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団塊世代

2015年10月 7日 (水)

山本義隆がついに公に発言だ  「私の1960年代」

なにはともあれ、入手して、読まないことには。それにしても1960年の安保から東大安田講堂まで、そしてその後の人生が。すでに70歳を超えたのですねー。総括の「回顧録」だろう。
Photo
(以下は朝日新聞デジタルから)
「若い人の運動に励まされた」 
 
元東大全共闘代表・山本義隆さん回顧録
2015年10月6日16時30分] 
 
 1960年代末、大学や社会に異議を申し立てた学生たちの象徴ともいえる元東大全共闘代表の山本義隆さん(73)が、回顧録『私の1960年代』(金曜日)を出版した。山本さんは、国会前などで安保法制に抗議する学生たちの行動を受け、「若い人たちによる運動に期待し励まされて筆を執った」とコメントしている。
 
 山本さんは昨年、東京都内での集会で、公の場では初めて当時のことを語った。その講演内容をもとに今回の本を書いた。  60年に東大に入学した山本さんは、同年の安保闘争に参加。その後、大学の自治や改革をめぐる運動に加わり、大学院時代の68年、東大全共闘の代表に就いた。
 
著書で山本さんは、全共闘が「自立した個人の集まり」のように言われるのは「きれいごと」で、実際は政治党派の思惑がからんでいたと記した。党派に対して仲間からは「強気に出ろ」と言われたが、「当時はできなくて、私の弱さだった」と振り返る。  各地で起こった学生運動は、内部の対立が激しくなって「自壊」。山本さんは「無念の思い」と記した。
 
 山本さんは出版に際してのコメントの中で、「単なる回顧をこえて今日的な意味があるのではないか」と自身に言い聞かせて執筆したと明かした。
 
 全共闘の時代を分析した『1968』などの著書がある歴史社会学者の小熊英二さん(慶応大教授)は、山本さんの回想を読んで「当時は、学内での闘争、教授との関係が中心のまさに『学生運動』であったことがわかる」と指摘。「現在のSEALDs(シールズ)などは、主として学外に訴える『社会運動』とでも言うべきもので、その違いが印象的」と話している。(藤井裕 )
 

2014年11月 5日 (水)

無呼吸のまま潜水を続けられる思考の体力  『哲学の使い方』(鷲田清一)

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 ぱらぱらとこの2、3日間、じかんができると、読みかけていた『哲学の使い方』(鷲田清一、岩波新書)を一気に読んでみたー。

「哲学カフェ」や「聴くことの力」など、彼のエッセイ本から例がいくつも。その面では親しみやすい。

ところどころに「哲学そのものが」顔を出してしまい、〈鷲田先生もやっぱり学者だな~〉、と困ったところもあるが、全体では物事に向き合う基本トレーニングとして、やはり良書だと思いつつ、最後の頁を閉じたのでありましたー。

全体を貫く「長いキイワード」?としては、以下の文章が象徴的、というか、言いたい力点だろう。そして、さまざまに思いが浮かぶ指摘だ。

 

「現実の問題の多くは、重要なものにかぎって答えがすぐには出ない。ー(略)ー『ああでもない、こうでもない』と執拗に論理をたどりつづけるには、無呼吸のままで潜水を続けられるような思考の体力が要る。複雑性の増大に耐えつつ、不確かな状態でいつづけられる知的な体力が要る。それを、第一章では〈思考のためを作る〉とか〈知性に肺活量をつける〉というふうに表現したのだった」(「終章 哲学という広場」から)

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2014年8月12日 (火)

おじさんがどこまでやれる?(笑い) フォークギター挑戦篇 

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. 「おじさんバンど」がはやっている今日、わたしもひとつなんとか、挑もうかと3台目をきょう買ってきたのです(2台ともガタがきてしまったので、中古レコード屋さんできょう、なんと3000円で!)。

「~今も昔も変わらないはずなのに~」(「五つの赤い風船」だったー!)という歌ぐらいなんとかと~。さてーどうなるか?ー。

 

 学生時代は(といっても、はるかむかしですがー)、フォークソングクラブにもおりました(いちおうキャプテンなのです)。でも、腕前のほうは、私からみても、いまいち。なので、どこまで復活できるかー、私も疑問ですが(笑い)

