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詩論

2016年12月27日 (火)

黒川純・〈叙時詩〉に向かって吹く風  「詩と思想」特集 2016年現代詩・回顧と展望

「特集 2016年度・回顧と展望」 現代詩を展望するという、だいそれたテーマに黒川純も登場しました。『詩と思想』(2017年1、2月合併号 1月1日発行 1600円、土曜美術社出版販売)。黒川は脱原発、反戦争法、東日本大震災を「守備範囲」に、エッセイ「『叙時詩』に向かって吹く風 詩の<現況>についての私的メモ」と題して、約2700字を。編集委員会の依頼なのでした。多くの詩人たちをさしおいて、無名の「黒川純」が書いているので、さぞや「黒川純とは何者なのか?」という、戸惑いの反響があるのは必至です(笑)。
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 「叙時詩」に向かって吹く風

 

詩の<現況>についての私的メモ

 

 

 

Ⅰ それぞれの方法で「詩の風」をー

 

 

 

 「現代詩この1年」を回顧しなくても、最初の一行のその大事さ、大切さについて、詩人という詩人たちは承知していることだろう。今回の表題を与えられてから、月刊誌「詩と思想」や詩誌から文芸誌に移行しつつある季刊誌「コールサック」はもちろん、私にしては、たくさんの今年の詩を意識的に味わってみた。だが、その一行で読み手を振り向かせる、「おっ!」「ふむー」、「その先は?」と思わせる、そんな詩は少なかったように思える(私の場合はだがー)。私もその一行にこれまでも熱心ではなかったので、大きなこと、えらそうなことは言えない。それはじゅうじゅう承知の上で、そんなことを言ってみたい。それでも、昨年秋から今秋までの「詩と思想」各号の頁をめくると、「読者投稿作品」にそれらの宝石が散らばっていたように感じた。とくに毎回のように選ばれている佐々木漣の作品などはその見本のようだ。

 

 

 

弾丸になった一羽の鳥が空腹のまま/霧の中を飛んでいく/さらば真実、と切った空気(略)暮らしの中でトリアージは日常的に行われており/しかし、それが誰の手によるかが問題で(略)涙を今日一日の塩分にしなければならないと/握り飯一口もない、海岸で、立ったまま絶命 する者

 

 

 

 この作品「まだ霧は晴れていない」は2016年5月号に登場した。4連約45行の各連である行ごとに魅力的な比喩が飛び交っている。ことに「暮らしの中でトリアージは日常的に行われており」などは、その一言で昨今の社会をぎゅっと詰めた一行だな、とうなずいた。

 

 選者の河津聖恵さんは「選評」で、この佐々木漣の作品について、「詩の中から現在の社会へ向かおうとする風がある」としているが、さらに5月号の投稿作品全体についても、「いくつかの作品に『詩の風』を感じてうれしかった」と伝えている。その「詩の風」についての語り口が思わず、ミクロの詩論になっていたので、今度は私がうれしかった。以下のような問い掛けだ。

 

 

 

 「もちろん、『詩の風』とは、現実に吹く風ではない。いわば『異風』だ。読む者の言葉の秩序にひやりと触れる沈黙の風。あるいは読む者の自己と感情のあいだを、微細にひらき鋭利に吹き抜ける無の風。かたくつきつめた『私』がそれぞれの呪法で風をおこし、風は書く私をつきぬける。やがて読む『私』、そして全ての『私』を解体し、凍りついていた不可視の全体をめぐらせるー、そんな異風たちの春をまつ」

 

 

 

 こうした佐々木漣の作品を象徴にした「一行」に魅かれるのは、私個人の詩の体験が懐かしい記憶としてたちのぼってくる、よみがえってくるー、それがあるのだろう。というのも、私の詩の「原体験」は、1970年前後。前半は、大学の「フォークソングクラブ」のメンバーとして。リアルタイムでフォークルの「イムジン河」、高田渡の「自衛隊に入ろう」、はしだのりひことシューベルツの「風」」を聴いたり、弾いたりしていた。

 

 後半は、マスプロ教育粉砕やベトナム反戦などの「全共闘」へ。沖縄返還協定を中心テーマに、「デモからデモへ」の季節。吉本隆明の「固有時との対話」、「転位のための10篇」、さらに清水昶(あきら)の一連の詩、例えば「男爵」、「眼と銃口」、「夏、涙なんてふりはらえ」などを熱心に読んでいた。

 

 とくに詩集『朝の道』の代表作だろうと言える「夏のほとりで」などは、その典型だ。手元にある1973年2月第一刷の『清水昶詩集』(現代詩文庫)、そこから、とりだしてみると、やはり佐々木漣の空気と重なっているように感じられる。

 

 

 

 明けるのか明けぬのか/この宵闇に/だれがいったいわたしを起こした/やさしくうねる髪を夢に垂らし/ひきしまる肢体まぶしく/胎児より無心に眠っている恋人よ 

 

 

 

Ⅱ 「震災以後、詩とは何か」と「民主主義って何だ?」

 

 「現代詩この1年――」といっても、この3年ほど前まで私は東日本大震災ボランティアだった(それを機会に「防災士」に)。今は、市民団体「さよなら原発!日光の会」代表であったり、「戦争させない総がかり日光市民連合」共同代表であったり。なので、ごく自然に関心は大震災、脱原発、戦争法がらみの詩へ。その問題意識については、今年の「詩と思想」前半期の「詩人の眼」で連載させていただいた。その方面からの「回顧と展望」といえば、第一に先にもあげた河津聖恵さんの詩論集『パルレシア 震災以後、詩とは何か』(2015年12月15日 思潮社)、これを示さねばならないだろう。

 

戦争法もそうだが、あれから5年半余も過ぎる東日本大震災・福島第一原発事故にからまって生まれている幾多の詩の中に、私たちの胸にすとんと落ちる詩がどれほどあったのか?。私もそう思ってきたが、これまでの詩の多くが、「自己救済」で終わってしまったのではないか?。河津さんもそう指摘したうえ、「だが、3・11以後、一気にこの社会の言葉を完全制覇してしまった無関心や無力感を突き破って、別な現実に触れようとしない。しかし、普遍的な真実とは、現実や事実そのものに留まるものではなく、それらを突き抜ける非現実的な力を必ずもたらすものなのだ」と。そして、ほとんど全力で(そのように感じられる)以下のように提起する。私はその呼び掛けに、深く同感している。

 

 

 

 「今、新しい比喩こそが待たれている。一気に別な現実の輝きに触れることで、水の濁りを突き抜け、他者との共感の通路を創造しうる比喩が。その結果、この汚れていくばかりの絶望的な現実が、別の意味合いを帯びてくるような神話的な、宇宙的な比喩が。詩本来の想像力で、消えゆこうとする現実の空をふたたび押し広げ飛翔するための比喩が。汚い現実と化していくこの悲しい世界を、人間の痛みが極まる一点から、鮮やかな虚構へとめくり返す比喩が。・・・・・」

 

 

 

 と、このようなまっとうだが、「創造的」な呼びかけに答えられる詩はそうかんたんに生まれないだろう(私もその一人だがー)。それでも、社会・政治運動の面から別の「かたち」で生まれたとも思っている。2015年秋、戦争法強行採決の際、シールズ「自由と民主主義のための学生緊急行動」(SEALDs)たちが、国会正門前で盛んにコールしていたフレーズがそれだ。「戦争法反対」という決まりきったコールだけではなく、「民主主義って何だ?」という呼びかけに、参加者が一斉に「これだ!」と応じる。この応答形式のコールは、現状を正面から突くと同時に、非常に新鮮な響きだった。問題に深く向き合うことから生まれたコールだろう。こうした視点をずらした、意表を突いたフレーズは、詩の世界に対するひとつの大きな「ヒント」になるのではないか。

 

 

 

 

 

Ⅲ 言語の裂け目と積まれた「悲しみと怒り」

 

 

 

 「3・11以後、詩とは何か」にからんで、今回の注文で読み進めた詩論で考えさせられたのが、『純粋言語論』(瀬尾育生、五柳書院)。2012年7月発行なので、すでに4年が過ぎるが、現在進行形の指摘だと思えるのが、以下の視点だ。

 

 

 

 「人間の心が負った傷を、人間の言語のなかに回収して終えることはできない。そうではなくて、事物の語り出しは本質的に人間の言語の中に回収不可能だということをあらわにする必要があるのです。人間の言語に裂け目をつくって言葉を外に向かって開き、それを事物とつなぐ。その傷口から、何か別の伝達が入り込んでくる通路をつくる。そのための不連続や断片化ということが、重要な詩的な技法・語法になるはずです」

 

 

 

 視点として挙げた「回収不可能な言語」についての展開は、「日本における前衛詩の開拓者にして祖である」(中村不二夫 エッセイ集『詩の音』)とされるその暮鳥と白秋について論じた瀬尾さんの詩論「山村暮鳥と北原白秋」の結びにある。

 

 

 

 キイワードの「人間の言語に裂け目をつくって言葉を外に向かって開き・・・」を視野にして、今年のわたしが読んだ原発詩でいえば、『コールサック』第86号(2016年6月)にある

 

みうらひろこの「゛までい゛な村から」だ。累々と「フレコンバック」の山が続く「までい」・「丁寧」な村と呼ばれた福島県飯舘村の現状を伝えながら、心の鏡を映した詩ではある。だが、そこを一つ飛び越えた詩だ。というのも、私もほぼ1年前、市民団体「原発いらない栃木の会」の企画で福島第一原発周辺の町村や南相馬市などを「視察」する機会があった。フレコンバックが連なる山について、思わず「まるで『万里の長城』だね」と、息を呑んだ。この詩は断片化や不連続ではないが、現地の視えない空気・心を見事に「かたち」にしてくれたと思えるからだ。

