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『序説』

2024年4月 6日 (土)

「序説」創刊50周年記念展で使用申請書(案)など   同人誌連絡で資料・写真を各人に20枚も~  

同人誌「序説」(事務局・日光市)の第31号と今秋に予定する「序説」創刊50周年記念展示会などに関する連絡と資料、写真をきょう7日(土)夕方、日光郵便局の窓口で投函したー。今は土・日の配達はないので、「来週の月曜日の配達ですか?」と聞いたら、「来週の火曜日です」と。つまり、きょう7日に投函したが、群馬、茨城、福島、栃木の各県に暮らす同人に届くのは、来週の早くて10日(水)、遅いと11日(木)かもしれないー。

今回は、連絡事項が多いのと、特に創刊50周年祈念展示会に関する資料が多いため、封筒に入れたのは、それぞれ20枚。同人9人と準同人3人の計11人に送っているが、A4版で計220枚にも。作る方も大変だが、これを読む方も大変だなーとも。でも、記念展の会場に予定する日光市杉並木公園ギャラリーについて、概要、外観写真、ギャラリー内部がわかる写真など、いずれも大事で必要な情報を伝えたつもりだ。

加えて日光霧降高原の富岡邸で実施した「311のキャンドルナイトin日光」の資料や写真、今年5月26日(日)に日光市中央公民館中ホールで開催する「さよなら原発!日光の会」第12回総会記念講演会「『東海第二原発の現在地ー能登半島地震が突き付けた現実とは?ー』のフライヤー原版も加えた。この講演会は日光市と日光市教育委員会に後援申請中であることも。

さらに古書店図書室「霧降文庫」(私が運営)のオープンは今月の4月28日(日)であること、この少し後の5月上旬~5月中旬に「霧降文庫」がある霧降高原別荘地は一帯が満開の「ヤマツツジ」に包まれ、まるで「桃源郷」になるということを伝えた。その時期に時間があったら、「霧降文庫」で珈琲でも楽しみに、というお誘いもしておいた。ということで、序説第31号 連絡(その1)と杉並木公園ギャラリーの使用申請書(案)、同事業計画書(案)を、一足先にアップすることに。同人は来週の4月10日か11日に手にすることだろうー。434648164_7247819868680131_3618807390255

 

 

 

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2024年4月 4日 (木)

「序説」創刊50周年記念展を10月10日~10月16日に   日光市の「杉並木公園ギャラリー」を会場に

同人誌「序説」創刊50周年記念展は今年10月10日(木)~10月16日(水)の一週間、同人事務局がある日光市の杉並木公園ギャラリーで開くことを決めました。同ギャラリーは東武線上今市駅併設の日光市管理の文化発信施設。1974年冬の増刊号から今年9月1日発刊の第31号までの表紙画ー大半を同人の美術家が毎回、オリジナル作品を描いていますーや創刊号から第31号までの冊子などを展示する予定だ。まずは会場確保から。周知のフライヤーなどの案内はこれからじっくりと。同人は栃木、群馬、茨城、福島の各県に散らばっているので、会場の受付、管理、案内が手薄になるのは必死ー。さて、これをどうクリアしていくか?、これから考えることにします。「見る前に跳べ」の言葉を思い浮かべた(笑い)ー。同人には6日(土)にもその創刊50周年記念展の資料など計20枚にものぼる「序説第31号連絡 その(1)」を投函することにし434648164_7247819868680131_3618807390255 たいー。

2024年2月11日 (日)

今夏に「創刊50周年!記念号」を発刊へ    同人誌「序説」の仲間の連絡は21頁にも

社会派同人誌「序説」の事務局として、同人、準同人の計11人に(私を入れて12人)「序説第30号連絡 その3」を分厚い封筒で送った。連絡をするのは昨夏以来なので報告することがたくさんあり、報告だけでA4判4ページも。さらに関連する資料を加えると、計21ページにも。第30号に対する寄贈先からの感想報告や御礼、第30号収支決算報告、創刊50周年になる次号第31号特集の組み方、創刊50周年記念の写真展計画、その写真展に対する準同人たちのカンパ報告、継続署名に協力してもらった日光市甲状腺検査事業打ちきり問題の今後の対応方針、海洋汚染水差止め訴訟の原告に同人のひとりが加わったことなど。それに私事ながら、恐縮しながら、私の「胃がん完全治癒」報告も。

寄贈先は詩人や知人、図書館、文学館など45冊ぐらいだが、残念なことにその寄贈先の方々の訃報が次々と。準同人だった足利市の大学教師(地理学)兼法楽寺住職の川島洋男さん、「新・現代詩」で活躍していた確か川崎市の詩人西村啓子さん、衆院議員や鹿沼市教育長を務めた小林守さん。昨年度は福島県を代表する詩人、若松丈太郎さんが死去している。いずれも親族から訃報のはがきが事務局に。1974年冬の創刊から半世紀。今や「歴史」になりつつある同人誌に。かつては若かった関係者がひとりずつ「退場」していくのも、時の流れで、仕方ないのかもしれない。以前には恩師で同人だった中込道夫さん(政治学)、福沢宗道さん(都市計画)のふたりの大学教授も失っている。それにしても、やはり残念というか、寂しいというかー。 426576525_7032434896885297_4243575480580 426626492_7032519346876852_3240478028662 427898661_7032519350210185_8866035794197

2023年9月16日 (土)

人間にはひとりひとりの居場所と出番が必要だと   同人誌「序説第48号」 野村タカオ

新型コロナウイルスの感染対策も2類から5類に引き下げられ、生活環境も以前とは変わり、精神的にも少し楽になったような気がする。しかし自身の生活を振り返るとマスクや手洗いなどの基本的な対策は、気がかりなので、今まで通り実施している。また外出についても必要最小限の市内の移動程度で、用事を済ませている状況である。

テレビニュースでは、連休中の話題として観光地での訪日客の賑わいの状況を連日報道していたが、誘惑されることなく自宅で過ごしていた。

普段の生活は、今や毎日が日曜日と言いたいところだが、一週間のうち水曜日と金曜日は、老人会のグラウンドゴルフの練習を行い木曜日は、高齢者中心とした「居場所づくり」として町内の集会所で、十五名程の参加者の方々とフレイル予防対策として、おしゃべりや、健康体操、輪投げ、スマイルボウリング等を行い楽しんでいる。自分は、まだ前期高齢者であるが数年で、後期高齢者と成るのは、目に見えている。高齢者の中でもまだ若手として、何かPhoto_20230918010801 につけて用を頼まれ動かざるを得ない立場となっている。その中で感じたことは、多くの人とつながりを持つことで、高齢者の孤独感や不安感を少しでも軽減が出来ること、そして一人一人の居場所と出番が人間には必要なことであると改めて感じた。

 最近になって、年を取るという事は、新たな出会いよりもずっと別れる事の方が多くなっており寂しい限りである。

 また舞朝起きて洗面所で顔を覗くと日に日に地球の重力に長年さらされた頬の皮膚が徐々に下がり、シワやほうれい線は益々濃くなり、眉毛は長く伸び垂れ下がってきている自分の顔を見て、本当に年には勝てないと納得してしまう。最近は特に視力が、悪くなり新聞や雑誌パソコンなどの作業が辛くなってきている。体力、気力も薄れ何か新たなものに挑戦するなど考えられない状況である。現在の体力を如何に維持させるかで、精一杯である。

 退職後は、嫌なことは避け好きなことだけをしてストレスの無い生活をしていきたいと思っていたが、無理な話であった。今や仕事もなく金を稼ぐことも出来ない人間であるが、しっかり三度のご飯だけ食べる老人として、煙たがられる存在となってしまった。

 時々人間の一生とは何なのか?限りない宇宙の世界からすれば、一人の一生は瞬間でしかないという虚しさを感じてしまう。誰かが言っていた人間の一生とは、自分探しの旅である。何者かに生かされ、死ぬ時まで何があるかその時まで、解からない。限りある命を生きるしかないと、死後の世界は、存在するかどうかも解らない「死んだら無になるしかない」と言っていた。気になる言葉であった(野村タカオ)

2023年8月20日 (日)

「寒い国のラーゲリで父は死んだ」   表現の周辺 十五 冨岡弘(「序説第30号」)

表現の周辺 一五  冨岡 弘  

     (お金儲けの話)

 国際政治学者そして山猫総合研究所代表、おまけに、菅前首相が設置した成長戦略会議のメンバーでもあった三浦瑠麗氏の名前は、誰でも一度は、耳にした事があるだろうが、その夫である三浦清志氏の名前を、知っている人は少ないと思われる。瑠麗氏は、テレビで見かける事もここ数年は珍しくなく、マスコミの露出度も、結構高かった様に記憶している。一方清志氏は、実業家なのでマスコミに取り上げられることは、殆んどなかったであろう。その目立つ事のなかった清志氏の自宅・職場が、東京地検特捜部により、今年一月に捜査を受けた。太陽光発電事業をめぐるトラブルが引き金になったのだ。清志氏が代表を務めるトライベイキャピタルを、メタキャピタルという投資会社が詐欺容疑で告訴したことが、きっかけになっていると考えられる。他にもトライベイは太陽光発電事業をめぐり、トラブルを幾つも抱えていたもようである。メタはトライベイに十億円を出資したにも関わらず、トライベイによるプロジェクトの進展が見られない疑いが濃厚になり、告訴に踏み切ったのであろう。

 三月になると東京地検特捜部は、三浦清志氏を、四億二千万円横領の疑いで起訴した。産経新聞の記事では、

 

  (起訴状などによると、令和元年一〇月4日から同24日までの間、トライベイの債務を弁済するため、口座の管理などを任されていた合同会社から三回にわたりトライベイ社の口座に振り込み送金させ、計四億二千万円を横領したとしている。

  関係者によると、三浦被告は兵庫県内で計画していた太陽光発電事業を巡って業者とトラブルになっていた。特捜部は今年一月に関係先を家宅捜査。今月七日に業務上横領容疑で三浦被告を逮捕していた。

  三浦被告は逮捕後も一貫して容疑を否認。調べに対し、振り込まれた四億二千万円について報酬との認識を示し、私的に流用はしておらず[別の太陽光発電事業の返済に充てた]などと供述しているという。)

 

 妻である瑠麗氏は、何かとその派手な暮らしぶりがネット上で話題になることが多く、

 (どんなに忙しくても、昼下がりにはちゃんと歩いてシャンパンを飲みにいくわたし、えらいわ。)

 これは彼女のツイ―トなのだが、これを見てしまった私は、凄く贅沢に感じてしまう。こんな日常を送っている人もいるのかなあとある意味感心してしまった。正に成功者のあかしなのだ。お気に入りのシャネルの黒いバック、ブルガリのサングラス、イタリアブランドのドルチェ&ガッバーナの花柄ドレスをさっそうと着こなし、昼下がりにシャンパン。ちなみに旦那はモンクレールがお気に入りみたいです。住まいは、当然六本木ヒルズレジデンスの高層階で、成功者としてはあたりまえなのだろう。それからクルーザーでのクルージング、別荘は、もちろん軽井沢。まさに絵に描いたような生活。だが、ちょっと立ち止まって考えたとき、これって私のような庶民が描くであろう、ありがちな金持ち像ではないのか。ブランドで身を包み、タワマンに住み、クルーザーで遊び、軽井沢に別荘。ひょっとしてこの夫婦は、もともと百パーセントまじりっけなしの庶民だったのではないか。まさにズブズブの成り上がり者だったのかもと思える。別に成り上がりが悪い訳でもなく、矢沢永吉もそんな本を書いているが、彼は自分の努力で成り上がったのだから、自慢しておおいに結構だ。三浦夫妻の場合、その豪華な生活の裏づけとなるお金の流れがどうもあやしく、まともに得た利益ではなく、トライベイに出資したお金の一部を横領して、私的に使ってしまったのではないかと思わせてしまう暮らしぶり。特捜部の起訴により今後明らかにされるであろう。

