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『序説』

2017年8月21日 (月)

 「叙時詩」に向かって吹く風 詩の<現況>についての私的メモ  

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「叙時詩」に向かって吹く風

詩の<現況>についての私的メモ

 

                黒川 純

 

 それぞれの方法で「詩の風」をー

 

 「現代詩この1年」を回顧しなくても、最初の一行のその大事さ、大切さについて、詩人という詩人たちは承知していることだろう。今回の表題を与えられてから、月刊誌「詩と思想」や詩誌から文芸誌に移行しつつある季刊誌「コールサック」はもちろん、私にしては、たくさんの今年の詩を意識的に味わってみた。だが、その一行で読み手を振り向かせる、「おっ!」「ふむー」、「その先は?」と思わせる、そんな詩は少なかったように思える(私の場合はだがー)。私もその一行にこれまでも熱心ではなかったので、大きなこと、えらそうなことは言えない。それはじゅうじゅう承知の上で、そんなことを言ってみたい。それでも、昨年秋から今秋までの「詩と思想」各号の頁をめくると、「読者投稿作品」にそれらの宝石が散らばっていたように感じた。とくに毎回のように選ばれている佐々木漣の作品などはその見本のようだ。

 

弾丸になった一羽の鳥が空腹のまま/霧の中を飛んでいく/さらば真実、と切った空気(略)暮らしの中でトリアージは日常的に行われており/しかし、それが誰の手によるかが問題で(略)涙を今日一日の塩分にしなければならないと/握り飯一口もない、海岸で、立ったまま絶命 する者

 

 この作品「まだ霧は晴れていない」は2016年5月号に登場した。4連約45行の各連である行ごとに魅力的な比喩が飛び交っている。ことに「暮らしの中でトリアージは日常的に行われており」などは、その一言で昨今の社会をぎゅっと詰めた一行だな、とうなずいた。

 選者の河津聖恵さんは「選評」で、この佐々木漣の作品について、「詩の中から現在の社会へ向かおうとする風がある」としているが、さらに5月号の投稿作品全体についても、「いくつかの作品に『詩の風』を感じてうれしかった」と伝えている。その「詩の風」についての語り口が思わず、ミクロの詩論になっていたので、今度は私がうれしかった。以下のような問い掛けだ。

 

 「もちろん、『詩の風』とは、現実に吹く風ではない。いわば『異風』だ。読む者の言葉の秩序にひやりと触れる沈黙の風。あるいは読む者の自己と感情のあいだを、微細にひらき鋭利に吹き抜ける無の風。かたくつきつめた『私』がそれぞれの呪法で風をおこし、風は書く私をつきぬける。やがて読む『私』、そして全ての『私』を解体し、凍りついていた不可視の全体をめぐらせるー、そんな異風たちの春をまつ」

 

 こうした佐々木漣の作品を象徴にした「一行」に魅かれるのは、私個人の詩の体験が懐かしい記憶としてたちのぼってくる、よみがえってくるー、それがあるのだろう。というのも、私の詩の「原体験」は、1970年前後。前半は、大学の「フォークソングクラブ」のメンバーとして。リアルタイムでフォークルの「イムジン河」、高田渡の「自衛隊に入ろう」、はしだのりひことシューベルツの「風」」を聴いたり、弾いたりしていた。

 後半は、マスプロ教育粉砕やベトナム反戦などの「全共闘」へ。沖縄返還協定を中心テーマに、「デモからデモへ」の季節。吉本隆明の「固有時との対話」、「転位のための10篇」、さらに清水昶(あきら)の一連の詩、例えば「男爵」、「眼と銃口」、「夏、涙なんてふりはらえ」などを熱心に読んでいた。

 とくに詩集『朝の道』の代表作だろうと言える「夏のほとりで」などは、その典型だ。手元にある1973年2月第一刷の『清水昶詩集』(現代詩文庫)、そこから、とりだしてみると、やはり佐々木漣の空気と重なっているように感じられる。

 

 明けるのか明けぬのか/この宵闇に/だれがいったいわたしを起こした/やさしくうねる髪を夢に垂らし/ひきしまる肢体まぶしく/胎児より無心に眠っている恋人よ 

 

Ⅱ 「震災以後、詩とは何か」と「民主主義って何だ?」

 「現代詩この1年――」といっても、この3年ほど前まで私は東日本大震災ボランティアだった(それを機会に「防災士」に)。今は、市民団体「さよなら原発!日光の会」代表であったり、「戦争させない総がかり日光市民連合」共同代表であったり。なので、ごく自然に関心は大震災、脱原発、戦争法がらみの詩へ。その問題意識については、今年の「詩と思想」前半期の「詩人の眼」で連載させていただいた。その方面からの「回顧と展望」といえば、第一に先にもあげた河津聖恵さんの詩論集『パルレシア 震災以後、詩とは何か』(2015年12月15日 思潮社)、これを示さねばならないだろう。

戦争法もそうだが、あれから5年半余も過ぎる東日本大震災・福島第一原発事故にからまって生まれている幾多の詩の中に、私たちの胸にすとんと落ちる詩がどれほどあったのか?。私もそう思ってきたが、これまでの詩の多くが、「自己救済」で終わってしまったのではないか?。河津さんもそう指摘したうえ、「だが、3・11以後、一気にこの社会の言葉を完全制覇してしまった無関心や無力感を突き破って、別な現実に触れようとしない。しかし、普遍的な真実とは、現実や事実そのものに留まるものではなく、それらを突き抜ける非現実的な力を必ずもたらすものなのだ」と。そして、ほとんど全力で(そのように感じられる)以下のように提起する。私はその呼び掛けに、深く同感している。

 

 「今、新しい比喩こそが待たれている。一気に別な現実の輝きに触れることで、水の濁りを突き抜け、他者との共感の通路を創造しうる比喩が。その結果、この汚れていくばかりの絶望的な現実が、別の意味合いを帯びてくるような神話的な、宇宙的な比喩が。詩本来の想像力で、消えゆこうとする現実の空をふたたび押し広げ飛翔するための比喩が。汚い現実と化していくこの悲しい世界を、人間の痛みが極まる一点から、鮮やかな虚構へとめくり返す比喩が。・・・・・」

 

 と、このようなまっとうだが、「創造的」な呼びかけに答えられる詩はそうかんたんに生まれないだろう(私もその一人だがー)。それでも、社会・政治運動の面から別の「かたち」で生まれたとも思っている。2015年秋、戦争法強行採決の際、シールズ「自由と民主主義のための学生緊急行動」(SEALDs)たちが、国会正門前で盛んにコールしていたフレーズがそれだ。「戦争法反対」という決まりきったコールだけではなく、「民主主義って何だ?」という呼びかけに、参加者が一斉に「これだ!」と応じる。この応答形式のコールは、現状を正面から突くと同時に、非常に新鮮な響きだった。問題に深く向き合うことから生まれたコールだろう。こうした視点をずらした、意表を突いたフレーズは、詩の世界に対するひとつの大きな「ヒント」になるのではないか。

