と面会し、句集『越後獅子』の序文を乞う[1]。『越後獅子』は井月が京都・江戸・大阪をはじめ各国の俳人の発句を集めた句集であり、書名は菊叟の命名による。また、この序文は井月が長岡出身と自称していたことを記した最初の記録となる。

元治元年(1864年)、善光寺宝勝院の梅塘をたずねて100日間ほど滞在し、『家つと集』を編集する[1]

明治2年(1869年)、富県村(現伊那市)の日枝神社の奉納額を揮毫。翌年には東春近村の五社神社、西春近村の地蔵堂の奉納額を揮毫。この後もたびたび社寺の奉納額を手がけている。明治5年(1872年)9月、伊那村にて「柳廼舎送別書画展覧会」が開催され、出席者は130名を数えた[1]。明治7年(1874年)、美篶村(現伊那市)の橋爪玉斎と句画を合作している。明治9年(1876年)9月、伊那町の唐木菊園のもとで『菊詠集序』を執筆[1]

明治12年(1879年)3月、上水内郡(現長野市中条)の久保田盛斎のもとで、『俳諧正風起證』を執筆。この頃、当地に庵を立てて定住しようと試みたことが久保田宛の書簡から読み取れる。同書簡中には新しい庵に移住するため長岡で戸籍を取る必要を述べているが、これも井月の出自の論拠となっている。しかし、手続き上に問題があり、定住は叶わず南信州に帰還した。

明治18年(1885年)秋ごろ、句集『余波の水茎(なごりのみづぐき)』を刊行[1]。本書は、井月が集めた諸家の発句をまとめ、井月の弟子であった美篶村の塩原梅関(本名折治)が開板したものである。本書の跋として井月は後に代表句と評される「落栗の座を定むるや窪溜り」を、「柳の家」の署名とともに残している。同年、井月の健康を案じた塩原梅関の取り計らいにより塩原家に入籍し、塩原清助と名乗る。

明治19年(1886年)12月末ごろ、伊那村にて病のため道に行き倒れになっているところを発見される[1]。塩原家に運び込まれ看病を受けるものの、翌年の明治20年(1887年2月16日に、66歳にて没する[1][注釈 1]井月は発句ばかりでなく、連句を巻くことも多かった。『井月全集』には64篇の連句が残されている。


 

2026年7月26日 (日)

人生とは「動詞」だー   落合恵子さん『明るい覚悟』

脱原発団体の「会報第58号」と同人誌「序説第33号」の校正作業が同時になってしまったので、いやはやこの数日間の忙しかったことー。それがほぼ終え、ようやく時間がとれるようになった。なので、日光市営温泉で「極楽、極楽」と、のんびりお湯に浸かる一方、落合恵子さんの「明るい覚悟」も手にしようと。彼女が75歳のときの2020年9月発刊。その後、2024年にこの単行本の文庫本が発刊されているようだ。発行日から数えると、元気を絵に描いたような落合恵子さんも八十代に突入なのだねー。夏本番、気に入った「生ざるうどん」を味わつつ、「落合節」とも言えるエッセイを味わおうと。そうそう、この「明るい覚悟」では22冊の絵本も紹介しているから、この際、絵本の世界へも。私の場合、これまでほとんど絵本には縁がなかった。でも、せっかくのこの機会なので、これらの絵本を図書館から借り出そうと思う。なじみがなかった絵本の世界にも親しむきっかけになるかも。高齢になると、新しい物事に出会うのはいやがるということを聞いているので、逆に新しいことに挑もうかと。それほど大げさではないが、絵本にも少しは関心があるのでー。Photo_20260726003601

明るい覚悟



こんな時代に

朝日新聞出版 落合恵子 


価格 1,650円(本体1,500円+税) 発行年月 2020年09月
四六判
多くは要らない。丁寧に生きるためにむしろ少しがいい。深く暮らす術を、とびきりの絵本と共に紹介!75歳になった落合恵子が辿りついた「明るい覚悟」とは?

脱ぐ 刻む 泣く 放つ 抗う 咲く 譲る 洗う 継ぐ いる 味わう 築く つなぐ 背負う 焦がす
祈る 忘れる 受け入れる 着る する&しない 病む はじまる

著者は、75歳になった。友人知己の病気・喪失はこたえるし、もの忘れもひどい。でも加齢からの贈りものもある。22歳でラジオ局に就職したときの自分に、言ってやりたいことがある。年とともに、他者との違いを強調せず、自分の人生を諦めない、心からの共感と敬意をこめて「ただの人」を最高と思うようになった。小さな食堂の女主人、シャツづくりの洋服屋さん、介護休暇をとって母を看取った親類の男性。どんな時も平常心を保つ生活のたのしみを見捨てない。今朝の味噌汁を丁寧につくり、小さな庭で土をいじり、本のなかの、ある頁の、ある一行を見つける。「手仕事」の大切さ、暮らしの支えがあるからこそ、世の理不尽に抵抗ができるのだ。「明るい覚悟」を支える、いまも心に響く22冊のとっておきの絵本も紹介する。登場する絵本(一部)『オレゴンの旅』『教室はまちがうところだ』『ベンのトランペット』『どうぞのいす』『ぼくのたび』『わすれられない おくりもの』『ろくべえ まってろよ』『ひだまり』『でんでんむしのかなしみ』『はなのすきなうし』『とんでいった ふうせんは』『ライオンになるには』

本書の目次を見ていただくとわかるが、「動詞」がタイトルになっている。/ 「人生とは動詞」だという言葉、そして手仕事が、わたしの中でいま、より大事なものとなっている。(まえがき) 

 タイトル『明るい覚悟』とは、自分にとって大事なほんの僅かなものを握りしめて暮らすことであり、自分が望む自分になっていく過程を惜しまず、省略しない、自分との約束と言い換えることもできる。(あとがき)

 

2026年7月25日 (土)

「NO NUKES NIKKO」  特注のTシャツでも脱原発をアピール

「さよなら原発!日光の会」会報「げんぱつニュース第58号」(7月31日発行)最終頁である12頁の「東海第二原発いらない!第20波一斉行動in神橋」の記事ですー。

Nukesnikko 20in  6月19日(金)13時~13時50分、神橋そばで実施した脱原発サイレントスタンディングアピールに「さよなら原発!日光の会」役員5人が参加しました。梅雨の合間の汗が額ににじみ出す暑さの中、「東海第二原発はいらない!」「原発はまっぴらゴメン!」の横断幕と日本語、英語、中国語の脱原発プラカードでアピールしました。一人は「GOOD BYE NUKES」という大文字の下に小文字で「NO NUKES NIKKO」と書かれた特別注文のTシャツを着用しての行動でした。

小一時間で小中学校の修学旅行とみられる観光バスが30台以上も通りましたが、その観光バスと私たちが互いに手を振り合いながら、子どもたちと一瞬の「交流」をしました。外国人観光客は「二社一寺」の世界遺産に向かっていましたが、その外国人観光客のうち何組もが共感まじりに私たちの脱原発アピールにカメラを向けていました。

マイカーでは「大宮」ナンバーを何台も見かけました。遠くは「山口」、「京都」、「奈良」から。近くは「高崎」、「群馬」、「つくば」など。「宇都宮」「日光」を中心に首都圏と関東地方が大半でした。この日は観光シーズンからやや外れた季節なのか、外国人観光客も含め、人出がふだんに比べて少なく感じられた「第20波一斉行動in神橋」でした(富岡洋一郎)。

 

2026年7月24日 (金)

合格点かな初見参の「稲庭風生ざるうどん」  食感が良くツユ味も分量も適度に  

Photo_20260723233601 暑い時にこれはちょうどいいのではないか。「稲庭風生ざるうどん」(いなにわふうなまざるうどん)(鰹節ストレートツユ付き2食 東京都渋谷区・シマダヤ)。いっぱしのざるうどん通のつもりだが、初めて買い求めたこの「生うどん」はツユ味といい、食感といいい、ほどよい分量といい、「合格点」がつけられる。盛夏はこの生ざるうどんの世話になろうかと。BGMはたまたま聴いていたら、冷やし感あり、ゆったり感あり。ヒーリング音楽のこれが猛暑にぴったりかも。石原真治の「aqua Blue」。ネット検索していたら、このレコードは1998発表のアルバムで、彼のヒット作品だという。確かに支持されるだろうと思える全12曲だ。

 以下はネットから。映画音楽やヒーリング音楽などの分野で活躍する作曲家兼ピアニスト、キーボード・プレーヤー。東京芸術大学音楽部別科作曲科、国立音楽大学作曲科を経て音楽制作を開始。岩波映画の『ザ・ビッグデイ』を皮切りに映画音楽家として活動し、多くの記録映画やドキュメンタリー映画の音楽に携わった。その後、98年に発表したアルバム『アクアブルー』のヒットにより、ヒーリング音楽のクリエイターとして注目を浴びる存在に。オリエンテッドな響きを持つ荘厳なサウンドで、幅広い層のファンから支持を得ている

 

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2026年7月23日 (木)

31日(金)栃木県政出前講座のレジュメは「40画面」   テーマ「栃木県における再エネの状況」   

昨日7月22日(水)、10日後に迫った県政出前講座(7月31日)を担当する栃木県気候変動対策課と連絡をとったところ、講座のレジュメは「40枚」という。それを40画面だとして理解すると、A4版1枚に2画面、裏表だと4枚。すると、1セットはA4版10枚。これを25人分用意すると、A4版250枚ー。う~ん、日光市民活動支援センターの印刷機で印刷するか、それとも私のブラザープリンターで印刷するか?。そのデータが届くのは2日前の29日(水)になる可能性が。すると、印刷する時間が足らないため、自宅のプリンターでつくることになるのかとー。(以下は「栃木県における再エネの状況」フライヤー本文)

福島第一原発事故以降における太陽光や水力、バイオマス、風力などに代表される再生可能エネルギーの爆発的な拡大で世界は今やエネルギーの大転換期を迎えています。さらに「ホルムズ海峡危機」でエネルギーの自給率を高めていくため、これまで以上に地産地消の再エネの必要性が高まっています。再エネの国内の先進事例は環境省の特設サイト「GOOD ECHO」で知ることができますが、栃木県内ではどんな取り組みがなされているのか、どんな計画が立てられているのか、その現状と課題と今後、いわば「栃木県における再生可能エネルギーの状況」は?―それについて、栃木県政でこの分野を担っている県気候変動対策課の担当者から面前で講義してもらう「栃木県政出前講座」を企画しました。この機会に地元栃木の再エネの全体像を知ろうと思います。参加無料。会員はもちろん、どなたでも参加できます。Photo_20260723003001

2026年7月22日 (水)

今年も実施します!「甲状腺エコー検査」  10月17(土),18日(日)那須塩原・アジア学院

Photo_20260722001101 福島第一原発事故から15年余が経ちますが、若い方の「甲状腺がん」が心配されています。栃木県では那須塩原 放射能から子どもを守る会」を窓口に「関東子ども健康調査支援基金」主催で今年も10月17日(土)。18日(日)にアジア学院(那須塩原市槻沢442-1)で「甲状腺エコー検査」を実施します。