 BLOGに「公表」することで、自分をふるい立たせようとー。そういう狙いの「おじさん」フォークギターチャレンジ篇ですー乞うご期待(笑い)。

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2011年8月 6日 (土)

ーそして 再起へ!「第27回宇都宮空襲展」(下)  7日まで中央生涯学習センターで

Dscn3399 (米軍占領下の宇都宮市中心部の道路標識=空襲展会場)

 「うつのみや平和祈念館をつくる会」(藤田勝春代表)が主催する「第27回宇都宮空襲展」(会場・宇都宮中央生涯学習センター)が7日まで3日間、開かれている。この機会にぜひ訪ねてみることをお勧めしたい。

 3・11の大津波で三陸の各市はいわば「焼け野原」のような惨状となったとされる。実際、私が災害支援をしながら視た陸前高田市、石巻市、南三陸町、相馬市も「焼け野原」となっていた。というか、海寄り地区は何にもなかったという感覚の方が正確かもしれない。Dscn3392

Dscn3417 (「B-29」からの焼夷弾の投下状況=空襲展会場)

 私は戦後生まれだ。なので、宇都宮空襲も東京大空襲もヒロシマ、ナガサキも歴史上でしか知らない。それでも父母らからも戦争体験を自然に聞かされてきた。とくに父は特攻隊基地で知られる鹿児島知覧基地の飛行整備兵だっただけに、戦争を身近に感じてきた。

 そういえば、父からはこんなことも。「戦争末期、飛行場でグラマンの機銃掃射を受けたことがある。その米軍パイロットの顔が見える距離から。そりゃ、逃げたのなんの」。聴いたのは私が小学生のときなので、正確ではないかもしれないが、だいたいこんな話だったと思う。

Dscn3411 (大きな破壊力を伴うM47焼夷爆弾の不発弾=空襲展会場)

Dscn3425 (宇都宮空襲による被害状況図=赤色が被害地域だという)

 それでも全国各地の空襲被害は、写真集や体験談で知ってはいても、これまで想像力の範囲内だったのではないか。そのように思える。だが、今回の3・11で「焼け野原」の、あるいはそれ以上の三陸の被害を視てしまった。そのことで、空襲と震災が頭の中でクロスし、その空襲の既視感がどこからか、やってきている。

 7月12、13日、115機の「B-29」による空襲で620人以上が犠牲になったという宇都宮。約2時間20分にも及んだ空襲のその時間、当時の市民たちが焼き尽くされる街の中で、いかに生きて、死んだか。おおげさに言えば、その時間に時間を遡り、私も逃げまどう一人になっている、そんな感覚を覚えないではない。 

Dscn3393

Dscn3390 (「宇都宮空襲展」で「つくる会」から資料の説明を受ける来訪者=5日)

 つまり、今の「震災」を通して時の「空襲」を知る視点が微妙に変わってきたと思えるのだ。片や津波という自然の猛威(フクシマ原発事故という歴史的な人災も)、片や戦争という悪行の結果。とはいえ、いずれも生身の市民が生死の堺に遭ってしまった。

 その惨状から人はどう立ちあがってゆくか、生活をどう立て直してゆくか、街を社会をどう復興してゆくのか。空襲展でも「震災」を強く見据えて、それを強く意識し、テーマもそうしたものにしている。いわく「そして 再起へ!」と。Dscn3422 (「第27回宇都宮空襲展」のポスター。開催は7日夕方5時まで)

第27回宇都宮空襲展のご案内

宇都宮市をはじめ多くのマスコミ機関や市民団体の後援のもとに開催される当会最大のイベントです。会で収集した遺品や資料の展示、会で製作した戦災当時の立体模型やパネルの展示、戦災の絵画展、紙芝居や「はだしのゲン」その他のビデオの上映等ですが、時折の国際、国内情勢に対応して毎年新しい視点からの企画をもとに、市民の皆さんに戦争の恐ろしさと無意味さを充分にお伝えできるような内容を盛り込むよう努力しております。