 

 

 

フレコンバックと呼ばれる/除染で出た汚染土を詰めた黒い袋が/累々と、道しるべのように積みあげられています/までいの村に、までいに積まれているのです(中略)この黒い袋の中味は/故郷を失った人達の/悲しみが詰まってます/人々の怒りではち切れそうです

 

 

 

Ⅳ 「叙時詩」の可能性について

 

 

 

 今年のノーベル文学賞は、あのボブ・ディランへ。世界を驚かしたこのニュースだが、「コールサック」に連載中から注目していたエッセイ詩論『詩のオデュッセイア』(コールサック社)がそのニュースを先取りするように、この秋(2016年10月9日初版)発刊された。副題がなんと、「ギルガメシュからディランまで」。著者は、朝日新聞の看板コラム「天声人語」も担当したことがある高橋郁男さん。名文記者がそこまで詩にぞっこんだとは思わなかったこともあり、熱心に読ませてもらった。

 

 小題の「『叙時詩』の可能性」だが、抒情詩でも叙事詩でもなく、あくまで叙時詩

 

という分野?について。高橋さんは第7章「戦後・冷戦から『滅亡の危機』の時代へ」で、ディランの「風に吹かれて」をとりあげ、「その時代の姿・かたち・肖像を詠い、映す『叙時詩』、それぞれの詩の世界で、歌い手と詩句と旋律が奇跡的な出逢いをした時に、時空を超えた一曲が生まれる」とした。さらに第8章「詩の世界での不易と移ろい」で、ローマの諷刺詩を引き合いに、叙時詩について、このように位置づける。

 

 

 

「叙事詩でも抒情詩でもなく、その時・その時代の様・肖像を詠った詩を、仮に『叙時詩』と名付けてみた。『時』は、時間、時刻の他に、時代、年代、時世などの意味も併せ持つからだ。その時代の社会事情や出来事を取り上げて評するという点では、近・現代のジャーナリズムの時評や諷刺的なコラムの先駆けのようでもある」

 

 

 

 その「叙時詩」について、著者・高橋さんは、『コールサック』第85号(2016年3月)の「小詩集 風信」の中で、「なるほど、いかにも」という詩句を示している。

 

 

 

三・一一から五年/愚行 というには生ぬるく/傲慢 というには物足りなく/軽率 というには軽すぎ/拙速 というには甘すぎて/卑怯 というには食い足らず/鉄面皮 というには鉄に申し訳ないような/幾多の咎めの言葉も恥じ入る/「再稼働」というものが始まった

 

 

 

 冒頭に私が魅かれた佐々木漣の詩を紹介したが、ここまで書いてきて、彼の詩にシンクロするのは、提示される最初の「一行」の新鮮さ、詩句の断片化と不連続、言語の裂け目、それによる独特で懐かしい文体、さらに時代を切り開いていく詩、いわばここで言う「叙時詩」的な空気も私が感じ取るからなのだろう(本人はそのような気で書いているとは思っていないがー)。さらに以下に示す「原初の息吹と呼吸」を、そこに視るからではないか。

 

 最後のポイントは「特集 現代詩――批評の全景」(「詩と思想」 2016年9月号)にある「若手世代と熟年世代の二極化」(小川英晴)から。「すぐれた詩にはみな意識下の巨大な世界を内包しているものだ。そして、それが読み手の心を打つ。それにすぐれた詩にはどこかに原初の息吹があり呼吸がある」という。<なるほどー>と、そう思わずにいられない視方だ。その詩論にある以下の視点を紹介し、編集委の注文である「回顧と展望」にはかなり遠いだろう個人的な「詩の<現況>についての私的メモ」の結びにしたい。

 

 

 詩人は自らの意識下の力を借りて詩を書き、自らの文体を創る。おそらくその文体にも自ずと品格は宿るのだろう。作品には意識するしないにかかわらず書き手のすべてが現れる。空海は「声に実相あり」と言ったが、詩人にあっては「文体にこそ実相あり」ということが言えるように思う。声明を唱えて身につまった負の力を拭い払うように、詩人はひたすら詩を書くことによって、自らの混沌を吐き出してゆくしかない。(了)
 
   
 
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2016年5月28日 (土)

「しゃべくり捲れ」、悩みながらふんぞり返るのだ   黒川純

 

Photo_2 月刊詩誌「詩と思想」8月号「詩人の眼」向けで書いたのだが、きょう編集委員会から「連載は7月号で終わっています。詩と思想は年11回発行ですので」とー。「半年間連載と言われたので、6回かと思っておりました」。という「トホホー~」なので、改めて今度は私たちの同人誌「序説」第23号(8月1日発行)に向けて。

「しゃべくり捲れ」、悩みながらふんぞり返るのだ

                    黒川純

 その詩の素晴らしさは弾圧を受けながらも、鋭い観察眼と世の中を恐れぬ肝っ玉の表現にある。それだけではない。連帯感や孤立感の中にある抒情も含めて心に深く浸透してくる言葉を織り上げている。今の時代は文学、それも詩が読まれず、詩のような言葉が遠ざけられていると、よく言われるが、彼の詩を知れば、もっと詩を読みたい、詩を知りたい、詩的な世界を味わいたいと思うのではないかー。

 以上のような指摘で、その彼とはだれか?詩人という詩人は「あっ、彼だな!」と思い浮かべると思う。その賞を知らない詩人はいないだろうから。北海道が生んだ戦前の詩人、39歳で生涯を閉じた小熊秀雄、その人だ。その彼の詩の特徴を示した冒頭の文章は、私・黒川純がかつて書いたもの。私が事務局を務めている同人誌『序説』(1974年創刊)の第13号で、小熊秀雄について書いた小さなエッセイ「戦争に非ず事変と称す」から。発刊は2006年4月で、もう10年も前になる。

 と、急に小熊秀雄のことを思い起こしたのは、政権と市民がにらみあいながら、「火花」を散らせしている今の社会・政治の情況もさることながら、たまたま5月19日、顔見知りの郵便屋さんが配達してくれた封筒の中身が「小熊秀雄協会 入会のご案内」だったため。差出人は旧知のその小熊秀雄賞詩人でFacebookでも「ともだち」になっている佐相憲一さん。その紹介は簡潔で要領を得た内容だ。
 「奔放なアバンギャルド詩精神で時代と人間への鋭い洞察力をみせた詩人・小熊秀雄(1901~1940)、それを受け、硬軟自在に言葉を紡いだ詩人・作家・英米文学翻訳家の木島始(1928~2004)、文学運動と良書出版の功績に加え自らのルーツを表現した玉井五一(1926~2015)。類まれな個性で文学芸術をリードしたこの3名の作品世界と仕事を現代に伝え偲ぶ当会に、あなたも入会されませんか?」。
 小熊秀雄協会については、名前は知っていても、どんな経緯で設立されていたのか、あいにく私は、この「入会案内」を手にするまで知らないでいた。それによると、小熊秀雄協会は、彼の各種作品の魅力を現代に伝え、その生涯を偲ぶために、1982年より毎年開かれてきた長長忌(じゃんじゃんき)を主行事として、木島始と玉井五一によって設立された。長長忌は池袋モンパルナスの会に実働を頼る運営で昨年まで盛会を続けているが、かんじんの小熊秀雄協会は木島、玉井両氏が他界し、宙ぶらりんとなっているという。そこで今回、5人の世話人で小熊秀雄協会の再建・継承を宣言することになったのだという。代表は、詩人・評論家である佐相憲一さんとなっていた。年会費は「庶民的な」1000円だというから、私もぜひ参加したいと思う。
 
 と、考えるまでもなく、あっさりと小熊秀雄協会に参加しようと思わせる小熊秀雄の詩とはどんなものなのか?、詩人以外の読者は不思議がることだろう。そこでひとつの典型的といってよい、と私が勝手に思ってきた小熊の詩「しゃべくり捲れ」の、そのほんの一部を挙げてみたい。と、書きながら、『小熊秀雄 人と作品』(岡田雅勝 清水書院 1991年1月)をチェックしていたら、この「しゃべくり捲れ」は、「小熊の詩作品を代表する」とあった。

私は、いま幸福なのだ
舌が廻るということが!
沈黙が卑屈の一種であるということを
私は、よっく知っているし、
沈黙が、何の意見を
表明したことにも
ならない事を知っているからー。
若い詩人よ、君もしゃべくり捲れ、
我々は、だまっているものを
どんどん黙殺して行進していい、
・・・・・
月は、口をもたないから
光りをもって君の眼に語っている、
ところで詩人は何をもって語るべきか?
4人の女は、優に一人の男を
だまりこませる程に
仲間の力をもって、しゃべくり捲るものだ、
プロレタリア詩人よ、
我々は大いに、しゃべったらよい、
仲間の結束をもって、
敵を沈黙させるほどに
壮烈にー。