甲状腺エコー検査は福島第一原発事故当時、18歳以下だった方を優先します。10月17日は11時~17時、18日は11時~15時。検診費は一人千円。いずれもアジア学院の「収穫感謝の日」のため、発着所からのシャトルバスでの来場となります。

問い合わせは「那須塩原 放射能から子どもを守る会」080―5041-4239 手塚

日光では「さよなら原発!日光の会」が仲介し、広報誌「広報にっこう」10月号(9月25日発行)の「情報なび」有料広告でこれらの情報を伝える手続きをとります(冨岡洋一郎)

 

2026年7月21日 (火)

「再エネ」テーマに私たちのささやかな実践例    「会報第58号」(7月31日発行)冒頭に

 「さよなら原発!日光の会」会報「げんぱつニュース第58号」(7月31日発行、A4版12頁)の編集作業中だが、その冒頭を飾るのは、「こんな事をやってます『私のささやかな省エネルギー』」(福田洋吾さん)と「我が家のお手軽太陽光発電」(野村潔さん)。いずれも自宅の小型太陽光発電、いわゆる「プラグインソーラー」形式の「再エネ」。今回はこのテーマの第1回、第2回の位置づけ。第3回以降も会員がこのテーマで寄稿してくれることを期待してー。

  今月31日(金)には、日光市民活動支援センターで栃木県の県政出前講座として「栃木県における再生可能エネルギーの状況」を開く(参加無料)。講師は県気候変動対策課の担当者。その出前講座の当日に発行する会報第58号はこの講座の「先駆け」といったところ。これらの目的はまずは今秋にも栃木県内の再エネ優良事例見学会を行いたいため。世界は今やエネルギーの大転換期に入っている。その大きな潮流を身近なところで実践したり、見聞したり、知識を深めたりして、確かなものとしてつかみたい考えているため。脱原発は世間にさまざまな手段でアピールするだけではなく、実践も知識も構想を含めて豊かにしていかないとねとー。 Photo_20260720214201

2026年7月20日 (月)

[RAMIS」や測定機器の選定などを学ぶ    「第3期放射線被ばく防護士養成講座」受講報告

Photo_20260720181501 「みんなのデータサイト」主催ZOOM講座

「第3回放射線被ばく防護士養成講座」の受講生を募集しています」。「えっ!そんな講座があるのか?受講すれば『さよなら原発!日光の会』の日光市市内空間放射線量測定に役立てることができるかもー」。という思いから、NPO法人「みんなのデータサイト」(福島県飯坂町)が主催するこの講座に参加した。

講座は「第3期 『原子力災害』から命と健康を守る 実践体験学習講座~放射線被ばく防護士を目指そう」と題した教材(A4版78頁)を基に、5月中旬から7月上旬まで、毎回19時から2時間半、ZOOMによる全8回のオンライン講座だった。

 この講座の目的は「原子力大害被災地の実践研修を通じて測定技術の習得と被ばく防護への対応力を身につけた自助共助のリーダー的人材の育成」。そのため、帰宅困難地域である福島県浪江町津島地区で放射線測定を行うなど1泊2日の現場研修も組まれていた。

 オンライン研修と実地研修を受けた受講生は7月中旬に口頭試問を受け、これに合格したら、「放射線被ばく防護士」の認定を受けることができる。参加費は実地研修を含む受講生は1万4,000円、オンライン研修のみは4,000円。病み上がりの私は今回、オンライン研修組を選んだ。

 

「測定機器の安全な取り扱い」から「原子力災害時の法体系」までー。

 独自に作成された教材の内容は多岐にわたる。その内容のうち、私が関心を寄せた項目を挙げると、「原子力規制委員会 放射線モニタリング情報共有・公表システム(RAMIS)」、「測定機器の安全うjな取り扱い」、「放射線防護の原則とARARA」、「原子力災害のフェーズ別防護戦略の違い」、「外部被ばく測定用の機器」、「測定機器使用上の注意事項」、「空間放射線量計を用意しておこう」、「原子力災害対策指針」、「住民に対する被ばく防護措置」、「安定ヨウ素剤の配布・服用タイミング」など。

 受講生は東北地方、関東地方や京都などだいたい10人~15人。講師陣は複数人だが、主に「みんなのデータサイト」副理事長で第一種放射線取扱主任者の村上直行さん(新潟県)があたっていた。進行役は事務局の中村奈保子さん(東京都)だった。

 

RAMIS」を活用し東海第二原発のモニタリング空間線量を報告

 講座で印象に残ったのは、先に挙げた「原子力規制委員会 放射線モニタリング情報共有・公表システム(RAMIS)」。この講座の特徴として、毎回とも次回までに調べて答える「課題」があったこと。初回の5月16日の課題は、自宅の最寄りの地点と最寄りの原発の空間線量を「RAMIS」で調べて、報告するだった。

 早速この「ラミス」でチェックすると、最寄りのモニタリングポストは塩谷町船生小で、空間線量は0.0043。日光から80㌔圏にある東海第二原発は近くのモニタリングポストの数値は0.004だった。全国のモニタリングポストの数値を知りたければ、「ラミス」というこのシステムを使えば瞬時につかむことができる。初回の講座でこれを教えてもらったのは、「ラッキー」と思った。

 「ラミス」のURLを下記にアップします。

https://www.ramis.nra.go.jp/

 空間線量計お薦めは「岩崎通信機SV2000」

「空間線量測定の実際」の講座では「α線、β線、γ線、X線、中性子線」という放射線の種類と生物への影響力、各種のサーベイメータ(携帯で使える小型の放射線測定器)について、測定器の応答速度の指標である「時定数」(じていすう 大事な指標だが、講義を聴いてもどうもまだ半可通だ)、それに測定器の「使用上の注意事項」などの解説が次々と続いた。

 講座は「原子力防災の基本は、空間線量の測定に始まり、空間線量の測定に終ると言っていい」、と指摘し、「空間線量計を用意しておこう」と促していた。測定機器としては、7千円台から3万円ほどのいくつかの例の紹介があった。が、「みんなのデータサイト」の講座で薦めていたのは「岩崎通信機のSV2000」。ネット検索でもだいたいその通りで、測定範囲は0.001μ㏜/h~9.999μ㏜/h。アルカリ単3乾電池2個で寿命300時間。価格は5万円前後。いずれこの「岩崎通信機のSV2000」を手にしたいと思う。

「UPZ」(半径30㌔㍍)の避難は500µ㏜以上という規定に改めて驚く

 改めて驚いたのは「原子力災害対策指針」にある「住民に対する被ばく防護措置」。知られるように原発事故で全面緊急事態に陥った場合、「PAZ」(おおむね半径5㌔㍍)の住民は「避難」が指示される。「UPZ」(おおむね半径30㌔㍍)の住民は「屋内退避」の指示だが、プルーム通過に伴い、地表の空間放射線量が「500µ㏜/h」以上なったら、「避難」に切り替わる。

 「PAZ」の避難と[UPZ]の屋内退避は承知しているが、「UPZ」の避難の基準は、うかつにも承知していなかった。「え!そんなに放射線量が高くなるまで屋内退避?」―。「線量計測や情報収集で、指示が出される前にいち早く逃げ出す」。異口同音でそんな「熱いやりとり」がZOOMで交わされた。

 原発事故直後の防護で強調されていたのが、甲状腺被ばくを防ぐための「安定ヨウ素剤」の活用。ふだんからそれぞれの個人が安定ヨウ素剤を必ず準備しておく必要性について重ねて語られていた。

 

2026年7月19日 (日)

今回は多彩な記事で構成される会報です    「げんぱつニュース第58号」編集スタート

市民団体「さよなら原発!日光の会」のPhoto_20260718205401 会報「げんぱつニュース第58号」(7月31日発行)の編集作業をきょう18日から始めました。A4版12頁。「2026年度活動方針」などのほか、「-『再エネ』―我が家の太陽光発電活用策」、「ドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』アンケートまとめ」、「『第3回放射線被ばく防護士養成講座』受講報告」、「今年も甲状腺検査を実施します 10月17日(土)、18日(日)那須塩原」、「連載 福島原発事故の衝撃 その(1)『新版 原子力の社会学』から」など多彩な記事が載ります

 

2026年7月18日 (土)

メインスピーカーは社会学者・長谷川公一さん    10月31日「さようなら原発!栃木アクション」

Photo_20260718152601 今秋の「さようなら原発!栃木アクション2026」は、10月31日(土)、宇都宮城址公園を集合場所に開催します。福島第一原発事故から15年余、再生可能エネルギーの急速な拡大で世界は今やエネルギーの大転換期を迎えています。この機会に原発のない社会の実現に向けた市民の運動はさらに重要になっています。今年のメインスピーカーは、社会学者で盛岡大学学長の長谷川公一さんが務めます。長谷川さんは環境社会学社会運動論の研究で知られ、東北大学教授、東北大学大学院教授を経て2025年4月から盛岡大学学長。元環境社会学会会長、「原子力資料情報室」の理事も務めてます。著作に岩波新書『脱原子力社会へ――電力をグリーン化する』(2011年)、ちくま新書『環境社会学入―持続可能な未来をつくる』(2021年)などがあります(富岡洋一郎)。

 

2026年7月17日 (金)

夏本番に「アイスコーヒー」のお中元。  海外など贈り主への御礼はfacebookで

2026の「お中元」アイスコーヒーが三重県経由で娘夫婦から届くー。避暑地・霧降高原でさえ、ついに夏本番なので、大いに活用できますーという御礼を送ったばかり。今やfacebookで海外の娘夫婦などにすぎに伝えることができる時代なのだね。ネット・AIに代表されるように時代が進んでいくが、時代遅れそのもの、歴史を逆回転させた「国旗損壊罪」が本日、7月17日(金)に成立した。というニュースがNHKラジオから。昭和初期の「新興俳句弾圧事件」をかなり突っ込んで知った立場から言えば、罪刑法定主義から外れ、政権が主観で罪を判断していくことができるとんでもない法律だ。戦前の悪名高き治安維持法はホップ、ステップ、ジャンプで改悪を重ねているが、そのように法律は一度できると、どんどんと肥大化して、いつの間にかその法律が当初の枠を超えて暴走していくこと。この「国旗損壊罪」もその危険性が十分にあるとみる。 Photo_20260717203301

2026年7月16日 (木)

まさか治安時時法の亡霊が現代によみがるとは  不快な「国旗損壊罪」に送る「現代俳句10句」

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盛り上げようぜと声を掛けながら水をぶっかける

まさか治安維持法の亡霊が現代によみがえるとは

初めから有罪が決まっている後出しジャンケン

気分に土足で踏み込むこの道はいつか来た道

気に入らない奴を吊るし上げるにはこの法律で

 

「不快指数」は気象用語から警察用語へ

必ず同調圧力がストップをかける「忖度」で

「くだらない法律」がいずれ「我が家」の玄関に

お子様ランチは外しましたと豪語する罪と罰

嫌いの感情は世間におっかぶせて「敵は本能寺」

(国旗損壊罪を成立させようという暴挙に)

 

2026年7月15日 (水)