 

 

Ⅲ 言語の裂け目と積まれた「悲しみと怒り」

 

 「3・11以後、詩とは何か」にからんで、今回の注文で読み進めた詩論で考えさせられたのが、『純粋言語論』(瀬尾育生、五柳書院)。2012年7月発行なので、すでに4年が過ぎるが、現在進行形の指摘だと思えるのが、以下の視点だ。

 

 「人間の心が負った傷を、人間の言語のなかに回収して終えることはできない。そうではなくて、事物の語り出しは本質的に人間の言語の中に回収不可能だということをあらわにする必要があるのです。人間の言語に裂け目をつくって言葉を外に向かって開き、それを事物とつなぐ。その傷口から、何か別の伝達が入り込んでくる通路をつくる。そのための不連続や断片化ということが、重要な詩的な技法・語法になるはずです」

 

 視点として挙げた「回収不可能な言語」についての展開は、「日本における前衛詩の開拓者にして祖である」(中村不二夫 エッセイ集『詩の音』)とされるその暮鳥と白秋について論じた瀬尾さんの詩論「山村暮鳥と北原白秋」の結びにある。

 

 キイワードの「人間の言語に裂け目をつくって言葉を外に向かって開き・・・」を視野にして、今年のわたしが読んだ原発詩でいえば、『コールサック』第86号(2016年6月)にある

みうらひろこの「゛までい゛な村から」だ。累々と「フレコンバック」の山が続く「までい」・「丁寧」な村と呼ばれた福島県飯舘村の現状を伝えながら、心の鏡を映した詩ではある。だが、そこを一つ飛び越えた詩だ。というのも、私もほぼ1年前、市民団体「原発いらない栃木の会」の企画で福島第一原発周辺の町村や南相馬市などを「視察」する機会があった。フレコンバックが連なる山について、思わず「まるで『万里の長城』だね」と、息を呑んだ。この詩は断片化や不連続ではないが、現地の視えない空気・心を見事に「かたち」にしてくれたと思えるからだ。

 

フレコンバックと呼ばれる/除染で出た汚染土を詰めた黒い袋が/累々と、道しるべのように積みあげられています/までいの村に、までいに積まれているのです(中略)この黒い袋の中味は/故郷を失った人達の/悲しみが詰まってます/人々の怒りではち切れそうです

 

Ⅳ 「叙時詩」の可能性について

 

 今年のノーベル文学賞は、あのボブ・ディランへ。世界を驚かしたこのニュースだが、「コールサック」に連載中から注目していたエッセイ詩論『詩のオデュッセイア』(コールサック社)がそのニュースを先取りするように、この秋(2016年10月9日初版)発刊された。副題がなんと、「ギルガメシュからディランまで」。著者は、朝日新聞の看板コラム「天声人語」も担当したことがある高橋郁男さん。名文記者がそこまで詩にぞっこんだとは思わなかったこともあり、熱心に読ませてもらった。

 小題の「『叙時詩』の可能性」だが、抒情詩でも叙事詩でもなく、あくまで叙時詩

という分野?について。高橋さんは第7章「戦後・冷戦から『滅亡の危機』の時代へ」で、ディランの「風に吹かれて」をとりあげ、「その時代の姿・かたち・肖像を詠い、映す『叙時詩』、それぞれの詩の世界で、歌い手と詩句と旋律が奇跡的な出逢いをした時に、時空を超えた一曲が生まれる」とした。さらに第8章「詩の世界での不易と移ろい」で、ローマの諷刺詩を引き合いに、叙時詩について、このように位置づける。

 

「叙事詩でも抒情詩でもなく、その時・その時代の様・肖像を詠った詩を、仮に『叙時詩』と名付けてみた。『時』は、時間、時刻の他に、時代、年代、時世などの意味も併せ持つからだ。その時代の社会事情や出来事を取り上げて評するという点では、近・現代のジャーナリズムの時評や諷刺的なコラムの先駆けのようでもある」

 

 その「叙時詩」について、著者・高橋さんは、『コールサック』第85号(2016年3月)の「小詩集 風信」の中で、「なるほど、いかにも」という詩句を示している。

 

・一一から五年/愚行 というには生ぬるく/傲慢 というには物足りなく/軽率 というには軽すぎ/拙速 というには甘すぎて/卑怯 というには食い足らず/鉄面皮 というには鉄に申し訳ないような/幾多の咎めの言葉も恥じ入る/「再稼働」というものが始まった

 

 冒頭に私が魅かれた佐々木漣の詩を紹介したが、ここまで書いてきて、彼の詩にシンクロするのは、提示される最初の「一行」の新鮮さ、詩句の断片化と不連続、言語の裂け目、それによる独特で懐かしい文体、さらに時代を切り開いていく詩、いわばここで言う「叙時詩」的な空気も私が感じ取るからなのだろう(本人はそのような気で書いているとは思っていないがー)。さらに以下に示す「原初の息吹と呼吸」を、そこに視るからではないか。

 最後のポイントは「特集 現代詩――批評の全景」(「詩と思想」 2016年9月号)にある「若手世代と熟年世代の二極化」(小川英晴)から。「すぐれた詩にはみな意識下の巨大な世界を内包しているものだ。そして、それが読み手の心を打つ。それにすぐれた詩にはどこかに原初の息吹があり呼吸がある」という。<なるほどー>と、そう思わずにいられない視方だ。その詩論にある以下の視点を紹介し、編集委の注文である「回顧と展望」にはかなり遠いだろう個人的な「詩の<現況>についての私的メモ」の結びにしたい。

 

 詩人は自らの意識下の力を借りて詩を書き、自らの文体を創る。おそらくその文体にも自ずと品格は宿るのだろう。作品には意識するしないにかかわらず書き手のすべてが現れる。空海は「声に実相あり」と言ったが、詩人にあっては「文体にこそ実相あり」ということが言えるように思う。声明を唱えて身につまった負の力を拭い払うように、詩人はひたすら詩を書くことによって、自らの混沌を吐き出してゆくしかない。(了)

 

 初出 月刊詩誌「詩と思想」1、2月合併号(2017年1月) 「現代詩この1年――回顧と展望」

 

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2017年8月10日 (木)

今週は11日と12日少し 古書店図書室「霧降文庫」

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 コミュニケーショスペース古書店図書室「霧降文庫」の今週は11日 (金)と12日 (土)の15時までオープンしています。
時間は正午~夕方まで。〒321-1421 栃木県日光市所野1541-2546 ☎0288-25-3348.
 