 この詩の中に「プロレタリア詩人よ」とあるが、『小熊秀雄 人と作品』などによると、小熊秀雄がプロレタリア詩人会に入会したのは、30歳の1931(昭和6)年だった。「プロレタリア文学運動に入り、魚が水を得たように元気に活動的になった」(小熊の妻・つね子「小熊秀雄との歳月」)。翌年の1932(昭和7)年、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)と発展的に解消し、小熊も参加した。その年、ナルプも構成団体のひとつとする日本プロレタリア文化連盟(コップ)が弾圧された。小熊も検挙され、29日間の拘留を受けた。さらに1933(昭和8)年、小林多喜二が虐殺されたという知らせで仲間のところに駆け付けたところで検挙され、再び29日間の拘留を受けた。
日本プロレタリア作家同盟は1934(昭和9)年に解体宣言を出したが、小熊はその翌年の1935(昭和10)年に第一詩集『小熊秀雄詩集』と長編叙事詩集『飛ぶ橇(そり)』を刊行している。小熊秀雄はプロレタリア文化運動が終わった時期から登場したことになる。それだけに「しゃべくり捲れ」が弾圧で衰退していた当時のプロレタリア詩壇に与えた影響は大きかったのだろう。「ヴィトゲンシュタイン」(清水書院)などの著書もある岡田雅勝は、彼の「最後のふんぞり返り」だと解説しているが、これは「なるほどー」と思わされた。

 「もし詩人がさまざまな圧力や束縛によって歌うことを止めたとしたら、それは詩人として生きていないのだ。〈しゃべくり捲れ〉という小熊の叫びは、自分が詩人としての路を選んだ以上は、もうその路を歩むことしか残されておらず、歌うことで自分の路が絶たれるとすれば、もう自分は生きる方途がないという最後のふんぞり返りであった。それは歌うことを止めた詩人に対する非難であり、弾圧に屈している詩人たちに勇気をもって立ち上がることに詩人の存在理由があるという促しでもあった」

 と、まぁ、今から80年前の小熊秀雄の「詩想」をなぞっていたら、この解説がいちいち胸にぐっさり刺さってきた。「東日本大震災・福島第一原発事故」が起きたその春からtwitterでそれこそ機関銃のように140字詩を「しゃべくり捲って」いた。1カ月で何十という詩をネットや同人誌で発表していたほど。その私がこのところ、「多忙」にかまけて、詩を考える時間とはほとんど縁がない状況を自ら黙認していた。
「小熊秀雄協会」への入会の案内が飛び込んできたのは、そんなとき。これも何かの縁だ。小熊は『小熊秀雄詩集』(日本図書センター 2006年2月)の「序」でこう問いかけている。「そしてこの一見間抜けな日本の憂愁時代に、いかに真理の透徹性と純潔性を貫かせたらよいか、私は今後共そのことに就いて民衆とともに悩むであろう」。私も悩みながら、自分で自分にふんぞり返って、「しゃべくり捲って」みることにしよう。(完)


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2016年2月28日 (日)

「事件」。。。。新しい何かが突然に 「詩と思想」3月号「詩人の眼」

Img_6249 「詩と思想」2016年3月号 「詩人の眼」原稿 (2015年12月20日) 「事件」・・・・新しい何かが突然に  

                                黒川純
 私たちは、今、いや、今も、「事件」でいっぱいの世の中にいる。それも表層でも深層でも。飛び込んでくる事象だけでなく、眼を大きく見開くことで視えてくるそれも。あれから5年目を迎える東日本大震災・福島第一原発事故、それはもちろん、芸能人の最新スキャンダルも、暴力的な政治変動も、さらに個人的な決断も「事件」だー。スロヴェニア生まれの思想界の奇才と呼ばれる、スラヴォイ・ジジェクは『事件! 哲学とは何か』で、これらをあげたうえで、事件の定義のひとつを示す。「事件とは、すべての安定した図式を覆すような新しい何かが突然に出現することだ」、あるいは「事件とは、何よりも原因を超えているように見える結果のことである」と。
 
「原因を超えているように見える結果・・・・」の例として、『事件!』は、恋に落ちた例をあげる。これなどはだれもが胸に手を当てれば、「なるほど!」に。「私たちは特定の理由、(彼女の唇、あの微笑み、など)で恋に落ちるわけではない。 すでに彼女に恋しているから、唇やその他が私を惹き付けるのだ。だから、恋愛もまた事件的である。恋愛は、事件の結果が遡及的にその原因あるいは理由を決定するという循環構造の好例である」
 
 
「新しい何かが突然に出現する・・・」、その典型的な場面に2015年秋、私はたまたま立ち会っている。というか、私の体感をそのまま言葉で明らかにした素晴らしいスピーチを会場で聴いた。東京・代々木公園で開かれた「9・23 さようなら原発さようなら戦争全国集会」。檀上で、上野千鶴子(東大名誉教授)は、感慨深そうに、それでも、「一語一語」をていねいに、いわば、この時代を「総括」した。「70年安保」(もう45年前にもなる!)に関わった彼女はメモを片手にこう語っていた。 「私たち70年安保闘争世代は闘って負け、深い敗北感と政治的シニシズムの淵に沈み込んだ。しかし、2015年夏の経験は40数年間続いた政治的シニシズムを一掃したと私は確信する。議会の配置に変更がない以上、どんなに運動しても議会の中の結果は見えていた。だが誰もあきらめなかった。それどころか、日に日に路上に出る人が増えていった。まっとうなことをまっとうに口にしてよい、そういう時代がきました!」
 
キイワードの「政治的シニシズム」とは、この場合、「お前たちは何てバカなことをやってんだ!」という斜に構えた、我関せずの「冷笑主義」といったところ。72年初春に発覚した「連合赤軍事件」などを契機に潮が引くように去っていった「政治事件」が、昨夏、「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)を先頭にした若者たちの躍動で、再び世の中へ。戦後70年続いた「この国のかたち」を根底から変える「戦争法」を立法化させた政権に「新しいコール」で初々しく抗議。その力が学者、高校生、ママへと広がった。
 
  作家で明治学院大教授の高橋源一郎は、「SEALDs」メンバー、明治学院大4年の奥田愛基くんを取り上げた「朝日新聞be」(2015年12月19日付)で、「政権へ異を唱えたいと思う人が増えてきたとき、彼らが〃着火剤〃の役割を担った」と評価している。その「SEALDs」のメンバーと語っている『民主主義ってなんだ?』で、彼、高橋源一郎は、上野千鶴子が語った「まっとうなことをまっとうに口にしてよい時代」を、柔らかく言い換えている。別の言葉だが、意味するところは同じだ。
 
「ふつうのことが、ふつうに行われ、風通しのいい社会に」と。 「ふつうの子たちが、ふつうに生きていて、社会がおかしくなったと思って、なにかしなきゃならない、って思って、いろいろするようになった。そのふつうのことが、ふつうに行われることが、長い間、ふつうじゃなかった、ってことの意味も、ぼくは考えていた。彼らは、風通しのいい社会になったらいいのに、と思って、運動を始めた。そのことに、ぼくは、深く共感している」(『民主主義ってなんだ?』「はじめに」)
 
「事件」は、「戦争法」抗議以前から起こっていた。反原発首都圏連合が官邸前で始めていた毎週金曜日の「再稼動反対」アクションだ。2012年春から夏へ。数百人、数千人、数万人へ。倍々ゲームのように膨れ上がり、全国各地に次々と飛び火した。私も何度か参加しているこの「事件」についても、高橋源一郎は『ぼくらの民主主義なんだぜ』で、「デモ」について、うまい紹介をしている。市民団体「さよなら原発!日光の会」の代表である私も何度か問われてきたその問題についてのわかりやすい返答だ。 「首相官邸の前に、何万、何十万もの人たちが集まる。そんな風景は何十年ぶりだろうか。長い間、この国では大規模なデモは行われなかったのだ。でも、うたぐり深い人はいて、『デモで社会が変わるのか?』と問うのである。それに対して柄谷行人は、こう答える。『デモで社会は変わる。なぜなら、デモをすることで、《人がデモをする社会》に変わるからだ』」。
 
「ふつうの子や人が、まっとうなことを、まっとうに口にするため、ふつうに集会やデモを行う」。今や、そういう新たな時代に入った、私はその思いを強くしている。
 
「新しい何かが出現する・・・・」あるいは「原因を超えているようにみえる結果・・・」、その「事件」は、当然、ある種のさまざまな「時間」を伴う。では、「恋」にしても、「デモ」にしても、あるいは、別の何らかの「個人的な決断」でもいいのだが、それについて、それこそ意味深長な指摘をジジュクが『事件!』で語っている。追うのが難しい「時間」についての論考の中で。そのひとつとして、ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクと社会主義者エドゥアルト・ベルンシュタインとの「権力掌握時期尚早」論争、もとりあげている。ローザが反論する。「『時期尚早の』攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから」。これらを挙げながら、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」。こう、たたみかける。さまざまなことが想像できる、このフレーズをかみしめることで、「自分と事件」に遭遇することができるのではないか。 
 
「もちろん問題は、行為と言うものはつねに早すぎると同時に遅すぎるということだ。一方では条件が整うことなどありえない。緊急性に屈服せざるを得ない。じゅうぶん待つ時間などない。戦略を練り上げる時間はない。行為はそれ自身の諸条件を遡及的に確立するという確信と危険性を覚悟しなければならない。他方では、緊急だという事態そのものが、行為が遅すぎたということを物語っている。もっと早く行動すべきだったのだ。行為はつねに、我々の行為が遅すぎたために生じた状況に対する反応である。要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ」(『事件!』「真理は誤謬から生まれる」)

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2015年12月19日 (土)

「最後の手段」から「最初の手段」へ 「アトムズ・フォー・ピース」

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最後の手段」から「最初の手段」へ

     「アトムズ・フォー・ピース」について

 