「さようなら原発!栃木アクション2026」は10月31日(土)   会報の写真挿入の仕方で四苦八苦

あさって17日(金)が原稿締め切りの会報「げんぱつニュース第58号」(A4版12頁を予定)、その仕込みでA4版1枚に2本の記事を入れたうえ、計4枚の写真を挿入する作業を終えたばかり。それもなんともはやのようやくだ。わずかA4版1枚だが、組み上げるのに、たぶん3時間以上もかかったのではないか。記事を2段組みで流し込むのはいつものことなので、すんなりと。問題は写真の挿入の方法だ。紙面で枠をつくっても、コピーの貼り付けがうまくいかない。こちらが意図した場所に収まらず、勝手な、というか、とんでもないところに飛んでいる。なだめながら何度か挑み(ほんとに紙面に挑む気分で)試行錯誤。ようやくほどほどのところに収まった。紙面構成ができる専門のソフトではなく、たんなるWordでつくろうとしているから。それは承知だが、こうも時間がかかってしまうとー。というホッとしながらの不満をこのブログへ(笑い)ー、

Photo_20260715230901 今秋の「さようなら原発!栃木アクション2026」は、10月31日(土)、宇都宮城址公園を集合場所に開催します。福島第一原発事故から15年余、再生可能エネルギーの急速な拡大で世界は今やエネルギーの大転換期を迎えています。この機会に原発のない社会の実現に向けた市民の運動はさらに重要になっています。今年のメインスピーカーは、社会学者で盛岡大学学長の長谷川公一さんが務めます。長谷川さんは環境社会学社会運動論の研究で知られ、東北大学教授、東北大学大学院教授を経て2025年4月から盛岡大学学長。元環境社会学会会長、「原子力資料情報室」の理事も務めています。著作に岩波新書『脱原子力社会へ――電力をグリーン化する』(2011年)、ちくま新書『環境社会学入―持続可能な未来をつくる』(2021年)などがあります(富岡洋一郎)。

 

2026年7月14日 (火)

リアルタイムで進行中の「現代史」を会報に  吉岡斉『新版 原子力の社会史 その日本的展開』

 「さよなら原発!日光の会」会報「げんぱつニュース第58号」は7月17日(金)が原稿の締め切り。そこに『新版 原子力の社会史』(吉岡斉)をネタ本に、「福島原発事故の衝撃」を連載していく予定だ。この本の最終章である「第8章」をそのまま丸ごと載せていきたい。掲載は1回あたりA4版2頁分。なので、たぶん5回~6回ぐらいの連載となるだろう。この会報発行は基本的に1年に4回だ。となると、終わるまでに1年から1年半かかるかも。その初回は7月31日(金)発行を予定している。乞うご期待というところだ。

Photo_20260714212701 号から「さ福島原発事故の衝撃」と題した連載を行います。この内容は吉岡斉(よしおかひとし)さんの『新版 原子力の社会史 その日本的展開』(2011年10月25日第1刷、2012年6月30日第3刷 朝日新聞出版)から。本は「第1章 日本の原子力開発利用の社会史をどうみるか」、「第2章 戦時研究から禁止・休眠の時代」など全8章から成る全399頁。

 そのうち連載するのは、終章である「第8章 福島原発事故の衝撃」の363頁~394頁。「あとがき」によると、福島第1原発事故を受けて、「現在史」を大幅に加筆し、リアルタイムで進行中の歴史を描いたとあります。連載は吉岡斉さんが大幅に加筆したその部分にあたります。福島第1原発事故から15年、改めて「なぜ、史上最大級の原発事故に発展してしまったのか」について学び直す機会になると思います。

 吉岡斉さん(1953年8月~2018年1月)は、日本科学史家、元九州大学副学長、「政府事故調」と呼ばれた東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の委員。専門は科学革命の歴史、科学社会学、科学技術政策。逝去するまで民間シンクタンク「原子力市民委員会」の座長も務めていた。以下は『新版 原子力の社会史』から。

 

1 福島原発事故の発生

 

 2011年3月11日14時46分、宮城県男鹿半島の東南東130キロの海底約24キロメートルを震源として、モーメント・マグネチュード9・0の巨大地震が発生し、東北地方を中心に甚大な被害をもたらした。この巨大地震のもたらした災害は、東日本大震災と通称されている。その際立った特徴は、世界の震災史上はじめて「原発震災」(原発が地震で損傷して大量の放射能が外部に放出され、それによって地震と原発事故との相乗効果による被害拡大がもたらせる事態)が発生したことである。

 2007年の新潟中越沖地震でも、東京電力柏崎刈羽原発の7基の原子炉のすべてが大きな被害を受けたが、放射能による一般住民への被害はわずかであった。それが今回との大きな違いである。原発は他の発電所と比べて異質な破壊力を秘めており、それがひとたび開放されると他の発電所とは異質な被害をもたらすことが、改めて浮き彫りになった。

 東日本大震災では、福島第1原発から26キロメートル北方にある東北電力原町火力発電所(電気出力100万キロワットの石炭火力2基を擁する)を地震動と津波が襲い、物理的には福島第一原発を凌駕する被害をおよぼした。津波の高さは福島第一の14メートルを上回る18メートルに達したという。それにより原町火力発電所は全電源喪失状態におちいったが、発電所外部に被害を及ぼすことはほとんどなかった。起動用の重油タンクが破壊され、重油が周囲に漏洩した程度であった。火力発電所は大災害に襲われても、発電所外部に被害をおよぼすことはほとんどないのである。しかし原子力発電所においては、火力発電所とは比較にならない安全対策が必要となる。

 東北・関東地方の太平洋岸には、多くの原子力発電所が林立している。最北の青森県には東北電力東通1号機、宮城県には東北電力女川1~3号機、福島県には東京電力の福島第1の1~6号機および福島第2の1~4号機、茨城県には日本原子力発電(原電)東海第2の合計15基ある。他に建設中が2基(電源開発大間、東京電力東通1号機)、建設準備中が5基(東北電力東通2号機、東北電力浪江・小高、東京電力東通2号機、東京電力福島第1の7~8号機)がある。まさに東北地方の太平洋沿岸、とりわけ宮城県から福島県にかけての一帯は、世界一の「原発銀座」である。これらに加えて周知のように青森県六ケ所村に核燃料サイクル諸施設の集中立地地点がある。

 これらの原発が大震災により、地震・津波の被害を受けた。地震動により原発やその関連施設(とりわけ送配電システム)は大きな被害を受けたとみられる。それに追い打ちをかけるように津波が襲来し、事態を大きく悪化させた。強い地震動を受けると、原子炉には自動的に制御棒が挿入され核分裂反応は停止する。今回は原子炉停止はうまくいった。

 しかし福島第1では(6号機の空冷ディーゼル発電機1基をのぞき)すべての電力供給が絶たれたため、原子炉冷却機能が停止した。原子炉を動かす電力は通常時は原子炉自身が生み出している。それが停止した場合には発電所の外部にある送電線(外部電源)からの電力供給に頼る。それも駄目な場合は非常用のディーゼル発電機を稼働させる(非常用内部電源)。福島第一原発ではそのすべてが絶たれたのである。

 それにより東京電力福島第1原発は、同時多発的な炉心溶融事故を起こした。そこでは運転中だった1~3号機までの3基の原子炉がすべて冷却材喪失事故LOCA(Loss Of Coolant Accident)におちいり、核燃料メルトダウン(溶融落下)を起こし、さらにメルトスルー(溶融貫通)に至ったと推定される。

 それにより、圧力容器・格納容器の双方が三基すべてで損傷した。4~6号機の炉心は空っぽだったが、4号機建屋に設置されていた使用済核燃料プールで火災・爆発が起こり、プールは大破した。他の5つの核燃料プールも冷却機能喪失により水温が上昇し、水位が下がった。

 こうした深刻な事故を招いた引き金は、地震動および津波という自然災害である。事故発生当初は津波がすべての原因であるという見解が、経済産業省原子力安全・保安院や東京電力によって流布された。しかしその後、地震動によって炉心(原子力圧力容器)と直結する配管が損傷し冷却水が漏出した可能性が、1号機について指摘されるようになった。もしそうであれば原子炉立地指針の定める基準地震動と同程度の地震動によって、致命的な破壊が生じたことになる。つまり実質的な安全率(裕度)は1程度ということになる。地震動の影響について決定的な証拠を得るには、配管の破壊状況などの実地検証が不可欠であるが、そのためには放射線レベルが十分下がる必要があり、検証可能な状態となるには少なくても数年以上の時間が必要となるだろう。

 地震動に追い打ちをかけるように約1時間後の15時40分ごろから数次にわたり津波が襲い福島第一原子力発電所は水浸しとなった。それにより全電源喪失状態におちいった(生き残ったのは6号機の空冷式のディーゼル発電機1機のみだった)。地震動と津波のダブルパンチにより原子炉の心臓部だけではなく、発電所にある他の多くの機器も損傷した。全電源喪失により1~3号機の3基すべてで、電源を必要としない冷却系(1号機の非常用復水器、2・3号機の原子炉隔離時冷却系)が稼働した。

しかしそれを動かすには非常用バッテリー(動力用ではなく制御用)による調節を必要とした。しかもバッテリーは8時間分の蓄電容量しかなかった。バッテリーが消耗しつくまでの間、有効な冷却水注入策がとられず時間が空費された。多数の電源車が遠方から招集されたが、まったく役に立たなかった(非常用ディーゼル発電機を動かすには、高圧大型電源車を何台も並列につなぐ必要があるが、現場には必要な台数の高圧大型電源車もなければ、その並列接続技術もなかったとみられる)。

 そして核燃料の温度上昇がつづき、核燃料被覆管の材料であるジルコニウムの合金(鉄合金は中性子を余分に吸収するので使えない)が、冷却水の酸素と結合する酸化反応が進み始め、大量の水素ガスを発生させた。さらなる温度上昇により被覆管(融点摂氏1700度)が溶け、核燃料が剥きだしになった(核燃料損傷)。さらに核燃料も摂氏2800度(二酸化ウランの融点)を上回る温度となって溶け出した(核燃料溶融)、

そして核燃料が圧力容器底部に落下するメルトダウン(溶融落下)が進んだ。そして核燃料の一部が圧力容器の底部を突き抜け、核能容器底部に落下するメルトスルー(溶融貫通)を起こしたとみられる。こうした事態の進行に伴い水素ガスの発生量も増えた。水素ガスは、他の揮発性の高い放射性ガスとともに、何らかの経路で圧力容器から抜けて外側にある格納容器に充満した。格納容器の温度は高まりつづけ、そのままでは破壊にいたる恐れが出てきた。以上のような事象が3基すべてで起こったと考えられる。(次号に続く)

 

 

2026年7月13日 (月)

いっそのことなら自分の手で   初めての「かき揚げ」つくり

何度か挑んでようやく成功させた「かき揚げ」だがー。つくるのに夢中だったので、気がついたら、たくさんつくってしまった。「こんなにつくるつもりはなかったのに」ー。かき揚げは1枚か2枚で充分なのだが。ということでかき揚げをかなり残しての昼飯・「冷やしざる天うどん」でした。何度も失敗したので、かき揚げつくりは、「片栗粉」と「小麦粉」と「水」の割合をうまく調整することがカギであることはわかりました(苦笑い)。この間、高速道のサービスエリアで「かき揚げそば」の定価をみたら、確か「880円」だったか-。そんな値段のそば・うどんなら自分でつくってしまえーということとかき揚げつくりを学びたいという、「向上心」(?)が、今回のかき揚げづくりへの挑戦でした~itPhoto_20260713162001