 12日(土)からお盆休みで。群馬へ帰省です。最も13日(日)の夕には日光に戻ってくる予定ですがー。
 
 来週の土曜日の19日は、「県民ネット」(戦争法の廃止と立憲主義の回復を求める栃木県ネットワーク 加盟52団体)の討論集会があり、これも臨時休業に。20日(日)は、再開するつもりではあるのですがーさて?。
 
 26日(土)は、午前中が「さよなら原発!栃木アクション」会議、午後は「原発いらない栃木の会」会議へ。なので、臨時休業です。27日(日)は、オープンできそうです。
 
 あした11日は、「霧降文庫」の本棚づくりへ。「日曜大工」的な楽しい?作業がありますから、可否も味わいつつ、汗も流しませんか?・・・~。薪割りもやらないといけないのでした!。
 
 とはいえ、9日は晴れたものの、7月下旬の「梅雨明け宣言」からずっと、小雨模様が続いております。ぴかっとした夏本番の太陽が恋しい霧降高原ですー。
 
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2017年8月 6日 (日)

小詩篇 その細く清らかに汚れたもの達と共に   磯山オサム

 

小詩篇

その細く清らかに汚れたもの達と共に

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 1 道端にジプシー

 

ゲキカラの冷シンス

98から17の帰らない未来

シンデシマウヒト

「橋の欄干手を振れば」

通りゃんせも出来ない

海の色 陸の色

ナミダスルヒト

 

現在もある 

ありあまる消えた旅

SNSの離反は

走るハシル樹に会えるのだろうか

 

息を止めてテフウキン

言葉にならない記憶も

ジプシーの人・道の人

花咲く花のネコ

花散る花のネコ

時を切る希望の続き

旅のネコ・旅の人

ずっといとおしく すべていとおしく

千里のかよい路

ジプシー

道端にジプシー

空に残っている

 

 

  2 ホタル売り

 

月の影が薄いので

里の道を抜け ホタル売りに出る

 

街は光を止めて死に向かうから

小さな命を

朴の葉で作った小箱に入れて

売りに出る

 

まもなく世情が脱皮します

回想を無視して永遠を求めます

 

ホタル

ホタルと声をあげる

 

月の影が薄いので

もうすぐ消える光を

小さな箱に入れて

ホタル売りに出る

 街に 

 光を売りに出る

 

 

 3 その細く清らかに汚れたもの達と共に

 

たくさんの未来がシンダので

ぬれたバスストップ

雨の色を夜ノ森に投影している

過ぎた春を指折って数えている

 

独り子の生きる森の

清らかな孤独

動くことの無い

自らの意思ではなく汚れた命に

耳を澄ます

 

夜の発車ベル

海から風が吹いて三月が始まるので

再び春を数えている

指折っている

 

細く清らかに汚れて生きる

声の無い

たくさんの命

 

眼を閉じ

ぬれたバスストップ

汚れたもの達と共に生きるために

春を数えている

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2017年8月 2日 (水)

折々の<状況>その(3)  『序説』第24号

 

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      折々の<状況> その(3)

                  富岡洋一郎

 

 決議文、呼びかけ、お願い、市民団体の会報の記事や連絡、レジュメ、会則づくり、議事案、議事録・・・ときおり短い書評―。この1年の「折々の<状況>」は、活動してきたさまざまな局面でどうしても書かねばならないという文章を記す機会が特に多くなってきた。

昨冬から今春の間に、市民団体「アースディ日光」の事務局長や「横根高原の自然を守る日光市民の会」の事務局、それに親しい日光市議の後援会代表などを務めるようになった。これまでも脱原発社会をめざす市民団体「さよなら原発!日光の会」代表や戦争法廃止をめざす市民団体「戦争させない総がかり日光市民連合」の共同代表も務めていた。

そのため、会議や集会が次々とセットされ、さらにときおりデモも。私がめざす「晴耕雨読」とは縁遠い日々を送ってきた。そろそろ「許容量」を超えそうだとも感じている日々だ。だが、考えてみれば、そうした走りながら過ごし、その場面に即応し、〈悪戦苦闘?〉している現実そのものが今の時代の「折々の<状況>」ではないのか?―。

ということで、今回はこの1年の間に会報やfacebookなどのSNSMLや封書などさまざまな手段・方法で書いてきたそのものを示すことにした。これも日本ばかりか、世界的にこれまで以上に先が読めない、不透明な時代のひとつの「記録」になるのではないかと思っている。以下は時間を追って順に記した、いわばドキュメントといえるかもしれないー。

 

 

原発再稼動に盲進していく愚かな政策に強く抗議する

「さよなら原発!日光の会」第5回総会・決議

 

 劇作家・平田オリザさんは、海外で福島第一原発事故について話をするとき、「約16万人の難民が発生した」と説明しているという。放射能汚染で居住地を去らざるをえなかった、帰る場所を失ったという意味で広義の難民だ、そうとらえるべきだと強調している。

膨大なその難民を生み出した福島第一原発事故当時18歳以下の福島県民を対象にした甲状腺検査では、今年3月末までに、173人ががんの疑いがあるとされ、そのうち131人が手術でがんと確定している。賠償・除染・廃炉費用については、これまで11兆円とされてきたが、賠償だけで8兆円、除染が4兆円、廃炉費用が8兆円と、総額21・5兆円に膨らむ見込みとなった。「原発のコストは安い」の虚構はすでに天下に明らかだ。

それでも川内原発(九州電力)、伊方原発(四国電力)を再稼動させ、さらに原子力規制委は6月20日、運転開始から40年を超えた高浜原発1、2号機(関西電力)の20年延長を認めた。福島第一原発事故後に運転開始から「原則40年で廃炉」の制度ができたが、早くも「例外」となった。美浜原発3号機(関西電力)の20年延長も認可し、「原則40年」ルールの骨抜きが進む。また、核燃サイクルの根幹であった高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)が破綻したが、その反省もなく、11月30日、政府会議は、今度はより実用化に近い実用炉の建設方針を公表し、疑問だらけの「高速炉開発」に突き進もうとしている。

ところが、朝日新聞が10月15、16日に行った世論調査では、「再稼働反対」5

7%、「再稼働賛成」29%。「ただちにゼロにする」、「近い将来ゼロにする」を合わせると、「原発ゼロ」は7割以上に達し、「もう原発はいらない」というのが民意だ。実際、東京電力柏崎刈羽原発の再稼動が争点となった10月16日投開票の新潟県知事選では、再稼働慎重派の無所属新人候補が、自民党推薦候補を破っている。