 ピーター・カズニック(アメリカン大学歴史学教授)は、日本の原子力導入について、広島市立大学の田中利幸教授と『原発とヒロシマ「原子力平和利用の真相』(岩波ブックレット 2011年)を共著したことに触れて、以下のように「原子力の平和利用!」(お~平和利用~!)について、驚くべき舞台裏を明かしている。「驚くべき」と書いたが、実際、「裏の『事実』はそういうことだったのか!」、思わずそんな声を出してしまうだろうー。アイゼンハワーの有名な演説「アトムズ・フォー・ピース」についてだ。

 平和のための原子力、核の平和利用とも呼ばれる「アトムズ・フォー・ピース」は、東西冷戦下の1953年12月、アイゼンハワーが国連総会で演説したキイワード。そのことは私たちも知ってはいるが、その狙いとするところは、意外と知られてはこなかったのではないか。

 

 というのも、例えば、有馬哲夫の『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書)では、アイゼンハワーの演説の思惑について、こんな緩やかな見方を示しているからだ。同書のこの部分は以下の通りだ。

 

 アメリカの持つ原子力関連技術をむしろ積極的に同盟国と第三世界に供与し、これらに国々と共同研究・開発を行おう。そうすれば、これを誘い水として第三世界を自陣営にとりこみ、それによって東側諸国に対する優位を確立できる。さらに、自らの主導で原子力平和利用の世界機関を設立すれば、この機関を通じて世界各国の原子力開発の状況を把握し、それをコントロールすることができる。

 

 もっとも同書では、アメリカはその後も水爆実験を続け、各兵器の威力を大きくする技術の開発を続けたとする。実際、第五福竜丸事件を起こしたビキニ環礁での水爆実験は国連総会演説後の3カ月後だったと、指摘してはいる。

 

 それにしても、以下に紹介する本当の「事実」からは、かなり遠い。というか、事実に肉薄できないでいる、それを知ることができる。といっても、私もこの「アトミズ・フォー・ピース」については、『原発・正力・CIA』ぐらいの知識でしかなかったのだがー。

 

以下は『オリバー・ストーンが語る日米史の真実 よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃないか!』(2014年8月20日初版)にある「外国人特派員協会での会見時の応答 世界を変える時間はある」(2013年8月12日)

 

 アイゼンハワーは1953年に大統領に就任したとき、米国は1000の核兵器を持っていました。アイゼンハワーが任期終了したときは2万3000もあったのです。アイゼンハワーの予算周期が終わったときには3万に膨れ上がっていました。アイゼンハワー政権下で、各兵器の存在は「最後の手段」から「最初の手段」と位置付けられたのです。核のボタンに指を載せられる人間は一人だったのが、何十人にも増え、米国がアイゼンハワー下でソビエトとの戦争を起こしたら、6億5000万人の死者が出ると予想されました。こんなリスクを抱えることをアイゼンハワーはどうやって世界を納得させたのでしょうか? 彼は「人々に、核というものは良いものなのだと教え込ませないと各兵器を使うことを容認しないだろう」と言いました。そしてアイゼンアワーは1953年12月に「アトムズ・フォー・ピース」の演説をするのです。これはウソで欺瞞に満ちたものでした。詐欺と言ってもいいでしょう!これらの書類を見たら明確に「核兵器を使用可能にするために必要だ」と書いてあります。それが戦略だったのです。

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(折々の<状況>その40 2015.12・18)

2014年12月24日 (水)

「3.11以後」」の詩を問う  栃木県現代詩人会講演レジュメ

栃木県現代詩人会で「3・11以後」の詩を問う、というテーマで講演したのは12月7日。すでにこのBLOGでレジュメ(といっても20枚、現物は写真が何枚かあります)を、アップしていないことに、きょう25日に気づいたのです。

レジュメ小項目だけはアップしていたが、全体はまだ。といっても、講演ではさらにこのレジュに肉付けした説明をしてたのだが。それでも一定の方向、というか、どういうことを言いたかったのか、それはこの資料でくみとってもらえると思う。なので、あえて、記録としても記載することにー。

下の写真はレジュメの表紙。2011年9月。日光市のJR日光駅舎で。京都の詩人、河津聖恵さんを講師に招き、実行委員会方式で行った詩と詩の朗読の講演会の様子です。テーマは「震災と原発」でした。

1_2

 

「3・11以後」の詩を問う

「野蛮」に「野蛮」を重ねるな、

問われる倫理の根源ー

 

栃木県現代詩人会・研究会 宇都宮ホテル丸治 2014年12月7日    黒川 純

 

1 はじめに 厚かましくも詩人たちの集まりに・課題だった「3・11以後」の詩

 

2 黒川純―吉本隆明、清水昶からスタート・2004年「怒りの苦さまた青さ」

 

3 2011・3・11東日本大震災・三陸の惨状と災害ボランティア・防災士

 

4アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ フクシマ以後、詩を書くことは野蛮か

 

5 「ひとりびとりの死者」へ、「ひとりびとりの生者」から・辺見庸の世界

 

6 「震災と原発」をテーマに京都の詩人・河津聖恵さん詩の講演・朗読会

 

7 「フクシマ以後に沈黙していることは野蛮である」・高橋郁男『渚と修羅』

 

8 『福島核災棄民』・南相馬の詩人、若松丈太郎の詩「神隠しされた街」

 

9『脱原発 自然エネルギー218人詩集』・3・11以後が生んだ詩「だれ?」

 

10 ほとばしるように生まれた震災詩・東梅洋子さん『うねり 70篇 大槌町で』

 

11 進歩の定義を変え、未来の設計図を変え・「懐かしい未来」の方へ

 

12 詩とは何か・詩は運針の針のように、ズレの体感をきっかけにー

(以上、各項)

 

 

1 厚かましくも詩人たちの集まりに・課題だった「3・11以後」の詩

(以下、本論)

2 黒川純―学生時代の吉本隆明、清水昶からスタート・1974年月刊詩誌「詩と思想」編集部アルバイト・2003年イラク戦争・北上詩の会 詩集「怒りの苦さまた青さ-詩・論「反戦詩」とその世界―」(2004年)、詩集「砂時計主義」(2008年)

 

怒りの苦さまた青さ

(4行7連の一連)

大地の命がめらめらと燃え

乾いた喉がひりひりと熱い

真っ赤なマグマにまたがり

今にも土石流になりそうだ

・・・・・・・

・・・・・・・

・・・・・・・

(最終連)

哀しみを抱きしめるために

眼や耳で未来まで歩くために

ひとつの詩で深夜が凍る

そんな力が詩にあるうちに

 

3 2011・3・11東日本大震災・災害ボランティア・花巻、陸前高田、相馬、石巻、南三陸へ twitterBLOG・防災士資格取得・5月から詩作再開―。

 

陸前高田の甚大な被害に言葉を失うー

BLOG「懐かしい未来」2011年5月2日

昨夜はツイッター(140字制限)で大震災に絡む詩を6篇、つぶやいた、とういうか、つぶやいていた。題名はとくに付けずにツイートしたのだが、それをブログ「砂時計主義」へ(当初のBLOG名、2014年春から「懐かしい未来」へ変更)。詩の題名はこのブログで初めてつけた。いずれも書いた詩の言葉から。大震災小詩篇(1)といったところか。(いうずれも下野新聞文藝欄に投稿・記載。「そのけなげな表情を」は、)

そのけなげな表情を

私は忘れないだろう/哀しみでもない/悲しむでもない/肩を落とすでもない/不満というのでもない/訴ったえるでもない/責任を問うでもない/怒るでもない/頼るわけでもない/でも/私の視点をぐらぐらと揺らし/ざわめきを呼び出し/先が視えない暮らしを/頬を伝わる涙で伝える/そのけなげな表情を

東日本大震災を悼む
詩劇『鎮魂と復興のうた』

主催:現代京都詩話会
共催:財団法人京都市国際交流協会
後援:第26回国民文化祭京都府実行委員会・京都市・
京都新聞社・関西詩人協会・日本現代詩人会
  とき   2011年10月18日(火) 受付18:00 開演18:30
  ところ  京都市国際交流会館イベントホール
チャリティ協力金  1500円(剰余金は全て日赤を通じて寄付します)  (「そのけなげな表情を」。これは詩劇中で朗読される詩のひとつです。ぜひ聴いてください。詩があなたのこころを揺すぶることでしょう)


 
凍土から言葉を掘り出せ

ほんとうのことを語ると/世界が凍ってしまう/ある詩人が書いたことがある/だが/3・11でほんとうのことが噴出し/世界はそのまま凍ってしまったのだ/いや言葉が凍ってしまったのだ/この世界のほんとうのことを/見せられてしまったわたしやあなたは/言葉を掘り出さねばならない/その凍土から

 

4 「アウシュビッツ以後 詩を書くことは野蛮だ」・「フクシマ以後、詩を書くことは野蛮か」・和合亮一「詩の礫」・河津聖恵の視点

20118 3 ()

「フクシマ以後詩を書くことは野蛮か」(一)

「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮だ」。

ドイツの哲学者アドルノが1949年に書いたこのテーゼを
最近、ある詩人がエッセイで引用していました。

詩人はこう言っています。

大震災の未曾有の悲劇の後、そして今もなお続く原発事故の被害が深刻化する今
このテーゼをふたたび当てはめることができるのではないか。
つまり
「フクシマ以後詩を書く詩を書くことは野蛮だ」。
そういえるのではないか。
なぜなら無理に書いてしまえば、
それこそ想像力を欠いた野蛮な言葉になってしまいそうだからだ。
こんな惨状に対し比喩なんて無理だ。
だから詩は無力であるといわざるをえない。
この悲劇を前に、比喩は死んだのだ。
たとえそれが詩の死を意味しないとしても。
比喩の死という事態こそが、新たな詩の境地をたしかにひらくのだ──