2026年7月12日 (日)

「栃木県における再エネの状況」は?  7月31日(金)日光市民活動支援センターで「県政出前講座」

Photo_20260713144601 福島第一原発事故以降における太陽光や水力、バイオマス、風力などに代表される再生可能エネルギーの爆発的な拡大で世界は今やエネルギーの大転換期を迎えています。さらに「ホルムズ海峡危機」でエネルギーの自給率を高めていくため、これまで以上に地産地消の再エネの必要性が高まっています。再エネの国内の先進事例は環境省の特設サイト「GOOD ECHO」で知ることができますが、栃木県内ではどんな取り組みがなされているのか、どんな計画が立てられているのか、その現状と課題と今後、いわば「栃木県における再生可能エネルギーの状況」は?―それについて、栃木県政でこの分野を担っている県気候変動対策課の担当者から面前で講義してもらう「栃木県政出前講座」を企画しました。この機会に地元栃木の再エネの全体像を知ろうと思います。参加無料。会員はもちろん、どなたでも参加できます。 Photo_20260712231901

2026年7月11日 (土)

どう生き抜けられるのかを堂々と公開  『獄に暮らせば』(重信房子)

ともあれ、朝日新聞7月11日(土)の書評から「これは読みたいぞ」と。3520円とあるので、日光図書館経由で借りに行こうと思う。

(書評)『獄に暮らせば 「21年7カ月の獄中日記から」』 

 重信房子〈著Photo_20260711224901

『獄に暮らせば 「21年7カ月の獄中日記から」』

 ■好奇心と冷静さで何でもござれ

 日記である。あの元赤軍派の重信房子の20年余の獄中生活を、こと細かに書き記した生きる記録だ。

 何が面白いと言って、実に明確なる好奇心を持って、獄中のハード、ソフト両面にわたる出来事を、第三者が描くように冷静に記載していることだ。無論、権力と闘う意思に変わりなく、重信にとって合理的な獄中生活をおびやかすものに対しては、刑務官であれ伝達事項であれ、徹底的に抗弁し抗議する。

 ただ重信のクールな対応がすごい。言うだけ言うも、ダメなときは次の機会を待って一時撤退。カッとなって一時の感情に身を任せることはしない。そのための生きるすべなのであろう。毎日の獄中生活をあくまでもきちんと獄の行事や日常の歳時記通り、それこそ淡々とすごしていく。日記には、重信の生活や草花をあしらったイラストや短歌が添えられている。

 「寝そべって世界の変化夢想する失業中の革命家あり」「判決は終わりにあらず始まりとまつろわぬ意志ふつふつと湧く」。いや、闘志をかきたて、歌にするのだ。

 でも、重信は実に獄中生活を器用に受容できるものは受容して生き抜いていく。食事、体操、コーラスなど、何でもござれ。それらを全部生きる糧にしていくのだ。とはいえ彼女は健康ではない。何度もがんという病気に襲われ、それと闘わねばならぬ。

 日記は、裁判とがん治療と獄中暮らしに大別される。裁判10年の記録は、それでもピリピリした感じが強い。余裕がなく、あれこれ考え、外の支援者との接触、それこそ検察や裁判への対峙(たいじ)に明け暮れる。外からの激励の言葉がいかに力になるか。刑務当局との闘争がいかに精神を鍛えるか。長文の日記からわかる。

 10年あまりの受刑生活は、いかに日々を快適に暮らすかという側面と、がん治療のために繰り返す病床生活の側面とに分かれる。獄中でのハイライトは運動会。その余裕が堂に入っている。楽しめるものはとことん楽しもうという精神なのだ。でも、それに密着するごとく、大腸がん、小腸がん、子宮がんという病気との闘いがある。医療日記のごとく、医師とのやりとり、手術の様子がこと細かに記される。患者の目というより、医療の伴走者の冷静な目だと言ってよい。「クレゾールの匂う廊下を足早に看守に連れられ医務へと急ぐ」

 重信房子とは何であったのか。赤軍幹部としての活動で有名だが、「獄に暮らせば」どう生き抜けられるのかを堂々と公開する。一人の人間としてのあり方が、よく見えてくる。

 評・御厨貴(東京大学名誉教授・政治学)

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 『獄に暮らせば 「21年7カ月の獄中日記から」』 重信房子〈著〉 作品社 3520円

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 しげのぶ・ふさこ 45年生まれ。元日本赤軍最高幹部。71年出国、パレスチナ解放闘争に参加。00年逮捕。「ハーグ事件」の殺人未遂などの罪に問われ、懲役20年の判決を受け服役。22年出所。

 

2026年7月10日 (金)

「明るい覚悟」で自分との約束を守る   同人誌「序説第33号」の「編集後記」

同人誌「序説第33号」(9月1日発行)の原稿の最終締め切り日である7月10日(金)に滑り込みセーフで担当の「編集後記」(黒川純)を送ることができましたー。以下はその「編集後記」。字数はいつもよりもやや長い約2450字(400字詰め原稿用紙約6枚)ぐらいだったかー。

 

 「おい、地獄さ行ぐんだで!」。二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(カタツムリ)が背伸びしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。―――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。プロレタリア文学で名高い小林多喜二(1903~1933)の『蟹工船』(1929「昭和4」年5、6月「戦旗」に発表)の冒頭部分だ。知っての通り、多喜二は1933(昭和8)年2月20日、築地署特高に治安維持法違犯で逮捕され、拷問を受けて殺された▼「女工」として働いた体験を描いた「キャラメル工場から」で知られるプロレタリア作家、佐多稲子(1904~1998)とプロレタリア作家・評論家の宮本百合子(1899~1951)が一緒に多喜二宅に駆け付けた。彼女らは虐待を受けた多喜二を手厚く「看護」したという。これは毎週土曜日に放送されているNHKラジオ番組「保阪正康が語る昭和人物史」に登場した佐多稲子が生前に語っている。録音のこの肉声を聴いたのはこの初夏のこと。。多喜二虐殺はこれまで「歴史」の教科書のように受け止めがちだった。だが、この佐多稲子の「歴史の証言」を聴いたことで、モノクロの昭和初期のことが急にリアルに感じられるようになってきた▼『蟹工船』について冒頭に挙げたのは実は「連想ゲーム」から。というのも日本人の死因のトップはガン(癌)だが、その「語源」はどこから来ているのか?その問いから。ネットのAi回答によると、がん、癌、悪性腫瘍の英語表記はCANCERだが、これは「カニ」を意味する言葉からきている。腫瘍本体とそこから周囲へ伸びる血管やリンパの様子が「カニの脚」に似ているということから、その名がついたと説明されている。『蟹工船』に触れたのはこのためだが、日本語の「ガン」は、このCANCERの訳語として使われるが、語源そのものはあくまで漢語「癌」に由来するというのが標準的な説明だという日本経済新聞「NIKKEI STYLE」によると、男性の3人に2人、女性の2人に1人が一生のうちに何らかのがんを発症すると推計されている。それも早期に発見すれば約9割は治るとされている。私も日光市の一斉健診で胃潰瘍の疑いありとなり、日光市民病院の胃カメラ検査でチェックしたら、胃がんと判明。セカンドオピニオンを県立がんセンターで、サードオピニオンを自治医大病院で。ふたつの病院を渡り歩いたうえで、済生会宇都宮病院で内視鏡手術を受けた。胃の4分の3を切除し、半年ごとの検査へ。幸いにも5年間、がんの転移はなかった。今から3年前だが、この際、担当医から「もう胃の治療で病院に来ないでくださいね」と言われた。さらに「治癒おめでとう」と記された「表彰状」みたいなものを手渡され、眼を丸くしたものだがんのことが気になったのは、つい最近、ラインを通じて、同人の一人から大腸癌の摘出手術で入院することなったという報告があったため。「弱音を吐かずに頑張ります」とも伝えていた。同人はいずれも高齢者同士であり、すぐさま励ましのエールが送られた。「治療に対して前向なスタンスをキープして下さい」、「どうか治療が順調に進みますよう」、「現代医学は進んでいますから大丈夫ですよ」、「大変だね。気を強く持って治療へ」、「大変ですが、頑張って下さい」、「お気を強く持って、病気に負けないでください」など。親しい仲間の大腸がん治療について、いずれも我が事のように思えたのだ。今はこの大腸がんの手術と治療が順調にいくことを願うばかりだ▼がん治療といえば、落合恵子さんさんが思い浮かぶ。私たち70年安保世代には深夜放送のパーソナリティで「レモンちゃん」という愛称で親しまれていた(文化放送「セイヤング」など)。宇都宮出身のその彼女が肺がん治療の心境と記録を2025年暮れに『がんと生ききる 悲観にも楽観にも傾かず』(朝日新聞出版)として出版している。この本で落合恵子さんは「病と向き合うことも『明るい覚悟』のひとつである」と書いている。その『明るい覚悟』とは、彼女が2020年に出版した加齢をめぐるエッセイ本。「『明るい覚悟』とは、自分にとって大事なほんの僅かなものを握りしめて暮らすことであり、自分が自分になっていく過程を惜しまず、省略しない、自分との約束と言い換えることもできる」(『明るい覚悟』あとがき)▼「自分との約束」は落合恵子さんにとってのキイワードのようだ。「さようなら原発1000万人ニュース」最新号(第40号 7月1日発行)に執筆している彼女の記事によると、6月になると、必ず開く本を庭のテーブルに置く。60年安保の国会構内で「圧死」した当時22歳の東大生・樺美智子さんの復刻版『人知れず微笑まん 樺美智子遺稿集』。その中の樺美智子さんが19歳の頃に書いた詩「最後に」を読む。と書いて、落合恵子さんはこう結ぶ。「酷い時代は続く。酷い社会も続く。だからわたしはデモに行く。自身との約束のために」。肺がんの闘病下にあっても、落合恵子さんは自分のルールは外さないという強い決意を示す。病になるとどうしても弱気になりがちだ。そこを乗り越え、前向きな姿勢のままでいく。だれもが彼女のような強い精神を保っていけるかというと、そうもいかないだろうとも。それでもこうした構え方ができる人がいることを知ることは、世の中を生きていく「力」のひとつになるのではないか▼冒頭の『蟹工船』に戻ると、蟹工船「博光丸」の労働者300人が一斉に「ストライキ万歳!」と三度叫んで意気を上げた最初の試みは失敗に終わる。みんなの全員による闘争だということを示す必要があったのだ。『蟹工船』は、彼らがその「力」の使い方に気づいたことを伝えて、こう結ぶ。「『ん!もう一回だ』。そして彼等は、立ち上がった。―――もう1度!」(黒川純)

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2026年7月 9日 (木)

