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防災

2024年1月 2日 (火)

知ってましたか?寒さ対策の「TKBW」をー    冬の避難所生活のためのさまざまな知恵


冬の避難所の寒さ対策 備えのカギは“TKB+W”ーとか。能登半島地震で石川県では2日朝の時点で少なくても「3万人」が避難所生活を始めたという(3日になると、もっと増えている可能性があります)。冬本番の避難所生活はまずは寒さ対策が大事になる。ネットでNHKがかなり親切な冬の避難所の寒さ対策を紹介していました。ざっとチェックしただけでも、東日本大震災を機に「防災士」になった私も教えられるところ大です。以下にご紹介します。

 

 

 

外はマイナス20度。こうした状況で、大規模な地震が発生したら…。北海道で実際に体験する訓練が1泊2日で開かれ、記者が参加してきました。

訓練では、極寒の避難所を少しでも快適にするための工夫も紹介されました。

キーワードは、“TKB+W”です。その意味とは?
(社会部 災害担当記者 徳田隼一)

“氷点下の避難”防災関係者が体験

訓練が開かれたのは、北海道北見市。日本列島が寒波に襲われる前の、1月下旬に行われました。

参加したのは、自治体や医療機関、報道機関などの防災担当者120人余りです。

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体調など注意点の説明を受けた後、さっそく冬の避難所の床に寝る体験が始まりました。

始まった21日の午後2時の時点で、外の気温はマイナス7.6度。体育館の中の気温は約4度でした。

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記者も体験

寝袋に入り、床に寝そべります。すると、徐々に床の冷たさを背中に感じ、寝袋の中でも体が冷えていきます。

このとき、床の温度は約2度まで下がっていました。実際の避難生活で、ずっとこの状態が続いた場合、寒さで眠れなくなると感じました。

4万人が命に危険の想定も

なぜ、こんな過酷な状況の避難所を体験する訓練を行ったのでしょうか。

企画した日本赤十字北海道看護大学の根本昌宏教授に聞くと、同じような状況は実際に起こりうるといいます。

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日本赤十字北海道看護大学 根本昌宏教授

国が想定しているのが、北海道と三陸の沖合にある日本海溝・千島海溝の巨大地震です。

真冬の早朝に発生すると、最大で4万2000人が津波から逃れても低体温症になり、命の危険にさらされるおそれがあるとされています。

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今回の演習の狙いは、こうした事態に備えて避難所の防寒対策などを体験し、課題を探すことです。

マイナス9度で外のトイレに…

演習に参加すると、極寒の中の避難のつらさを実感しました。そのひとつが、屋外の仮設トイレです。

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気温はマイナス9度。そんな中でのトイレを体験してみました。

トイレの中で用を足そうとすると、肌を露出する必要があるため体温が奪われます。さらに防寒着が邪魔になり、思うように動けません。これでは、トイレに行くのを控えようと考えると思いました。

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真冬の夜中の「車中泊」は…

そして夜10時「車中泊」を体験しました。

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エンジンを切った状態の車内で寝袋に入って過ごしてみます。寝ている間にマフラーが雪で埋もれ、一酸化炭素中毒になることを防ぐためです。

車内の気温は、外とほとんど変わらないマイナス10度です。白い息の出る車の中で寝袋に入ってみると、すぐに手足が冷えてきます。

10分経つと手足の感覚がなくなりました。疲れでいつのまにか眠ってしまいましたが、少したつとあまりの寒さに目が覚めます。眠っては寒さで目が覚めるのを繰り返し、1時間後に体験は終了しました。

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終わった後は、足が凍ったのかと思うほど固くなってしまい、寝袋から出るのにも一苦労。マイナス10度の中での車中泊は、とても無理だと思いました。

訓練では、近くに十分な数の医療関係者が待機していることで、安心して体験できました。しかし、実際の避難所で数日、数週間と続くと考えたら…。その過酷さを、身をもって知りました。

避難所の合言葉「TKB+W」

それでは、こうした環境で、どのように安全に過ごせるのでしょうか。

根本昌宏教授が掲げているのが「TKB+W」。それぞれの頭文字を略しました。

▽T=トイレ
▽K=キッチン
▽B=ベッド
▽W=ウォーム(暖房)
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このことばは、一般的に避難所運営の質を高めるために作られたものですが、寒さ対策にも有効であることがわかっているといいます。ひとつひとつ、教えてもらいました。