高名な詩人による文章だったので、唖然としました。

東日本大震災から五ヶ月という時期にもなって何を言っているのでしょうか?
内容以前に
その「平静」さ、あるいは「超然」とした言い放ちに、暗澹たる気持になりました。

震災当初は、たしかにアパシー(無気力、思考停止)に陥ってしまい
誰しも比喩が砕け散るのは仕方がなかったでしょう。

しかし、結局は比喩こそは詩の存在理由となるのではないでしょうか。
現実との関わりから、比喩を見出し、あるいはたたかいとることこそが
書き手と読み手双方に、詩の喜びやカタルシスを生むのではないでしょうか。

けれどよく考えれば「比喩の死」というのは
じつは震災によって初めてもたらされたものでは決してありません。
現代詩はずっと、思考の長い射程を必要とする比喩というものを
欲望することも尊重することもなく、
それこそ無力のままみずから捨て去りつづけてきました。
正確には、現実と関わって思考や言葉の力を鍛えることを放棄したために、
詩の方が比喩に見捨てられてきたのでした。
いつしか「ゼロ年代の詩」とさえ自称していたではないですか。

この震災の前で詩は無力だ、比喩は死んだとこともなげにいってしまうことは
まさに不誠実そのものです。
ツェランなどの苦悩をもふまえたアドルノのテーゼで自己正当化するのは
あまりにも自己本位としか思えません。

むしろ詩は、この震災という深い断層の切れ目からこそ
痛々しい、美しい比喩の結晶を生みだすべきなのです

20118 8 ()

「フクシマ以後詩を書くことは野蛮か(三)」

アドルノは1949年に語った『アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である』というテーゼを
1966年の『否定的弁証法』で次のように訂正しています。

「絶え間なく続く苦しみは、拷問にかけられた人がうめき声をあげるのと同様に、表現への権利を持つ。それゆえ、アウシュヴィッツ以後もはや詩は書かれえない、と言ったのは、間違いであったかもしれない。」

この「訂正」には、パウル・ツェランとの対話と、その詩を読んだことも一つの要因としてあったようです(関口裕昭『評伝 パウル・ツェラン』)。

しかし同時に同書では
「アウシュヴィッツ以後の文化は、それに対する痛烈な批判もひっくるめて、すべて、ゴミ屑だ」とも書いています。

つまりアドルノは、ツェランによって詩の希望を与えられながらも、それ以外はゴミ屑としか見えない絶望との間で、揺れ動き続けたのでしょう。

しかしツェランの詩はどのように、「アウシュヴィッツ以後の野蛮」を乗り越えているのか──それは、最初の引用部分の、「絶え間なく続く苦しみ」からあげられた「うめき声」があるからだ、ということでしょう。

うめき声、傷、痛み、うったえ、うた、歌──それが彼の詩には真実のあり方で存在しているということです。

その痛みは、たしかに死者の痛みに共振している。だからこそ、アウシュヴィッツ以後、表現の権利があるのです。

つまり大切なのは、表象=イメージ=見ることの支配欲(それこそがアウシュヴィッツを生みだした全能感に繋がります)を離れて、無となって、耳を澄ませ、共振すること──
その結果、摑まれた比喩やイメージであれば、野蛮ではないのです

和合亮一「詩の礫」からー。

放射能が降っています。静かな夜です(3月16日)

放射能が降っています。静かな静かな夜です(同)

あなたにとって故郷とはどのようなものですが。私は故郷を捨てません。故郷はわたしのすべてです(同)

どんな理由があって命は生まれ、死にに行くのか。何の権利があって、誕生と死滅はあるのか。破壊と再生はもたらされるのか(同)

 

あなた 大切なあなた あなたの頬に涙(5月26日)

いつか 安らぎの一筋となるよう 祈ります(同)

船を 詩を 櫂を 漕ぎましょう(同)

新しい詩を生きるために(同)

共に信じる ここに記す()

祈りとして この言に託す(同)

明けない夜はない(同)

  • 詩論の現在
     
    守中高明「カタストロフィーと言葉――「フクシマ」以後、詩を書くことは可能か?

ネット上からの引用 「現代詩手帳5、6月号」・「カタストロフィー言葉」(守中高明)

「和合亮一はカタストロフィーの被害者という立場とそこから生じた感性的反応のあれこれを、結局はみずからの詩人としての〈文化資本〉に翻訳し、蓄積するのみであった(略)いずれにしても、和合亮一が詩人とその詩法においても、その零時的・倫理的態度においても、現代日本文学の最もネガティブな類型の体現者であることは疑う余地がない」

  • 守中高明「カタストロフィーと言葉(下)」(「現代詩手帖」6月号)は「詩壇」内でようやく出た真っ当な和合亮一批判だが、遅すぎる。和合や和合翼賛してぬるま湯に漬かっていた詩人たちは正面から応答するんか

「現代詩手帖」6月号(2014年)の守中高明の評論「カタストロフィーと言葉(下)」を読む。ひさびさに気合いの入った論考だ。和合亮一の詩を単純な同語反復による自己再帰型のメッセージ」と断定しているところは明快

 

5 「ひとりびとりの死者」へ、「ひとりびとりの生者」から  石巻出身、辺見庸、命令法の魅力・小熊秀雄と吉本隆明

 詩人は「3・11」にどう向き合っていくべきか、ひとりひとりの死者にどんなまなざしを向けるべきか、そのとき、言葉が立ちあがるために、どんな視線や見方が、つまり構え方が、必要となるのか。河津さんは詩人にして作家、ジャーナリストである辺見庸さんの詩篇を挙げて、最大限の賛辞を送りながら、方向を見定める。彼、辺見庸は(石巻市出身)大震災後、いち早く、圧倒的な迫力で問うべき状況と見方を新聞紙上で明らかにしている。地元紙・岩手日報でのそのエッセイは「非常無比にして壮厳なもの」。6月20日発行の辺見庸『水の透視画法』(共同通信社)にも収められている。3月のそのときからずっと、その「非常無比・・・」のエッセイの以下の部分を繰り返し振り返っていた。

 「時は、しかし、この広漠とした廃墟から、『新しい日常』と『新しい秩序』とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようなこととなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりわかっていることがいくつかある。われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている」

 河津さんは、辺見庸の詩についても、以下のように展開している。

 

詩の欲望は3.11へ向かって(二)河津聖恵さんのブログ「詩空間」(7月18日)から。

 「文學界」6月号に発表された辺見庸さんの詩篇「眼の海──わたしの死者たちに」は、震災後、一気に書かれた詩群です。

 ここにある詩のことばは、これまでにこの国で書かれたどんな詩よりも、冷たく悲しく私の胸に浸透してきました。私もまた、とめどなく世界の、自分の眼からあふれた海の中にいるのだと感じたのです。この詩篇に書かれた詩のことばすべて、名もなき死者たちの一人一人の死に、かすかにふるえながら、永遠に慟哭しています。すべての詩は死者たちの死にこまかな穴を開けられ、みずから食い荒らされるように、痛み、悼んでいます。世界が壊れて、歴史や存在の底からあふれてきた水にみずから溺れながら、みずからの苦しみを通して死者の苦しみに近付こうと、ことばは、この上なく繊細に、しかし意志的に差し向けられつづけています。私が最も感動した作品は、NHKで放映された辺見さんが語られた番組「瓦礫の中からことばを」でも紹介された。

「死者にことばをあてがえ」(全文)

 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに
 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
 類化しない 統べない かれやかのじょのことばを
 百年かけて
 海とその影から掬(すく)
 砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
 水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
 石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
 夜ふけの浜辺にあおむいて
 わたしの死者よ
 どうかひとりでうたえ
 浜菊はまだ咲くな
 畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな
 わたしの死者ひとりびとりの肺に 
 ことなる それだけのふさわしいことばが
 あてがわれるまで
  
 ここにあるのは、剥き出しの単独者としての私=生者が、いまだ剥き出しの死体のままどこかに漂着したままの死者「ひとりびとり」へ向かって放つ慟哭です。今数千とも言われる行方知れない死者たちは、「死者・行方不明者」として「類化」され「統べられ」、「数千」として「量化」されつつあります。けれどかれらは、あくまでも「ひとりびとり」というあり方で生き、死んだのです。だから「私の死者ひとりびとり」として、私たち生者の「ひとりびとり」によって悼まれなくてはならないのです。類化した生者が類化した死者を、一方的に儀式として弔うことはじつは追悼とは真逆なのです。この「ひとりびとりの死者」へ、「ひとりびとりの生者」からことばを差し向ける努力こそが、私は今最も必要であると思うのです。とりわけ詩は、ことばの死者への道筋を、そして死者への道筋をたどるためのことばの力を、みずからの中から絶対的に創造していかなくてはならないのではないでしょうか。

命令法の魅力

わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに
 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ

 

小熊秀雄の場合

吉本隆明の場合

 

·  「震災と原発」をテーマにした詩人・河津聖恵さんの詩の講演会・朗読会「ひとりびとりの死者」へ、「ひとりびとりの生者」から」(実行委主催) 2011年10月1日