眼を国外に転じると、11月22日、ベトナムが福島第一原発事故を受けて「日本からの原発輸入の撤回」を決めている。台湾では、9年後の2025年までに既存の原発をすべて停止させることにしたという。その英断について、台湾経済相は「原発をめぐる台湾の民意は東日本大震災を機に大きな変化があった」ためだと言い、大事なことは「放射性廃棄物の問題を子孫に残さないために、どのような政策が必要なのかということこそを考えるべきなのだ」と語っている。

 こうした原発ゼロをめざす政策こそ、この日本が真っ先になすべき決断だったはずだ。原発の「安全神話」は崩壊し、膨大な難民を生み出し、子どもたちなどの健康に不安を与え、経済的にも引き合わず、子孫たちに処理できない放射能廃棄物などを押しつけるー。何よりも日本は地震国であり、第二の「福島第一原発事故」が起きないという保証はない。

それにもかかわらず、原発再稼動に盲進していく愚かな政策が続けられ、12月8日には、川内原発1号機を再稼動させた。東日本大震災後の新規制基準のもとで、定期検査に入った原発の運転を再開させるのは今回が初めてだ。私たちは、その川内原発の再稼動に怒りを込めて強く抗議する。同時にこれらの政策を止めさせる運動を粘り強く進め、脱原発をめざす数多くの仲間・市民とも連帯し、原発のない社会・脱原発社会を実現させることについて、大いに力を尽くすことをここに誓い合う。

以上、「さよなら原発!日光の会」第五回総会の総意において決議する。

2016年12月10日。

 

 菅谷昭・長野県松本市長の記念講演会に市民180人が耳を傾ける

 

 「さよなら原発!日光の会」第五回総会記念講演会は2016年12月10日(土)午後2時半から日光総合会館大会議室で開き、会場いっぱいの市民180人が菅谷昭・長野県松本市長の講演に耳を傾けた。当日は、若いお母さんたちもぜひ参加して欲しいため、託児室(無料)を設け、講演中、10人の子どもたちを預かった。

松本市にトンボ返りする松本市長の講演時間は約2時間。菅谷さんはプロジェクターで映し出したスライド40枚を使って、チェルノブイリ原発事故後、5年半に及んだ現地・ベラルーシでの医療活動やベラルーシの国家としての手厚い健康対策などを解説した。福島原発事故を受けた子どもたちの健康保養なども組み込んだ松本市の独自の取り組みなども紹介し、参加者の真剣な質疑にも約30分にわたって丁寧に答えた。

会場の「図書コーナー」で管谷さんの著書・『原発事故と甲状腺がん』(幻冬舎ルネサンス新書)、『これから100年放射能と付き合うために』(亜紀書房)、『子どもたちを放射能から守るために』(亜紀書房)の3種・55冊を用意したところ、すべて「完売」された。「放射能問題」に対する関心の高さを改めて浮き彫りにした頒布会となった。記念講演会はチャリティとして行われ、益金の大半、3万円を「3・11 甲状腺がん 子ども基金」に寄贈する。さらに「チェルノブイリ・福島医療基金」と「未来の福島こども基金」もそれぞれ5000円の計4万円を寄付に回すことに決めた(富岡洋一郎

(初出 「さよなら原発!日光の会」会報「げんぱつニュース第30号 2017年1月10日」

 

そういえば、丸100年―、『ロシア革命 破局の8カ月』(岩波新書)

 

そういえば、丸100年でした。10日ほど前が初版日だった『ロシア革命 破局の8か月』(岩波新書 池田嘉郎)。2月革命からレーニンの10月革命まで、自由主義者たちの「奮闘と挫折、そして新たに生まれたもの」。主演級が第三次まで臨時政府の首相を務めたケレンスキー。
 同書によると、四次にわたった臨時政府の38人の元大臣のうち、亡命先で死去したのは、21人。最後まで生き延びたのは、ケレンスキー。はじめはフランスに亡命し、第二次大戦中の1940年にアメリカに移住。いくつもの回想記を書き、1970年にニューヨークで89歳で死んだ、という。(これは初めて知りましたー)
 ニコライ二世の退位のドラマから始まり、デレビドラマにもなりそうなドキュメンタリータッチの232頁。昨日、たまたま書店で手にしたのだが、面白さに惹き込まれー。100年前にタイムスリップできました~。著書は1971年生まれ、専門は「ロシア近現代史」の東大大学院准教授。この手の世界の新たな書き手が登場してきたことがわかる新書です。

(初出 BLOG「霧降文庫」2017年2月1日)

 

 

「さよなら原発!日光の会」新電力自主講座

自然エネルギー社会づくりに向けた市民によるエネルギー自治

 

電気の自由化で雨後のタケノコのように全国各地で生まれた新電力。そのひとつに近い将来、自然エネルギー100%をめざして設立された電力会社・生活クラブエナジー(東京都中央区)があります。「脱原発・自然エネルギー社会づくりに向けて市民によるエネルギーの自治をすすめ、持続可能な未来をつくります」。3・11以後、その理念で、各地の生活クラブ生協などがつくりました。生活クラブ生協栃木の専務理事が、その生活クラブエナジーの現況について、福島第一原発事故の経験や生活クラブの「エネルギー7原則」などから語ります。脱原発・原発に頼らない電力について知りたい市民にピッタリの自主講座です。お気軽にご参加ください!

(初出 「さよなら原発!日光の会」自主講座 フライヤー 2017年2月22日)

 

 

福祉の世界から飛躍する「正義の味方」ー阿部かずこさんを応援してください

 

 左腕を折りながら、「戦争法廃止」を求める集会・デモに参加する、市議として忙しい身なのに、あえて福島第一原発事故で被害を受けた現場や仮設住宅を訪ねて助言する、今年春に新たにオープンした「新・市民活動支援センター」の説明会に参加し、日光市に注文をつける・・▼阿部さんの活動の一端ですが、各種の市民運動の集会でも進んで受付や司会を引き受けるなど、「縁の下の力持ち」です。その阿部さんとは、2014年春、平木ちさこさん(県議)が日光市長選に立ったときからの縁。市議会で「平木派」をつくるつもりで、私も市議選に挑みましたが、私は苦杯。阿部さんはなんとか議席を得ました。以来、彼女の精力的な「東奔西走」に眼を見張っています▼阿部さんは看護師の世界からスタートして、今や日光市の市民団体の拠点となっている「市民活動支援センター」設立について提言したうえ、誕生・運営にもあたってきました。ケマネージャーの資格を活かせる福祉の世界の「プロ」でもあります▼そばにいると、阿部さんの行動力、判断力、先見性がよくわかります。なによりも「正義の味方」です。2018年春の日光市議選では、その彼女の再選に私も力を尽くします。みなさんも、どうぞ、阿部かずこさんを応援してやってください。(「阿部かずこと未来を想う日光市民の会」 代表・富岡洋一郎)