 だが話はまだ終わらない。実は特捜部の最終の狙いは三浦夫妻ではなく、それはたんなる入り口である筈だと見ているジャーナリストは少なくない。特捜部が動く時は、必ず影に隠れた大物政治家がターゲットになっている場合がおおく、そこにたどり着けるかが最大の関心事なのだ。四億二千万の横領は我々にとっては大金だが、特捜部にとっては本命ではないのだ。

 二〇二〇年に、菅前首相が設置した成長戦略会議のメンバーだった三浦瑠麗は、会議で何度か太陽光発電を推進する発言をしていたことが、明らかになっている。夫が起訴されたとき、夫の事業には全く関わりを持っていないと発言していたが、会議ではむしろ夫の事業を後押しするような発言をしている。この事は矛盾していないだろうか。しかも四月になると、フライデーのスクープで、三浦瑠麗の会社山猫総合研究所と、夫の会社トライベイが、コンサルティング契約していた書類の存在が明らかになり、山猫側に三八五万円支払われていた。契約書は二〇二〇年九月4日の日付になっている。関係ないどころの話ではないことが明白になった。あとは菅前首相と三浦瑠麗が、太陽光発電をめぐりどの様な関係になっていたのかが問題で、ここは特捜部の腕の見せ所である。

 太陽光発電事業をめぐる多額の資金の流れには、安倍前首相時代からの金融緩和政策が、影響しているという見方をする人がいる。私もその見方には同意する。ある意味、金余り現象で、銀行には貸し出すあてのない金がもたついているのだ。預貸率と言って、銀行の貸し出したお金の金額と、預金残高の比率を言うのだが、健全な運営が成されている銀行は預貸率が高いわけで、つまり様々な処に貸出しをしているわけで、それによって銀行は利益を得る。反対に預貸率が五割程度の低さであれば銀行はあまり儲けが出にくい。ただ日本の場合借り手がなかなか見つけ難いのが現状らしい。企業活動が活発ならば借り手も多くいる筈で、停滞ぎみの日本経済は借り手が少ないのが現状だろう。そうなると銀行もハードルを下げざるを得ない。事業者には超低金利でしかも無担保で貸し出すこともあるらしい。そうした金融環境を利用して調達した資金の一部が、太陽光発電事業にも流れてきたのであろう。投資会社は億単位の資金を調達して、トライベイの様な太陽光発電開発事業者に融資をして、発電事業による利益の一部をいただく。こんな構図が見えてくる。銀行が資金を貸し、投資会社が借りた資金を太陽光発電開発事業者に融資をする、この流れが健全に行われていればさほど問題にはならないはずである。ただトライベイ代表の三浦清志氏の起訴により、やはり不正が行われていたとする疑いが濃厚になって来ている。

安倍前首相と日銀の共同歩調による、大規模超低金利政策のあだ花の一つがトライベイ事案なのだろう。地球の環境問題の改善がさけばれている昨今、脱炭素社会を目指そうと各国が努力をしてしる時期に、環境に配慮した太陽光発電はいかにも口当たりの良いプロジェクトにみえる。ただ、あざとい連中は、環境・サステナブルなどの時代のトレンドも巧みに取り込み、金儲けの道具として利用してしまう。疑ってしまえば、太陽光に限らず、風力発電も裏に何かが有り得て、時すでに遅し、でない事を願っている。

安倍政権時代の金融緩和策がとんでもない処に飛び火して、金儲けのネタにされてしまった訳だ。そして、立ち止まって考えたとき、三浦清志氏の起訴も、皮肉なことに安倍晋三氏の死去がなかったら、有り得なかったかもしれない。安倍晋三という重い蓋が外されて、特捜部は行動の自由を得たのではないか。太陽光発電をめぐる疑惑は、安倍氏の金融緩和策、そして安倍氏の死去、その両方が微妙に関係して表面化したと言えるのではないか。

 

   (たまにつぶやく)

私はツイッターに時々気が向くと投稿する。最近では島田雅彦氏のネット放送「エアレボリューション」での安倍銃撃事件に関して「暗殺が成功してよかった」と島田氏が発言して騒ぎになり、それを受けてツイッタ―で島田氏は

 

「しかし彼らにネガティブ・キャンペーンを展開する余地を与えたのは私の不徳の致すところであり、いわれなき中傷を受けた学生諸氏、教員、職員の皆さんにご迷惑をお掛けしたことを陳謝するとともに、皆さんの名誉を守る努力を以て償いたいと思います。」

 

こんな投稿がされていた。これは彼がある大学の教授であり、その立場を考慮しての謝罪なのだろう。この投稿に対して私は、こんな投稿をした。

 

「島田さん、ここは潔く教授を退き、仕切り直したほうがいい。

作家に専念すべきだし、引き潮に流されて見える風景を小説に書けば良い。先生にしがみつくな。」

 

こんな内容である。島田教授の立場での発言はそうなるだろうが、一方彼は作家なのだ。「暗殺」発言が作家或は個人としての本音に近いものならば、世間の批判に対して堂々と反論して欲しい。彼の発言は、軽率にも先生としての立場を飛び越えてしまって、後から事の重大さに気付いたのであろう。大学などという組織に属していると、何時も何処かに無意識に窮屈さというストレスを内部に抱えてしまっていた。そのジレンマから、つい本音が出てしまったのだろうと私は勝手に推測した。組織を退きタダの個人に戻った時、本当の自分が見えてくるはずだし、その方が作家として自立出来るのではないか。

 

 

 ジャニー喜多川のセクハラ問題が、ネットを騒がしている。私は、ユーチューブの幾つかのチャンネルをチェツクしてみた感想は、たんなる芸能ゴシップネタではなく、根の深い問題が隠されていることに気付かされた。これは日本の主にテレビ・新聞などの報道に関わる問題がそこに隠れているのだ。我々は一般的にテレビ・新聞を毎日のように見聞きしているが、やはり報道各社は自社に不利益になる事が予想される内容の情報があったとき、各社暗黙の了解の如く報道を避けてしまう事になる。まさにジャニー喜多川のセクハラ問題はそれに当たり、各社が長年避けてきたと推測される。口火を切ったのはBBCで、性被害者のインタビューを報じたのだった。日本の報道各社は、スポンサーとの関係があり、長年に亘り及び腰になってきたようなのだ。例えばテレビでは、番組のスポンサーのコマーシャルに、ジャニーズのタレントを起用していると、スポンサーに忖度して、ジャニー喜多川問題を避けて通るのが暗黙の了解になっていたようなのだ。これは最近の事ではなく、数十年前からのはなしらしい。ジャニー喜多川問題は、業界人なら多くの人が認識していて、それでも尚、野放し状態が相当長い期間続いていたことは、かなり酷いはなしである。大人達は、少年の性被害を黙認してきたのだ。

 近田春夫のツイートでこんなのがある。

 

  「俺はジャニーさんもメリーさんも人間としては大好きだったけれど、BBCの報道が、決して誇張ではないことも、個人的には確かだと思う。」

 

 そのツイートに対して私は次のように引用ツイートした。

 

  「美意識はあった方がいいに決まっている。しかしそれが余りにも無軌道にはたらくと、美は瞬く間に自滅する。」

 

 この様につぶやいた。近田春夫は作曲家そしてミュージシャンでもあるので、ジャニー喜多川と仕事上の付き合いがあり、喜多川の裏の顔も知っていたのだろう。

 大人達の身勝手な営利追求の為に、少年達が性的被害を長年にわたり受けてしまっていた事実を、報道してこなかったマスコミにも大いに責任がある。

 五月になりテレビでは、相当弱腰にこの件の報道が成される様になったが、一応報道しましたよ、程度の内容である。アリバイ工作的なやり口でお茶を濁そうとしている。どうでもいいようなニュースは、連日厭きるほどたれ流すが、都合の悪いものは極々控え目に、これでは我々国民は、何を信用したらいいのか、路頭に迷ってしまう。新聞・テレビなどの、国民が日常頼りにする機会が多いいメディアは、真面目に考えてほしい。

 

 高橋幸宏が亡くなった。今年一月に逝ってしまった。

彼は軽井沢の自宅からインスタでペットの愛犬、そして自身の写真もたびたびアップしていた。去年の秋口あたりから、どうも幸宏氏が痩せてきてしまった印象が強かったし、眼力も心なしか弱く、一瞬不安がよぎってしまった。訃報を聞いた時やはりと思った。

 彼とは、生まれた年が同じで、妙な親近感があった。彼を知ったのは、私が二十歳代の頃だったとおもう。サディスティツクミカバンドのメンバーとしてである。今でも大切にしているレコードの一枚がミカバンドのアルバムである。そのアルバムジャケットに、彼もミカの隣の左端に写っている。東洋丸出しの絵柄が描かれているタイル張り銭湯を背景に、四人のメンバーが写っている。銭湯で撮影した狙いは、多分、世界進出を狙っての演出であることが読み取れる。確かミカバンドは、1970年代にイギリスでライブ活動したように記憶している。曖昧な記憶だが。その後の彼の活躍は、本当に世界的なものになったことは皆知るところである。

 

  高橋幸宏永遠に

  素敵な音楽ありがとう

 

 これが私の彼へのツイートです。献花のつもりで、出来たての私のデジタルアート作品も添付した。

 

     (戦争の記憶)

 長年の友達であるSさんからメールが今年の三月に届いた。彼女の夫である山本顕一氏が昨年一二月に出版した「寒い国のラーゲリで父は死んだ」というタイトルの本について、ユーチューブの昇吉春風亭チャンネルで、顕一氏と落語家昇吉さんとの対談の様子が配信されているので、観てねという内容であった。

 早速観ることにした。当然本に関する話が中心であるが、重い内容の話だろうと勝手に想像していたにも関わらず、意外と淡々と語られていることに少し驚いた。

 この本は、顕一氏の父幡男さんと母モジミさんを中心に戦前戦後の山本家の想像し難い苦労の物語が綴られている。勿論ノンフィクションであり、小説などではない。

幡男は一九三六年満鉄調査部勤務で一家を伴い満州国に移住した。その後、日本の敗戦をきっかけにソ連の捕虜となり、一九四六年スヴェルドルフスクに到着した。そこで幡男は捕虜仲間と励まし合いながら、生きて日本へ帰還する決意を捨てる事無く持ち続けた。幡男は、ロシア語が堪能だったため、通訳の任務に就きながら、ソ連から得た少しでも希望の持てる情報を手書きの壁新聞に記載して、捕虜仲間に提供した。アムール句会と銘打って句会も主宰して、俳号は「北溟子」であった。精神が荒まぬよう先頭に立って仲間を導いた。人望が厚い人物であったことは、容易に想像出来る。しかし、運命は残酷であった。一九五四年二月に末期癌と告げられる。諦めないで過酷な日々を過してきたにもかかわらず、最期は誰にも看取られず、ハバロフスクのラーゲリの病室で息を引きとった。一九五四年八月二十五日午後一時三十分。

 

「昨年辺見じゅん原作の[ラーゲリより愛を込めて]と言う映画が公開されたが、主演の二宮和也が幡男役を演じている。」

 

一方、妻モジミは夫を大陸に残したまま、1946年に子供4人を連れて生まれ故郷の島根県隠岐島に引き揚げてきた。ほっとする暇もなく、生活のために魚の行商を思いつき、すぐさま仕事を始めたのだった。子供達を寝かしつけた後、午前二時に家を出て、片道一六キロの暗い道のりを漁港に向かい魚を仕入れた。女性なので相当恐い道のりであったであろう。幸い仕入れた魚は評判もよくまたたく間に完売したそうである。