 私は3・11の陸前高田のかってあった市街地に立ったとき、一瞬、言葉を失った。青い空と砂塵だけしか、視界になかった。「ほんとうのこと」が噴出し、いわば言葉が死んだと思われたが、その言葉を瓦礫から(あるいは凍土から)掘り出すべきだと考えた。そうした思いで震災詩をツイッターでつぶやく一方、震災を、フクシマを追いかけていると、この時代に勇ましく向きあい、的確な指摘や発言を続けている詩人に偶然、ツイッターで出会った。石巻出身の作家・詩人・ジャーナリスト、辺見庸の思念にも共鳴し、3・11を最前線で考えている詩人だった。京都在住のH氏賞受賞詩人、河津聖恵さん。河津さんが8月11日付毎日新聞夕刊・関西版「震災と表現」に寄稿したエッセイ「真実の言葉に耳を澄ませ」がいい。その根幹部分だ。「真実の言葉に耳を澄ませ」から(河津聖恵)。 

言葉や文化の「バベルの塔」が一気に崩れ落ちた、一人一人の「世界崩壊感覚」から上がったはずだから。悲鳴vs言葉。その対立項が今、「沈黙vs言葉」に代わり詩の現場に迫り上がってきている。だが求められているのは、悲鳴を引き写す言葉や、観念にねじ伏せる言葉ではない。悲鳴を素通りし、型通りの美意識のまま書かれる詩ではさらにない。現代詩はポストモダン以降、現実との関わりで「詩とは何か」を考えることを避けてきた。脆弱で曖昧なモダニズムを享受し続けた結果、言葉の力は急速に失われた。3.11の破壊は、詩を根こそぎにするのか。あるいは詩は、破壊の現実と向き合うことで「復興」できるのか。破壊の後にもなお、いや破壊の後だからこそ、ひとは真実の輝きを放つ言葉を求めている。悲鳴と言葉の間。私の中の通路はだが、被災地で拓かれる以前すでに他者の言葉によって掘り進められていた。被災者が体験や思いを語り続ける真実の言葉、あるいは故郷の被災を目の当たりにした痛苦から、「瓦礫の中からことばを」とTVで熱く訴えた作家・詩人辺見庸の言葉、そして3.11以来、応答を求めるように読み続けた、それぞれが史上最悪の破壊を体験した詩人たち原民喜(原爆)、石原吉郎(シベリア抑留)、パウル・ツェラン(アウシュヴィッツ)等の詩によって。かれらはみな言葉を奪われた悲劇の後に、言葉への信頼と使命感を取り戻そうとしている。今日も悲鳴はどこかで上がる。瓦礫の中で応答して言葉が輝く。復興と共に忘却の明るい闇が深まろうとも、詩人は耳を澄ませ聞こえない悲鳴を捉えて、言葉に未知の輝きを見出さなくてはならない。

「メドゥサ」(思想運動875号掲載)     河津聖恵

いつからかそこに
メドゥサは砕かれた額をもたげていた
私たち自身の〝破壊そのもの〟の吐息が
ことばにならない泡を紡ぎながら
海の底から重く重くあふれだしていた
生まれたばかりの〝彼女〟は怒りも喜びもなく
ただ盲目の無の使いとして沈黙を続けていた
ひそやかなその誕生を
本当に誰も知らなかったか
いや、誰もが瀕死の魚のように
みえない鰭の端で感じていたのではないか
(かつて私たちは魚だった、鳥だった)
深海にひそむみずからの喘ぎを
聴き取ろうとしなかっただけではないか
遥か陸上に冷たい粘土の身体を横たえ
鼓動させるだけで精一杯だったとでもいうのか
だが海深くから砂埃をあげてもがく
真実のいのちの苦しみがたしかにあった
私たちは共振するように
夜ごと 凶(わる)い夢を見続けていたではないか
(火の夢を見た、鉛の夢も見た)
眠っている間()
月に照らされた不眠の海を
甲冑姿の死神たちは無へと凱旋行進していた
槍の先に「星を歌う心臓」を突いて掲げ
黒い空の血を浴びながら 死の歌を
木製の声で高らかに歌い上げた
眠る私たちから夢の海へ燃え墜ちていったのは
流れ星ではなく
私たちと世界をつなぐ胞衣(えな)
夢の光も届かない底へ渦巻き吹きだまる
愛や希望や信頼という名さえも腐乱させた嬰児たち
それらはよるべなく抱き合いながら「そのとき」を待った
私たちの幾千もの夜が縊り殺した善き神々もまた
闇の血潮に乗り そこに流れ着き
蛇や鳥や犬の胴に食い込む不信のロープを外し
お互いをきつく結び付け直して「そのとき」を待った
待ち望むでもなく、恐れるでもなく、ひたすら待った
破壊されたすべてが〝破壊そのもの〟として一つになり
ふたたび漆黒の生命(いのち)ごと迫り上がる
時の超新星爆発を

〝そのとき〟

闇の叫びは奪われ 死の叫びさえ凍りついた
空がかつてない残酷な閃光をあげ
世界はやっと気づいた
自分自身がもはやとめどなく狂ったメドゥサの機械であることを
水という水が「私たち」の手負いの傷に苦しみ
風という風が魂の皮で出来た痛みの旗をはためかせていることを
いつからか、なぜか──
問う暇もなく
まったき無根拠の深さで溺れてプレートを踏み外し
轟音とともに世界は
世界自身の悪意へと無限に身を委ねてしまった
青い死のまなざしは未来へと向けられ
ヒュドラはメドゥサの額から陸へ解き放たれ

三月十一日午後二時四十六分──

コノ国ノタマシイカラ封ジ込メラレテイタスベテノ悲鳴ガホトバシリ
人々ハ硝子ノ橋ノ上デ立チ尽クシ石ノバベルハタチマチニ崩レ落チタ

*メドゥサ 古代ギリシア神話に出てくる怪物。見るものを石にする力を持つ。頭は無数の毒蛇。
*ヒュドラ 水蛇

 

 

 

河津聖恵(かわづきよえ) 1961年東京都に生まれる。京都大学文学部卒業。1985年第23回現代詩手帖賞受賞。詩集に『姉の筆端』、『クウカンクラーゲ』、『夏の終わり』(第9回歴程新鋭賞)、『アリア、この夜の裸体のために』(第53回H氏賞)、『青の太陽』『神は外せないイヤホンを』『新鹿』『龍神』『ハッキョへの坂』『現代詩文庫183・河津聖恵詩集』。詩論集に『ルリアンス――他者と共にある詩』。野樹かずみとの共著に『christmas mountain わたしたちの路地』『天秤 わたしたちの空』。『朝鮮学校除外反対アンソロジー』発行人。京都在住

 

7 「フクシマ以後に沈黙していることは野蛮である」・坂本龍一・高橋郁夫の「手記」『渚と修羅』について

「渚と修羅」(2013年3月、コールサック社)

・「再稼動と賢治の『慢』」

2012年初夏 「さよなら原発10万人集会」

坂本龍一さん

「フクシマのあとに沈黙していることは野蛮である」

高橋さんはこう「解釈」した。

―我々は、フクシマの大惨害を体験してしまった。これは人類の痛恨事として永く記憶し、教訓を活かすべきことだ。この惨禍が起きるに至ったことには、それまで大多数の人々が示してきた「沈黙」にも関わりがある。その「沈黙」は、今にして省みれば、いわば「野蛮」なことだった。従って、フクシマを実際に体験した後になってまで「沈黙」し続けることは、野蛮を重ね、野蛮を繰り返すことになる。

 

8 南相馬の詩人、若松丈太郎・1994年5月、詩「神隠しされた街」、『福島原発難民』『福島核災棄民』

詩「神隠しされた街」

若松丈太郎【『悲歌』・連詩「かなしみの土地」より】〈194年8月作品〉

四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオ避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけを抱いた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
鬼ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四十時間後のことである
千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村あわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径三〇㎞ゾーンは危険地帯とされ
十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇㎞や一五〇㎞先の農村にちりぢりに消えた
半径三〇㎞ゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町
富岡町 楢葉町
浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある
事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったペーヴメントの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
街路樹の葉が風に身をゆだねている
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてはほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとがつくった都市と
ほろびをきそいあう
ストロンチウム九〇 半減期   二七.七年
セシウム一三七   半減期   三〇年
プルトニウム二三九 半減期 二四四〇〇年
セシウム放射線量が八分の一に減るまでに九十年
致死量八倍のセシウムは九十年後も生きものを殺しつづける
人は百年後のことに自分の手を下せないということであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす

この詩はチェルノブイリ福島県民調査団に参加した後、1994年8月に詠まれた連詩「かなしみの土地」のひとつ。この詩の英訳者アーサー・ビナードがこれは「予言だ」といっているのに対して、詩人若松丈太郎はこう答えている。「わたしは予言者ではまったくない。ただただ観察して、実を読み解こうとしただけのこと(ネット「2ペンスの希望」から)

9 ・『脱原発・自然エネルギー218人詩集』・3・11以後の原発震災詩「だれ?」

詩 だれ?     (空色 まゆ  1963年生まれ 愛知県) 

 地中深く眠っていたわたしを

 起こしたのはだれ?

 地球の奥深くで重い体を横たえていたわたしを.

 地表に連れ出したのはだれ?

 重力という結界で守られていたわたしを

 地表に引っ張り出したのはだれ?


地中に閉じ込めたわたしの力を

 「解放せよ」と命じたのはだれ?

 何十万年、何百万年と燃え続けても

なおあまりあるわたしの力を

 「うまく使いこなせる」と挑んだのはだれ?


地表に引き上げられ解き放たれたわたしが

 小さな箱の中で

 おとなしく言われるままにすると信じたのはだれ?