「用心棒日月抄」もいいが、「よろずや平四郎活人剣」も   とにかく面白さ抜群の藤沢周平時代小説

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たまたま我が家の「藤沢周平全集」から抜き出して手にした「よろずや平四郎活人剣」-。全24篇・600頁弱のうち、まだ4篇ばかり読んだだけだが、これが抜群に面白い。『用心棒日月抄』の「青江又七郎」もさすがの時代小説だが、この『よとろずや平四郎活人剣』の「神名平四郎」も勝るとも劣らない。解説によると、又七郎シリーズの時代設定は元禄14年から元禄16年。赤穂浪士事件が組み合わさった物語だが、この平四郎の物語は水野忠邦が改革に乗り出し失脚した天保12年から天保14年の時代。幕末がひたひたと迫っており、高野長英事件がらみで展開していく。いずれも明日の米びつを心配しながら暮らす「裏店に暮らす食えない剣客」という設定だ。又七郎は用心棒稼業で、平四郎はもめごと仲裁業が日々のなりわい。当然、侍社会の暗闇と裏店の庶民たちという両方の世界を行き来することになる。江戸を背景にした藤沢周平の筆のさえもあり、ぐいぐいと引き込まれてしまう。やるべき作業があるのだが、それを少し休んでの「よろずや平四郎活人剣」の読書タイムだ。以下は確か文春文庫の上・下2分冊のネットの紹介だ。
                                                  

よろずや平四郎活人剣 
文藝春秋 藤沢周平 
神名平四郎。知行千石の旗本の子弟、しかし実質は、祝福されざる冷や飯食い、妾腹の子である。思い屈し、実家を出奔、裏店に棲みついたまではよいのだが、ただちに日々のたつきに窮してしまう。思案の揚句、やがて平四郎は奇妙な看板を掲げる。…喧嘩五十文、口論二十文、とりもどし物百文、よろずもめごと仲裁つかまつり候。世に揉め事の種はつきぬとはいえ、依頼主のもち込む話は多彩を極める。中年夫婦の離縁話、勘当息子の連れ戻し、駆け落ち娘の探索等々。武家と違い、万事気侭な裏店にも、悲哀にみちた人生絵図がある。円熟期にあるこの作家の代表的連作シリーズ、愈々佳境。人の姿、世の姿の哀切な陰影を端正に写し出す話題作。

 

2026年7月 8日 (水)

テーマ『栃木県における再生可能エネルギーの状況」    日光で7月31日(金)県政出前講座

7月7日(火)

7月31日(金)に「栃木県における再生可能エネルギーの状況」(仮題)をテーマの県政出前講座を行って欲しいと、栃木県庁に申請しておりました。それについて、7日(火)、担当の県庁気候変動対策課と最終調整した結果、日程は当会の要望通り7月31日(金)、日光市民活動支援センター第4・第5会議室で行う、ただし、時間については同課の都合から「午後2時からー午後3時20分」となりました。「講師」は同課の岸(きし)さんか大歳(おおとし)さん。当日は小一時間をPhoto_20260708171701 Photo_20260708171702 「講義」に、約20分を「質疑応答」にするということになりました。主催は「さよなら原発!日光の会」。参加無料。どなたでも参加できます、お気軽においでください。

2026年7月 7日 (火)

最後は「深い虚無と疲弊」の世界に  新潮文庫版8巻「静かなドン」

「静かなドン」(新潮文庫全8巻)を読み終えた。「山あり谷あり」の手を握る展開が次々と。ロシア革命にPhoto_20260707231901 よる内戦で、赤軍と白軍が一進一退の攻防を繰り広げる。そこになんともむごい殺し合いや死刑が各所で実際に起きていたのであろうということが赤裸々に示される。主人公のコサック、グリゴーリーは、赤軍から白軍へ。戦功により兵から将校へ。そしてコサックの「中隊長」、「連隊長」、さらに「師団長」になり、闘いから戦いへ。兄が殺され、父が避難中に亡くなり、彼女が銃撃で斃れ、同郷の仲間が次々と戦闘で倒れる中でも生き残っていく主人公。だが、その彼も最後は内戦でほとんどすべてを失い、「深い虚無と疲弊」に包まれる。3000頁ほどになる大長編はそこで終わるー。う~ん、戦闘から戦闘への第(六)、第(七)はかなりすんなりとあらすじを追えたが、この最終巻(八)は、ほとんど悲劇に次ぐ悲劇とあって、展開を追っていくのがややつらい。打ちのめされたグリゴーリ―に対する、ある種の共感はどこから来るのかー。ともあれ深い読後感が残った名作だ。以下は、ネットの「AI回答」ー


最終巻(第八巻)の大まかな内容
時代は第一次世界大戦からロシア革命、内戦へと進み、ドン川流域のコサック社会は完全に引き裂かれていきます。第八巻では、その混乱の頂点と崩壊の余波が描かれます。

主人公グリゴーリーの行方
グリゴーリーは、白軍・赤軍・コサックのあいだで揺れ動き続け、武装蜂起や戦闘に関わる中で、多くの仲間や家族を失っていきます。政治的・思想的な「どちら側につくか」よりも、生き残るため、そして自分なりの筋を守るために戦い続けた結果、最後にはほとんどすべてを失い、深い虚無と疲弊に包まれます。

 

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2026年7月 6日 (月)

「自分の日常から知識を編む」に惹かれ   新刊新書「人類学のつくり方」(橋爪太作)

「おや?、これは何か面白そうだなー」。ネット経由で注文していた新興俳句弾圧事件を描いた「新興俳人の群像 『京大俳句』の光と影」(思文閣出版 2005年7月20日発行)をとりにいった今市の書店。久しぶりに新書コーナーに立ち寄ったところ、この新書を「発見」した。「人類学のつくり方 Photo_20260706230601 ら知識を編む」。なるほどーキャッチコピーがともかく上手い。すこしだけ手にとってすぐに買い求めた。調べたら、発行は6月30日初版一刷。まだ発売から1週間だった。できたてほやほやの新書だったのを知った。 



 項目には「知識を単に『仕入れる』のではなく自分の手で『つくる』ための技法」など魅力的な言いまわしなどが。全270頁。このところ、昭和新興俳句弾圧事件や「静かなドン」全8巻(新潮文庫)を集中的に読んでいた。それもあり、文化人類学、私の場合はとくに贈答の世界に関わることなどにふだん以上に触れたいと思ったのかもしれない。入手してから知ったのだが、「新興俳人の群像 『京大俳句』の光と影」の著者・田島和生さんは元朝日新聞編集委員。「えっ!失礼しました。先輩なのに浅学非才にしてー」と。この二冊をしばらく楽しみながら読み進めることになりそうだ。以下はネットにあるこの新書の紹介だ。
                                                                                

人類学のつくり方
自分の日常から知識を編む
光文社新書 1413 光文社 橋爪太作  価格 1,320円(本体1,200円+税)
発行年月 2026年06月 判型 新書

人類学とはなにか?というよりも、なにをすれば人類学になるのか?本書は「先人の知恵に学ぶ」「野外で材料を集める」「日常から未知を引き出す」の三段階、全一〇章を通じて、知識を単に「仕入れる」のではなく自分の手で「つくる」ための技法を提示する。二〇世紀初頭に現在の調査スタイルが築かれた人類学。特定の時代・特定の場所と密接に結びつくフィールドワークは、いかにして広く応用可能な視点と方法論とを立ち上げているのか?基礎の基礎から最先端まで―この一〇〇年に蓄積された「実践知」のフィールドを自分の足で歩くための、いまだかつてない手引き。
第一部 先人の知恵に学ぶ―事前の準備(はじめに;出発まで;はじまりのマリノフスキ)
第二部 野外で材料を集める―フィールドワーク(フィールドワークの門前で;メラネシアふたたび;骨と肉;身体が土地になるとき)
第三部 日常から未知を引き出す―データの整理と民族誌の執筆(イメージからの出発;文字の思考;人類学を書く)

 

2026年7月 5日 (日)

最終章「福島原発事故の衝撃」を連載形式で   「新版 原子力の社会史」(吉岡斉)から


「さよなら原発!日光の会」の会報「げんぱつニュース」はふだん活動報告が中心だが、それだけではなく、保存しても手元に置いてもらえるような記事も掲載したいと、「反原発の思想史」(絓秀実)(すがひでみ)の紹介も捨てがたいと思ったが、まずは名著で定評のある「新版 原子力の社会史」(吉岡斉)がいいかなと。この本は全399頁もあるので、載せるにはその最終章である第8章「福島原発事故の衝撃」を。試験的にA4版1頁いっぱいにその書き込んでみた。7月31日(金)に発行予定の「げんぱつニュース第57号」に初回を載せるつもりだ。約1500字、400字詰め原稿用紙で4枚弱だ。書き込んでいると、読むのと違って知っているつもりのことが改めてはっきりと頭に刻まれるようだ。これは新しい「発見」かも。その(2)以降の連載が楽しみになってきた。初回の行数からすると、終わるまでだいたい10回ぐらいの連載となるかも。会報を1年4回発行するとして、ふ~む、2年以上もかかることになるのだねー。

 福島原発事故の衝撃 その(1)

「新版 原子力の社会史」(吉岡斉)から

1 福島原発事故の発生 

 2011年3月11日14時46分、宮城県男鹿半島の東南東130キロの海底約24キロメートルのを震源として、モーメント・マグネチュード9・0の巨大地震が発生し、東北地方を中心に甚大な被害をもたらした。この巨大地震のもたらした災害は、東日本大震災と通称されている。その際立った特徴は、世界の震災史上はじめて「原発震災」(原発が地震で損傷して大量の放射能が外部に放出され、それによって地震と原発事故との相乗効果による被害拡大がもたらせる事態)が発生したことである。

 2007年の新潟中越沖地震でも、東京電力柏崎刈羽原発の7基の原子炉のすべてが大きな被害を受けたが、放射能による一般住民への被害はわずかであった。それが今回との大きな違いである。原発は他の発電所と比べて異質な破壊力を秘めており、それがひとたび開放されると他の発電所とは異質な被害をもたらすことが、改めて浮き彫りになった。

 東日本大震災では、福島第一原発から26キロメートル北方にある東北電力原町火力発電所(電気出力100万キロワットの石炭火力2基を擁する)を地震動と津波が襲い、物理的には福島第一原発を凌駕する被害をおよぼした。津波の高さは福島第一の14メートルを上回る18メートルに達したという。それにより原町火力発電所は全電源喪失状態におちいったが、発電所外部に被害を及ぼすことはほとんどなかった。起動用の重油タンクが破壊され、重油が周囲に漏洩した程度であった。火力発電所は大災害に襲われても、発電所外部に被害をおよぼすことはほとんどないのである。しかし原子力発電所においては、火力発電所とは比較にならない安全対策が必要となる。

 東北・関東地方の太平洋岸には、多くの原子力発電所が林立している。最北の青森県には東北電力東通1号機、宮城県には東北電力女川1~3号機、福島県には東京電力の福島第一の1~6号機および福島第2の1~4号機、茨城県には日本原子力発電(原電)東海第2の合計15基ある。