一九四七年四月から、モジミは五箇小学校に復職できて生活も安定した。元もと彼女は満州に渡る前は教員であったため復職も早く出来たのだろう。

 

81salpvjrkl_ac_uf10001000_ql80_ 余談になるが、私は学生の頃に序説同人である高橋君と、山陰旅行で隠岐島を訪れたことがある。季節は夏で、島の裏側の人影のない入り江で、二人だけで海水浴を楽しんだ。まさに小さな入り江は、我々だけのものであった。今でもあの時の深い海の青さは、脳裏に刻まれている。能天気な若者二人はその時、こんな綺麗な島に、山本家の苦難の歴史が隠されていようことなど、微塵も感じ得なかった。)

 

やがて長男の顕一氏が高校受験で松江の高校を希望したため、母モジミは、松江の小学校に転職をする。一家も松江に移り住むことになる。そして時間はまたたく間に過ぎ、大学受験となる訳だが、顕一氏は東京の大学を目指す事になり、一家はまたしても引っ越しをして埼玉県大宮に転居した。モジミは大宮市の聾学校に転職が決まる。凄いとおもったのは、子供の教育のための、母モジミの苦労をおしまない行動力である。努力は実り見事顕一氏は東京大学に合格した。

「寒い国のラーゲリで父は死んだ」は、父幡男の悲運の物語であると同時に、母モジミの苦労と努力の物語であるともいえる。表紙には、香月泰男のシベリアシリーズの絵画が使用されていて、少し重苦し印象を与える装丁になっているので覚悟して読んだ。しかしその予想は見事外れ、意外とすらすらと読み終えることができた。こんな表現が適切かどうか迷ってしまうが、モジミさんの生き方に私は元気をいただいた。

 

本文には、幡男さんの残した多くの俳句、そして、家族への遺文も掲載されています。興味を持たれた方は、是非読んでみて下さい。

 

2023年8月15日 (火)

エッセイ 会津鉄道の観光列車に乗りました  同人誌「序説第30号」安斎博

同人誌「序説第30号」(8月1日発行)

会津鉄道の観光列車に乗りました    安斎博

 

会津鉄道の観光列車は、市街地を走り抜けると、やがて田んぼの真ん中を走り始めるのです。休みをめがけてこの列車に乗ってみたいと言い出したのはもちろん奥さんです。それを嫌がっているのではありません。何故って、その誘いがなかったら絶対と言っていいでしょう、さしたる用事のある筈もない会津鉄道の列車に乗り込む事はないからです。奥さんに誘われたから乗れた、と言うのが正直な処なのです。真逆の好みと好奇心からの誘い程突飛で斬新で心踊る事はありません。

 会津若松から南へ、田島を越えて栃木の銅の採掘で名を馳せた足尾へ、日光から浅草へと繋がっているというのですから、不思議を通り越して頭を捻って考え込んでしまう路線なのです。よくもまぁ繋げたものだと、驚いて感心する以外感想はありません。

 山がすぐそこまで迫っている風景は、東北本線の沿線で生活している人間には珍しいばかりの眺めです。列車に乗って窓に顔を近づけて上を見上げなければ山の頂が望めないなどということは、ついぞ経験したことがないのです。山は、それが那須連峰であれ、安達太良であれ吾妻であれ、ずっと彼方に眺められるものでしょう。山間をぬって走り、曲がりくねった線路を、谷を越えトンネル続きの鉄道など経験がないのです。

そんな会津の山々を眺めながら連想しますに、その新緑の素晴らしさはいかばかりかと想像されますし、紅葉の鮮やかさも感嘆の連続だろうと思われて、経験を越える美しさに思いを馳せて、興奮を禁じ得ないのです。そんな風景を思い浮かべながら、でも、濃い緑の山に抱かれて蕎麦の白い花が咲く風景も又いいと思えて、今の風景も贅沢な景色だと感じているのです。

列車はすぐに上り坂の線路を走り始め、山中へと入っていくのです。雪が多いだろうことは、家々の造りをみれば想像に難くありません。大きな屋根と、太い柱の組み合わせと、白壁の様子は、辺りの風景に入り込んでいて、それは此処会津独特の風景にもなっているのです。版画家斎藤清のちょっと昔風に描かれた思い出の会津の絵と見比べてみても頷けることでしょう。

列車は覆うように逞しく伸びた木々の枝葉をかき分けるように進み始めます。ちょっとした谷間で視界を戻したかと思う途端に、トンネルへと潜り込んでいくのです。次の瞬間には突然に一面の稲穂と蕎麦の白い花が目に飛び込んできたりしてめまぐるしくて楽しいのでした。思い込みから、この辺りは穀倉地帯だと決めていましたから、こんなにもたくさんの蕎麦畑があるとは思いもよらない事でした。その間にまるでおもちゃのように小さな駅が設けられているのでした。

芦の牧温泉駅には猫の駅長さんがいるのです。何でもない猫までもが駅長さんだというだけで人が集まってくる処は世の不思議というものでしょう。駅に隣接して古い車両を改造した鉄道博物館が質素に設けられているのです。その展示物こそ、さして鉄道ファンでなくともひと時心を和ませてくれる懐かしさが漂っていて嬉しいのです。管理をしているおじさんの元気のよさも嬉しいのです。

塔のへつり駅は無人駅です。湯野上温泉駅は日本でただひとつの藁ぶき屋根の駅舎です。その駅前にあるお土産屋兼雑貨屋さんとおぼしきお店は、何十年も前から飾られて売れる事のなかった商品がそのまま、色褪せにもかかわらず埃を被ってずっと展示されているのです。週刊誌で若者に騒がれる関東圏のお店とは真逆のお店といっていいでしょう。一見首を傾げたくなるような不思議なお店といっていいのです。

昔地元の人たちが使っただろうウナギを採るための罠や、わら細工の日傘や、いつ販売され始めた物なのかも分からない玩具がそのままの姿で店に並んでいるのです。覗き込みましたら、ずっと昔、火を点けた炭を入れて使ったアイロンまでもが、古ぼけた紙の箱のまま並んでいるのでした。これなど、若い人たちに説明をしても理解してはもらえない商品でしょう。とにかく、気に入ったものがあったら買って下さい、といった店なのです。

それとなく眺めていましたら、奥からおじいさんが顔を出して、突然に口上を語り始めるのです。『この二つの“起き上がり小法師”は、赤は火、青は水を表していて、赤い小法師は立たせずに寝かせて置きなさい。火を立たせてはいけません。火の用心のお守りです』と唾を飛ばしながら説明し始めるのです。竹で作られたダイコンおろし器、藁を編んで丸く作られた鍋敷き、と次々に進めて来るのです。

その癖こちらが反応を示さないと、言うだけ言ってさっさと口を噤(つぐ)んでしまうところが、お客さん方に嫌われない秘訣なのだと感心させられるのでした。誰もいない店先で、最初の客で、半分サクラにでもなった気分で付き合っていましたら、やがて一人二人とお客さんが寄ってきて集まってくるといった調子です。

列車とすれ違うために停まっている間に、町の法人の制服を身につけたおばさんが、微笑みながら車内販売に乗り込んでも来るのでした。見ましたら鱒バーガーだというのです。『とっても美味しい』と保障するのです。そうまで言われたら是非にも買いましょう。それもまた観光列車の楽しみというものです。しばらくして列車が走り出してから、奥さんとふたり半分ずつ食べながら列車の旅を続けたのでした。

会津の人たちは、我が町から何処へ行けるかを考え続けたのでしょう。此処へもあそこにも行ける道を繋ぎ続けたのです。それは、東北本線の途中にある街の人たちの、偶然にも関東地方と繋がってしまって便利になったと喜んでいるのとは違っていると思います。誇り高く郷土愛に燃えた会津の人たちにとって大事だったことは、此処から何処へ行けるのか、此処へ何処から繋がっているのかが大事な事だったのでしょう。偶然にも道路で繋がったことで納得できる事ではなかったのだと思います。途中の道案内の標識を眺めていますと、首を傾げたくなる程に多くの行先に続く道への案内なのでした。其処へと続く道を願い、作り続けたのです。

列車は観光トロッコ列車で、先頭車両が展望列車、次がトロッコ列車、その後には炬燵が設置できるお座敷列車が続くという楽しい列車なのでした。もちろん、会津に来ていただける人たちを迎えるための列車でもあるのですから、会津に向かって先頭車両が連結されているのは当然のことでしょう。会津からの始発列車は、ですから逆送する形なのです。 

奥さんはひとり、その先頭の展望座席に、運転手さんと同じ目線の座席に座って、『此処がいい』と言い張って、前を見据えて黙って列車に揺られ続けているのでした。運転手さんは、指で運行指令を確認しながら時に汽笛を鳴らし、細かく列車の速さをコントロールさせながら列車を走らせ続けているのでした。

 

 

 

老人の「孤独」について思うのです

 

若い頃に、当時の年寄りがよく『みんな夢のようだ』と呟いていたのを聞いて、単純に時の流れの速さを語っているのだと、そう思っていたのです。でも、自らがその歳になってみますと、そういう解釈はちょっと違っていると思うようになって来ました。

 若い人にとっては、手にするもの見えているもの、触れるものその全てが確かな存在に裏打ちされていて、そのありように何の疑問も持たずにその重さを実感していたのですが、歳をとると、その重みが消えていくということに気がついたのです。

 まずは恋愛感情でしょうか。もうその舞台に自分がいない事を身に沁みて分かった身には、重さを失くし、全てが幻の影に過ぎないと思ってしまうのです。何をどのように細工しても意味がなく、結果ばかりが先に思い浮かんで、少しの満足も見いだせないのです。

 もうひとつ、目の前で起こっている事に対する感覚が、ボケのおじさんの感性のように感じられ始めて、自信を無くしてしまっているのです。若者から、『何だボケのおじさんのボケた感想だ』と思われてはいないかと疑心暗鬼になって、切り捨てられているように感じられて、自分の存在そのものの確かさを失っていくようで辛いのです。何の存在意味もない人間程、空しくて悲しくて無意味なものはないでしょう。

 『老人の孤独』というのはこういう事なのだと、やっと、今頃になって思い知らされているのです。価値の見いだせないことほど辛いものはありませんでしょう。

 あんなにも確かに自分の感性に自信を持って、少しの疑念も持たずに語っていた事が、脆く崩れていくのです。それは自分自身の価値が消えていく事に他なりません。誰をも頼れない事の不安が、肩を頭を腕を足を胸を委縮させるのです。

 何を思っても、何を語っても、どんなに小さな事に対する感想であれ、目の前の相手を納得させられない事には、何の意味もない事なのだと思い知らされることほど辛い事はありませんでしょう。世界が消滅していくのです。

 後はもう自分を閉ざし、何をも聞き入れる事もなく、偏屈な老人だと思われるきりないでしょう。

 若いお嬢さんとの仕事の話の合間に入れた冗談への反応に、ほんの少しの間を感じてしまった事の寂寞感は、どのような言葉で慰められても心に響いて悲しいのです。若者との仕事への取り組みについての意見の違いを、どう説明しても乗り越えられないと思われた時の絶望は、すぐ傍にいる若者との距離を永遠なものに感じてしまう一瞬です。

 その隙間を埋める手段を見つけ出せないばかりか、焦れば焦る程に離れていく事を感じ取った時の空しさは言葉では言い表せない程の悔しさです。愛想笑いをしているのを感じながら、それに立ち向かえない自分を見つめているのは、悲しいばかりの現実です。

 「いつも元気でいいですね」と言う慰めの言葉の空しさが心に響いて取り返しもつかないのです。国に対する感覚も、政治に対する期待も願望も、仕事による生活のやり方も、大きく見て人生についての指針も、何もかもがすれ違っていて会話が成立しないのです。そのまま又、何食わぬ顔で、いち社会人として付き合わなければならない関係が、年上の自分を孤独にし続けているのです。こんなふうに人は現実から無視されていくのだという事を、否応なく思い知らされていくのです。