 

あなたはわたしの力を利用した

そして

あなたがわたしの力を制御できなくなったとき

わたしを遠ざけ忌み嫌い

わたしを憎み

わたしから受けた恩恵を

なかったことのように消そうとした

 

地表に満ちたわたしの力を

わたしは消すことができない

わたしのもっている力を

そっくりそのまま太陽にゆずって

地中深くの

わたしが安らげる場所にもどりたい

けれどもわたしは

自分でわたしの居場所にもどることはできない

 

地中深く眠っていたわたしを

地表に呼び寄せたのはだれ?

 

詩 危険な神話   黒川 純

遠い遠い何万年か後の列島のある朝

黄色い風がびゅーびゅーと巻き上げる大地に

大騒ぎの末に抑え込んだ放射性廃棄物

半減期2万4千年のプルトニウム239

永遠にゼロにならないそれが姿を現す

完全に封じ込めたはずだと強弁したが

どんなに危険な未来への遺産であるのか

私たちの子孫はわかってくれるだろうか?

日本語はずっと途絶えることはないか?

治す技術や使える資材も伝わっているのか?

そこまで人類は生き続けているのかどうか?

集落の守り神、両眼を失ったモアイたちだけが

海原と大地を視つめて黙って立ち尽くしていた

太平洋に浮かぶ孤島・イースター島

その歴史をもう一度繰り返すのかどうか0

10 ほとばしるように生まれた震災詩・東梅洋子『うねり 70篇 大槌町で』

東梅洋子(とうばいようこ)「うねり」(2013年3月) 1951年、岩手県大槌町生まれ、北上市在住

 

詩 3月11日の午後

同級生の彼女/何十年ぶりかの再会

一ケ月後/生まれ育った/海辺の町に現れた
巨大な影と/たわむれて/帰る道を/忘れたと

どこで道草してる/桜のつぼみが/咲く頃 もどるのね/帰るのよ

11 「進歩の定義を変え、未来の設計図を変え」・「懐かしい未来」の方へ・2014年春、「砂時計主義」を「懐かしい未来」に

12 再び問われる「詩とは何か」・河津聖恵さん詩論集『ルリアンス 他者と共にある詩』の角度

詩は運針の針のように

「つまり『詩とは何か』という問いかけは、それが原理的なものである限り、解答を論理的に出そうとしたり、すでにある解答にプロテストする姿勢に終わるものではない。それは詩への疑いを呼びおこし、『生きることとは何か』をめぐる思考をも巻き込む(あるいはむしろそこに巻き込まれる)思考のうごめきそのもののことである。それは、生きることのリアリティのただなかで運針の針のように消えてはあらわれ、あらわれては消える思考と感性の戦いだが、その栄光と悲惨の痕跡は、詩論というよりはやはり詩の言葉となってこそ残されるだろう」(河津聖恵・詩論集『ルリアンス』(「原理へ」、2007年6月、思潮社)

ズレの体感をきっかけに

詩ははじまりにおいては純粋な「自己表出」だ。なにかをいいあてたい。この世に流通する言葉ではいいあてられないなにかを、というかすかなズレのような欲望が、書き手自身もさだかでないただなかから生成するとき、詩ははじまる、とここでは考えた。しがそのようにして書き手のただなかから生まれるものであるかぎり、それは時代や社会にとって「違和」として存在する。詩がいいあてられない、けれどいいあてたいなにかとは、未知のいいしれない魅惑的な価値にささえられている。その未知の価値が詩を詩たらしめるが、それは今ここに生きていることがどこかちがうというズレの体感をきっかけとしてこそ予感しうると思う。(同・「潜り込み、溶けこむ」)           

   (了)

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2014年12月 4日 (木)

「3・11以後」の詩を問う(仮題)  講演のレジュメづくりに大わらわ

Cimg1109(この同人誌「序説第21号」を読んだ栃木県現代詩人会の役員から講演を依頼されたのですー)


「3・11以後」の詩を問う(仮題) 

厚かましくも県内の詩人たちの団体「栃木県現代詩人会」で講演(7日、「研究会」といっていたかー)することになり、そのテーマのレジュメづくりに追われる。

  4日の一日で「第一章」から「第12章」までA4版・16枚までまとめたが、さらに内容を詰める視点の作業が残っている。5日中にはなんとかものにしたいなぁ~と(実際、やらないと当日に間に合わない~)。

 と、いう久しぶりに詩集や詩論の山と格闘しております(3・11以後、一度はやらねばと思っていた自分の「使命」?でもありました)

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2012年7月27日 (金)

詩人の本来あるべき姿はー 詩誌『誌と思想 8月号』小川英晴「詩集評」というエッセイ

Dscn0425 3.11以降、「社会と私」との関係を問い直す人々も増えたが、それがはたして未来への助言をしているかと問われれば、はなはだ心もとない(小川英晴①「果てしない人類の欲望と内にしか向かわぬ詩人の眼差し」『詩と思想 8月号』)

                                               

芸術の本質が破壊と創造にあるように、分明の本質も破壊と創造のあるのかもしれない。(小川英晴②「果てしない人類の欲望と内にしか向かわぬ詩人の眼差し」『詩と思想 8月号』)

                                                                       

ある意味、詩人が向き合うべきは、現代文明への批判ではなく、人間の内に潜むはてしなき欲望にあるのではないだろうか。(小川英晴③「果てしない人類の欲望と内にしか向かわぬ詩人の眼差し」『詩と思想 8月号』)

                                                                        

詩人は言葉で世界を創る。もっと言えば、詩人は言葉で果てしなき宇宙とも対話する。哲学者や物理学者だって、数式ばかりに頼るのではなく、言葉で深く考えているのだ。(小川英晴④「果てしない人類の欲望と内にしか向かわぬ詩人の眼差し」『詩と思想 8月号』

                                              

現代詩の可能性と現代音楽や現代美術の可能性はどこかで深く通底している。(小川英晴⑤「果てしない人類の欲望と内にしか向かわぬ詩人の眼差し」『詩と思想 8月号』)

                                                                        

詩人の本来あるべき姿は、文明によって歪んだ社会に警笛を鳴らすだけでなく、ひとつの指針となるべき世界を、指し示すべきことにあるように思えるのだ。(小川英晴⑥・完「果てしない人類の欲望と内にしか向かわぬ詩人の眼差し」『詩と思想 8月号』)

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2012年7月11日 (水)

詩は時間を止めようとする意志の塊だ 「詩とはー」の連続ツイートをブログで

「詩には詩でないことが書かれる」 (岩田宏)。 

twitter上でこのようなことが書き込まれていた。それに触発されて、わたしなら詩や詩人について、どう考えるのか、どう表現するか。そう思いついて、次々に思い浮かべたことばをわたしもtwitter上に。この2.3日のこと。まだ途中だが、今回は「詩とはー」ということで、アップしてみたい。

twitter上のつぶやきをそのままコピーし、ブログへ。文字の操作がうまくいかず、大文字になったり、普通文字になったり。それなら、そのままに。デザインを意識して、このようになったわけではありません。読みにくいかもしれませんが、ご容赦ください。

(以下はtwitterでつぶやいた「詩とはー」。20篇?。一部は手直ししています)

詩は歌を忘れたカナリアの水先案内人である

                                       

詩は哲学から飛び出した鬼っ子たちのささやきだ

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詩が消え去らないのは、いつの時代でもほんとうのことが消えようとするためだ                                                                         

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  詩は最も過激な発言を普通に翻訳しようとする

 詩は世界に網をかけて魂をたぐり寄せる手仕事だ

                                                                        

  詩は生涯を飛び越えた記憶を夢のように覚えている                                                                           

  詩は魂の狙撃兵でもあり、救急医でもある

詩はつまるところ、時間を止めようする意志の塊だ

                           

    詩はどこかに死者の無念さを映す呼吸を抱え込む                               

      詩はいつも未来から年齢を数えたがる                                                            

詩は常に死者を繰り返し鎮魂することだろう

詩は時代から限りなく離れながら時代に密着している

                                                                       

詩は論理が終わるところから始まる

                                              

詩はいつのまにか過去に反抗している

詩はほんたうが背景になければいけない

詩とは想像力が試される鏡だ

詩とはもうひとつの自分に会うために書かれる

華やかな嘘を見破ってしまうのが詩だ

詩は余白がなければ美しくない

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2011年2月23日 (水)

「現代詩のアテルイ」が詩論集 斎藤彰吾「真なるバルバロイの詩想」

Dscn0542 (北上の詩人 斎藤彰吾さんの最新詩論集『真なるバルバロイの詩想』コールサック社)

 詩の世界の私の水先案内人である岩手県北上市の詩人、斎藤彰吾さん(1932年~)の詩論集『真なるバルバロイの詩想ーーー北上からの文化史的証言(1953~2010)』コールサック社 初版2011年3月8日 本体2000円)が、本日23日、日光霧降高原の砂時計宅に届いた。

 戦後すぐから直近まで半世紀余にわたる彰吾さんの膨大な論考を集めた詩論集。2段組みで383頁もある大著だ。全八章は以下のようだ。

 一章・出発点と賢治・ハチロー 二章・北上の詩文化 三章・イーハトーブの詩人たち(朝日新聞岩手版連載) 四章・生活語詩へ 五章・北上を読む 六章・さまざまな文化論 七章・ミュージック・プロムナード 八章・書評。

 さらに、この詩論集の編集者で小熊秀雄賞詩人、佐相憲一さんや三浦茂男さん(画文家)、和賀篤子さん(地方史研究家)、高橋昭八郎さん(ヴィジュアル・ポエット)、それに私・黒川純ら5人の解説もある。