(初出 阿部かずこと未来を想う日光市民の会 会報「通信 みつばち001号 2017年2月」

 

 

持続可能な愛と連帯と平和な社会・世界を創るー、「アースディ日光」会則

 

 (名称及び事務局)

第1条 本会は「アースディ日光」と称する。事務局を栃木県日光市所野1541-2546に置く。

(区域)

第2条 会の対象区域は、日光市及び栃木県周辺区域とする。

(目的)

第3条 本会は、地球を愛する市民の力を集め、これまで培ってきた知見や実践や構想を踏まえた「メッセージ」を日光市、栃木県、全国に力強く発信・共有することで、多様な命が共に生きる、環境に優しく、持続可能な愛と連帯と平和な社会・世界を創ることを目的とする。

 (活動内容)

第4条 会は、前条の目的を達成するため、以下の活動を行う。

(1) 持続可能な愛と連帯と平和な社会・世界を創る活動

(2) イベント「アースディ日光」の開催活動

(3) その他 本会の目的に沿った活動

(以下、略 2017年3月20日)

 

 

序説第24号連絡 「きょうこそ、みんなに序説の連絡をしよう」

 

4月1日の「選抜決勝戦」を聴きながら、「序説第24号」の連絡を書いておりました。新春から「きょうこそ、みんなに序説の連絡をしよう」と思っておりましたが、毎日、雑用ー市民運動の会議や集会・デモ、薪割り、ベランダ補修などに追われ、それがかないませんでした。恐縮です。

 最初に事務局・富岡から「私事」について、ひとつ、ふたつ。

●ご承知のように富岡・黒川は、昨夏、腰椎すべり症で済生会宇都宮病院に約1カ月入院、この春でそれから8カ月。この3月は半月間、県営だいや川公園で毎日のように1時間の散歩へ。目標は3・20「さようなら原発 全国集会」の集会・デモで、代々木公園から渋谷駅まで「完歩」すること。結局、拡声器を片手に1・3㌔を完歩することができました。「自分をほめてあげたい」-笑いー

●その2 月刊詩誌「詩と思想」(「序説」準同人の長島君が装丁しています)2017年1、2月合併号・特集「2016年度・回顧と展望」で、巻頭詩論のひとつ「『叙時詩』」に向かって吹く風 詩の<現況>についての私的メモ」(約2600字)を掲載しました。今回の序説第24号でも転載するつもりです

●その3 霧降高原では「キリフリ谷の芸術祭」というのが、毎年6月にあり、今年で3回目。詩人・黒川純も今年初めて誘われました。6月11日(日)と6月25日(日)の、いずれも13時~15時、ベランダを会場に「詩・歌朗読会 こんにちは 未来」を開催します。詩人、歌人、声楽家、舞台役者などが「舞台」に。みなさんも時間がありましたら、「霧降文庫」にも(「序説」の会員に限ってだけ、特製カレーと珈琲をサービスしますー笑いー)―以下略―。

(初出 「序説第24号連絡」部分 2017年4月2日) 

 

自由にものが言えない疑心暗鬼の監視社会となることは認めない

「戦争させない総がかり日光市民連合」決議

 

 犯罪を計画段階で処罰できる「共謀罪」(組織的犯罪処罰法改正案)-、衆院で本格審議に入っているが、私たちは、捜査手法の拡大による警察権力の強化によって、市民生活に対する「監視」が強まり、警察のさじ加減で、ある日突然、普通の市民が容疑者にされかねない物騒な共謀罪法案に、断固反対であることを内外に強く訴えていく。

政府は東京五輪を控え、「テロ対策は喫緊の課題」として、「テロ等準備罪」という名称にした。だが、その看板を掲げながら、当初の政府の条文にテロの定義も文字もなかった。法案の本質がテロ対策ではないことが明らかだ。また、国際組織犯罪防止条約(TOC条約)締結に必要だと強調するが、国連の「立法ガイド」の執筆者が「テロ対策は条約の目的ではない」と明言している。一方、テロ対策だ、治安対策だ、と言われれば、「それなら賛成だ」となりがちだが、日本はすでにハイジャック防止条約、爆弾テロ防止条約、核テロリズム防止条約など、13の国際条約を結んでいるのだ。

問題なのは、共謀罪法案が成立すると、「内心を処罰」できる論理が可能になることだ。行為や結果を中心として処罰してきたこれまでの犯罪観を一変させ、行政の施策への反対やあらゆる権利運動が処罰対象になる。

計画を処罰するために捜査手法も大きく変化するのは必至だ。立件するには、盗聴が不可欠となる。携帯電話、FAXはもちろん、FacebookTwitterlineなどのSNSで「その計画を知っていた」だけで捜査対象になる。現行の盗聴法を背景に共謀罪の疑いがあれば、捜査を名目にそれこそ盗聴し放題になる。

 歴史上、悪名高い治安維持法は、1925(大正14)年に公布され、1929(昭和3)年の改正でこれまでの左翼思想の取り締まりに加え、労組なども捜査対象になり、戦争に反対する人々も強権が使われた。1941(昭和16)年に新・治安維持法が施行されると、拡大解釈で宗教団体、言論機関、歌人・詩人・俳人なども弾圧された。

安倍政権は2013年に「特定秘密保護法」を成立させ、2015年9月に自衛隊の海外での武力行使を可能にする「戦争法」を強行採決した。「殺す、殺される」ことが起こりうる現地・南スーダンに自衛隊を派兵した。今、さらに共謀罪法成立にやっきだ。「治安維持法」、「軍機保護法」、「国家総動員法」と、戦時法制を次々と整備していった戦前に重なる危うい状況にある。一方で、「戦争ができる国」に反対する市民活動、権利運動が活発化している。共謀罪はこうした風潮を押さえつける狙いがありありだ。

 戦争法の廃止と立憲主義の回復を求め、昨春発足した「日光市民連合」は、盗聴、密告が横行し、「目立ったことをすれば監視される」と、私たち市民を萎縮させ、自由にものが言えない疑心暗鬼の監視社会となることは認めない、そして、「戦争への流れ」に向けた「戦時体制」の構築を阻むため、「戦争法廃止」はもちろん、物騒な「共謀罪」についても断固反対であることを、ここに強く内外に言明する。

以上、「戦争させない総がかり日光市民連合」第2回総会の総意において決議する。

2017年5月20日

 