 「もう、大体いいことにしましょうか」

諦めは空しさの上に成り立ち、悲しさの上に存在させられているのです。

 こうすればもっとよくなると信じてやってきたのです。それがある日、その自分自身が相手にどのように見えているのかを考え始めたのです。それは相手のちょっとした視線の外し方が気になったからです。大した事ではないと言えばそのとおりなのですが、一度気になり出せばもう無視する事は出来ないでしょう。

 相手の脳裏に映し出されているだろう姿への不安から、今までの世界が事もなく崩壊していくのです。

 

 

松任谷由美のコンサートに行ったのです

 

 新潟には万代島美術館があるのです。アメリカの写真家、ソール・ライターの作品展示会が催されていました。1950年代のニューヨークを撮り続けた写真家です。会場には多くの作品が展示されていました。痩せ細って貧相で、スタイルがいいと言われるファッションモデルたち。街角の風景と、その街角に佇む男達、女たち。店のガラス窓に、まるで四方形に切り取られたように半透明で映し出されたった労働者たち。ベンチに座っている女の、ハイ・ヒールを履いたまま投げ出されている、その足だけを切り取って写し出しているのです。車内から撮られているとは気がついていないままの、窓の外側に繰り広げられる人々の生活。ヌードのモデルたちのタバコをくゆらせながらの何気ない有様には、今の自分への不満と、それに負けまいとしながら男のように強がってみせる彼女たちの怒りが滲み出て写しだされているのです。

 加えて、中折れ帽を被って疲れ切った、夢に破れたと思われる男たちの群れなのです。そこには隠しようのない絶望が滲み出ています。もちろん、夢が実現して高笑いで生きていた人たちもたくさんいた筈なのですが、それらの人々の事はソールのレンズには映し出されてはいません。

しかし、アメリカ、1950年代といったら対戦に勝利した自由主義国の一番華やかで希望に満ちた時期であった筈なのです。それが、報道されている記事とは真逆の、厳しい事実に打ちのめされた人々の溢れた街にきり、彼、ソールには見えていないのです。語り切れない不幸があふれ出ている街にきり見えていないのです。微かに心を癒してくれるのは、あどけなくこちらを見つめている少女の表情くらいのものなのです。

 画面を自由に切り取って、それらに思い思いの画像をはめ込んだ現代の絵画の絵画論の発祥の経緯を、街の四角いショウ・ウインドウに写しだされて切り取られた風景で確認しながらも、其処に写された人々の顔には、一欠けらの明るさや希望といったものをも見出せないという、矛盾とも思える乖離なのでした。語られ報道された理想とはあまりにもかけ離れた現実で絶句させられて辛いのでした。

 最近流行りの、その実、実際には随分昔に作られたと思われる、軽やかなダンスを伴って“カモン・ベイビー・アメリカ”と歌っている歌を思い出します。きっとあの頃の自由で豊かなアメリカに憧れて作られた筈の歌だと確信しながら、何故今、その歌が多くの人たちに支持され共感を得ているのかを考えて首を傾げてしまうのです。アメリカばかりではありません、イギリスの混迷とフランスの現状ともギリシャの有様とも無縁ではない筈です。

処で、今日何故新潟を訪れているのかといえば、松任谷由実のコンサートのためなのです。僅かな時間の合間に訪れたのが、建物の最上階に併設されている美術館でのソールの作品展なのでした。彼の見つめ続けたニューヨークとは裏腹な、豊かで夢みるように歌われたユーミンの歌も、華やかで、自由で豊かで底抜けに明るいアメリカの幻想なくしては成り立たない夢の国の物語なのでした。

 その強く明るく歌われていく歌を聴きながら、灯りが消された暗がりに揺れるペン・ライトの波が、彼女にではなく、混迷を続けるアメリカを含んだ世界そのものへの応援のようにも思えてきて寂しいのでした。そんな不安定さの中にあっても、ユーミンの歌は間違いもなく確かに一人で歩き続けているのです。その明るさと確信こそが彼女の歌が持っている夢に他ならないのです。

 アンコールで歌われた“飛行機雲”を、回りの観客には聞こえないように小声で彼女に合わせて口ずさみながら、その水彩画の風景のように淡く歌われている有様が、心の中で膨らんで溢れ出し、闇の中で年甲斐もなく涙に目を潤ませているのでした。全てが淡い夢の物語な筈なのに、『これからも歌い続けます』と言い放つ彼女の強さが、その風景の中に紛れていくようで嬉しくて、全てを蹴散らし、打ち破って進みそうな松任谷由実の決意が、会場に響き渡って人々の歓喜を呼び覚ますのです。

 植え付けられ抱き続けた、豊かで自由な国アメリカの幻想が、遠く離れたこの場所で人々を夢の国へと導き出し奮い立たせている不思議を見つめながら、淡い色の希望という、ユーミンの不思議に包み込まれていくのを感じているのでした。

 コンサートは、変幻自在なサーチ・ライトの中で、現代のサーカスとでも言うべきシルク・ド・ソレイユのアクロバテックなパフォーマンスも加えられて、たくさんの人たちによって共同で創られている夢のエンターテイメントになっているのでした。

 

 

銀山温泉について一言 

 

山沿いの、田が広がる一本の道を走り詰めた谷の奥に“銀山温泉”はあるのです。それまでは山の中の単なる田舎の風景だったのが、急に駐車場や、道の隅のそこかしこに停められた車が増えてきたと感じた途端に『此処から車での侵入は禁止されています』という看板が設置されていて、そこから道路は右脇に反れて尚山の奥へと入り込んでいくのです。道から左へ反れて進みますとすぐそこが憧れの銀山温泉と言う訳です。真ん中を川が流れ、僅かに上り坂になっていて両側にあの、もう日本全国何処でも見ることの出来ない五階建ての木造建築の宿が立ち並んでいると言う訳です。

 この温泉街の何処に今の若者が魅力を感じているのかといいますと『雪景色』だというのです。ちょっと首を傾げてしまう答えと言っていいでしょう。毎年雪が降り生活に苦労している地方に住む身の上としては、好き好んでそんな処へ行きたくなる気持ちが分かるを筈もありません。どちらかと言いますと避けて通りたい事柄に属しているのです。

 真ん中には、この時期大した雨も降った訳でもないのに、小さい川にしては驚く程の水量の水が流れているのです。赤い色の橋が三本もかけられていて、それを渡って対岸へは不便を感じる事もなく行き来する事が出来るという便利さです。でも、昔からの町並みです、車の通行は許されてはいません。眺めていましたら、バイクが使われている事を発見したのです。

 見た事もない昔に紛れ込んだような気分の中を、荷物をぶら下げて目的の宿を探しながら歩いて行きますと、現代とは違う昔に紛れ込んでしまったような感覚に襲われて戸惑うのです。でも、温泉街の中の宿は十数戸とのことですから、大して迷う事もなくすぐにお目当ての宿を探し当てる事が出来る、という処がロマンチックで小さなテーマ・パークのようで愉快なのでした。

 見つけて玄関を覗き込みましたら、すぐ横に“歓迎”の文字盤の脇にお客様の名前が書かれた案内板が出迎えているのでした。『おお』と胸の内で小さく叫び声を上げてしまいます。長い田圃道を走って来た不安がいっぺんに吹き飛んで安心すると同時に、でもこのまますんなりとお客様になってしまうのがもったいないように思えて来て、もう少し迷っていたい気分になってくるのも楽しいのです。躊躇しながら、どうしてもすぐに玄関の引き戸を引く気にはなれませんでした。『今夜の宿はここで間違いなし』と言う訳で、ゆっくりと辺り眺め始めます。

ポケットからスマホを引っ張り出して画面を覗き込んだまま『宿の町並みをバックに記念写真を撮りましょう』と言う事です。見渡しますと、そんな夕方の時刻の事もありましょう、数人のお客さんが、それぞれ探し当てた自分の今夜の宿の前で、同じようにスマホをかざしてシャッターを切っているのでした。

 それにしても古い様子の建物です。四階、五階の宿もあります。見ましたら、“おたふく”姉さんが裃(かみしも)姿で正座している古い像が玄関の飾り窓の中でお出向かいしている宿もあるのです。表の二階の角の壁面には必ず、創業者の名前の書かれた漆喰の看板が設置されているのです。窓の反対の壁面には花を描いた板のキャンバスが設置されている宿屋もあるのです。その当時としては、豪華な、他には類を見ない飾り看板だったのだろうと想像されて愉快なのです。

 『ずっと昔、この辺りの金持ちの旦那たちの遊び場だったのだろうなぁ』などと勝手に余計な事に想像を巡らしてしまうのです。おなご衆を呼び集めて放蕩の限りを尽くしたのかも知れないなどと思ってしまうのです。『あそこの旦那はこんなふうに金をつぎ込んでいるのだ』などという怪しげな噂が噂を呼んで、競り合って財産の限りを尽くして遊び呆けたのだろうとも思ってしまうのです。でもそれも昔の話です。今となってはそんな事を想像する若者はおりませんでしょう。雪を見物に来たカップルにしても、只々別天地のように眺めているだけのことなのです。それもまた新鮮な眺めと言う訳です。

お客様は自分勝手に、ずっと昔を連想して楽しんでいる老人と、ちょっと若さからは外れた、でもまだ中年とは言えない、昔の若者たちの墨絵のような雪景色への憧れと、若者が感じるテーマ・パークへの楽しみとが三種三様入り乱れ、それぞれが知らん顔で微笑み合っているのです。

やっとのことで宿の玄関を入りましたら、この宿の玄関には人の背丈よりも大きな狸の焼き物が迎えているのです。ロビーいっぱいにたくさんのタペストリーで飾られているのでした。それと吊るし雛の人形や玩具で飾られているのです。昔の旅館です。靴を脱いでまずは挨拶をして入りましょう。

 

この宿とは直接には関わりのない事なのですが、是非に申し述べておきたい事があるのです。それは “源泉かけ流し”が嫌いです、と言う事実です。何故、と言って考えてもみて下さい、当然です、お風呂が熱すぎて浸れない事が多いのです。強く主張します。せっかくに温泉に伺ったのです、お風呂くらいゆっくりと安心して入らせてもらいたいのです。それがどうでしょう、温泉雑誌で“源泉かけ流し”でなければ正規の温泉とは言えません、などと主張しそれが受け入れられてからというもの、その風潮が定着してしまって、風呂の温度は調整されることなく、お客に迷惑をかけ続けていて是正される兆候のないのです。それが当然です、とでも言ったように何の疑問も抱かれないまま放置され続けているのです。困ったことと言っていいのです。怒り出したくもなる有様と言っていいでしょう。呆れるくらいです。

超有名といっていい温泉に行った時もそうでした。熱いのがこの温泉の特徴です、とでも言わんばかりに只熱いのです。水で埋めようものなら、まるで軽蔑でもされそうに白い眼で見つめられる有様です。熱いお風呂が好みの方がいて当然でしょうが、暑すぎるのは体によくありませんでしょう。そこのところを理解して欲しいと切に懇願したいのです。入れないお風呂など意味がありませんでしょう。

 

 

知人が亡くなったのです                       

 

知人が亡くなったのです。でもコロナの時勢です。以前のように何のわだかまりもなく新聞に告知される事はありません。誰に知らせる訳でもなく、身内で葬式が執り行われて、注意していないと、他人には亡くなった事さえも知らぬ間に過ぎてしまう事だってあるのです。その全てがコロナの仕業と言っていいでしょう。