T=トイレ:室内でもできるように

はじめに、トイレです。

私が体験したように、外の仮設トイレではトイレに行くのを避けようと思うようになります。水分をとる量を減らすことは、体調不良やさまざまな疾患を引き起こすということです。

解決策のひとつとして、訓練で試されたのが体育館のトイレを簡易トイレにする方法です。袋と凝固剤を準備しておくと、用を足したあと1回ずつ縛って捨てることができます。屋内なので外に出る必要はありません。

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訓練では、電源付きのコンテナトイレも試されました。コンテナ内は暖房もきき、通常時の屋内トイレと変わらない使い心地でした。

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K=キッチン:温かい食事の提供を

次に、キッチンです。

これまで日本の避難所は、炊き出しなどを除き、弁当などの「冷たい食事」が続くことが課題となってきました。

そこで、キッチンを使って「温かい食事」をふるまうことが大事だというのです。体が冷え切ったときに出てきたのが、備蓄品のレトルトの牛めしにコーンスープでした。わたしも食べましたが、手足が一気に暖まり元気が出てきました。

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今回の訓練では、寒い屋外に並んで食事を受け取る方法ではなく、屋内で事前に割り振った番号順に配膳を行い、食事を取る方法がとられました。こうした対策も大切だということです。

B=ベッド:“床に雑魚寝”をしない効果

さらに、ベッドです。

冷たい床に「雑魚寝」をした体験から、わたしもその効果を実感しました。

今回、準備されたのは段ボールベッドでした。毛布を敷いて、寝袋に入って、別の毛布を掛けて眠ります。段ボールの表面も最初は冷たいのですが、すぐに人肌で暖まります。

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床だと体温が奪われ続ける感覚があるのですが、段ボールからは感じません。床で寝るのに比べてかなり快適で、これならば寝られると感じました。

W=暖房:新型コロナ対策も合わせ

最後に、暖房です。

今回の演習では、熱交換式ジェットヒーターという外気を温めて送風する暖房器具を2台稼働させました。

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熱交換式ジェットヒーター

外気を送りだすので、換気も同時にできるという暖房装置で、新型コロナなどの感染症拡大期にも有効な装置だということです。この装置を使うことで、暖房をつけるまで2度程度だった体育館の室温が、8度から12度に保たれるようになりました。

一夜を明かすと外はマイナス19度

こうした対策の整った環境で、一晩を過ごしてみました。

室温が8度でも、寒すぎて眠れないという状況ではなくなっていました。さらに間仕切りも準備され、環境は整っています。

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慣れない段ボールの固さなどで十分には寝られず、車中泊の冷えもあってか、うつらうつらと過ごしていると朝6時の起床時間がきました。

外に置いていた温度計を見に行くと、マイナス16度。気象庁の発表では、この日、北見市の最低気温はマイナス19度まで冷え込んでいました。暖房やベッドがなければ、耐えられない環境になっていたと実感しました。

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2015年10月 5日 (月)

大いに役立った防災講習会  「ホットくじら隊」がキイワード

Photo 大いに役に立ちました防災講習会。特に日光市久次良町自治会の「防災マップ作りと避難訓練の実施」の報告は、期待どおりでした。
 
キイポイントは370世帯に35人もいるという「ホットくじら隊」。各組ごとに一人の女性。ふだんの外からの視線を、民生委員と共有・連携する役割と理解した。その女性たちが今回の避難訓練の各「行動リーダー」に。車椅子の参加者も意識的に歓迎したところなども先進的かも。
 
10月5日に日光総合会館であった「災害に関する研修会」(日光地区社会福祉協議会主催)。私が暮らす「霧降自治会」とは条件が違うが、バリエーションを変えて、いずれもさまざまに導入できる知恵がいくつも。霧降高原でも、各地域のいい手法を採り入れながら、準備を整えたうえで、「避難訓練」をやろうと考えています。

2015年5月25日 (月)

人の命を助けるのは命がけ  霧降自治会「救命入門コース」講習会

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「感動~!。人の命を助けるには命がけなんだね」

「初めて参加した感想は?」―。「霧降自治会館」(日光市所野)で25日(月)午後に行われた「救命入門コース」の講習会に初めて参加した中高年男性が、語った開口一番がこれ。それこそ汗びっしょりの笑顔で答えた。講習会は心臓マッサージとAED自動体外式除細動器)。帰り際に「次回もぜひ参加したい」とも。