何のために闘うのか?! 『左翼の終焉と21世紀型大衆運動のゆくえ』

 

何のために闘うのか。権力のためか。自由のためか。民主主義のためか。結局行き着くところは、シンプルに個人の尊厳と誇りのためだと言うことができるのではないか。

(初出 facebook富岡洋一郎  2017年5月20日)

 

 

最後に「どんでん返し」の「希望」がー『夜の谷を行く』(桐野夏生)

 

全299頁の絶望的な展開の最終頁に、「どんでん返し」の「希望」が。「連合赤軍事件」の女兵士をテーマにした『夜の谷を行く』(桐野夏生)。

啓子は大きな息を吐いた。長い間、心に仕舞っていた秘密から解放された。しかし、解放は新たな枷を作るかもしれない。一度も持ったことのない、希望という慣れない感情に、啓子はまだ戸惑っている

(初出 facebook富岡洋一郎 2017年6月6日)

 

 

 

facebook頁などSNSの活用へ 「横根高原の自然を守る日光市民の会」呼びかけ人会議レジュメ

 

1. 当面する確認事項

 反対署名の集約の特徴と筆数の確認について

 署名の提出方法について

 陳情審査に向けた、市議会議員への働きかけについて

 今後の取り組みについて

・スケジュール

1日光市長への要望書提出の時期と方法について

2日光市9月議会への対応について

3第三次反対署名行動について

・活動内容

1横根高原現地視察会の継続について

2先進的な再生可能エネルギー規制条例の研究と視察

3鹿沼の仲間との連携について

4横根高原の講演会設定について

5呼びかけ人の拡大について

 

・連絡体制と広報について

1呼びかけ人など、ネットでの連絡体制の強化について

facebook頁やBLOGtwitterなどSMS活用について

3「市民の会」HPの創設と活用について

(2017年6月13日)

 

 横根高原メガソーラー発電所建設反対署名」の記者会見ご出席のお願い

 

 私たちは日光市足尾と鹿沼市にまたがる前日光県立自然公園の「横根高原」に計画されているメガソーラー発電所について、建設反対を掲げ、4月6日に発足した「横尾高原の自然を守る日光市民の会」です。建設反対署名活動を進めてきた結果、5月16日に、6931筆となり、同日、その第一次反対署名を添え、日光市議会議長に陳情書を提出いたしました。

 

 6月14日にはさらに第二次反対署名を加え、総計1万788筆となったことを伝えながら、再び、日光市議会議長に提出いたしました。これらを受けた当日の日光市議会産業観光常任委員会は全会一致で、陳情の採択を決めました。19日に日光6月市議会最終本会議が予定されておりますが、私たちの陳情内容を受けた意見書が採択される見通しだと思っています。

 

それらを受けた記者会見を当方で設定させていただきました。当会の共同代表や反対署名呼びかけ人らが参加し、これまでの反対運動の経過や運動の狙い、今後の方向などについて説明させていただこうと思っています。さぞやお忙しい日々かと推察しておりますが、ぜひ、記者会見に参加・取材・報道していただければ、幸いに思います。(2017年6月16日)

 

 

宇都宮二荒山神社前の「安倍政権弾劾街頭演説会」へ

 

 6月15日(木)の「6・15共謀罪強行採決成立」を受けて、「19日行動」をどのようにすべきか、福田洋吾事務局長と連日、協議してきましたが、最終的に19日(月)は、「日光市民連合」として、同日17時半~18時半、宇都宮二荒山人社前で開く「安倍政権弾劾街頭演説会」に参加することにしました。

 当日は、午前10時から、日光市議会最終本会議があり、「共謀罪」と「横根高原」の二つの陳情について、討論が予定されています。これに参加したうえ、15時から日光総合会館中会議室(安川町)で、本会議での陳情採択を受けた「横根高原大規模発電所建設計画反対運動について」の記者会見がセットされています。共同代表、呼びかけ人のほか、「日光市民連合」「さよなら原発!日光の会」の会員のみなさんもぜひ、御参加くださるよう、お願いします。

(初出 「さよなら原発!日光の会」ML 2017年6月16日)
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2017年8月 1日 (火)

「僕らの社会主義」  生きていくヒントがいっぱい

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山崎亮 ちょうどその頃、マルクスの『資本論』が英語に翻訳され、モリスはこれを読んで非常に大きな影響を受けた。ただし、それ以前にモリスはラスキンの影響を受けていたし、間接的にカーライルの影響も受けていた。さらにイギリス社会主義の父と呼ばれるロバート・オウエンの影響も受けている。だから、マルクスからレーニンにつながるような流れではなく、独特の社会主義思想を生み出した。こうしたイギリス社会主義の流れは、現在のイギリス労働党にも受け継がれています・・・・
 
  國分功一郎  ひと口に社会主義と言っても、いろいろあったんですよね。たとえばモリスが提唱したような審美派の社会主義とか、あるいはキリスト教社会主義とか、社会主義そのものはマルクス主義以前から存在したわけです。ところがー、これはこの対談の核の一つとなる問題だと思いますがーそれがロシア革命の成功を経て、次第にボルシェビズムと同一視されるようになった。
 モリスの著作も戦前の日本では非常に熱心に読まれていましたよね。特に大正期の末から昭和の初めにかけては『芸術的社会主義』として、大々的に受容された。翻訳も数多くなされたし、研究書も出版されていた。1934年のモリス生誕百年の際には、丸善書店において「モリス誕生百年祭記念文献絵画展覧会」が催され、それに合わせて『モリス書誌』や『モリス記念論集』も出版されています。新聞雑誌にも多くの記事が掲載された。
 この事実は割と知られているかもしれませんが、芥川龍之介が東京帝国大学文科大学英文学科を(20人中2番の成績で)卒業するにあたって提出した卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」です・・・・・。
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(折々の<状況> 0025 その1)

2017年7月22日 (土)

序説』第24号(95頁)が同人に。総会は7月29日、発行は8月1日

 
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 創刊から43年目の同人誌『序説』第24号(95頁、編集委事務局、栃木県日光市)が届きました。発行日は8月1日(定価500円)なのだが、同人(首都圏、関東地方と東北地方に暮らす10人)にはその1週間ほど前に着くように。ベテランの仲間のデザイナー(群馬県太田市)が工程通りに完成させてくれました。
 その「序説」総会は来週の7月29日(土)~30日(日)、日光霧降高原で。毎年、各地の旅館やホテルなどに泊まり込み、同人が喧々諤々の時間をすごしております。
 今年の総会会場は事務局が置かれている「霧降文庫」で。泊まりは霧降高原のペンション。このところ、不透明さがますます増してきた「世界」と「序説」などについて、語り合うことになるでしょう。
 