 この伝染病は人々が大事にしてきた習慣や生業や、抱いて守り通してきたその思いまでをも、いとも簡単に壊してしまう、そんな理不尽な力を持っているようなのです。恐ろしい事にその捻じ曲げられた事を正そうとしても太刀打ちできない程の強靭な力で押し返してくるのです。何ともならないもどかしさを感じながら、唯々諾々と従わざるを得ない理不尽さが口惜しいばかりなのです。

 知人が亡くなった事を人伝てに知り得たとしても、日ごろの忙しさの中で気ばかり焦って、お悔やみの一言さえも伝えられぬままになってしまうのです。気になっていながら挨拶も出来ぬまま時間が過ぎて、申し訳ない思いばかりが募って、人を中途半端な気分のまま置いてきぼりにするのです。

やっとの事で花を届けて『家族葬で執り行いました。わざわざありがとうございます』と玄関口でお礼の挨拶をいただくような事にもなるのです。親しくして頂いた方にお別れさえも言えない寂しさが、身を切るように切ないのです。仏前で寂しさを語るのではなく、自分の部屋でひとりその方を思って、もうお会いする事も叶わない寂しさの中で、辛さばかりが耐え難く切ないのです。

 生きていて、どんな時にも人との別れから解き放たれる事がないのを分かっていながら、でも家族の人たちにだけ見送られて旅立っていかなければならない悲しさを思うと、仲間ばかりではなく本人もきっと切ないだろうと想像してしまうのです。一緒にひとつの時代を過ごし、喜びや悲しさを共にして、世話になった仲間が置いてきぼりを食らうことが寂しく、耐え難く辛いのです。

 そんな別れを繰り返すうちに、人は今までに加えて、どんな苦しさを背負い引きずり歩かねばならなくなるのかを思うと、人そのものの在り様をさえ変えてしまうだろうと思えて辛いのです。

 悔しいのですがその方との別れはこのまま取り返す事も出来ないのですが、またいつの日か、以前のように、たくさんの世話になった人たちに見送られての別れを取り戻りたいと、切に願って止みません。果たしてそんな日が戻って来るものなのでしょうか。それはいつの事になりましょうか。いえ、戻さなければいけないと、それでなくてはとてもこの悲しさに耐えられないと感じているのです。

例えそれがどんなに辛い別れであろうとも、せめて知人みんなで分かちあえる、そんな幸せがあっていいと願っているのです。

 

 

会津について

 

会津、磐梯町には恵日寺というお寺があるのです。平安時代、徳一という高僧が開いたお寺です。やがて大きな宗教都市へと発展していくのです。元来コメの生産地であり強い経済力のあった所です。お坊さんの兵隊が千人もいたというのですから、強い政治力をも持った宗教集団だったと思われます。

 その寺が平家の庇護を受けていたと言う事が、後になって災いする事になるのです。源平が覇権を争う事態になり、平家が破れその事でお寺は衰退の一途を辿る事になるのです。

 実は、会津地方に落人部落がある事に気がついていたのですが、その訳がどうにも解せなかったのです。まさか平安京から此処まで逃げてきたわけでもないでしょうし、落人を此処まで追ってきたわけでもないだろうと思っていたのです。やっと解りました。つまり、平家の落人とはこのお寺の関係者なのだと言う事だったのです。

 近日、その本堂が再建されたと聞いて見学に行ったのです。成程大きくて立派な建物でした。もっと驚いたのは、その本堂の周りに、もっとたくさんの建物の土台石が発掘されて残っているという事実です。山全体を覆う程の建物群なのでした。

如何に独立した政府が確立していない頃の事とはいえ、いろんな意味で、兵隊までも持っているお寺の運営には、相当に危ない判断と難しい政治力が必要だったのだろうと想像されて、今とはちょっと違う宗教団体の在り様を思って肩をすぼめたくもなったのです。

知人が以前仕事で訪れて、その落人部落でソバを食べてきましたと教えてくれたのです。成程と納得して、今度は、折をみてその蕎麦を食べてみたいと思ったのです。

もうひとつ語ります。

 猪苗代の町には、どうしたことでしょう、会津藩の初代の藩主、保科正之を祀った神社があるのです。土津(はにつ)神社です。その本殿の裏山を登る事450メートル。きれいに整備された石畳の道で、高い杉林の中をいった先にお墓はあるのです。

 立派な趣のあるお墓です。ただ、初代藩主のお墓が何故此処でなければならないのかが分からなかったのです。会津の、せめてお城の見える処にでもつくるべきでしょう。考えても分かりませんでした。その事を口コミに投書したのです。そうしましたら驚きです。神主さんから返事がきたのです。曰く、『あの場所が会津の鬼門なのです。藩主自らがそれを守っているのです』というのでした。『生前、その事を本人が希望していた』と言うのです。偉い人は違います。加えて、そんな本人の意に反しなかった処も、回りの人たちの偉さでありましょう。

 そしてこの関係が江戸と日光との関係と全く同じものだと言う事に気がついて、涙が出る程に納得したのでした。

ついでにもうひとつ話します。

磐越西線には翁島駅という駅があります。この駅の造りは一見の価値があるのです。と言いますのも、てんきょうかくという、昔皇室の別荘があった関係でその筋の方が此処を訪れる時、もちろん鉄道でいらした訳で、そのために造られた駅なのです。

あおの有様を正確にその様式までをも語る事は出来ませんが、一度見るだけの価値のある建物だろうと思っていたのです。それがこのご時世です。維持が難しいと言う訳で“猪苗代緑の村へと移築されたのです。そしてその場所にはプレハブの駅舎が建てられたと言う訳です。

それはもちろん仕方のない事ですからそれでいいのですが、移築された駅舎は今、食堂に改められているのです。小さい建物なのですが、そうなっていても一目置くべき建物なのでした。皇族の方の待合室には今もまだシャンデリアがつけられていて、昔をしのばせているのです。

 

 

 猪苗代の町には、どうしたことでしょう、会津藩の初代の藩主、保科正之を祀った神社があるのです。土津(はにつ)神社です。その本殿の裏山を登る事450メートル。きれいに整備された石畳の道で、高い杉林の中をいった先にお墓はあるのです。

 立派な趣のあるお墓です。ただ、初代藩主のお墓が何故此処でなければならないのかが分からなかったのです。会津の、せめてお城の見える処にでもつくるべきでしょう。考えても分かりませんでした。その事を口コミに投書したのです。そうしましたら驚きです。神主さんから返事がきたのです。曰く、『あの場所が会津の鬼門なのです。藩主自らがそれを守っているのです』というのでした。『生前、その事を本人が希望していた』と言うのです。偉い人は違います。加えて、そんな本人の意に反しなかった処も、回りの人たちの偉さでありましょう。         

 

 

 会津藩初代の藩主、保科正之のお墓は猪苗代にあるのです。神社の傍らにある長い石畳の道を登り詰めた高所に設えられています。高い杉の林を抜けて登った所の趣のあるお墓です。只、何故此処なのか、何故会津につくらなかったのかという疑問が湧いてきて、それがどうにも理解出来ないまま心に引っかかって落ち着かなくなってしまったのです。

その事を祀っている土津(はにつ)神社の口コミに投書しましたら、驚きました、宮司さんから返事が来たのです。

 曰くPs 、『あの場所が会津の鬼門に当たる場所で、藩主自らが会津を守っているのです』という返事なのでした。何とも思いの溢れた閲話ではありませんか。自ら此処に墓をつくれと言ったというのですから、偉い人は偉いものだと只々感心するばかりです。

 『会津に生まれた者なら一度は尋ねてくるべき処です』とまで言わせる聖地と言っていいでしょう。そんな処にも会津の人らしい頑固な気質と健気さと侍の心とでもいったものが宿っているようで驚くのです。

 

 

会津、磐梯町に恵日寺という宗教都市が平安時代に徳一というお坊さんによって開かれたのです。お坊さんの兵が1000人くらいいたらしいのです。

 その寺は平家の庇護を受けていた事から原平合戦以後衰退しました。その関係であの辺りには落人部落があるということでした。

 細々と寺は運営されていたのですが、後年、仙台の伊達によって焼き払われ姿を消したのでした。近日、その本堂だけが再建されたのです。見学へ行って来ましたら、その本堂の周り一帯に、今はない建築物の土台の石だけが残っていて発掘され、それを見ることが出来ます。辺り一面の建物の様子から、宗教都市の有様を思い描くことが出来るのでした。

 知人が以前、その落人部落でソバを食べてきましたと教えてくれたのです。成程と納得して、今度は、折をみてその蕎麦を食べてみたいと思ったのです。

 

2023年8月14日 (月)

私は独りである(高野悦子)  「京と(10)」(序説第30号)

同人誌「序説第30号」(8月1日発行)

京と(10)            高橋一男

https://blog.with2.net/link/?id=1039354

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2022年11月13日(日曜日)午後ゴンが死んだ16歳だった。

いつかこの日が来ると思っていたが、こんなに辛い日々が続くと思ってもいなかった。共に歳をとってからの別れの辛さを知った。車のシートに刺さっていた一本のゴンの毛がゴンの存在を思い出させた。ゴンとはいろんな場所にいった山形県の鶴岡、真夏のクラゲ水族館ぼく達が館内にいるあいだ中に入れないゴンは弟の登志男と外でまっていてくれた。あの時は熱かっただろうと思った前日は米沢市のペットも一緒に泊まれるペンションに家族みんなで泊まったのは初めての体験で、とにかく楽しかった。ぼく達にとってゴンは柴犬のペットである前に家族の一員であり時間はかかったが家族が話す言葉の多くは理解していてくれた。コロコロ(手押し車)での散歩「兄ちゃん大丈夫か」と後ろを振り返りながら首に繋いであったリードを力強く引っ張ってくれた夏の日、公園の水飲み場の水栓を親指で押さえると綺麗な虹がゴンの背中の上にでき、小さな水滴がゴンのからだ中を覆い、キラキラと光った。家に帰る道でゴンが止まってリードを引いても動かないゴンが帰ろうとしたプログラム(道順)と違ったからであった。これもゴンとの対話で意志疎通の時であった。

うしろから見ているとお尻を左右に振り尻尾は太刀尾で凛としていて風に揺れていた。散歩コースは決まっていて、ゴンが主導権をとって、ぼくはそれに従ったその関係は季節が何度変わっても同じであった。

ゴンが死んで序説で何を書いたらいいのか分からなくなってしまった。ぼくの生活の中にいつもゴンがいた。だからゴンが逝ってしまってから4か月になるがペットレス症候群のまっただ中、ゴンと歩いた街の景色が蘇える「あぁー」もうゴンはいない。

 

 

「二十歳の原点」高野悦子 著より(新潮文庫・たー16-1 株・新潮社 平成22年2月15日51印)

 

 

一九六九年一月二日

「卒業までには花嫁修業をしろ、お茶、料理、車の免許」(6頁)

 

現在ぼくの住んでいる前橋(群馬県)では車(免許)のない世界はほぼ考えられない。先日、高齢者講習会にいき教習所内のコースを教習所の車に乗ってきた、特に緊張していた訳ではなかったがしっかり縁石に乗りあげてしまった。なによりも驚くのは自分が車の高齢者講習会に参加していることだ、腹が立つというよりもそんな今(自分)が許せないし、頭にくるのだ。何時までぼくが車の運転をするのか分からないが前橋に住んでいる(生きている)限り、車の運転免許証は絶対必要なのだ。

 

 

一月二十五日(月)

クラス討論に出たもののシックリ参加できなかった自分、文学部大衆団交の騒々しい渦の中出でそれを「つるしあげ」としか感じなかった自分、それを何とも表現できなかった自分。

大衆団交の場から抜け出して屋上へ行ったが誰もいなかった。喫茶店に行く気もせず、ウラ寂しい気持ちで電車にのった。(22頁)

 