 他に建設中が2基(電源開発大間、東京電料東通1号機)、建設準備中が5基(東北電力東通2号機、東北電力浪江・小高、東京電力東通2号機、東京電力福島第一の7~8号機)がある。まさに東北地方の太平洋沿岸、とりわけ宮城県から福島県にかけての一帯は、世界一の「原発銀座」である。これらに加えて周知のように青森県六ケ所村に核燃料サイクル諸施設の集中立地地点がある。

 これらの原発が大震災により、地震・津波の被害を受けた。地震動により原発やその関連施設(とりわけ送配電システム)は大きな被害を受けたとみられる。それに追い打ちをかけるように津波が襲来し、事態を大きく悪化させた。強い地震動を受けると、原子炉には自動的に制御棒が挿入され核分裂反応は停止する。今回は原子炉停止はうまくいった。

 しかし福島第一では(6号機の空冷ディーゼル発電機1基をのぞき)すべての電力供給が絶たれたため、原子炉冷却機能が停止した。原子炉を動かす電力は通常時は原子炉自身が生み出している。それが停止した場合には発電所の外部にある送電線(外部電源)からの電力供給に頼る。それも駄目な場合は非常用のディーゼル発電機を稼働させる(非常用内部電源)。福島第一原発ではそのすべてが絶たれたのである。

 それにより東京電力福島第一原発は、同時多発的な炉心溶融事故を起こした。そこでは運転中だった1~3号機までの3基の原子炉がすべて冷却材喪失事故LOCAにおちいり、核燃料メルトダウン(溶融落下)を起こし、さらにメルトスルー(溶融貫通)に至ったと推定される。(続く)(富岡洋一郎)。Photo_20260705193101 Photo_20260705193102

 

2026年7月 4日 (土)

大戦起るこの日のために獄をたまわる   俳句も弾圧した治安維持法から101年

大戦起るこの日のために獄をたまわる

  治安維持法施行から101年 

(1) その「自由」が君らの目的なんだろう 

  自由律俳句と言えば、「分け入っても分け入っても青い山」の種田山頭火(1982~1940)、「咳をしても一人」の尾崎放哉(1985~1926)が浮かぶ。今年は治安維持法施行(1925年5月12日)から101年。その日のコラム「天声人語」(朝日新聞)は、治安維持法で検挙された自由律俳人、橋本夢道(1903「明治36」年~1974「昭和49」年)を題材にしていた。浅学非才にして、このコラムを読むまで俳句をたしなむ人ならだれもが知っているだろう夢道その人を知らずにいた。それもあり、夢道俳句を導きの糸にますます危うくなり始めているこの機会に、悪名高き治安維持法を改めてチェックしてみたくなった。

 Photo_20260703225901 治安維持法が俳句という表現の世界にどのように踏み込んでいったか、俳句の弾圧を進めるにあたり、どんな発想、経過、視点、理屈を立てていたのかー。「新たな戦前」という言葉が数年前から聞かれて久しいが、この手の制度や法律は成立してしまうと、勝手に自己肥大していく。そのことは改正を繰り返しながら、権力の暴走に油を注いだ治安維持法の小史を知るだけでわかる。初夏の「天声人語」から問題意識を伝えたいと思う。それも治安維持法と橋本夢道をキイワードにしているが、ひとつの論考というより、引用が多いので、忘備録といえるかもしれない。

以下は5月12日付「天声人語」からー。

俳人の橋本夢道(むどう)は東京・月島の長屋暮らしを何より愛した。〈春らしい夜明けがしてもう隣の足音が伝わってくる家〉。娘の殿岡浩佳(とのおかひろよ)さん(80)は、「本当に物欲がない人で。家も『3歩も歩けば裏に出る』と家族が愚痴るほど狭かった」と懐かしむ▼狭い長屋に多い時は一家8人暮らし。そこに俳句仲間を集めた。銭湯に通い、ステテコ姿で涼んだ。〈ぐっすりつかり銭湯は春の人間の垢(あか)と脂肪に濁っている〉▼五七五や季語に縛られない自由律を詠んだ。俳句は、「生きるための文学」だと信じた。その姿勢は、戦前に多くの俳人が翼賛体制に従う中で反戦的とみなされた。1941年2月の雪の朝、治安維持法違反容疑で長屋から警察署に連行された▼俳人40人以上が検挙された「新興俳句弾圧事件」だ。逮捕直前、特高警察に「自分たちの『身のまわり』のできごとを自由にうたうだけですよ」と説明したら「その『自由』が君らの目的なんだろう」と言われたという▼2年余り身柄を拘束された。保釈後は長屋に戻って、74年に亡くなるまで句を詠み続けた。いま月島は再開発が進み、タワーマンションが建つ。不動産広告には1億円超の物件が並ぶ。夢道の長屋も先月解体された▼街は変わる。だが言葉は残る。〈おたまじゃくしの如(ごと)くいる子の路地に心富む〉〈「あさり、しじみョォ」貧乏路地を起(おこ)しにくる〉。句をそらんじながら路地を歩く。夢道が愛した自由とは。治安維持法の施行から101年の今日、思いをはせる。

(2)『なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』

 新興俳句弾圧事件を語るには、「京大俳句会事件」から始めるのが常道だと思うが、それには、この方面の第一人者である荻野富士夫の平凡社新書『検証治安維持法 なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(2024年12月13日 初版第一刷)から教えて阿多もらうのがてっとり早い。新書だが、全8章501頁にもなる同書だが、読ませるのは『第1章 治安維持法小史-施行から廃止まで』、『第2章 治安維持法はだれが、どのように運用したのか』、『第3章 戦時下抵抗と治安維持法の「法の暴力」』、『第7章 治安維持法の威力の震源=「国体」とは何だったのか』だ。

 「京大俳句会事件」は第3章『―「法の暴力」』に詳しい。同書から概要を引き出すと以下の内容だ。新興俳句運動の中で最初の標的とされたのが京大俳句会である。1940年2月の平畑静塔(富次郎)、波止影夫(福永和夫)、仁智永坊(北尾一水)ら8人の検挙につづき、8月までに15人が検挙された。京大俳句会を内偵中だった京都府特高課によるもので、「此の指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」とされた(警保局『社会運動の状況』1940年版)。

 続いて1933年に創刊された「京大俳句」の「創刊同人」のひとりで、後年、関西医科大学教授も務めている平畑静塔(1905~1997)の場合をとりあげている。

 平畑は五条警察署と太秦警察署で取り調べを受け、400字詰め原稿用紙1000枚以上の(手記)を書かされた。思想係長の警部は「花鳥諷詠の俳句なら又作っていいのだよ」と「忠言」したというが、平畑は戦時下の句作を絶った。平畑は1940年8月の起訴、12月の予審終結を経て、1941年3月の公判で懲役2年・執行猶予3年を言い渡された。

 新興俳句運動に特高の目が光るようになったのは、「戦争俳句」を積極的に発表するようになった1937年後半以降のことであろう。京大俳句会についても、「徹底的戦争反対の立場を採り、戦争に因る惨禍、物資の欠乏、労働強化、生活不安を指摘し、現実暴露、戦争反対を通じて共産主義思想の啓蒙を行い居りたるもの」ととらえていた(『社会運動の状況』1940年版)。「京大俳句」が多くの共鳴者を得た理由の一つに「俳句の世界ではまだ自由に物が言え、書けるようだ」というムードがあったからだと、平畑静塔は語る(『「京大俳句」と「天狼」の時代 平畑静塔俳論集』)  

 「京大俳句」の俳人を検挙した理由は、先に挙げたように、「指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」ため。もう少し突っ込んだ理由として同書が挙げているところがある。

 1940年夏頃、京都地裁検事局思想検事は「一見何でもない様に見ゆるものが、内部に相当突き進んだものを含んでおり、直感的に反戦反軍的なものを感ぜせしむる様なものが多く見受けられる・・・戦傷の寂しきす姿、戦死者遺家族、特に寡婦の寂しき生活状態、或は下層階級の惨めなる生活状態等を表現して居る」(『「京大俳句関係事件概要」「太田耐造関係文書」』)と報告している。

(3)「戦争が廊下の奥に立ってゐた」

 「京大俳句弾圧事件」に連座した俳人に渡辺白泉(1913~1969)がいる。とくに「銃後俳句」として名高いのが、この2句だ。

 

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(「京大俳句」昭和14年5月号)

 

「銃後といふ不思議な町を丘で見た」(「風」第7号昭和13年4月)

 

 さすがにこの2句は、『昭和俳句の検証 俳壇史から俳句表現史』(川名大 笠間書院 2015年9月15日第一刷)、『渡邊白泉の100句を読む』(川名大 飯塚書店 2021年6月20日第1刷)、ちくま学芸文庫『現代俳句 上』(川名大 筑摩書房 2001年5月9日第1刷)のいずれも掲載している。

 これらの著書で川名大は、白泉の句について、こう評価している。「俳句における社会性の表現という新興俳句における最も困難な課題は、やがて、銃後俳句において白泉自身の手によって果たされるようになる」。

 この「戦争が廊下のー」の句については、「『戦争』が銃後の日常へも否応なく侵入してくる恐れを戦慄的なイメージによって鷲づかみにした傑作」、「銃後といふ不思議なー」についても、「銃後という何の不思議もなく日常化した共同体から抜け出し、丘の上から眺めると、『不思議な町』として目に映るというイロニイによって閉塞の時代状況への違和感と批判精神を込めた傑作」と大きく評価している。

 白泉はほかにもこんな皮肉った、というか、一見、そう思わせながら、実はその物事の本質は違うところにあることを示唆した、いわゆるイロニイで「隠し味」を込めた銃後俳句を書いている。川名大は「銃後俳句において最も果敢に斬新な表現の開拓に試みたは渡辺白泉」と指摘している。その句として次の2句を挙げている。

 

「戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり」

 

「繃帯を巻かれ巨大な兵になる」

 

 この解説がふるっている。というか、私たちの直感を言葉でていねいに示しているというべきか。「戦場へー」の句についての解題は以下のようだ。

 「ここで用いられているのは白泉が最も得意とするイロニイの方法。一見、躍動する勇壮な出陣行進のように見せかけて、『手ゆき/足ゆき/胴ゆきて』と分節化することで、マリオネットのようなぎこちない動きを伝える。そこには自由な意志を奪われた兵隊たちが否応なく戦場へと送り込まれていくことへの鋭いイロニイが込められている」。

 いかにも白泉の傑作だなと思わせたのは、次の一句だ。この一句に俳句の「不思議」な力を知る思いがする。

「石橋を踏み鳴らし踏みて帰る」(「京大俳句」昭和14年5月号)

 この句の意味を知るには昭和14年という時代状況を踏まえないといけない。川名大がこの時代背景を示しながら「なるほどー」と思わせる解説をしている。

 「この句は石橋を踏み鳴らして勇躍出征していった兵隊が、中国大陸の戦場で斃れ、物言わぬ英霊となり、その遺骨の入った箱を胸に抱いた遺族が静々と石橋を踏んで帰ってきたというもの。白泉は、句の表現からの往復行為の主体(主語)である「兵隊」と「遺族」を隠し、しかもその主体を切り替えるという難度の高いレトリックを駆使して、匿されたモチーフを読者に読み取らせようとしたのである。匿されたモチーフは、英霊となった兵隊やその遺族への哀感、そして戦争行為の空しさであろう」(『渡邊白泉の100句を読む』106頁)。