 霧降自治会(正会員106世帯)が回覧板を通じて各家庭に呼び掛けて行っているこの「救命入門コース」(日光市生涯学習出前講座、1時間半)の講習会は昨年、2014年9月が最初。10人が参加したところ、口々に「思ってた以上にいいね!」。高い評価の口コミもあり、今年1月の2回目は17人が参加した。5月の今回は3回目。この日は初参加の6人を含めた12人が午後1時からの講習会に集まった。

 講師は日光消防署の2人の署員。最初の時間帯は「座学」から。30分ほどだが、話す内容はためになることばかり。参加者は「なるほど~」とうなずきながら、真剣に耳を傾ける。

「救急車が霧降まで駆けつけるまで5分以上が」「救急車は病院が決まらないと病人の場所から出ることができない」「AEDは完璧でも、119番を忘れてしまうことがある」「だれかが119番してくれるだろうと思ってしまうのが日本人」「心臓マッサージ(胸骨圧迫)は30回を2回(そのあとに人工呼吸を)。これは世界共通」「心臓マッサージは押して戻すポンプ゚なので強く」などなど。

 途中で「きょう忘れてしまっても、何か一つ、例えば、《押すのは胸の真ん中だって言っていたな》ぐらい覚えていれくれれば、大丈夫です」。と、笑いも誘う。それと実際にやるとわかるが、1分(約100回)を真剣にやっただけでも大変は力を使う。なので、「疲れたら心臓マッサージを代わってもらうように」。

「座学」では、ほかの「雑学」にも触れることができた。署員によると、蜂に襲われないように山ではなるべく白い衣服を。黒だと「天敵」の熊だと思い込み、攻撃してくる。香りがするのもよくないので、女性は香水を避けるように。話題は蛇や山ヒルなどにも及び、和気あいあいの講習会になっていった。

さぁ、「座学」が終わったところで、さっそく「実技」へ。心臓マッサージは1分間100回以上というのが基本。そのリズムとしては「もしもしカメよ、カメさんよ、カメさんよ♪世界のうちでおまえほど♪」。これがぴったりだという。実際、やってみると、ぴったり。「人体上部モデル」を相手にそれぞれが挑戦してみるとー。だいたいが110回から125回ほど。やや早い速度になってしまう。

 「もっと体を前にして」「そうそう、つんのめるぐらい」「肘をきちんと立てて」「もっと力を入れて」「あばら骨が折れても、心臓マッサージのほうが大事です」などなど、次々と署員から注文がつく。それが終わると、「AED」操作へ。ここではセットする「プラグ」を間違えると、セットできないようになっていることを知ったり、電気ショックを与える部位を間違えても、効果が薄くなるだけだということを覚えたり。

 90分の予定をオーバーする時間帯になり、終了へ。参加者の質問から、「子どもに対する心臓マッサージは片手で」「幼児にするときには、指で」。大人の場合だけを想定していたので、これは大事なことを教わったと思う。

 

講習会をセットした霧降自治会防災部からは参加者全員にネットからコピーした「AED総点検」(4枚一セット)を。そこには心臓突然死は年間6万8000人に及び、交通事故死の15倍以上だという、これまで知らなかったことなど、「なるほど」を紹介した。

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2014年9月 3日 (水)

「どど~ん」」と日光で震度5弱ー 我が家では本棚から本が2冊落下

 日光で本日3日午後4時24分ごろ、ベランダで可否を飲んでいると、突然、「どど~ん」と、かなり大きな揺れが。ただし、30秒も続きはしなかった(と、感じられた)。

 短い時間だったが、「それにしても大きいな。震源地はどこか?」。と、ラジオを入れると、「震度5弱。震源地は栃木県北部。深さ約10キロ(その後、7キロに変更)という直下型地震だったのです。M5・1だったという。

すぐに自治会の4組(8軒、私が組長なのでー)にTELしたところ、「(金魚鉢の?)水槽の水がこぼれたぐらい」「驚きましたが、とくに何もないです。えっ日光が震源地?」「今、九州にいます、日光で地震があったの?」など。