本年は戦争期のソビエト抑留の生活に焦点を当て、当時の生々しい抑留生活の記憶を肉筆で描いた絵画が多数展示されます。

また、『宇都宮空襲と終戦直後の市民生活』につきましても、昨年にひきつづき、広く市民の皆さんから写真・記録などを募集し公開展示したい考えです。

これらの展示を通して、戦争と平和を考え「いのち」の尊さを考える一助としていただければ幸いです。の他のビデオの上映等ですが、時折の国際、国内情勢に対応して毎年新しい視点からの企画をもとに、市民の皆さんに戦争の恐ろしさと無意味さを充分にお伝えできるような内容を盛り込むよう努力しております。

本年は戦争期のソビエト抑留の生活に焦点を当て、当時の生々しい抑留生活の記憶を肉筆で描いた絵画が多数展示されます。

また、『宇都宮空襲と終戦直後の市民生活』につきましても、昨年にひきつづき、広く市民の皆さんから写真・記録などを募集し公開展示したい考えです。

これらの展示を通して、戦争と平和を考え「いのち」の尊さを考える一助としていただければ幸いです。

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2011年8月 5日 (金)

-そして 再起へー第27回宇都宮空襲展(上) 7日まで中央生涯学習センター

Dscn3420 (宇都宮を空襲した米軍の「B-29」 10分の1の模型=空襲展会場)

 1945(昭和20)年7月12日、B-29の夜襲で市民620人以上の死者を出し、廃墟と化した「宇都宮空襲」、その惨状を後世に語り継ぎ、「命の尊厳」を基調とする「恒久平和」への強い願いを多くの市民に伝えるためにー。

 宇都宮空襲を伝える資料を収集したり、被害市街地の立体模型を作成したり。戦争遺跡をめぐるピースバスを運行するなどもしている「うつのみや平和祈念館をつくる会」(藤田勝春代表)。同会による「宇都宮空襲展」が今夏も5日から、宇都宮中央生涯学習センター(6階、3階)で始まった。7日まで。

Dscn3414 (宇都宮に投下された「集束焼夷弾」の実物大模型=空襲展会場)

 戦後40年の1985(昭和60)年に初めて開催し、今夏が27回目。テーマは「いのち、くらし、そして 再起へ!」。東日本大震災後の空襲展であり、テーマや呼びかけは「空襲と震災」をクロスさせている。

 空襲展のチラシではこううたっている。

 「3月11日、-津波の去った”町”の映像に『あの時代』を思い出した年輩の方も多くいらしたのではないでしょうか。もちろん、その原因はまったく違いますが・・・」

Dscn3392

 「心を残して逝ってしまった多くの犠牲者への思いを秘めつつ、極限の状況から明日に向かって再び起ち上がり、現在に繋げてきた人々の苦闘と営為。今、再度『あの時代』のくらしやこころを振り返り、明日に活かしていきませんか!」。

 毎年、この時期に「宇都宮空襲展」をやっていることは知っていたが、いつも終わってから気づき、残念がっていた。今夏はつい数日前に友人で空襲展の世話役をしているサトウシンメイさんから開催を伝える手紙が届いていた。

Dscn3403(昭和20年8月はじめころ 二荒山神社から南を視た宇都宮市街地

 ということで、さっそく、日光から宇都宮の初日の会場へ。いきなり、B-29の10分の1の模型にお目にかかった。さらに宇都宮に落とされた集束焼夷弾の実物大の模型、徹底的に破壊された宇都宮の中心市街地の様子などなどー。

 会場で1500円で買い求めた『うつのみやの空襲』(宇都宮市教育委員会発行、2001年3月)によると、7月12日の空襲は午後11時19分から翌13日の午前1時39分ごろまでの約2時間20分。

Dscn3408 (市街地の65%が空襲に遭った宇都宮の被害状況

 襲ったのは、マリアナ諸島ティニアン西基地にいた第58航空団。宇都宮へ飛び立ったB-29は133機。そのうち故障などで10機が帰還し、実際に空襲したのは115機だという。

 問題は落とした焼夷弾の総量。大きな破壊力を伴う「M47焼夷爆弾」は10500個、重量約326トン。親爆弾が38個の小型弾に分かれて落下する「E46集束焼夷弾」が2204個、重量440、8トン。

 えっ~。つまりこの7月12~13日に宇都宮に投下された焼夷弾の総量は12、704個、約804トン。集束焼夷弾を小型弾M69の個数に直すと、なんと~約10万個。「この数は当時の宇都宮市の人口にほぼ相当し、一人当たり1個以上の焼夷弾が投下されたことになる」という。