 

2017年4月 3日 (月)

同人誌「序説第24号」も始動ー  8月1日発行に向け「連絡」

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4月1日の土曜日は、1974年創刊の老舗、社会派同人誌「序説」の連絡に追われておりました。10人の同人と3人の準同人に投函ー。「事務連絡」も含めて。新春からとりかかろうとしていましたが、3か月後にようやく連絡を送ることができました。そのさわりをネットにもアップしてみます。写真は昨年の「序説第23号」です。

「序説第24号」連絡
2017年4月2日(日)  事務局 黒川純=富岡洋一郎

みなさん、お変わりないでしょうか。4月1日の「選抜決勝戦」を聴きながら、「序説第24号」の連絡を書いておりました。新春から「きょうこそ、みんなに序説の連絡をしよう」と思っておりましたが、毎日、雑用ー市民運動の会議や集会・デモ、薪割り、ベランダ補修などーに追われ、それがかないませんでした。恐縮です。
 
 最初に事務局・富岡から「私事」について、ひとつ、ふたつ。
●ご承知のように富岡・黒川は、昨夏、腰椎すべり症で済生会宇都宮病院に約1カ月入院、この春でそれから8カ月。この3月は半月間、県営だいや川公園で毎日のように1時間の散歩へ。目標は3・20「さようなら原発 全国集会」の集会・デモで、代々木公園から渋谷駅まで「完歩」すること。結局、拡声器を片手に1・3㌔を完歩することができました。「自分をほめてあげたい」-笑いー
●その2 月刊詩誌「詩と思想」(「序説」準同人の長島君が装丁しています)2017年1、2月合併号・特集「2016年度・回顧と展望」で、巻頭詩論のひとつ「『叙時詩』」に向かって吹く風 詩の<現況>についての私的メモ」(約2600字)を掲載しました。今回の序説第24号でも転載するつもりです
●その3 霧降高原では「キリフリ谷の芸術祭」というのが、毎年6月にあり、今年で3回目。詩人・黒川純も今年初めて誘われました。6月11日(日)と6月25日(日)の、いずれも13時~15時、ベランダを会場に「詩・歌朗読会 こんにちは 未来」を開催します。詩人、歌人、声楽家、舞台役者などが「舞台」に。みなさんも時間がありましたら、「霧降文庫」にも(「序説」の会員に限ってだけ、特製カレーと珈琲をサービスしますー笑いー)。

 本題ですー。「序説」第一期は、第12号まで。それから4半世紀休刊し、第13号から第二期をスタートさせています。今号の第24号は、その第一期に+12号となる記念すべき号です。第一期の号数と肩を並べたということです。
そのこともあり、「第24号発行のときの総会会場は、事務局の霧降高原で開こう」と、お伝えしてきました。
 ということで、●2017年の総会は、日光・霧降高原の黒川純邸で。宿泊は、歩いて1分の豪華ペンション(全室とも露店風呂付き)「ポコ・ア・ポコ」3部屋(一部屋2人、計6人)を予約してあります●懇親会も黒川純邸で。

2016年8月17日 (水)

47年前、高野悦子は・・・・ 京と(3) 高橋一男+ゴン太

同人誌「序説」第23号(8月1日発行 「霧降文庫」が事務局です)のエッセイから。高橋一男の魅力的な連載です。今回で3回目ー。味わって読んでくださいね。作者は建築家です。読む進めると、「なるほどー」と、なるでしょう。「編集後記」もアップします。

Img_8537_2 京と(3)           高橋一男+ゴン太

 

1969年(昭和44年)2月18日(火)曇 夜半雨

五時頃、ふっと自転車で嵐山に行く。ボートに乗るつもりだったが、時間が遅いせいか、季節外れのせいか、それとも増水のためか、ボート屋は店じまいであった。山陰線のトンネル付近の岩に腰をおろしてラジオのスイッチを入れた。ジャズ、エレキが流れて丁度合った感じであった。川の水は黄土色に濁ってドクドクと流れていた。(二十歳の原点 62頁・63頁)

 

野宮神社を過ぎると坂道の竹のトンネルが続く、近くには山陰本線のトンネルがあって時々列車の通り過ぎる音が聞こえる。トンネルはお墓に行くための山陰本線に架かった橋の西側に見える。雨降りで平日のせいか観光客は少なかった。だから竹だらけの中、竹

と話ながら坂道を歩いた竹箒の先で作ったような道路との境界の塀、先人が考えた機能であり風景であった。山陰本線嵯峨嵐山駅から一キロ程歩いたろうか、世界遺産に登録されている天龍寺の北側を過ぎて竹林の道も過ぎるとT字路に出た右折すると大川内山荘方面へ、少人数ではあるが歩いて行く人がいたが僕は逆方向にある嵐山公園(亀山公園)の方に向かった公園の歩道は景観のダメージにならないように、表面が玉砂利仕上げになっていて下りの坂道と雨で滑りやすくなっていたために、注意はしていたが思いきり転んでしまったビニール傘は宙を舞った。前方から来た人達の中のひとりが「大丈夫ですか」と声をかけてくれたちょっと嬉しかった。(たぶん中国の人だったと思う。)僕は転がる瞬間に柔道の受身をしていたので、怪我をしないですんだ。それにしても玉砂利は雨の日は滑る、ひとつ勉強になったでも頭を打たななくて本当に良かったと内心思った。(中学生の時、柔道の乱取で投げられて頭を打って記憶がとんだ時のことを思い出した。)雨は小降りになっていたがまだ降っていたしばらく行くと保津川(大堰川)が見えてきた。川の流れを見ているといつの間にかその先の着船場にある屋形船の提灯を突いて遊んでいるカラスの動作がおかしくてしばらく見ていた本当に知恵のある生き物だと感心した。気が付けば雨も止んでいて大きな石(岩)に腰かけていた今年もまだ二月の平日(正確には2016年2月29日月曜日)人もまばらであった。屋形船の川下に渡月橋が見えるさすがに多くの人が渡っている。そしてその渡月橋から川下の川が桂川となる、川岸にはボートも置いてあった。47年前の今頃高野悦子はこの近くの岩に腰かけてラジオのスイッチを入れたのだろう。でも来てみて思ったのだがこの場所は山陰本線のトンネルからは少し離れているし、山陰本線のトンネルの近くには岩を見つけることはできなかったがトンネルはイメージしていた風景の中にあって線路はその中に消えていた。ここに来る途中の野宮神社の黒木鳥居は特徴があって、クヌギの木の樹皮を剥がさないで使用する、日本最古の鳥居様式らしい。この鳥居を見て思ったのは、学生の頃、木(もの)を自然の状態というか未加工の状態で美術の作品を作る美術家達がいて「もの派」と呼ばれていた。僕はそのなかでも菅木志雄という美術家に「もの」の見かた、考え方に関して強い影響を受けた。それは出来事の未完成状態の成立というか、うまく説明ができないが彼が提示してきた数々の未完成作品からであった。その中のひとつに1973年の連識体(Renshikitai)という作品がある。細長い板状の自然石を針金で縛りブリッジにして、四隅にある住宅を建てる時、使われる独立基礎のようなコンクリート製の台にのせられていた。この作品は実際には見ていないが、美術雑誌の写真で見た時の印象(驚き)は今でも覚えている。それはあってはならないような作品の提示で、でもそれが嘘のように新鮮で、「もの」に対するアニミズムの持つ優しい視線みたいなものを感じることができた。その後イタリアのジュセッペ・ペノーネやフランスのクロード・ヴィアラという同じような視線を持つ美術家がいることを知り、そして彼らの作品も知った。今になって思うと彼らの存在が僕にとって「ものづくりの基本・発想の原点」になっているような気がしてならない。