 その詩論集の帯に私が寄稿した解説の一部が使われている。「黒川さんの解説の一部を帯に使わせてもらいますよ」。コールサック社から、そんな連絡は受けていたが、実際に手元にするのは初めて。斎藤さんの詩論集だが、お役に立てたことも含めて、我がことのようにうれしい。

  「戦後から現代を見据える拠点としてきた『化外』の思想、あるいはバルバロイ(異民族)の視点から、中央にモノ申すことを恐れない反骨のパトスのなせるものだと思う。『化外』から紡いてきた風土の詩人の自負でもあるが、その指摘は反骨の詩人たちに対する大きな励ましにもなっている」 

Dscn0541_3  (うれしいことに斎藤彰吾詩論集のオビに私が寄稿した解説の一部が使われた)

 私の解説の題は「『化外』から紡ぐ風土の精神』だが、編集を担当した佐相憲一さんの解説「現代詩のアテルイが放つ北上の詩想」が、ずっしりと読み応えがある。というか、その解説を読むだけで、この詩論集の核がわかる、ていねいで的を得た解説だ。

 佐相さんが、「現代詩のアテルイ 斎藤彰吾氏の詩論集」と紹介する、その解説を斜め読みするだけで、この詩論集を読みたくなる(それほど佐相さんが読み込んで解説を書いていることがよくわかる内容だ)。

 「この本を読めば、心の景色は北上。劇薬が心地よく効いてきて、詩作品と詩運動、詩文化と歴史風土、逆転の発想と積極的な行動、地域文化と民衆の輪、戦争批判と世の中への提言、さまざまな文化論、などを内包する壮大な詩想に読み手の心も解放されるようである」

 「真なるバルバロイの詩想。それはきっと二十一世紀の進歩の方向。原始古代から現代を通って人類が詩的に見つけた共生の願い。それを二十世紀から書いてきた斎藤彰吾氏に敬意を表する。この貴重な本が、北上の地域文化社会でも、日本の現代詩の世界でも、これからの文化文学一般の場でも、広く生かされることを願っている」

 そうそう、著者・斎藤彰吾さんのあとがき「あとがきにかえて ちょっと長いノート」を紹介しないと、いけない(その一部だが~)。私もきょう初めて読む「あとがき」だ。戦後をきちんと生きてきた彰吾さんの親しみやすい謙虚な人柄も浮かび上がるかのようだ(以下はその「あとがき」)。

 「時・人・場がその人間を鍛えてくれる。時には浪花節めいて発生する出会いでありめぐりあいである。高校時代の文芸の仲間、市役所・図書館の同僚や読書会を含む地元の人たち、ジャズ喫茶<山小屋>はマチという劇場の砦だった。各紙誌への発表の機会を作ってくれた関係者たち、北上詩の会、岩手県詩人クラや各地の詩歌人の面々、日本こどもの本研究会の方々、遠くへ行ってもう会えない先輩たち、いちいち固有名詞をあげないが、思えば多くの人々との出会いがあった。この雑文集は、そうした人々とのめぐりあいの報告書とも言うべきものなのかもしれない。東北の小さな町で、戦後の飢えと混乱の中を、辛うじて生きて来た者の『記録』にほかならない」

『真なるバルバロイの詩想』(斎藤彰吾)

発行所 株式会社コールサック社

2011年3月8日初版発行

編集   鈴木比佐雄 佐相憲一

発行者 鈴木比佐雄

定価 本体2000円プラス税

〒173-0004 東京都板橋区板橋2-63-4-509

企画・編集室 209

☎ 03・5944・3258 fax 03・5944・3238

郵便振替 00180-4-741802 

2010年12月15日 (水)

「化外」から紡ぐ風土の精神(下)  「斎藤彰吾 詩論・エッセー集」解説-黒川純ー

Dscf5297 (斎藤彰吾さんが代表のひとりを務める「全国生活語詩の会」編集の「現代生活語・ロマン詩選」・竹林館・2008年12月)

「斎藤彰吾 詩論・エッセー集」(コールサック社 2011年春・刊行予定)

栞解説      黒川純

「化外」から紡ぐ風土の精神 (下)

2 イーハトーブの詩人たち

 現代の暴挙である米軍のイラク戦争にも、敏感に反応した数少ない詩人のひとりが彰吾さんだ。この戦争に怒る「平和と春一番を呼ぶ会」が北上川河畔の展勝地レストハウスで開かれたのは2003年冬だった。そのとき、私は思わず走り書きのようにして書いていた詩「怒りの苦さまた青さ」のメモを手に会場に向かった。

 詩らしきものを書いたのは、学生時代以来、およそ30年ぶり。そのとき彰吾さんにおだてられたのがきっかけになり、「北上詩の会」や「岩手県詩人クラブ」、岩手県の詩人を中心にした詩誌「堅香子」(かたかご)の会員や同人になることになった(一時期だが、季刊詩誌「新・現代詩」の同人同士にも)。いわば私にとって、彰吾さんは詩の世界の水先案内人のようなものだ。

 そうこうするうちに「朝日新聞岩手版で戦後の岩手県の詩人たちを紹介してみたらどうか」。その名前も「風土」という北上市内の居酒屋さんで飲んでいた最中だと思うが、彰吾さんに持ちかけた。その当時、彰吾さんが戦後間もなく「岩手県詩人クラブ」の設立に強くかかわっていたことも知り始めたときだ。

 主題を「イーハトーブの詩人たち」と決め、各回ともテーマ主義でいくことにした。掲載は毎月2回、計13回(2004年春~秋)。とりあげる詩は現役の詩人に限ることにしたのが特徴かもしれない。そのテーマから岩手の詩の今がよくわかるはずだった。

 初回の「抒情に地の匂い立つ」に始まり、「大地から湧く農の声」「時代へと響く方言詩」へ。「風土に吹く縄文の風」「古代への記憶を刻む」など。前出の小原麗子の「十七歳」などのほか、相澤史郎、城戸朱里、岩田宏ら全国で活躍する岩手県にゆかりがある詩人もとりあげられた。
 

 そのうち岩手県宮古詩人クラブ・グループ「風」の詩をとりあげた「浜に吹く女の反戦歌」では、最初の読者である私も新鮮な驚きを覚えた。その詩、「伝えたいこと」(本堂裕美子)の4連目はこうだった。

 今も、砲弾が鳴り響く地では/花が咲くより容易に人が死ぬ/鳥の声はぜず子供が泣いている/どんな大義もあの子の涙より軽いのに

 連載中に知人から「元気をもらった」といいメールが届いたのを機に、私も紙面の「記者メール」という小欄で、この詩を改めて紹介したほどだった。


新聞記者をしながら、詩を書き始めた私にとっては、意義のある仕事として、毎回、緊張しながらだが、楽しく仕事をさせていただいた。自分が最初の読者である、こうした企画を組めたことは記者冥利でもあった。

 だが、当の彰吾さんは大変だったと思う。その思いは今回の論考「まことの言葉の姿へーイーハトーブの詩人たちー」でみることができる。

 私も直接、聞いたことがあるが、彰吾さんが心がけていたことのひとつは「作品には、一、二行だけでいい、読者の今の胸中をゆすぶる詩句を提供したかった」ということだった。「そんな気持ちだけが、やたらに働いていたと思う」とも書いている。私にとってよかったのは、彰吾さんがこの連載について、「私にとっては、ある種の社会参加だった」と、思っていてくれたことだ。

 こうした「仕事上」の交友も含めて、詩の先輩・後輩とさせていただいた。そのため、厚かましくも私の第一詩集『怒りの苦さまた青さ 詩論「反戦詩」とその世界』(2004年9月)に「哀しみを抱き未来までへー黒川純の詩についてー」の小論をお願いした。
 この小論も今回の論考にあるが、彰吾さんの「反戦の詩を書く行為」についての構えは、一朝一夕で生まれたものではないことが、わかるだろう。

 「反戦の詩を書く行為は、鉢巻きを締めて書くことではない。ごく当たり前な一人の人間として、『不都合なことは不都合だ』と、つまりご飯を食べるように書くことだ。巧く書くとかを求めず、今日のうちに消えてしまってもよろしいと、人びとの表情に告げる二言、三言を書くのみである。千人であれ一人であれ、読まれて個々の胸内に明かりがともる。それがこの国をつくる未来までへの、われらの任務であり希望ではないか」(「哀しみを抱き、未来までへ」)

 斎藤彰吾は「化外」の思想を根っ子に東北の風土にすっくと立ち続け、『化外』や『北天塾』などの発行に立ち会い、今、「全国生活詩の会」編集委員会代表の一人として、方言詩、生活詩に力を尽くしている。さらに『別冊おなご』(麗ら舎読書会、年1回刊)に「戦争を読む」を長期連載するといった作業も続けている。それでいて、ときに野田宇太郎生誕祭献詩第一席に選ばれる魅力的な抒情詩も生み出してもいる。

 これらの仕事を背景に生み出された今回のさまざまな論考は、戦後から現代を見据える拠点としてきた「化外」の思想、あるいはバルバロイ(異民族)の視点から、中央にモノ申すことに恐れない反骨のパトスのなせるものだと思う。

 「われらの任務と希望」を呼びかけた真摯な強い意志は、そうした斎藤彰吾のそれまで積み上げた結晶が呼びかけさせたものだ。「化外」から紡いできた風土の詩人の自負でもあるが、その指摘は反骨の詩人たちに対する大きな励ましにもなっている。
                                             (了)

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