Dscn3422 (第27回宇都宮空襲展のポスター=中央生涯学習センター入口)

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2010年12月17日 (金)

あと3年で40周年の同人誌『序説』 忘年会は霧降高原「砂時計」で 

Dscf5318 (「砂時計」が編集委員会事務局を務める最近3年間の『序説』15、16、17号) 

 大学時代の仲間たち(もう歴史になりつつある、いわゆる全共闘世代だが~)で年に1回つくる同人誌『序説』。その忘年会を25日に日光霧降高原の「砂時計宅」で開くことになった。私が編集委員会事務局を務めていることもあり、その案内状を昼間、各地の同人に郵送したところだ。

 会員は10人だが、来年は12人に。事務局の私でも高い会費だと思うが、仲間で支えている。創刊は1974年。その後、1981年まで8年間で12号まで発刊して休刊。四半世紀過ぎた2006年に復活し、その年に13号を刊行。それから毎年1回発行し、今年で17号を数える。

 3年後の2013年には創刊から40年となる(なんと40年~)。といっても、四半世紀休刊しているから、実質は13年ほどか。それでも、大変な年月だと思う。大学時代の集団がそのまま40年近くも、(休刊をはさんではいるが~)ひとつの雑誌を出し続けているのは、全国でもたぶん、珍しいと思う。

 ただ、当時の仲間は各地に散っており、その後も、連絡がとれない仲間もいる。<その仲間たちにも「序説」を継続して発行していることを伝えたい>。そんな思いが以前からあった。<そうだ、「序説連絡」そのものをネットにのせればいいかも>。

 ということで、まったく内輪向けの「連絡」だが、ブログ「砂時計主義」にアップすることにした。願わくば、このブログをかつての仲間たちがのぞいてくれれば。そんな万に一つの可能性も願って。

 ふだんの少数の訪問者には恐縮です~事情をご察しください。以下はその『序説』同人への忘年会と2011年に発行する第18号の連絡です(同人誌は、こんな連絡をしていますよ、という参考にもなるかもしれない。さて、どうかな?)。

2010年「序説」忘年会・及び2011年「序説第18号」連絡

                           (事務局・日光霧降高原 黒川純)
                            2010年12月17日(金)

▽2010年「忘年会」を12月25日(土)、日光霧降高原・黒川純宅で。22日(水)までに出欠の最終チェックへ
昨年は今年の正月に日光霧降高原・黒川宅で行いました。今冬も(急きょですが~)今月の25日夜に、黒川宅で。「序説忘年会」(発起人? 岩城、高橋、黒川)をやることにしました。時間は午後6時ごろからを考えています(同日夕においでください、駐車スペースあり。電車で日光着の会員は黒川が迎えに)。泊りは基本的に黒川宅。親族などの世話やクリスマス時期でもあり、仕事の都合で参加できない会員もいると思いますが、ぜひ「薪ストーブの湯豆腐、熱燗・冷酒」が楽しめる我が家へ。22日(水)までに出欠の確認へ。(一人一品持ち込み方式で。ただし、湯豆腐、シャブシャブなどは黒川が用意。酒類持ち込み、もちろん、大歓迎します)。黒川宅の容量オーバーの場合も考え、友人が経営する霧降高原のホステル「鳴沢ロッヂ」に部屋を仮に確保しています。

▽「序説第17号」発刊懇親会 群馬・草津温泉で祝い合う
「序説17号」は、会員のみんなの協力で5月29日に発行されました。同日、群馬県草津温泉のペンションで発刊懇親会を開催。定年退官・病気快方も兼ねてF教授夫妻が加わり、総勢9人で17号刊行などを祝い合いました。前号に引き続き、磯山君(懇親会は欠席)から、会費以外に1万円のカンパがありました。ご報告しておきます

▽2011年の「序説18号」懇親会は7月30日 日光で
2011年の序説懇親会は年7月30日(土)、31日(日)=土曜日が5回ある月の最終週=、日光の黒川純宅と決めました。懇親会は黒川宅、泊りは隣近所(歩いて1分)のペンション「ポコ・ア・ポコ」を予定しています(同ペンションは黒川の町内会の友人、一泊朝食付10人前後で予約済み)。