一人の人間をおおぜいで攻めたてる行為はぼくにとって苦手だしそんな空間にいることは疲れる、一刻も早く外に出て深呼吸をしたくなる。できることなら喫茶店にでも行って温かいコーヒーをのみたい気分になるのだ。

 

 

一月二十七日(月)

私は煙草をすう にがい煙草をすう

私のこの部屋の中で ここは私の世界だ

しかし一たびここを出ると 私は弱くなる

クラス討論の場で煙草をすわせない何ものかがある

煙草を買うのを恥ずかしめる何ものかが存在する

私は弱い (25頁)

 

さすがに中学生の頃の喫煙は記憶にないが高校生になると親の目を盗んでの喫煙の記憶がある。高野悦子さんの「煙草を買うのを恥ずかしめる何ものかが存在する」その気持ちはぼくにもあった。だから近所の煙草屋では絶対に買わなかった。禁止されているからそれを破るカッコよさはいつも感じていた。煙草をすいながらカッコつけて街を闊歩していたら偶然に担任の先生に会ってしまい煙草を握り潰した、それから高校二年生の京都への修学旅行のとき夜旅館で数人の仲間で喫煙をして見つかってしまい学校を停学になってしまった。(停学とはいっても何もなかったように毎日学校には行っていた。先生も学校に来るなとは言わなかった)

 

 

二月二日(日)曇りのち時々雨

五十センチ四方のおりのなかに、四五○○円なりのなんとかいう犬がいた。この前、いっしょに戯れて係員に注意された犬だ。原産はスコットランドの北部の島。牧羊犬でおとなしく、機敏で荒い自然に耐える力があるそうだ。彼の生まれ故郷のきびしい美しい自然の中で牧場をはねまわる姿を思いうかべた。(39頁)

 

ゴン(ゴン太)を赤城南面の犬牧に買に行った時、小さいケージの中で「俺を連れていってくれ」とぼく達に一生懸命に合図を送っていたときの事を思い出す。そしてその日からゴンは家族の一員になった。スコットランドの北部の島の牧羊犬の犬種はたぶんシェットランドシ―プドッグだろう。

 

 

二月五日(日)

私は詩が好きだ。詩は鋭く豊で内省的で行動的・・・・。詩は真実の世界をのぞかせる。詩は人間をうたう。私は詩人になりたいと思うときがある。(45頁)

 

 ぼくの中では建築は詩であると長い間思っていた。だから詩人になりたくて時々外国の建築にも会いに行った。

 

 

二月八日(土)晴れ

煙草を七本八本すってお手洗いに行ってもおちつかなかった。どこにも行くところはなかった。しかしコンパに行こうとサ店を出た。寒くてブルブルふるえながら歩いた。電車に乗ってもふるえがとらなかった。窓に映る景色は見知らぬ町のようだった。四条でおり五条までかけていった。(51頁)

 

  四条から五条の何処にかけていったのだろう。四条から先はあまり知らない東大路通と五条通の交差点の近くにある河合寛次郎記念館にいったことがあった朝鮮張りの床が印象に残った。それから、京阪五条駅から五条通を歩いて清水寺まで歩いてあるいて行ったことがあった照明のなかので輝く紅葉の美しさが印象に残った。

 

 

三月八日 曇天の寒い日

きのう久しぶりで立命(広小路)へいってきた。恒心館、研心館は全共闘に封鎖され人影もまばらな静かなキャンパスであった。中川会館の落書きにいわく。

気狂いピエロはあまりに悲しかったので泣くことすらできなかったのです。だから顏をペンキで真青に染めて泣くまねをしたのです。僕たちも、あまりの大学の腐敗に憤ることすらできなかったので、壊すことにしたのです。俺が死んでも誰も泣いてくれなくていい 気ちがいぴえろ(77・78頁)

 

  全身真青のパフォーマンス集団のことを思い出した。それからクラインブルーのこと池袋にあった美術館でビンに入った粉状のクラインブルーを買った

 

 

三月十六日(日)

京都国際ホテルにウェイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界をしった。彼ら彼女らは全く明るい。大声で笑い、話し、楽しさが溢れている。私の知っていた人たちはほとんどが学生で、インテリゲンチャの予備軍のような存在(私もまた)であることを知らされる。(85頁)

 

  ぼくは前橋の掃除屋さんでアルバイトをした。場所的にほとんどが群馬大学の学生だったが仲良く仕事をした。中には学生運動をしている人もいて、バイト先に赤いヘルメットを持ってきたりしていたらしい医学部の学生であった。

 

 

三月十七日(月)

ホテルは九時頃に客が入り、 何くそ アルバイトだからって甘えてなんかいないぞ と努めて頑張った(客観的に見てどうであったか知らない)。最後にモップで掃除した後で、今日は仕事のやり甲斐があったと思った。与えられたものでなく、自分で見つけて仕事をやること、これが充実感をもたらす。(87頁)

 

  掃除屋さんのアルバイトはおそらく四年間は続いたと思う。時には社長さんの家でお酒や夕飯を御馳走になったりして、バイト以外のことでも世話になったことを思い出す。

 

 

三月二十九日(土)肌寒い小雨の日

私は酔うとペラペラと話だす。私の真実は酔ったとき言葉として発露する。そして四条大宮からタクシーをフンパツして帰った。(95頁)

 

  静かにしていて酔うとポジティブになる人はぼくの周りにもいるが嫌いではない。四条大宮からタクシーで帰ったとあるが、たぶん四条通を西に向かい松尾橋で桂川を渡り右折したあたりでタクシーを降りたと思われる。

 

 

四月四日

自分を支えるものは勉強しかない。「知ろうとする者には存在し、知ろうとしない者には存在しない。おまえはおまえ自身を知らない」(101頁)

 

  まさにそうだと思った真剣に建築をしていた頃、一生懸命建築をみながら街をあるいいた。意識をして観ないとほとんど何も残らないし、何も存在しない。毎年見て回ったヨーロッパの街並みは今でも記憶に残っている

 

 

四月七日

青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。(104頁)

 

  現在、七十二歳のぼくは余りにも長生きしたという事か、高野さんが云うように「青春を失うと人間は死ぬ。」は正解なのかもしれない。

 

 

四月十八日(金)

四条大宮からホテルまで牧野と歩きながら必死になって話したとき(126頁)

 

  四条大宮駅を東に向かい四条堀川を左折して堀川通を北に行くと左側に二条城が見えてきて道路反対側に目的のホテルがあった。

 

 

四月二十四日(木)

ぼんやりとした何もない空間の私の世界。他者を通じてしか自己を知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか自己は存在せぬ。(138頁)

 

  最近、ぼくは他者の存在をあまり感じない、朝起きてから寝るまでに他者と話すこともないから。

 

 

四月二十八日

シュプレヒコールを行う。叫ぶことが唯一の武器。市役所の前につき、歩みをとめて一服喫った。足元のアスファルトは雨でぬれているし頭には小雨が降り注ぐ。寂しさと無力感と充実感とが、ごちゃごちゃに混じり合い、春雨のように、独りであることを、じっくりと感じた。私は大声で叫びたかった。(144頁)

 

京都市役所のまえで、雨の中、叫んでいる景色が思い浮かぶ、御池通は今のように幅の広いりっぱな通りではなかったろうし、今のような、モダンな街並みは想像できなかった。雨に濡れた道路(アスファルト)に映る街灯の情緒性は今も変わらない。

 

 

五月五日(月)晴、夜おそく雨

折から今日は祝日で京極通りは「繁栄」と「平和」に満ちあふれているのに、何と我が身のわびしかりしことよ。

御所で一服。(158頁)

 

  高校二年生(1968年)の秋、就学旅行で初めて京都に行った。僕にとって京都は大都会であり、バスの中からヘルメット姿の学生が道に座りこんでいて、その道に向かって放水をしているのを見た。初めて見る全共闘の学生たちであった。それから新京極を四条通りに出て右折した場所にあった歌声喫茶にも行った。

 

 

五月八日

私の男性コンプレックスはいつになったらなくなるのだろう。男の子っていうものはどうも苦手だなあー。(163頁)

 

  ぼくは女性コンプレックスで長い間、女性と話をすることが出来なかった。だから今までに女性(妻)との関係は15回くらいだった。

 

 

五月十一日

現実をみつめること そして、それに対決すること 五・九

醜さをみつめて、美しさを愛すること 五・一〇 (165頁)

 

  実際の問題として、「醜さをみつめて、美しさを愛すること」高野さんのおっしゃるとおり。ネガティブのなかにポジティブな真実がある。

 

 

五月二十六日(月) 晴

小山田さんと飲みにゆく。「逆鉾」でちゃんこなべを食べながら日本酒をのみ、「田園」でジンライムとオンザロック、「ろくよう」でおでんを食べて帰る (177頁)

                                 

  去年の七月、京都木屋町の「逆鉾(さかほこ)」に行ってきた1966年創業だから三年後(1969年)に高野さんが行くことも可能であった。お店に入るとたぶん改修されたのだろうあの頃(昭和)のイメージはなかった。お客さんはぼくを入れて三組その中の一組のひとりが他者を気にしない大きな声で話をしていたぼくの最も苦手な人で京都にもこうゆう人がいるのかなと思った。それにしても肉団子の入ったちゃんこなべは旨かった。

 

 

六月七日(土)

買ってきた八四〇円ナリのホワイトを飲んで酔っぱらって、そのまま寝てしまいたい。 (195頁)

 

  サントリーホワイトはぼく達も飲んだギリギリの反体制。角はちょっとブルジョア的だった。

 

 

六月十二日 雨

今日お風呂に入っていたときのこと。他にもひとりいて、その人は水道の蛇口をひねり湯をぬるた。湯はぬるかった。四一度くらいだったなあ。私はその人に「もう水道を止めてもいいですか」と、恐る恐るというさまでたずねた。他人を気にする弱々しい市民生活者の私。

(198・199頁)

 

  四十一度のお風呂に入ってみたぼくにとっては決してぬるくなくて丁度いい湯かげんだった。普段はもう二・三度高いお風呂にはいっている。銭湯で湯をゆるめたことはなく熱くても我慢して入った。今から思うと単に気が小さいだけであった。

                                                                                                                     

 

六月十六日

日常性に埋没することなく非日常的なものを追求してゆく方向をもつ必要がある。日常ということばの中には体制の臭いがあるし、むしろ低迷の状態である。 (204頁)

 

  日常的にならないことは学生のころから思っていたし、非日常の中にのみ真理があると思っていた。だから美術のジャンルでもコンテンポラリーアートが好きだし前衛が好きだしフロントが好きだ。

 

 

六月十七日

ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。屋上から町並みを眺めると四方を山に囲まれた箱庭のような京都の町がある。せせこましく立ち並んだ小さな家々、ばからしいほど密集している小さな存在。 (205・206頁)

 

  「悲しいだろう、みんな同じさ」と拓郎を唄いながら夜の街を歩いた。そんな時はあまり広くないアスファルトの道を選んで歩いた。両側には密集した古い木造の家があった。

 

 

六月十八日

つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようと生きているのだと、今思いました。いろいろな醜さがあるけれども、とにかくみんなで何かを生み出そうとしているのです。何かを創造しようとして人間は生きているのです。 (206・207頁)

 

  この歳まで生きてきて思う事は疑うことである。醜いことはネガティブに思われるが美しいことが本当に良いことなのか。醜い容姿で今まで生きて全てが悪いのか必ずしもそうではなかった。そうでないとしたら、ぼくの存在はなかった。

 

 

六月二十日 快晴

きのう床についたのが朝の四時。九時ぐらいに目がさめたが、ラジオをきいたり、「時には母のない子のように」や「愛の賛歌」 を口ずさみながら、ぼんやりと三時ごろまで過ごし、バイトに行く。(213頁)

 