 その後、小さな余震が1、2回感じられた。我が家では、玄関の本棚のひとつ(たくさんの本棚があるのだが)から本が2冊落下していたことが、あとでわかったぐらい。

 さらに夜のラジオでは「余震がある場合、震度4ぐらい、注意を」と。1年に一度ぐらいはこのくらいの地震が起きるのが栃木県北部ということだろう。

日光では戦後すぐ、昭和24年に直下型の「今市地震」(震度6)があったので、地震は要警戒なのです。この地震の死者は10人、けが人163人、家屋の全半壊がかなりの数に。「ウィキペディア」では、以下のように説明されているのですー。

 今市地震(いまいちじしん)は、1949年12月26日に栃木県今市市(現在の日光市)鶏鳴山付近を震源とする内陸直下型地震で、8時17分 M6.2と8時24分 M6.4の地震が8分の間隔をおいて続けて発生した。余震は、翌年3月下旬頃まで続いた。今市市付近では震度6相当の揺れ。栃木県内で死者10名、負傷163名。家屋の全壊家屋290棟、半壊家屋2994棟。但し、家屋の全壊は908戸、半壊5301戸との記録も有る。60数カ所で山崩れ。ブログランキング

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2011年5月12日 (木)

「福島原発難民」 南相馬市・一詩人の警告(1971年~2011年)

Dscn2054 (詩人・若松丈太郎さんの痛恨の著『福島原発難民』(コールサック社)

 「わたしたちはいま、計り知れない大きな空間と時間とに及び、そして巨額の経費を要するであろう負の遺産を、後代に生きる人びとに残すことになった。わたしは原子力発電所近傍で生活しながら、その存在に危惧を感じつづけてきて、その思いを詩やエッセイのかたちにして、述べてきた。専門家の傲岸にして、かつ根拠の不確かな科学技術への過信よりも、素人の直感的理解のほうが真実により近いところにまで至りえたということだろうか。しかし、危惧していたことが現実となったということは、当然のことではあるが、けっして嬉しいことではなく、慨嘆に堪えないことであった」(『福島原発難民』・あとがき・若松丈太郎)

 出るべきして出た本。それが『福島原発難民』http://www.coal-sack.com/02/Copy%20of%20index_shinkan3.html#hukusimagenpatuだ。ツイッターでこの本から大事なな箇所を抜き出し、8回にわたってツイート。ようやくブログにのせることができた。この本の意義は、私の知人でもある詩人で、「「コールサック社」代表、鈴木比佐雄さんの以下の解説に尽きる。

 「若松さんの視線はこの四十年間、少しも変わらずに原発を告発し続けてきた。チェルノブイリにも行き、南相馬市と同じ二十五㎞地点はどのような放射能の被害を受けているのかを南相馬市の未来として予言している。また原発従事者の中で詩や短歌を作っている人びとの苦渋に満ちた作品も紹介し、原発が地域住民を取り込みながら被曝者とさせていく悲劇を抉り出している。原発の悲劇を直視して自らも難民となった若松さんの告発・警告の書である」(『福島原発難民』・解説・鈴木比佐雄)

 この数日間のうちにツイッターにのせた8回のうち7回分も以下に。

福島原発難民』(若松丈太郎)①第二次大戦で戦争という麻薬の中毒患者になったアメリカにいまだ《戦後》が存在しないように、原発というドラッグに冒された立地地域では、二重の意味で《原発以後》なしという状況が形成されつつある

『福島原発難民』(若松丈太郎)②ひとつめの意味は、つぎつぎと原発を増設しつづけなければ地域経済を維持できない泥沼にはまり込んでいるということ、もうひとつの意味は、原発破綻後には地域そのものが存在し得ない状況が出来(しゅつたい)するだろうということ、である。

『福島原発難民』(若松丈太郎)③歌人・東海正史(1932~2007)の歌集「原発稼働の陰に」から 被爆者の労務管理糺す吾に圧力掛かる或るところより/原発を誹謗する歌つくるなとおだしき言にこもる圧力/原発疎む歌詠み継ぎて三十余年募る恐怖の捨て所無し

『福島原発難民』(若松丈太郎)④ 詩人・箱崎満寿雄(1914~1988)の詩「太陽の鳥」部分・・・「安全」を強調しなければならない/それは戦争の始めから終りまで/「勝つ」ことを強調し/「神風」の御幣に呪縛したと同じ重量で/そして反面には、それが嘘と判った時の/虚脱した時の軽さで