 私などは反戦の俳句といえば、冒頭に挙げた「戦争が廊下の奥に立ってゐた」がまず思い浮かぶ。それくらい知られた句かと思っていた。しかし、川名大によると、昭和40年代では、この句の認知度、受容度は低かった。急激に高まったのは、昭和の末期から平成の初期にかけてのころ。主な原因は「朝日文庫」に収録された「白泉句集」の序文で神田秀夫が鋭い読み解きをしたこと。それに朝日新聞一面コラム「折々のうた」で大岡信のこの句の紹介があったためだという。その後、「白泉といえば、『戦争がー』とセットとなって引用され、一般の人々への知名度も高まった」という。

(4)ホップ、ステップ、ジャンプの治安維持法

 この治安維持法は一度に完成したものではなく、改正から改正を重ね、その猛威をふるうことになる。前史は1923(大正12)年9月1日の関東大震災にさかのぼる。岩波新書『治安維持法と共謀罪』(内田博文 2017年12月20日第一刷)が鋭い批判も含めたその歴史を教えてくれる。

 関東大震災が起きた翌日、山本権兵衛内閣は戒厳令を施行した。さらに緊急勅令「治安維持令」を公布し、国会は12月22日に承諾した。最初の治安維持法はこの治安維持令に代えて、1925(大正14)年に制定された。ただ、治安維持令と治安維持法は内容が大きく異なっていた。治安維持令は言論等規制法だったのに対し、治安維持法は結社規制法だった。

 成立した最初の治安維持法の内容は次の通り。

第一条 国体ヲ変革し又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ヲ以て其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス。

 

 衆議院では野党ばかりか、与党からも疑問や批判の声が相次いだ。大正末期のこの時点では国会はまだまともな論議を交わしていたことがわかる。同書から抜き出してみる。「私有財産制の合法的な改廃を禁じる立法を持つ国はない」、「国民生活よりも権力維持を優先しているのではないか」、「なぜ刑法改正ではなく、治安維持法か」、「濫用の危険は明らかではないか」、「学問の自由を阻害するのではないか」、「立憲制にとって有害であり、法案を撤回すべきではないか」、「陛下の無辜の民を傷つけないか」など。

 治安維持法は今から101年前の5月12日に施行された。治安警察法(明治33年)も存続され、以後、両者は補い合いながら威力を発揮した。この段階では「点」であったが、以後、「面」へと拡大していったという指摘が改正の度に強化されていく治安維持法の怖さを伝えてれる。

 「この法制定は治安維持法の歩みからみると、ホップ・ステップ・ジャンプのうちのホップの段階に該当する。今回は点であったが、以後、一から100へ、そして100から1万へと広がり、面となって日本全体、そして植民地を覆い尽くした」。

(5)死刑も規定した1928(昭和3)年のステップ

  ホップ、ステップ、ジャンプと飛ぶ度にさらに牙をとがらせる治安維持法のステップについて、再び、岩波新書『治安維持法と共謀罪』から。

 1928(昭和3)年の緊急勅令(「治安維持法中改正ノ件」=昭和3年改正治安維持法)。この緊急勅令は6月29日に公布、即日施行された。衆議院特別委員会の質疑で特筆されたのは、水谷長三郎の質問だった。この質疑で共産党の「外郭団体」の取締り、水谷の表現を借りれば、「名を共産党征伐に籍りた左翼運動の征伐」という政府の法改正の意図が明らかになったため。衆議院本会議では斎藤隆夫らの反対討論もあったが、貴族院では全員一致で賛成とされた。議会は翼賛議会の色を帯び始めていた。

 昭和3年改正の主な点は、第一に「国体変革」結社の罪と「私有財産制度否認」結社の罪が分離されたこと。「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者」に選択刑として死刑・無期刑を規定するためだった。そのため、治安維持法の罪は思想的内乱罪、思想的外患罪だということが強調された。治安維け持法違反の罪の性格が大きく変わることになった。

 第二は「国体変革」結社についても、「私有財産否認」結社についても、「結社目的遂行行為の罪」が新たに付け加えられたこと。「国体変革」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は二年以上の懲役または禁錮に、「私有財産制度否認」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は10年以下の懲役または禁錮に処することにされた。

 これは合法左翼政党や労働組合などを共産党の「外郭団体」と称して、この結社目的遂行行為の罪で取り締まることが目的だった。団体活動が結社の目的遂行行為にあたるかどうかも思想検事が判断することになり、超拡大適用された。思想検事が「外郭団体」だと考えれば、実体がなくても「外郭団体」だとみなされ、結社目的遂行行為の罪に問われた。 

(6)「自由」という言葉も、許せなくなっていた

 「京大俳句」への弾圧は、この昭和3年改正治安維持法の最後の段階で起きている。この「京大俳句」の弾圧を皮切りに新興俳句派が次々と弾圧されていく。1941年2月、「土上」、「広場」、「俳句生活」、「日本俳句」の一斉検挙が行われた。この一人が「俳句生活」の編集・発行人であった橋本夢道だ。『橋本夢道物語』(殿岡駿星 2010年11月21日初版 勝どき書房)の「うごけば寒い」の項目(215頁~216頁)が格好の教材だ。

 1940(昭和15)年秋、橋本夢道は月島署に呼び出された。特高の刑事は、「君たちの俳句はあまり風流ではなさそうだな。君たちは芭蕉なんかと違って、風流を求めないのかね」と質問した。

 夢道は「私たちは、自由律俳句といって、身の回りの出来事を自由に詠んで俳句にしているのです」と答えると、その刑事は「その自由が君らの目的なんだろう」と言った。

 時代は「社会主義」だけではなく、「自由」という言葉さえも、許せなくなっていたのだ。夢道はいよいよ身の危険を感じ、一石路(栗林一石路 同盟通信社会部記者、その後、同通信社会部長)と相談して、「俳句生活」をしばらく休刊することにした。

 1940(昭和15)年2月14日、「京大俳句」の同人8人が逮捕された。5月3日には「戦争が廊下の奥に立ってゐた」で知られる「天香」の同人、渡辺白泉ら6人が逮捕された。8月31日には「天香」の西東三鬼が逮捕された。「京大俳句」「天香」の主要同人が逮捕されたので、次は東京の同人誌ではないかとうわさされた。

 プロレタリア俳句への弾圧が始まった。いずれも治安維持法違反容疑で特高の餌食になった。「京大俳句」を皮切りに始まるいわゆる「新興俳句弾圧事件」だ。

 同書によると、1935(昭和10)年から「俳句生活」の編集発行人は夢道になり、発行所も自宅の月島西仲通りに移った。1936(昭和11)年7月、「俳句生活」に「渡満部隊」と題して連作十句を発表した。このときの夢道の俳句を眺めても、「戦争が廊下の奥に立ってゐた」のようなそのまま反戦俳句の系統だなとわかるような句ではない。ただし、一歩踏み込めば、社会の風潮をよしとしない気分が反映されていることはうかがえる。

「渡満部隊をぶち込んでぐっとのめり出した動輪」           

 

「歴史的に部隊が西へ行くこの国の資本がふくれてくる夏」

 

「守り札も肌身にひとりの兵が真白の銃と何を思う」

 

(7)「うごけない」日本人の置かれた状況を嘆いた

「うごけば寒い」。

 夢道の有名な俳句だ。いわばなんて言うこともない短い感慨であり、読んでそのまま素通りしてもおかしくない。だが、この6字を書かせた時期や背景を知っていくと、「確かにそういう意味が込められているのだねー」と、改めて感嘆してしまう一句だ。

 というのも、この句が作られたのは、治安維持法で逮捕された夢道が東京拘置所で独房生活をしていた1942(昭和17)年。逮捕は前年の1941(昭和16)年2月5日、38歳のとき。それから2回目の冬を迎えた時期だ。この境遇を背景にこの句について『橋本夢道物語』を著した殿岡駿星がうまく解説している。2002年に定年退職するまで朝日新聞記者だった書き手だが、夢道の次女の旦那さんであり、夢道の縁者だ。

 殿岡のその解説の「読み込み」はなかなか読ませる文章だ。

 「真冬の獄は寒い。火の気は全くない。こたつもなければ、湯たんぽもない。独房に敷いた布団の中で、ただ震えている。コンクリートに囲まれた独居房は体温が奪われるだけだ。夢道は、冷たい紙石板に、かじかんだ手で石筆を持って、震えながら作句した。『うごけば寒い』は単純に読めば、真冬の独房の布団の中で、寒いのを我慢してじっとしている姿が想像できる。少しでも動けば、冷たい空気が隙間から入ってきて、よけいに寒くなる。足の指一本でも動かせない寒さだ。文字をそのまま解釈したら、そういうことになるが、句の意味はそれだけではないと思う」

 続いて、この句の意味を問う。「うごけば寒い」は、夢道の代表句のひとつとされている。確かに以下の解説というか、分析を読むと、この句が「代表句と言われるのも、確かにもっともだな」と思える。

 「『動けば』の言葉の裏には、自由を求め、反戦を主張して活動することで、その先に待っているのは、『寒い』非人間的な結果、ということではないか。奥村商店の封建的な規則に反しての「自由恋愛結婚」で首になった。虐げられた労働者や農民の立場に立って『自由律』という形式でプロレタリア俳句、反戦俳句へ『うごけば』、その結果『寒い』獄の中に入れられる。じっとうごかず、ぬるま湯の中にいれば、夢道の人生は安楽だったかもしれない。しかし、夢道はうごかずにはいられなかった。その結果、理不尽な弾圧が待っていた。夢道は獄中でつくづく、『うごけない』日本人の置かれた状況を嘆いたのだろう」(同書229頁~230頁)

(8)「大戦起るこの日のために獄をたまわる」

 1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。その当日に読まれた夢道の俳句をチェックしてみた。『橋本夢道全句集』(1977年10月31日第一刷、463頁、未来社)から。定価4800円。こんなかなり高額の俳句集も発刊されていたのだねーと感心することしきり。私は「栃木県内全図書館横断検索」による日光図書館経由で借り出したのだがー。

「夢道有名俳句」でチェックすると、必ず取り上げている句がある。

「大戦起るこの日のために獄をたまわる」

 確かににそういう、いわば「名句」なのだろうなと思う。特に結びの「獄をたまわる」とい謙譲語がいい。式典のスピーチなどで「ご支援をたまわる」というあれだ。「たまわる」をネットで調べると、「たまわる」は、「諦観と告発」とある。だが、私に言わせると、いわばいらないのに、それを「ありがたくいただく」のだが、「たまわる」という言い方で、治安維持法違犯逮捕・拘留について、たっぷり皮肉を込めたその一言だと思う。ということなら、この句はどうしても「たまわる」でなければならかった。

 ネットの『AI回答』はこうなっている。

 「この句は、太平洋戦争へ突き進む日本で、治安維持法などにより思想弾圧を受けた俳人自身の境遇を詠んだものとされています。『獄をたまわる』という言い方は、皮肉をこめつつも『国家から授かったもの』として自分の投獄を捉え、大戦に向かう体制の一部として自分が排除されている現実を、冷徹に見つめる表現になっています。とても大つかみに言うと、大戦が始まる、『この日のためにこそ、自分はあらかじめ牢屋に入れられたのだ』という、時代への諦観と告発が同居した一句だと読まれます。戦争に異を唱える者が、戦争開始の前に排除されたという構図が、短い言葉の中で強く示されています」。

