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2026年8月 5日 (水)

被爆者たちの惨劇に思わず声を失う    肥田舜太郎「広島の消えた日ー被爆軍医の証言ー」

 同人誌「序説第32号」(2025年9月1日発行)からー。8月6日を前にして、やはり肥田舜太郎医師の証言を伝えたい。肥田さんには映画監督・鎌田ひとみさんとの共著「内部被曝の脅威」という本もあったのだった。肥田舜太郎さんが亡くなってからもう5年以上も経つかも知れない。「内部被ばく」の脅威などについて講演した肥田さんを迎え、主催者である足利のジャズ喫茶「オーネット」で隣り合わせで歓談したことも。今晩はその生前の短いが大切な「交友」を思い起こしながら、愛用するドイツワイン「Madonna」で一杯の時を過ごそうかとー。

身も凍る『広島の消えた日―被爆軍医の証言』

 「核」が実際に使われた場合の恐ろしさについて、その一端を以下に紹介したい。ご承知の広島原爆についてだ。原爆投下当時、陸軍広島病院の軍医中尉だった肥田舜太郎さん(1917年~2017年)は、原爆投下前夜、急患のため、郊外に往診に行っていた。そのため、奇跡的に助かっているが、それから軍医として、広島中心部へ向かう。そのとき逃れてくる被爆者たちの惨状についての描写はなんとも目をそむけたくなるむごいものだ。肥田さんは現地で治療にあたり、その後、6千人を超える被爆者を診察してきた被爆医。日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長などを務めていた。

 広島の惨状などは肥田さんの著書『広島の消えた日―被爆軍医の証言』(1982年5月 日中出版)『同 増補新版』(2010年3月 影書房)に詳しい。広島原爆については『黒い雨』(井伏鱒二 新潮文庫)が広く知られているが、最近でも『「黒い雨」訴訟』(集英社新書 小山美砂 2022年7月)といった労作も発刊されている。だが、この肥田さんのなんともいえない生々しい文章に出会うのはめったにないことだろう。

 『広島の消えた日』によると、当時28歳だった肥田さんが広島原爆に遭ったのは、広島郊外の戸坂村の患者の家の病人の腕をとって注射をしようとしていたとき。すぐに「巨大な爆圧の嵐」に遭い、その家の二間続きの何枚かの畳を飛んで奥の仏壇にいやというほど叩きつけられた。中心部の広島陸軍病院に戻ろうと、借りた自転車で向かっている最中の模様が以下のように記されている。「身も凍る」という言い方があるが、まさにそれを思わせる描写だ。少し長いが引用したい。

 私は突然、岩陰から急に現れた人影を見て急ブレーキをかけた。自転車がきしんで跳ねて、踊って、草むらに投げ出された。痛みをこらえてはね起きた私は道路の真中に立つその姿を見て思わず息を呑んだ。それは、「人間」ではなかった。それは、ゆれ動きながら私に向かって少しずつ動いてくる。人間の形をしていたが全体が真黒で裸だった。裸の胸から腰から無数のボロ切れがたれ下がり、胸の前に捧げるようにつき出した両の手先から黒い水が滴り落ちている。その顔は、ああ、それは顔なのか。異様に大きな頭、ふくれあがった両の眼、顔半分まで腫れあがっ上下の唇、焼けただれた頭に一すじの毛髪もない。私は息を呑んで後ずさりした。ボロと見たのは、人間の生皮、滴り落ちる黒い水は血液だった。男とも女とも、兵隊とも一般人とも見分けるすべのない焼け焦げた人間の肉塊が引きはがれた生皮をぶらさげてそこにあった。まだ少しは眼が見えるのか、私に向かってうめき声をあげながら両手を差し出して、よろけ、もつれて二、三歩足をいそがせたが、それが最後の力だったのであろう。その場にばったり倒れてしまった。駆け寄って私は脈をとろうとした。しかし、手を触れる皮膚らしいところはその肉塊の腕にはどこにも残っていなかった(中略)とにかく、広島へ急がねば、と自転車を立て直して進みかけた私の足はその場に釘づけになったまま、動かなかった。焼けて、焦げて、ただれて、生皮のはがれた血の滴る群像が道いっぱいにひしめいて、うごめきながら、行く手をふさいでいたのである。立っている人、寄り添っている人、いざる人、はらばう人、どの姿にも人間を意識させる何一つのしるしはなかった(『広島の消えた日―被爆軍医の証言』123頁~124頁)。

戦後64年にわたって6千名を超える被爆者の診察・治療に携り、今なお放射能の内部被曝の危険性を追究し続ける元軍医である著者が、精神主義のはびこる戦争末期の軍内部の状況と、広島での原爆被爆・救援体験を克明に綴った第一級の証言手記、待望の復刊(旧版:1982年、日中出版刊)。新版発行に際し、放射線障害や差別に苦しむ戦後の被爆者たちの苦難や、“被爆医師”としての自らの歩み、平和への願いを新たに書き下ろした「被爆者たちの戦後」(約40頁)を増補。

〈著者略歴〉
肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)

1917年、広島市生まれ。
1943年、日本大学専門部医学科卒業。1945年8月6日、原爆被爆。直後から被爆者救援・治療にあたり、2009年の引退まで被爆者の診察を続ける。1953年、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)創立に参加。全日本民医連理事、埼玉民医連会長、埼玉協同病院院長、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長などを歴任。1975年以降、欧米を中心に計30数カ国を海外遊説、被爆医師として被爆の実相を語りつつ、核兵器廃絶を訴える。またこの間、アメリカの低線量放射線被曝に関する研究書等を翻訳、普及に努め、内部被曝の脅威を訴え続ける。

著書  『広島の消えた日』(初版:日中出版、1982年)、『ヒロシマ・ナガサキを世界へ』(あけび書房、1991年)、『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房、2004年)、『内部被曝の脅威』(鎌仲ひとみとの共著、ちくま新書、2005年)
訳書  『死にすぎた赤ん坊』(E・J・スターングラス著、時事通信社、1978年)、『放射線の衝撃』(D・W・ボードマン著、自費、1991年/08年よりPKO法「雑則」を広める会発行)、『死にいたる虚構』(J・M・グールド著、斎藤紀との共著、自費、1994年/08年よりPKO法「雑則」を広める会発行)、『内部の敵』(J・M・グールド著、高草木博らとの共著、自費、1999年)

(本書刊行時点)Photo_20260804194901

 

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