『福島原発難民』(若松丈太郎)⑤1994年にチェルノブイリを訪ねた経験をもとに、連詩「かなしみの土地」を書き、原発難民となった人々の思いを代弁したつもりだった。しかし、そのとき彼らの思いだと思っていたものは現在の自分の思いそのものであるという現実のなかにわたしは置かれいる

『福島原発難民』(若松丈太郎)⑥  予測が的中することは、一般的にはうれしいという感情につながることが多い。しかし、危惧したことが現実になったいま、わたしの腸は煮えくりかえって、収まることがないのだ。なぜなら、この事態が、天災ではなく、人災であり企業災であるからだ。

『福島原発難民』(若松丈太郎)⑦  燃えかすや個体は《保管廃棄》される。《保管廃棄》とは奇妙な概念である。ドラム缶に封ずるなどして、保管期間が数百年の、つまりは半永久的な貯蔵である。わたしたちがつくり出した大量の危険なゴミを、数百年後のだれが管理してくれるだろうか

『福島原発難民』(若松丈太郎)⑧「実体験にもとづくリアリティーがなまなましい」  こんおさむ(南相馬市)の詩「原子力発電所」(部分)  嫌われ反対される原子力発電所/その内での人々は/囚人以上の暗い影を背負い/全てに反対も肯定もなく意志を殺し/黙々と予定内作業を行う

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2011年4月30日 (土)

石巻の泥退治を続ける「チーム日光」  M9・0東日本大震災(31)

P1050130_2(泥バスターズで汗をかく「チーム日光」の面々=26日、宮城県石巻市 以下、いずれも石巻市で。写真提供はブログ「日光を漂ふ」さん)」P1050059(参加者によると、今回は泥や瓦礫を運ぶ距離が長くなったという=26日、石巻市)

 災害支援「チーム日光」は28日まで2泊3日(一部は日帰り)で石巻市の民家の泥バスターズ(泥退治)をやってきた。20数人という大人数での支援は4月上旬に続いて2回目。無事に任務を果たしてきた。

 その現地の様子をブログ「日光を漂ふ」さん経由でアップへ(「チーム日光のキセキ」でも)。前回に続いて参加したメンバーによると、泥や瓦礫を運ぶ距離が長くなった。今回はとくに熱さとの戦いでもあったという。P1050222(今回の活躍ぶりもわかる千葉県から参加した「かんちゃん」=27日)P1050206  熱さといえば、私が13日に日光市被災者支援ボランティアとして福島県相馬市で泥バスターズをやった際に思ったのは、着替えの下着のこと。泥バスターズで汗でびっしょりになったが、下着のシャツを持たないで出掛けてしまった。その反省がある。

 4月初めの石巻はまだ寒かったが(私は前回の2日目、就寝時間は数時間)、すでに黄金週間。今度は気候も含め、熱さ対策も必要で、着替えの下着はぜひものに。びっしょりのままだと、あとで風邪をひくなどしてしまう恐れがある。衛生面でもさらに注意したい。P1050267 P1050283 (被災した大橋さんのこんな笑顔を見ることができた=27日、石巻市)

 メンバーによると今回は夕食で外国のボランティアチームや国内NPO、有名ホテルのボランティアチームなどとも親しく懇談したという。被災者のために「現場へ」という志を同じくする者同士、さぞ、うれしい時間を持てたろう。

 それにしても、「チーム日光」が泥バスターズで向かうきっかけになった石巻の大橋さんの笑顔が印象的だ。私が前回(8、9、10日)行ったとき、大橋さんのこんな笑顔は見ることはなかった。少しでも前に進んでいるということだろうか。P1050169 (今回、初参加で活躍した「鹿沼チーム」の面々=26日夜)

P1050286 (被災した大橋さんを囲んで写真に収まる「チーム日光」のメンバーたち=27日、石巻市)

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2011年4月27日 (水)

海や土を、自然を想定外にしていたのだ M9.0東日本大震災(30)

Dscn1794  (アースデイ那須2011のライヴトークの合間に空にくっきりと二重の虹が=24日、那須)

 発明家で原発に詳しい藤村靖之さんと文化人類学者、辻信一さんのライヴトーク「希望の未来を考えるお話会」が24日、那須町の非電化工房であった。「アースディ那須2011」のメインプログラムで、会場は若い人を中心になごやかな熱気に包まれた。