「大戦起る」のその日、夢道は以下の句も作っている。

「雑役が走って来てああ大戦ハワイに起る」

「大戦起る獄に尋常にいるほかなし」

「九つの渦も巻かばや真珠湾」

「大戦起る満天の星を獄舎の上におく」

(9)「偽装せる共産主義運動」という論理

 ホップ、ステップ、ジャンプの仕上げにあたるジャンプの新治安維持法は1941(昭和16)年5月15日に施行された。この年の12月8日、ハワイ急襲から始まる太平洋戦争が起こされる。『治安維持法と共謀罪』によると、同法施行を受けて全国唯一の予防拘禁所が奥多摩刑務所内に開設された。予防拘禁を裁判所が決定するにあたって唯一の争点とされたのは日本人の現在の思想状況からみて「転向」したといえるかどうかであった。問題は「転向」の基準で、この基準は暫時、引き上げられていった。1930年代前半の「転向」基準によれば合格とされた者も、この引き上げにより不合格とされていくことになった。

 思想犯保護観察法が制定されて思想犯保護観察制度を通じて「転向」補導の制度化が進行するとともに、「国民精神総動員」に向けてイデオロギーの収斂が図られはじめるなかで、当局はもはや「共産主義思想を放棄した」という消極的な「改悛」だけでは満足せず、積極的な「改悛」を「転向」に求めるようになったからである。すなわち、「完全に日本精神を理解せりと認められると至りたるもの」を超えた「日本精神を体得して実践躬行(自らの力で実際に行うこと)の域に到達せるもの」という基準がそれであった。

 ここを読んでいた際、「おや?『日本精神』とは何を示すのか?」と、ハタと思った。やはり、内田博文が指摘していた。「『日本精神』とは何かは当局でさえも回答に窮する事柄であった。当局が『日本精神』を真に理解していたかどうかは大いに疑問であった」

 昭和16年改正治安維持法の適用対象は飛躍的にその裾野を拡げることになった。治安当局によると、自由主義や民主主義に立脚して反ファシズムを唱える、あるいは戦争反対を表明するサークルなどの活動も取締りの対象とされることになった。大院審判例による治安違法の逸脱解釈・適用追認の傾向は新治安維持法下で、一段とその傾斜を強めた。

 「偽装せる共産主義運動」という論理もこの期の大審院判例の特色を示すものであった。これにより治安維持法の適用対象はすべての政治・経済・社会・学術・文化・宗教運動にまで拡がることとなった。

 「反ファッショ運動」や「帝国主義戦争反対」運動も、さらには「国民生活安定」を求める運動、「政治的自由の剥奪反対」の運動、「官僚独善的対外対内政策反対」の運動、「長時間労働の短縮、なかんずく徹夜作業絶対反対」の運動、「小作料減免、減税、強制献金反対」の運動、「兵士の給与の改善、即日帰還」の運動、「公債の強制反対」の運動、「重工業偏重かつ経済実情無視の統制反対」の運動などなどでさえも、しかも、たとえそれが自由主義や民主主義に基づくものであったとしても、「人民戦線運動」(=「偽装せる共産主義運動」)だと見なされればいつでも治安維持法違反で検挙され得ることになった。

 「民族意識の高揚」などでさえも、治安維持法上の犯罪と目された。朝鮮の人々による民族独立のための文化運動などは内乱未遂罪や内乱予備罪で問えないことから、治安維持法で検挙されることがめざされた。この検挙も大審院は許容した。この文章に続いて、「治安維持法と共謀罪」の著者である内田博文は怒りをそのまま吐き出すように批判する。

 「このような法解釈はもはや法律家の解釈といえない。非論理的で政策的な類のものであった。その妥当性を担保するものは必罰性と被告人の捜査段階および公判段階での『自白』供述以外なかった」(同書44頁)

(10)「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」

 フォームの始まり

 結びに今回のテーマの導きの糸にした橋本夢道の横顔の紹介へ。「ウィキペディア」によると、丁稚奉公から世の中に出て行った苦労人であることがわかる。の終わり徳島県名東郡北井上村(現在の板野郡藍住町)の小作農に生まれる。本名・橋本淳一。小塚尋常小学校卒後、藍玉問屋の奥村商店に丁稚として奉公。14歳のとき深川の東京支店に抜擢される。このころ『萬朝報』に載っていた荻原井泉水の句に惹かれ句作を試みる。

 1922年より自由律俳句誌「層雲」に投句、井泉水に師事する。1929年、俳句を通じて知った荻田静子と結婚。しかし、奥村商店は自由恋愛を禁じており、プロレタリア俳句運動に関わったこともあって奥村商店から解雇される。1937年、プロレタリア俳句誌「旗」を創刊。その後「プロレタリア俳句」「俳句の友」と改題するが発禁となる。1934年、一石路らとともに「俳句生活」を創刊、編集を担当する。

 そして、1941年、「京大俳句」事件を始めとする新興俳句弾圧事件に連座し、2年の間拘留される。夢道は1974(昭和49)年10月9日死去。71歳だった。この年、私は24歳の大学6年生だったが、「除籍」を選び、東京へ向かっていた。

 夢道の句碑がふるさと、徳島県板野郡藍住町の正法寺川沿いにある。高さ2.7㍍、幅2.2㍍の巨大阿波青石に刻まれている(『藍住町議会だより』2013年2月25日など)

 「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」         (了)

2026年7月 3日 (金)

「不快指数」は気象用語から警察用語へ  序説第33号へ「現代俳句」20句

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9月1日に創刊から半世紀を超えた同人誌「序説第33号」が発行されるが、そこに論考と俳句を寄稿した。論考は「大戦起るこの日のために獄をたまわる 治安維持法施行から101年」(約1万1000字)。この原稿つくりで新興俳句弾圧事件と「橋本夢道」や「渡辺白泉」など、「京大俳句」など新興俳句誌に寄稿していた多くの俳人の作品をかなり読み込んだ。その作業をしていた際中に「私も現代の俳句をつくってみたい」と思わせた。その結果、生まれたのは、治安維持法によって、昭和10年代に集中的に弾圧を受けた「新興俳句」を念頭にした20句。ただし、「ホトトギス派」でももちろんなくて、「プロレタリア俳句」そのものでもない。手にしてみると、季語がない「山頭火」や「放哉」のような、形で言えば、いわゆる無季俳句、超季俳句、自由律俳句となっていた。ただ、内容というか、主にテーマ主義でもあるので、現代版「新興俳句」といったらいいかも。でも現在進行形の社会派俳句なので、う~んということで、とりあえず「現代俳句」と勝手に名づけてみた。それが成功したかどうかは何とも言えないのだが(笑い)ー。

「序説第33号」

「不快指数」は気象用語から警察用語へ

       「現代俳句」20句 黒川 純

 

「不快指数」は気象用語から警察用語へ

必ず同調圧力がストップをかける「忖度」で

「くだらない法律」がいずれ「我が家」の玄関に

嫌いは四つ葉クローバーで決める国旗損壊罪

嫌いの感情は世間におっかぶせて「敵は本能寺」

(「国旗損壊罪」成立にやっきの高市政権に)

                                               

フクシマを「コトババンク」は「馬耳東風」と解説する

手続きをとりました」と強弁するためにあるパブコメ

亡国へ至る笑止千万の「第七次エネ基本計画」

地獄の一丁目を原子力村が唱和する「最大限活用」

(「原発を最大限活用」の第七次エネルギー基本計画に対し)

 

太平洋戦争の月日を超えた弾丸がきょうも飛び交う

ドローンが変えた現代の戦争でも続々と斃れる兵士

東西の腕白坊主は原発を標的に地球儀をもてあそぶ

何度も「勝負あり!」とされている講道館大統領

濃霧を突っ走る賭けのトランプゲームに市場が騒ぐ

(太平洋戦争の3年8カ月を超えたウクライナ戦争に)

 

いいかげん聞き飽きたやってるふりの「橋渡し役」

オブザーバーも外すノーベル平和賞を受けた国

「広島が消えた日」がお蔵入りするのはいつの日か

八十年後も焼き場の少年は今も立ち尽くしたまま

あっもここっちもペンキがはがれ始めた「核の傘」

(「核兵器禁止条約」にそっぽを向く政権に)

 

2026年7月 2日 (木)

「序説第33号」発行(9月1日)に向け   同人の大半の原稿をきょう送付済み

1974年創刊、すでに半世紀を超えた同人誌「序説」(油切れでそろそろ退場が近いー)。その第33号(9月1日発行)の原稿を制作するデザイン事務所「ミレニアム」(群馬県太田市)にきょう2日、各原稿を添付したメールで送った。第一次締め切りは7月1日だったが、本日までにほぼ大半の同人が論考、エッセイ、詩、俳句を出し終えた。同人は9人だが、出稿がないのは一人のみ。彼からのその原稿を待ちたい。もともと最終締め切りは7月10日に設定している。なによりも「編集後記」を書くのは事務局の私だが、まだ白紙のまま。あと1週間以上あるので最終締め切りをみながら、出稿していくことになる。そうそう、その「序説第33号」は基本的に以下のような組み方をしていくつもりだ。手元の「忘備録」も兼ねてアップしておきたい。写真は昨年2025年9月1日に発行した「序説第32号」だ。「序説第33号」に乞うご期待(笑い)ー。

 「序説第33号」Photo_20260702223601

(1)詩 あなたを呼んでいる 磯山オサム

(2)現代俳句20句 黒川純

(3)桜町文庫の窓(7)ジャズより他に神はなし 平岡正明・考 磯山オサム

(4)表現の周辺 17 AI界隈が騒がしい 冨岡弘

(5)行き過ぎた個人主義と本願他力 郡司文夫

(6)鈴木邦男、呪縛からの解放 岩城真樹

(7)京と(13) 高橋一男

(8)ロシア兵の残虐な破壊行為をみていると 安斎博

(9)家も『3歩も歩けば裏に出る』 治安維持法101年 富岡洋一郎

(10)あとがき 野村タカオ以下同人8人

(11)編集後記 黒川純 

 

2026年7月 1日 (水)

「日光ボランティア・市民活動フェス2026」に初参加へかー  「さよなら原発!日光の会」も11月1日(日)に

Photo_20260701175001 11月1日(日)、日光市中央公民館で開催される「日光ボランティア・市民活動フェス2026」への参加申し込みをしました(申し込み締め切りは7月15日)。とりあえず、「紹介展示」と「活動体験」の2部門を想定した申し込みです。「さよなら原発!日光の会」としては初参加になるかどうか。7月31日の役員会で是非を決めます。なるべく参加へと、前向き姿勢ではいるが、自分たちの「体力不足」と判断したら、申し込みキャンセルもありという性格の申し込みです。日光市民活動支援センターによると、昨年は「60団体」が参加したということです。写真はネットからとった昨年の「日光ボランティア・市民活動フェス2025」のフライヤー

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