  カルメン・マキ、1969年「時には母のない子のように」(作詞・寺山修司、作曲・田中未知)デビュー(インターネット参)。あの時代は夢があり、可能性もあった、だから若者は行動をした。そのように思うのはぼくだけか。

 

 

現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。(214頁)

 

  ぼくにとって、圧倒的な過去に比べ未来はないに等しい。長く語れる過去はあるが未来を語れば一言で終わる。

 

 

「独りである」とあらためて書くまでもなく、私は独りである。(215頁)

 

  意味は違うかもしれないが「ぼくも独りである」。夕方透析を終えて病院から誰もいない家に帰り、カチンカチンに凍っているご飯を電子レンジで「チン」して、レトルトのカレーをお湯で温めてご飯にかけて食べるそれがぼくの夕食の景色である。そんな時、いつも思うのは「私は独りである」ということだ。でも歳をとってから、独りで生きるのも自然なことなのかもしれない。

 

参考資料

 

「二十歳の原点」  高野悦子 著 (株)新潮社(平成22年2月15日 51刷)

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2023年8月12日 (土)

 もうひとつのこの世をめざして    「序説第30号」エッセイ 桜町文庫の窓(4)

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            磯山オサム+ハル

 もう一つのこの世・天草四朗と石牟礼道子をめぐって。

茨城県笠間市の、日動美術館。

新館とフランス館を結ぶ丘、野外彫刻庭園の中心に、高さ二メートルほどの切支丹武士のブロンズ像〈原の城・製作一九七一年〉が、南を向いて、やや頭を前にさげて立つ。

作者は舟越保武(一九一二~二00二)。

高村光太郎賞を受けた〈二十六聖人殉教者像〉で知られる。

像は、島原・天草の乱に加わり、討ち死にした武者が亡霊となって立つ姿。深い悲しみと絶望がその表情から伝わる。

粗末な鎧、傷を負った像の背には、〈いえすさんたまりあ・寛永十五年如月二十八日原の城本丸にて歿〉と細く彫られている。

はるか遠い鬨の声を、一九六二年島原の城跡を訪ねた舟越は聞いた。

像の一体目は、バチカン美術館に。

岩手県立美術館や長崎県美術館・東京国立近代美術館など八体ほどが造られているが、丘に立ち、雨風にさらされている日動美術館の像が、その名〈原の城〉にふさわしい。

 

島原の乱は、日本の歴史で最大の民衆反乱。物語ではなく史実。

寛永十四年十月二五日(一六三七年十二月十一日)肥前の国(長崎県)島原、数日後対岸の島・肥後の国(熊本県)天草で、切支丹を中心とした農民や武士が、圧政や宗教弾圧に耐えかねて一揆・反乱を起こした。

それを石牟礼道子は、小説『春の城』の前段〈草の道〉で「魂の光」と呼ぶ。

乱は一般に切支丹農民の蜂起と伝えられているが、改易されたキリシタン大名の元家臣の浪人や帰農の武士。弾圧で一度信仰捨てたのち、再び信仰に戻った〈立ち返り〉と呼ばれるひと達やその家族。気候による飢餓や重い年貢に耐えかねた農民や支援者も参集し、切支丹に関わらない者までも含め、三万七千人が十二万の幕府・九州諸藩の軍に原城の跡で対峙した。

 

島原蜂起の中心は天草四朗。

父は益田好次(洗礼名・ペイトロ)。関ヶ原の戦いで西軍側につき処刑された、キリシタン大名小西行長の元家臣。母はよね(洗礼名・マルタ)。天草大矢野に住んだ。

四朗の名は益田時貞(一六二一~三八)。

肥後の国の宇土に生まれ、洗礼名をジェロニモ。のちにフランシスコ。少年期を長崎留学で過ごし、蜂起の年十六歳で元服。翌寛永一五年、原城で討ち死にをした。

四朗については、多くの逸話が残されているが、そのいくつか。

熊本藩の細川忠興が三男で藩主の忠利に、戦いのあと送った書面の一部。

《四朗、古今有るまじきとくなる者に候、つけ置きて大名共の千手申しつけ侯とも、あぐみ申すまじくと存じ候、とかく常の人間とは見え申さず候》。

細川忠興の妻は、石田三成に屋敷を囲まれ死に至ったガラシャ。

乱の前、最後の伴天連(宣教師)が国外に追放されるとき。お告げ・識分に、《二五年を過ぎて善童が生まれ、この世を切支丹の世に返す、必ず不思議を起こし天地を動かす》とある。

その童子が天草四朗とされた。

 

島原・天草蜂起は、当初小規模な農民一揆と見られていて勝利を続ける。その後島原城・富岡城を攻略出来なかったことから十一月十四日、天草の軍を含め原城に籠城となった。四朗の入城は、十二月三日。

原城は、キリシタン大名であった有馬家の廃城。

籠城の三万七千人のうち、戦闘員は一万四千人。非戦闘員とされる女や子供が一万七千人以上。多くが家族と共に参集し、村や畑を捨てている。

幕府軍十二万に囲まれた籠城の末は死。

 四朗を始め籠城の者たちも、予感としてそれを持っていたと想像する。

 しかし蜂起の軍は、総攻撃までの二か月のあいだ耐えた。

 三万七千人のそれぞれが、家族や村ごとに、城内に作られた竪穴住居に入り、戦いを続ける。

 田中優子の『苦海・浄土・日本』では、蜂起の軍を〈闘う共同体〉と言い、『強大な幕府軍という敵にたいして、弾圧された切支丹をはじめ、あらゆる立場の農民や庶民が一斉蜂起して立ち向かう。そこには男も女もなく、身分差も宗教の違いもない。みなが生き延びるために闘う共同体として、つながりあう』としている。

 幕府と四朗側との、矢文のやり取りの記録が残されている。

 幾つかを要約すると、《一揆は切支丹の国家を望むものではない。切支丹を禁じ責め殺すことは人間の作法ではなく、宗旨に関与するな》と信教の自由を求めた。

 信仰が、原城のなかに戻される。

 そこに田中優子のいう〈闘う共同体〉が、つかのまとしても生まれた。

 

 数度の城攻め・オランダ戦艦からの砲撃に耐えた蜂起は、寛永十五年二月二八日(一六三八年四月十二日)内通者山田上右衛門ひとりを残し、三万七千人が殺戮された。

 闘いは一二三日間。

 異端と少数者への差別や攻撃・圧政は、蜂起から三八五年を過ぎたいまも同じく続くが、天草四朗の夢と島原の乱に参集した者達の鬨の声は、消されることはない。

 

 水俣闘争と『苦海浄土』で知られる石牟礼

道子は、史実の島原の乱を小説にした。

 小説の名は『春の城』。

 熊本日日新聞など、七紙の連載小説として書かれた。

 〈春の城〉は、島原・天草地方での〈原の城〉のなまり。現在は、藤原書店より『完本

春の城』として刊行されている。

 米本浩二は『評伝 石牟礼道子』の中で『春の城』を、《天草・島原の乱を題材のした長編小説である。・・・歴史小説の体裁をとりながら、物語の序盤には農民の暮らしが博物記のようにつづられる。・・・春の城は、道子にとって〝水俣病闘争の延長戦〟という位置付ではなかったかだろうか》と記している。

 小説の主人公は天草四朗ではなく、〈魂を深く〉暮らす、下働きの女や孤児・庶民。

 

 『春の城』は、島原の乱の闘争記ではなく生活記。

 乱を生き延びる、孤児のすず。

 切支丹ではないにもかかわらず、乱に加わる子守で賄いのおうめ

 酒だけがマリア様と称し、乱では賄い方の零細漁民の竹松。

殉教者の孤児、作人・熊五郎。

幼年期の四朗の勉学を助け、長崎から乱に参加した商人のおなみ。

虐げられ、貧しくても、日々を丁寧に生きる庶民の様子を描く。

生き延びる人のいない物語。 

その姿がおおらかに。

 

 『完本 春の城』は、ほぼ三部構成。

 前段は〈草の道〉。執筆にあたり、蜂起に関連する島原や天草の各地を訪ねたルポルタージュ。一九九一年六月より、月に一度、熊本日日新聞に連載され九七年六月まで続く。

 『春の城』の執筆準備に六年をかけた。

 二部が本編の小説『春の城』。関連地図・登場人物の紹介やその家系図が付録している。

 三部が道子の幾つかのあとがきや鶴見和子との対談。田中優子・赤坂真理・町田康・哲学者の鈴木一策らの、各重厚な解説がある。           

あとがきの一つ『悪代官にも情が移って』

では、《女たちも髪ふりみだしてクルスを額にはさみ、鉢巻をしめ、白衣を着て大石を砦の上から投げ落とすさまが、参戦した九州各藩の侍たちの手記に残されている。落城にいたる戦闘のさまは、なるべく控えめに描いた。・・・籠城前の二年間ぐらいを、生活民の日常を通して描きかった。貧しくとも至福の日々もあったろうと想像した。描いているうち情がうつって、情けないほどおろかしく振るまう者もだした。悪代官にも情が移った》と書いている。

 この代官が、鈴木三郎九郎重成。

 籠城の城攻め際の、幕府側の鉄砲奉行。

 闘いの後に天草の代官になるが、のちに年貢半減を幕府に上訴し、農民を守るために切腹をした。

 道子は、命を捨てた鈴木重成を、〈草の道〉のなかで、《この武将にとって、天草の真のドラマは、事が終わったかに見えるそのあとから始まったのである。割腹したとき六十六歳であったという。・・・辺地での任務を破綻なく仕上げ、安泰な老後に入ってよかろうに、衝撃をいまに伝える最後をとげた。・・・討伐軍側からいえば、無知蒙昧な迷信につかれて全滅したともいえる者の死にざまから、いわくいい難い気高い人間像が、異教の領域を抜け出して、この代官の心に移り棲んだのではなかったか。そのもの達の大切にしていた土地に立ち・・・武士社会とまるで別な倫理に生きている人間たちを、彼は発見したのではあるまいか》。

天草では現在でも「鈴木さま」と呼ばれる鈴木三郎九郎重成を、このように記している。

 

 石牟礼道子は一九二七年(昭和二年)天草に生まれ、水俣で育った。父も母も天草が出自で、遠く島原・天草の乱に続く。

『評伝石牟礼道子』の年譜によれば、四五年(十八歳)終戦を田浦小学校の教員で迎え、

四七年三月に石牟礼弘と結婚。同年《私家版の歌集『虹のくに』を発行。七月に三度目の自殺未遂。谷川雁の「サークル村」に参加は、一九五八年・三一歳。同人に森崎和江や上野英信がいた。

六十年に『苦海浄土』三章の原型、『奇病』を「サークル村」に発表。六五年渡辺京二の編集『熊本風土記』に、苦海浄土の初稿『海と空のあいだに』を連載している。

 一九七〇年(四三歳)、『苦海浄土 わが水俣病』が大宅宗一ノンフィクション賞に選考されたが辞退。同年〈水俣病を告発する会〉のメンバーとともに、厚生省占拠に参加している。

 評伝のなかで、米本浩二は《前近代と近代、この世とあの世、自然と反自然・・・あらゆる相反するもののはざまに佇んでいる》として、道子を〈渚に立つひと〉と呼ぶ。

 道子は、〈渚〉を《生類最初の姿を保っている海・・・海と陸を行き来する。文明と非文明、生と死までも行き来する。人間が最初に境界というものを意識した、その原点が渚です》と語っている。

 