 午後2時半から午後5時まで。途中、二重の虹が空にくっきり描かれたので、トークを中断し、みんなで眺めるといったゆったりした時間だったが、話された内容はいずれも魅力的。イメージとしては大学の自主講座といった感じだ。

 詳しい内容の方はユーチューブにアップされているので、それをじっくり聞いてみて欲しいが、私が感銘というか、ある種のひらめきを感じたフレーズに、こんな指摘があった。辻信一さんが大震災と原発事故について触れた見方だ。

 「私たちは海を、土を、つまり自然を想定外にしていたのではなかったか」

Dscn1810 (ライヴトーク中の藤村靖之さん・左と辻信一さん=24日、那須の非電化工房)

 2時間以上の対談には傾聴すべき多くの指摘や考え、紹介があったが(例えばブータンの国民総幸福指数・GNHなど)、私はその「海と土、自然を想定外にしていたのではなかったか」という言葉が、とても新鮮に思えた。

 震災前も海や土、自然はあったが、実はなかったのでは。というのが辻さんの考えだ。この魚がどこの海から獲れたか、土はコンクリートの下にあり、視えていない。つまり、私たちの関心外にあり、保障や年金などの社会的な仕組み、あるいは原発安全神話などの「想定内」で生きていたはずだという。

 それが大震災と原発事故でめくれあがり、海や土、自然があることを、あるいは忘れていたその原初的なものを想起させたのではないか。そうしたものを想定外にしていた私たちは、いちがいに東電を責められないのはないかといった趣旨だ。 

Dscn18171(ライブトークには若い人を中心に多くの人たちが熱心に耳を傾けた=24日、那須)

 東電についての言及は私は保留だが、その前の「海、土、自然」については、「なるほど」と思わされたというのは、私が4月1日に陸前高田市の惨状に接したとき、視線は定まらず、その光景をどう表現していいのか、わからなかった。そんな思いがあったからだ。

 〈どうして、その瓦礫だらけの光景をことばにできないのか〉。私は不思議に思っていた。それを詩にしてみたが、まだ、そのときの全部を描けたとは思っていない。そのヒントが辻さんが指摘してくれた「海や土、自然を想定外にしていたのではないか」ということだった。

 それが頭の中でスパークしていたので、「会場から発言」。私が災害支援「チーム日光」のメンバーであることを伝えながら、辻さんの指摘で、陸前高田市に立ったときのなんともいえない感情の意味がある種、納得できたと発言した(いつも一言多いのが私なので~)。

 さらに27日のブログでも伝えたが、「今こそ、ふだんは気恥ずかしい愛、優しさ、思いやりといった言葉に内実を与える新しい時代にきているのではないか(「誠実さ」と「勇気」も加えるのを忘れていた~)」と、会場内に伝えたことだった(会場には「チーム日光」の若いメンバーが何人も参加していた)

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2011年4月26日 (火)

愛や誠実、やさしさ、勇気の「チーム日光」  M9・0東日本大震災(29)

Dscn1938 (石巻で泥バスターズをやる道具類を積み込んだ「チーム日光」のダンプカー=25日)

 災害支援「チーム日光」は26日早朝、泥バスターズをやるために石巻に向かった。マイクロバスやダンプカーなど4台、ボランティア20数人。28日まで石巻専修大キャンパスにテントを張っての泥出し協力隊だ。

 大人数で向かうのは8、9、10日に続いて2回目。代表の小坂さん、徳さん、ともちゃんは何回も、あくつさん、かんちゃんらは前回も現地に出向いているが、多くが今回が初参加。青年も女性も中高年もという集団だ。

 参加者は日光を中心に宇都宮や鹿沼、千葉県など。なかには日光市被災者支援ボランティアとして、13日に福島県相馬市の泥バスターズに加わり、さらに今回の「チーム日光」に参加した元日光市部長や山岳経験が豊かな高年者も。

 

Dscn1927 (現地・石巻の作業日程などを確認しあう「チーム日光」のメンバー=25日、日光)

 今回の震災について、作家・詩人、元共同通信記者の辺見庸さん(石巻市出身)が岩手県の地元紙「岩手日報」に「震災緊急特別寄稿 人智では制しえぬ力」で、非常に意味が大きい言葉をしぼりだしている。

 「ひたすらに誠実であれ」という見出しが付けられたその寄稿の中で私の胸を打ったのは、いつくかの以下のフレーズだ。

Dscn1906 (現地の事情などについて説明する「チーム日光」代表の小坂憲正さん=25日)