▽「序説18号」の締め切りは2011年5月31日(火)。
来年の懇親会がいつもの年よりやや遅い日程にした関係で、「序説18号」の締め切りも、それに合わせて5月31日(火)にします(発刊2カ月前)。「序説17号」の締め切りは4月上旬でしたが、それよりも1カ月半以上遅らせることになります(それにしても、あと5カ月です。締め切りにめがけて、原稿の構想を練っていてください)

▽「序説18号」原稿は一人原稿用紙400字詰めで20枚程度、それに原稿1、2枚の「あとがき」も。
詳しいことはまた、春にご連絡しますが、原稿はメールなどで、事務局・黒川へ。初校は出版社から執筆会員へ。いずれも例年通りと考えてください。ただし、次回は元教授のFさん、Kさんが加わり、会員は10人から12人に。収支はようやくトントンに近く。青木、江本、我謝、新藤、小池、須藤などの各君、井上さんなど、かつての仲間と連絡がとれたら、「序説」を継続して発行していることを、話してみてください(創刊号は1974年。あと3年で40周年記念に。会員拡大については、事務局もやってみますが~)。

▽黒川はブログ「砂時計主義」を6月上旬から継続発信中です。たまにのぞいてみてください
すでにメールではお伝えしたかと思いますが、黒川はほぼ毎日更新しているブログ「砂時計主義」(黒川純第2詩集『砂時計主義』と同名)をやっています。詩や詩論エッセーなどを中心に霧降高原の暮らしぶりを伝えています。安齋君の「切れ切れな日常」や磯山君の詩、長島君の仕事ぶりなどもアップしています(もちろん、「序説」の発刊そのものについても)。
時間のあるときでけっこうですから、たまにのぞいてみてください。
「砂時計主義」のURLは以下の通り。
http://nikkosunadokei.cocolog-nifty.com/blog

2010年12月12日 (日)

「ミレニアム」のグラフィック・デザイナー 縁ある詩誌「詩と思想」の意匠は若き頃の友

Dscf5271 (グラフィックデザイナー長島弘幸さんが装幀を担当している全国詩誌「詩と思想」)

 群馬県太田市の「デザイン・ファクトリー ミレニアム」の代表で、「高崎映画祭」(来年が第25回)のポスターを初回から担当しているグラフィックデザイナー 長島弘幸さんから、分厚い書籍「詩学入門」(土曜美術社出版販売 2008年3月)と「モギマサ日記ー僕と映画と仲間たちとー」(同・2010年3月)が、霧降高原に届いた。

 学生時代からの友人の一人だが、数十年、会う機会がなかった。交友が再開できたのは、この2年ほど前からだ。印刷関係のデザイナーをやっているのは、何かで知っていたが、どんな仕事ぶりなのか。細かいことまでは承知していなかった。

 仕事のひとつがわかったのは、私も読者である月刊詩誌「詩と思想」から。同誌と砂時計との因縁は深いのだが(話すと長くなるので、今回は割愛~)、この「詩と思想」の装幀を担当しているのが「長島弘幸」と知った。というか、<似たような名前の人がいるものだなぁ~>。最初はこうだった。それが学生時代の友人と同一人物とわかるまで、かなり過ぎていた。

Dscf5275 (やはり長島弘幸さんが装幀した内容豊富な書籍「詩学入門」・土曜美術社出版販売)

 彼の仕事が分かったことも含め、2年前に同人誌「序説」(私が事務局を担当)の仲間の忘年会に誘った。詩誌「詩と思想」は1970年代、どちらかというと、戦後詩の二大潮流のひとつ、「列島」の流れを受けていた詩誌(今はどうなのか?)。

 そこのデザインを担当することは、デザイナーとしてかなりの力がないと、できない。それをやっていることを嬉しく思い、ぜひ参加をと。その晩は「序説」の仲間や彼、恩師らと一杯やった。時間の関係もあり、多くを語りつくすことが出来なかった。

 この数日、再び、音信をとることになった(長島さんは私にメールを送っていたというのだが、機器の設定か何かの理由で交信ができないままになっていたので)。というのも、「序説」仲間で今月下旬、霧降高原の「砂時計」宅で「忘年会」(という飲み会)を。それが決まり、長島さんにも連絡を誘いの連絡を入れたため。