 石牟礼道子の《苦海浄土》を、始めて手にしたのは七○年を少し過ぎてから。

二○○四年講談社文庫の新装版で、再び読み始めたが挫折。理由は小説かルポルタージュかの不明さと、濃厚で粘着的な文体について行けなかった。

新装版の渡辺京二の解説、『石牟礼道子の世界』。

《このすぐれた作品は、粗忽な人びとから公害の非惨を描破したルポルタージュであるとか、患者を代弁して企業を告発した怨念の書であるとか、見当ちがいな賞讃を受けるようになった。・・・実を言えば『苦海浄土』は聞き書なぞではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことをいっているのではない。作品成立の本質的な内因をいっているのであって、それでは何かといえば、石牟礼道子の私小説である》長い引用になったが、作品の編集に大きく関わった者として『苦界浄土』を記している。

私が石牟礼道子の作品や『苦界浄土』を読むことが出来るようになったのは、田中優子の『苦界・浄土・日本 石牟礼道子もだええ神の精神』による。

『苦界浄土』との出会いや、道子へのインタビュー、小説『春の城』の解説などが書かれ、石牟礼道子という〈人〉を知って、『椿の海の記』『魂の秘境から』・『春の城』へと読み進んだ。

 

小説『春の城』の執筆の経緯。

『完本 春の城』石牟礼道子と鶴見和子の対談の一部。

《機動隊が囲んでて、息吐いて楯を持っているんですよ。殺されるかもしれないと思って、まず逃げますまいと覚悟した時に、とても如実に、原城に籠城した人たちの気持ちが宿ったというか、もし生きて帰れば、いつか原城を書きたいって・・・》。

昭和四十六年、チッソ本社前の座り込のとき、《地に這っていると、原城にたてこもる人々と繋がった》とも記される。        

水俣闘争『苦界浄土』の余白を、小説『春の城』に託した。

 

落城に近い二月一日、四朗は「四朗法度書」(心得書)と呼ばれるものを発布する。

 『この度この籠り候おのおのは今生を経て来し罪科のゆえに後生のたすかりさえ定まらねぬ身にこれあり候に、この度はかりしれぬ御慈愛と恩召しあずかり、後生までも友達となり申す儀、よくよくの御高恩にござ候。かかる上は、おらしょとお礼の祈念を怠らぬよう、かえすがえす、お大切の儀これあるべき候こと』。

 『春の城』のなかでは、天草に流れつき、蜂起に加わった流浪の仏僧の西念が『この城にこもりしわれらの仮そめの寿命も、いよいよ残り少のうなった。おらしょの祈りをなせ。ともに手をとり合うて後生の光をいただこうではないか。この城に召し抱えられたる衆は後生までも友達たるべく候』と語る。

〈城に籠ったものは、後生までも友達〉という言葉が、いとおしい。

 

 田中優子は、島原蜂起の民衆を〈闘う共同体〉、道子の目指した水俣闘争の形、チッソ・国家に対峙し二年にも及ぶ座り込みの姿を〈新しい共同体〉とした。

 渡辺京二は著書『なぜいま人類史なのか』のなか「共同体の課題」で、〈共同体〉を《人間は共同体という古き衣を脱ぎすて、もう帰れない「個」の世界に移動したのである。しかし、かつての共同的な了解の世界というのは、人間の一つの憧憬として、ある時には血みどろな情念としてなお存在し続けている・・・》と述べている。

 

 道子は、闘争の〈団結や連帯〉という言葉を幅が狭く情のないものとして、あえて共同体を〈道行き〉と称した。

 石牟礼道子らしい言葉で、死んだ先までの〈道行き〉ならば、四朗の《後生までも友達》に繋がる。

 

 天草四朗の島原の乱、石牟礼道子の水俣闘争の目指したものはなにか。

 道子は『春の城』のなかで、《もう一つのこの世》という言葉を使っている。

 仏僧の西念は、肩寄せ合う籠城の人々の姿を、《もう一つのこの世》と言い、四朗は、《この世を越ゆるところに見ゆる今一つのこの世とは、燎原の火の中からあらわれてしずもる、花野のごときところかと思い申す》と語らせている。

 田中優子の『苦界・浄土・日本』では、《道子の夢想する「新しい共同体」は不正のはびこる現実世界では成り立ちはしないだろう。それほど人間の煩悩は深く、闇を抱えているということをすでに道子は知っているのである》と記し、《では、この世には絶望しかないのであろうか。そうではない。もしそうならば、原の城の人々は立ち上がらなかったろうし、道子の水俣闘争もなかったはずだ。・・・否を突き付け続ける抵抗のなかにこそ、

刹那の解放と希望がある》としている。

 

 〈もう一つのこの世〉は、水俣病を告発する会の機関誌にもある。

 要約すると《この世でもあの世でもなく、前世でもなく、この世から切り捨てられた魂たちも、ともに生きられる世界・人間の道理が回復される社会》。

 ちなみに水俣病センター相思社の、三十年の運動・記録誌の題名は、《もう一つのこの世を目指して》。

 

 道子は渚に立ち続け、新しい共同体から、もう一つのこの世を目指した。

四朗は島原の乱、籠城のなか、つかの間にも〈おらしょ〉を唱える自由を、もう一つのこの世とした。

はるか三八五年がいまに続く。

小説『春の城』の終わり近くに書かれた歌。

 

愛(かな)しさや

身もふるうなるおぼろ月

三千世界は花吹雪かな

 

文庫の窓(参考資料)

1『完本 春の城』 二○一七年・㈱藤原書店 著者 石牟礼道子。一九二七に天草に生まれ、二○一八年にパーキンソン病にて死去。 解説や編集後期・年表まで八九九頁の大書。

2『苦界・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神』 集英社新書・二○二○年 著者 田中優子。一九五二年生まれ、元法政大学総長。文中《道子の作品には、絶望や滅びを描く傍らで、常にいのちの物語が息づいている》と書いている。この書よりの引用を多くしている。他にちくま文庫『カムイ伝講義』など。日光市の霧降文庫にて購入。

3『評伝 石牟礼道子 渚に立つひと』 新潮文庫・二○二○年 著者 米本浩二。一九六一年生まれ、毎日新聞記者。何度かの道子へのインタビューを含め、年譜や資料を通し、この一冊で〈石牟礼道子〉のほぼ全てを知ることが出来る渾身の一冊。他に道子と渡辺京二を書いた『魂の邂逅』(新潮社)など。

4『島原の乱とキリシタン』(敗者の日本史一四) 二○一四年・㈱吉川弘文館 著者 五野井隆。一九四一年生まれ、東京大学名誉教授。キリシタン一揆の解説から、原城の発掘資料・闘いのなかでの矢文などの資料も含む。末尾に、現在でも毎年秋に、原城にて死者のためのミサが、行われていることが記されている。闘いの時間軸などを含め、多く参考にした。

5『苦界浄土 わが水俣病』 二○○四年・講談社文庫 著者 石牟礼道子。一九七二年に発行された文庫の新装版。解説は道子の著作を支え、共に〈水俣〉を闘った渡辺京二や

原田正純。

6『なぜいま人類史か』 二○○七年・洋泉社MC選書 著者 渡辺京二。思想家・評論家(一九三〇~二○二二)。福岡市での公開講義集。渡辺は道子と水俣闘争を共にし、著作の清書から道子闘病中の食事までも世話をした。『北一輝』や『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』など多数の著作がある。

 (桜町文庫は架空の書店です。ハルは助手。二〇一二年生まれの絶世の美形ネコ、カウンターの上で原稿整理のお手伝い。)

2023年7月27日 (木)

「全共闘」系自治会が生まれる原動力に  同人誌「序説第30号」編集後記

 

「序説」の準同人だった川島洋雄さんが今春、急病死した。今から半世紀前、当時の足利工業大学でマスプロ教育が是正されないまま新しい学科を設けようという動きがあった。それに反対し、数十人の学生たちが校内をデモしながら(開学して数年目の同大だったが、学内の公然デモは初めてだったと思う)、「教授会」に乱入し、「大衆団交」に持ち込んだ際、若き青年教員として私たちを阻もうとしたひとりが川島さんだった。洋雄さんというと、そのときの姿が強く印象に残っている。この時のデモをスタートに「序説」の母体となる「全学活動者会議」が発足し、「全共闘」系自治会が生まれる原動力になった▼川島さんは大学教員の一方、足利の由緒あるお寺「法楽寺」の住職も務めてきた。最初はいわば「対立」する立場にあったが、大島渚監督の助監督の経歴がある実弟の川島和雄さんと私たちの縁などもあり、その後、貧乏学生だった私たちを法楽寺の落葉拾いやお墓掃除のアルバイトに雇ってくれるなどの世話もやいてくれた。高橋一男君の「あとがき」にもあるが、複数の同人は川島さんのところに下宿するなど、それこそ公私にわたっての付き合いがあった▼「序説」が発刊されると、いつも詩人など数人から御礼はがきが事務局に届いているが、そのひとりが川島さんだった。印象に残るのは6年前の「序説第24号」に対する御礼はがき。「7月も下旬に入ると、月遅れの盂蘭盆の準備に取り掛かってるのですが、ここ数年来気力が薄れ、テキパキ出来なくなってきました。歳に加えて、運動不足が原因で左膝を痛めてしまい、歩行が少々不自由になってきたためかも知れません。身体不自由の苦痛なことは、普段健康でいる人にはなかなか実感として分からないだということが、よく分かりました。どうぞ、お身体にご慈愛いただきたく、健康にご留意ください 7月31日 川島洋雄」▼亡くなった洋雄さんに思いをはせたのは、各同人の「序説第30号」の寄稿に洋雄さんのはがきにあったように身体の不調、気力の低下、健康問題、あるいは老い先の不透明さに対するコメントがいつも以上に多かったからだ。「ぼくにとって、圧倒的な過去に比べ未来はないに等しい。長く語れる過去はあるが、未来を語れば一言で終わる」、「最近になって、年を取るという事は、新たな出会いよりもずっと別れる事の方が多くなっており、寂しい限りである」、「もう若かりし頃のようには戻れない現実が体に滲み込んで、絶望の向こうまでも連れて行ってしまっていて、どうにもならないのです。歳老いていく事がこんなにも難しい事なのだなど想像さえしていなかったのです」▼「序説」は1974年創刊。来年の2024年は創刊から半世紀を迎える。当然、同人もいずれも70歳以上の高齢者に。そんな年齢だけに濃淡はあるが、いずれも各同人の実感なのだろう。それにしてもこの「超高齢化社会」にあって、いかに生きていくべきか、いや、いかに死んでいくべきかー。そんな問いを前にかく言う私にしても、その手の哲学本を手にしている。「不安や死への自覚を介して、未来へと先駆しながら、今において覚悟的に生きる本来的実存が示されるとともに、存在論の基礎となるべき時間論が解明される」。解説にこうある『存在と時間』(マルティン・ハイデッガー 「ちくま学芸文庫」版)▼「哲学本を手にしている」と書いたのは、若い頃から「存在と時間」に挑んできたが、ハイデッガーの難解な文章に立ち往生し、いつも途中で投げ出していた。なので、この冬は手始めに「世界一やさしく、かつコンパクトに解説した超入門書」というSF作家・筒井康隆の『誰にもわかるハイデガー』(ベストセラーの2022年河出文庫版)を読んだ(社会学者・大澤真幸の解説が魅力的で印象に残った)。そのうえで本編へ。「必要」に迫られてきた年齢になってきたので、今回は362275609_6311248452337282_2846160125906 読み通せるだろうと思っている(事務局・黒川純)

同人誌「序説第30号」発行へ 1974年の創刊から49年目

同人誌「序説第30号」(創刊から49年目)の宅配便が届く。115頁、8月1日発行(頒価500円 日光霧降高原が事務局)。第一号から半世紀になるので、若者だった同人は今やいずれも70代に〰️。群馬、栃木、茨城、福島の各地で暮らす。29日に4年ぶりにコロナで中断していた懇親会を前橋で開く。乞うご期待(昔の映画の予告編には必ずこの乞うご期待の文字が~)。 362275609_6311248452337282_2846160125906

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