 「われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非論理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている」

「見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされら素裸の『個』が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかではなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現が果たして可能なのか」

「混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること、悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である」

Dscn1934 (テントや水、スコップなどを積み込む「チーム日光」のメンバー=25日)

 辺見庸さんのこの文章をもう一度、読み返してみると小坂さんが、「チーム日光」がやってきたこと、やろうしていること、というのは、結局は、こういうことなのではないかと思えてきた。

 つまり「ひたすらに誠実であること」、愛ややさしさ、勇気、あるいは思いやりといった「モラルの根源」(辺見庸)、「ひととして生きるための倫理の根源」を、そのまま、意識的・無意識的にも、実践していこうということだと思う。

 そうした愛や誠実、やさしさ、勇気、思いやりは、これまで余裕のなかで演じられてきた。私からすれば、どうも嘘っぽさを覚えてしまい、それから距離を置いてきた倫理的な言葉だ。しかし、「3・11後」に生きていく私たちは、そうした「倫理の根源」をたえず、自らに問いかけていくことになるだろう。

2011年4月23日 (土)

日光市被災者支援ボランティアが視た福島・相馬  M9.0東日本大震災(28)

Dscn1570 (ボランティア先の相馬市新田に入り、最初に飛びこんできた水田の光景=13日)Dscn1589 Dscn1639 (ボランティアに入った相馬市新田の小島さん宅周辺・上・とそこから海よりの道路の様子・下)

 日光市災害ボランティアセンターによる13日の相馬市の支援について、22日にアップしたが、まだ伝えたい写真があることに気づいたので、再び相馬市から。とにかく遠くの防潮林がなぎ倒され、水田はそのマツの倒木がごろごろ。とにかく木材があちこちに転がっているのが目に焼き付いた。

 この新田の農家によると、津波は「もっこりもっこり」と襲ってきた。高さは20mにも感じられたという。実際は水が引いた家屋を見ると、ヒトの胸の高さあたりまで。ところが、海岸に近い名勝地、松川浦周辺では、襲ってきた津波で建物がローラーに引かれたようになっていた。

 大震災を記録していくということも意識し、これらの写真をアップするが、気になったのは相馬市災害ボランティアセンターにあった泥バスターズの注意事項。実際の現場では、帽子も手袋もあると良いではなく、それらとメガネやゴーグルは必ず身に付けることが必要だ。それらをしっかり身につけて作業を行うよう、さらに呼びかけてほしいなと思ったことだった。

Dscn1648 (福島県相馬市の松川浦周辺の様子=13日)

Dscn1655

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Dscn1657 (陸に乗り上げた船など上から4枚の写真はいずれも相馬市松川浦周辺の被害の様子=13日)

Dscn1626 (ボランティア作業を終え、お互いに長靴を洗い合う仲間=13日)

Dscn1666

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Dscn1672(相馬市ボランティアセンター内に張ってあった泥バスターズの注意事項=13日)。

 石巻や相馬の泥バスターズの体験者としていえば、防塵マスクはもちろん、手袋や帽子は必携。それにメガネ、ゴーグルも。さらに首にタオル、腰にポーチ、上下の雨合羽。胸章や腕章など所属がわかるものを。

 さらに支援に入る現場にもよるが、ホウキの大小、チリトリ、タワシやミニブラシ、デッキブラシ、バケツと大量のタオルと土納袋、床をはがすバールやノコギリなどの道具類も。場所によってヘルメットも必要になる。もちろん、大量の水も(水道が出るところは大丈夫だが)

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2011年4月22日 (金)

福島・相馬市の農家の納屋に「海の幸」という超現実  M9・0東日本大震災(27)

   Dscn1617 (福島県相馬市新田の農家の納屋に津波で漂流していたスズキの幼魚、フッコ=13日)

Dscn1647 (福島県相馬市の松川浦周辺の惨状 ここでも船が乗り上げている=13日)

Dscn1595 (松川浦の大洲公園のなぎ倒された松が水田一帯に=13日、福島県相馬市新田)

 日光市災害ボランティアセンターによる福島県相馬市の災害支援が13日あり、砂時計もその一員として加わってきた。相馬市は二宮尊徳翁ゆかりの城下町。名勝地、松川浦(松川浦県立自然公園)がある美しい街だが、朝日新聞によると、17日現在で、死者425人、行方不明約100人という犠牲者が出ている。