Dscf5268 (装幀はもちろん、組版までやったという「モギマサ日記ー僕と映画と仲間たちと」・同)

  「ぜんぜん、連絡がとれませんでした」「えっ、メールを送っていたの?」。そんなちぐはぐな、やりとりから、彼の仕事の一部を送ってもらうことになった。「詩学」は日本詩人クラブが各界の詩の講演をまとめたもの(すでに松浦寿輝さんの「シュルレアリスムと詩学」を読んだが、なかなか歯ごたえがあった。いずれこの論の展開へ)。

 さらに「モギマサ日記」は、高崎映画祭を仕切り、高崎の映画館「シネマテークたかさき」を立ち上げた故・茂木正男さんの本。2008年1月、がんのため、61歳で亡くなっている。その茂木さんが、生前、シネマテークたかさきのホームページ(本には、これも長島さんが管理しているとある)に書きつづった日々の奮闘記録だ(まだ読み始めたばかり~)。これは装幀はもちろん、組版も担当したという。

 それにしても、大学を出てから?、何十年。当時、気になっていた友人が大きくなって、世の中に出ているのは嬉しいこと。もともと彼は映画やジャス、ロックの音楽などに関心が深く、アナーキィな芸術派だった(と思えた。全共闘のいわば、政治派の私と少し違った場所に彼はいた)。

 長島さんは、「詩と思想」では、映画や音楽論も執筆しているほど。私に縁のある「詩と思想」(再びですが、語り切れないのでカット~笑い)に、遠い学生時代の友人のひとりが深くかかわっていたことに、驚きと世の中の不思議さを覚えたことだった。

2010年10月 7日 (木)

ブログ「マコトノクサ通信」 アラセブ初当選の増子花巻市議が開設

12849629851 ブログの開設にあたり   (増子義久)

平成22年7月25日に行われた花巻市議会選挙で初当選したのを機にブログを開設することにしました。私は立候補に際し、無投票の阻止と若い世代が政治に関心を持ち、自ら議員に挑戦できるような「環境づくり」を目指すことを約束しました。そのためにはまず、「開かれた議会」の存在が前提となります。議員は行政に対する監視役をきちんと果たしているのか。市民目線の議員活動をしているか…。私自身、議員になるまでは市議会に対する関心は希薄でした。もちろん、自分にも責任がありますが、その最たる要因が「閉ざされた議会」にあったような気がします。議会活動の実相だけではなく、肝心の議員の素顔さえうかがい知れない。これでは関心の持ちようがありません。私は密室をこじ開け、そこに新風を吹き込むことを自らの使命としました。一体、議会の内部では何が行われているのかーこのブログを通じてどんどん発信していきたいと考えています。
 郷土の作家、宮沢賢治の「花巻農学校精神歌」に次のような歌詞があります。「日ハ君臨(くんりん)シ カガヤキハ 白金(はっきん)ノアメ ソソギタリ ワレラハ黒キ ツチニ俯(ふ)シ マコトノクサノ タネマケリ」(1番)。
 賢治が言う「マコトノクサノタネ」こそが民主主義の根本義であり、市民の皆様方の一票一票はまさにその種(たね)の一粒一粒だと信じています。この初心を忘れないためにブログのタイトルを「マコトノクサ」通信としました。皆様方のご批判、叱咤(しった)激励、罵詈雑言(ばりぞうごん)など何でもご遠慮なくお寄せください。このブルグを皆様方との共有の場にしたいと願っています

Dscf3300(居酒屋で増子さんとコージさんと飲んだ南部杜氏の冷酒=9月19日、岩手県花巻市)

 アラセブ=70歳で、岩手県花巻市議に初挑戦し、初当選した元朝日新聞「名物記者」、増子義久さんがブログ「マコトノクサ」通信を開設した。「一体、議会の内部では何が行われているのか、このブログを通じて、どんどん発信していきたい」という。いやはや、その内容も充実しており、年齢を感じさせないエネルギーに驚く。

 「砂時計」は9月下旬、日本現代詩人会東日本ゼミナールin岩手に参加するため、2泊3日で岩手県の旅に出たが、2日目は花巻市で花巻市議に初当選した増子さんに会うことも、目的のひとつだった。

 その夜、鉄をモチーフにした作品づくりを進めている新進気鋭の花巻市の美術家、新田コージさんも誘い、3人で痛飲した(新田コージさんは地元や東京・銀座、最近では九州・福岡などで個展を開いているが、「砂時計が住んでいる日光霧降高原でもやれないかなと、思うことしきりだ)。 

 そのとき、増子さんは「ブログを近く開設して、議会のことをどんどん伝えていく」と話していた。近くとは秋も深まってからかな、と思っていたら、もう9月には開設。どしどしと記事をアップしている(考えたら、もうそのときブログ名は「マコトノクサ」通信を予定しているとか、言っていたことを思い出した)

Dscf4027 (議場出入口の開閉に関する増子義久さんの花巻市議会議長への申入書)

 その際に手渡されたのが、花巻市議会議長への申入書。車椅子の傍聴者が傍聴席に通じる狭い階段を支援者らによって、汗だくで運びあげられている。一方、議場出入口については、議会事務局員が議員や市幹部のためにホテルのドアマンのように開閉している。

 この「落差」がおかしいとして、「なぜ、そんなことを繰り返すのか」と、ただした内容だ(やめるべきだということ、当然だろう)。

 つまり、議員としての特権意識にあぐらをかいているのではないか?。そんな疑問、というか、批判精神から発したものだ(ここら辺のラジカルさは、もともと増子さんそのものだ)。さらに、そうした内容を岩手日報「日曜論壇」に投稿したという。

 9月16日付の申入書の結果は?。9月定例市議会の閉会の27日、議長が「これまで慣例として続けてきたが、今後は原則として廃止したい。ただ・・・」と語り、増子さんも了承したという(詳しくは「マコトノクサ」通信で)。また、「日曜論壇」投稿は、9月28日付で岩手日報に掲載されたという(これも「マコトノクサ」通信を)

 東北、岩手、花巻の出来事だが、増子さんそのものが全国を駆け巡ってきたパトスのひと。それも「もう失うものはない」という構え、故郷に恩返しをしようと、定年後に知的障がい者施設園長、市議、そしてブログ開設。そうしたブログ報告は全国各地に波紋をもたらすだろうことは、間違いない(栃木県、日光市も例外ではない)。

 このブログにマコトノクサ通信のURLをアップ、さらに「砂時計」の「お友達リスト」にも加えてあります。この種の動きに関心を寄せる方は、ぜひ、増子さんのブログを訪問してみてください(岩手日報「論壇」については、以下に)。

 

続きを読む "ブログ「マコトノクサ通信」 アラセブ初当選の増子花巻市議が開設" »

2010年9月 2日 (木)

夏は「戦争映画」でしょう  「人間の條件」「血と砂」「赤い天使」・・・・

Dscf21208月最終週に見た「人間の条件」、「血と砂」、「兵隊やくざ」、「独立愚連隊 西へ」などの戦争ものDVD映画。別に江戸末期の品川宿を舞台にした痛快な「幕末太陽伝」も)

 8月は6日、9日、15日を、どうしても意識してしまう。詩でも「わたしが一番きれいだったとき」(茨木のり子)などが頭に浮かんでしまう。「砂時計」は「戦後の鬼っ子」である団塊世代。両親の空襲体験はもちろん、ビルマ戦線をいかに生き延びたかという中学校の理科教師の従軍体験など、さまざまな戦争体験を聞いてきた。

 同時に70年安保、72年沖縄返還協定締結の当時、怒れる若者真っ最中だったので、当然、「ベトナム反戦」世代だ。それくらいだから、「戦争」へのこだわりは強い(だからこそ、イラク戦争も「なんて、ばかな戦争を」と批判してきたのだが~)。すでに戦後65年とはいえ、暑い8月になると、「戦争」がせりあがってくる。

 ということで、「詩的生活」1年生になったことも含め(時間に余裕ができたので~)、今夏は「戦争映画」をじっくり見てやろうと決めた。もともと大谷直子が印象的だった「肉弾」(1968年)が好きだったので、岡本喜八監督の作品を。そのうち、戦争のばかばかしさをテンポよく,,というか、西部劇の雰囲気がある佐藤充主演の「独立愚連隊」(1959年)、「独立愚連隊 西へ」(1960年)、三船敏郎主演の「血と砂」(1965年、若き軍楽隊の悲劇など、これは予想以上によかった)を。