 ボランティアは約30人。午前4時半に日光を出発し、4時間後の午前8時半には現地の相馬市災害ボランティアセンターへ。「チーム日光」からは私のほかにヨシナリクンとオオフジさんの3人が参加。センターの依頼で男子は農家の「肥料運び」(一人だけ女性も)、女子は「介護施設」や「避難所」の運営のサポートへ。

 「肥料運びだから、スコップはいらない」ということで、スコップはボラセンへ置いたまま。ところが、現地の相馬市新田(ニイダ)の専業農家に着くと、そこは当日、胸の高さまで津波が押し寄せ、自宅も納屋も泥だらけ。メンバーが置いてきたシャベルを再びとりに戻るということも(まだ想像力が足らなかったのだ)。

 当日の13日と16日のボランティア作業やボランティアたちの感想は日光市災害ボランティアセンターのブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/nikkovolunteer

 Dscn1620 (津波の泥が堆積したひび割れた水田=13日、相馬市新田)

Dscn1612 (農家の納屋周辺で見つけたカニ。えっカニ~と=13日、相馬市新田)

Dscn1597 (コンバイン周辺の泥を退治する日光市被災者支援ボランティアたち=13日)

 作業は最初こそ、泥にまみれた肥料袋を運び出し、積み上げていくものだったが、納屋そのものが泥まみれ。農機具の下に潜り込んで、泥をかき出す作業、さらにコンバイン周辺の泥を運び出す作業と、やはり「泥バスターズ」が基本作業だった。

 ヨシナリクンが「においがおかしいと思っていた」と、あきれながら、スコップから投げてきたのは、鮭に似たかちんこちんのサカナ。「スズキではないか」の声に、この農家の主、小島(オジマさん)さんが「それはスズキになる前のフッコ」だといい、「そのあたりの田んぼにはボラがかなりいる」と、こともなげに言う。

 海岸から数キロのこの地点だが(約3㌔と言っていたかな)、納屋からフッコやカニも。ここでも超日常が目の前に。お昼にボランティアに参加したテヅカさんからいただいたシャけのおにぎりや持ってきたソーセージやパンにかじりつきながら、あたりの水田を見渡すとー。防潮林、防風林だった海沿いのなぎ倒されたマツがあたり一帯に。

Dscn1580 (農家の納屋の中にたまった泥をかきだす日光市のボランティアたち=13日、相馬市) 

Dscn1579(ボランティアの仕事は泥で汚れた肥料の積み出しも=13日)

Dscn1600(スコップですくいだした泥は農家の小島さんが操るブルで何度もあぜ道へ=13日)

Dscn1630_2 (ボランティアを終え、農家の小島さん親子と写真に収まるボランティアたち=13日)

 私たちがボランティアで入った小島さん方は24ヘクタール(24万平方㍍)の水田を経営する大きな専業農家(野菜も少し)。そのうち約16ヘクタールは津波にやられ、残るは約8ヘクタール。海水の塩が混じった泥は約20センチほど堆積しているといい、「今後4、5年は水田をやることができないかも」という。

 ただ、というか、しかし、というか、小島さん方では約8ヘクタールは無事だった。「全部やられたら、農家を辞めることができるが、8ヘクタールは残っだ。なんとも中途半端な被害」と。さらにヤンパチ気味に「どうせなら、すべてやられてしまったほうがよかったかも」とも。

 というのも、専業農家として、今後8ヘクタールでやっていけるのか、あるいは、いずれ、失った地力をなんとか戻すことで、それ以上の水田でやっていけるのか、それによってそろえなければならない農機具類などが大きく変わってしまう、そんな悩みがあるからだという。

Dscn1564  (「相馬市災害ボランティアセンター」があるビル、2階が入り口だ=13日)

Dscn1566 (相馬市災害ボランティアセンター前で次の行動に備えるボランティアたち=13日)

Dscn1669 (相馬市災害ボランティアセンターの「ボランティ受付」の様子、壁に「震災を乗り切ろう そうま魂」=13日)

作業を終えて、被害が甚大だった海岸沿いの松川浦を回ったが、その一帯は瓦礫の山。岩手県陸前高田市もそうだったが、津波で押しつぶされた街は大なり、小なり、同じように瓦礫、瓦礫、瓦礫ーーー。その凍えるような光景だけだった。

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