 岡本喜八監督作品は「吶喊」(1975年)など、意識的に見てきたつもりだが、「日本の一番ながい日」(1967年)や「青葉繁れる」(井上やすし原作 1974年)もそうだったのに気づいた。「ジャズ大名」(1986年)、「助太刀屋助六」(2001年)を監督したのは知っていた。が、これまでは時間がなかった(これから見るのだ~)。

 さらに勝新太郎の「兵隊やくざ」(初回 1965年)、「兵隊やくざ 殴り込み」(第7作 1967年)や若尾文子主演の「赤い天使」(1966年)もと、次々に。映画を見てからわかったのだが、両作品とも、原作はいずれも有馬頼義。監督も増村保造だった((兵隊やくざ」は初回と9回は増村監督が手掛けたが、それ以外は田中徳三監督だという)。

 それに霧降高原の寓居を訪れた東京の友人も推薦していた「人間の條件」(原作・五味川純平 監督・小林正樹 主演・仲代達也)も。この映画は、第1部から第6部まで9時間半以上もあるという(1部、2部がヴェネチア国際映画祭銀賞、映画批評家賞作品であるのを知ったのは今回だった)

 砂時計が見たのは、まだ1部「純愛篇」と2部「激務篇」のみ。若いときに一度、見たことがあるはず。それでも見始めると、途中でやめられなくなる大変な力作だ(たぶん、若いときとは違った感想を覚えると思うが、それもが楽しみだ。主人公「梶」の妻、新珠三千代の魅力だけは変わらない)。

 第3部「望郷篇」、第4部「戦雲篇」は1日に、借りてきたので(「隠し砦の三悪人」などもだが~7泊8日)、今週は「人間の条件」の中盤戦(?)に挑むことになりそうだ(そのくらいテーマが重いのだ~)。さらに第5部「死の脱出」、第6部「曠野の彷徨篇」とある(「戦争の八月」は終わったが、砂時計は、しばらく「九月の戦争」へか?)

2010年8月20日 (金)

ようやく「米イラク戦闘部隊撤退」  さぁ、「月の砂漠へ」

Dscf1879_3   (「米戦闘部隊のイラク撤退」を報じる朝日新聞19日付夕刊3版)

 その記事はなんとなく静かに報じられた。朝日新聞19日付夕刊3版の12面、「米戦闘部隊 イラク撤退」。思わず見逃すところだった。20日付朝刊13版も6面。国際面のトップだが、新聞を開いていかないと、わからない。「戦闘部隊イラク撤退 全米中継」「オバマ政権 『順調』演出」。03年から足掛け8年。大義もあったものではない戦争に突っ込んでいった米国とそれに追随した日本政府。「砂時計」は、その見識のなさにあきれかえっていた。

 開戦時にあれだけ大騒ぎしたのだから、こうした記事はもっとデカデカと扱うべきだ。そう思いながら、読んでいた。イラクでの米軍の死者は(米軍でさえ!)「開戦以来約4400人」という。それでも、ようやく「戦闘部隊」は引き揚げた。「砂時計」はイラク戦争開戦に怒り、詩論集『怒りの苦さまた青さ 詩・論「反戦詩とその世界」』(随想舎新書)を書いた。その新書の出版からでさえ、6年近くにもなる。いかに長い戦争だったか。

 ということで(~)、当時、「国民の精神が試されている」(戦前ではなく、ついこの間のこと!)。そんなシーラカンスのようなことを叫んでいたライオン頭の人がいたが、改めてこうした発想を空中分解(?)させる自由な空気の中を泳いでいかないと。そうした思いでいることも、日光霧降高原の「詩的生活」の道具のひとつです。で、『怒りの苦さ~』に収めた「月の砂漠へ」(一部改稿)をアップすることに。

詩 月の砂漠へ

            黒川 純

不安の街に嘘をついてはいけない

腕力だけが自慢の恐竜に従い

迷彩服で善意を押し売りすれば

猫なで声の猟犬だと見破られ

砂をかけられるのは当然だ

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