 

保津川の流れを見ながら高野悦子がいた京都、そしてあの時から47年も経ってしまったことを考えていた。時間は勝手に過ぎてしまったが、僕はそれ程時間が経ったとは思っていない。彼女の著書(二十歳の原点)からあの時代の京都の風景が見えたし、(イメージできた)街のなかの家のかたちや使われている材料の素材感やその色など、(長い間建築の仕事に関わっていると知らぬ間に、この国の家というシェルターに内在している遺伝子みたいなものが勝手に刷りこまれている)。街を歩いている若者達たちの服装、音楽、など、1969年は多くの若者がフォークソングを歌いギターを弾いていたし、彼女も「高石友也(高石ともや)」のことを書いていた。URCは八月からレコード店などへの直販を始めた。第一回発売が岡林信康と五つの赤い風船、新宿西口フォーク集会のドキュメント「新宿1969年6月」だった。1969年10月21日は“若者の街・新宿”が“政治で燃えた最後の夜だった。(田家秀樹 著・70年代ノート~時代と音楽、あの頃の僕ら~)1969年8月、知人の美術家、加藤アキラさんは京都国立近代美術館の「現代美術の動向」展に招待出品していた。彼女が亡くなって2ケ月後であった。でも彼女は著書のなかで現代美術にはふれてなかった。

 

1951年(昭和26年)に開館した僕と同い年(今年で65歳)の鎌倉近代美術館(カマキン)が3月31日(2016年)で閉館になる前にお別れにいった(鎌倉からはじまった。1951-2016 展)。鎌倉近代美術館は日本で初めての公立近代美術館で日本を代表する近代建築として評価を受けていた。設計者の坂倉準三はル・コルビジェの弟子で、いま話題になっている国立西洋美術館の実施設計にも関わっていた。

僕は朝の10時に家をでて小田急線で藤沢まで行って、東海道本線で戸塚。戸塚からか横須賀線で鎌倉まで一時間くらいかかった。美術館まではそれ程の距離ではなかったので歩くことにしたが到着すると足はガクガクになっていた。美術館には大勢の人がいて大盛況状態、きっと僕と同じように、カマキンにお別れに来たのだろうと勝手に思った。僕は美術館の前にある池のほとりで、朝自分で作ったサンドイッチを食べた。池にうつる美術館の細い柱の感じが二年越しでやっと会えたあのサヴォア邸の柱と重なって見えた。企画展を観て会場の出口近くのショップで過去の展覧会の図録がチョット安く売っていたので、軽い気持ち見ているとエル・アナツイの図録「A Fateful JourneyAfrica in the Works of EI Anatsui」を買った。エル・アンツイは1944年生まれガーナ出身の彫刻家で、世田谷美術館の図書館の図録で知った、以前世田美で展示された「あてどなき宿命の旅路」(1995年)という作品で、どことなく「もの派」的でいいなぁと思った。インスタレーションの作品で使い古された木の台の上に枯れたような細い木が取り付けてあって、しっかりと立っているものもあるが、数は少ないが倒れているものもあった。あとで知ったのだが、台の上の細い木はアフリカでの燃料用の薪で、その薪は女性と子供が集めるとてもハードな仕事でその現実が表現されていた。それからガーナの織物のような作品もあった。役目を終えたアルミ製の瓶の蓋を銅線で繋いでいくと、小さな蓋が集まって大きな面になってタペストリーのように天井から吊るされていて、無数の蓋の色が集まって、不思議なエル・アナツイの世界を作っていた。実はもう一冊買ってしまったディヴィッド・ナッシュの図録「ディヴィッド・ナッシュ展 音威子府の森」だ。ナッシュの作品は時々世田美で見ることができるが、初めて見たのは栃木県立美術館でナッシュが1984年に日光の光徳の奥山でナラ、ニレ、ダケカンバの風倒木に挑んで製作した作品の一部だったと思う。彼は生木を使わず風倒木、立ち枯れ木だけで作品製作をする。死んでしまった自然木に再度生命力を吹き込む作業は、いつ見ても人間と自然との距離感を強く意識させる作品だ。それから図録音威子府(おといねっぷ)という地名だが、それを知ったのは真冬の北海道へSLの写真を撮りに行っていた同人の君島君からだった。雪野原を走るSLそしてその先に海が広がり薄っすらと利尻島が、そして空気まで凍っていた音威子府の写真はすばらしかった。

 

野宮神社の鳥居から君島君の話まできたが、君島君の住んでいる足利は夕日がきれいな街で渡良瀬橋から見る渡良瀬川の流れは以前から桂川の流れに近いものを感じていたし、足利の街も京都の街も同じような重心の低さが僕は好きだった。そんなことを思いながら、保津川(桂川)のボート乗り場近くの岩に座り47年前の高野悦子が見た同じ川の流れと、同じ季節の風を感じていた。

 

東山区の京都国立博物館(京博)内の平成知新館のオープンを知って訪れたが閉館していていたので、今回は開館日を確認してから行った。七条通に面したチケット売り場の南門(ミュージアムショップ)はカワイイ建築だが、1989年に出会ったバルセロナ・パビリオンを思い出させた。バルセロナ・パビリオンは1929年ミース・ファン・デル・ローエが万国博覧会のドイツ館として設計した期間限定の仮設の建築であったが、1986年に復元されていた。水平線が強調された屋根のライン、床から天井までのガラス面、ステンレスの柱、シマメノウ(大理石)、内側から光る(天窓)乳白色のガラスの壁、外部の建物を写す四角形の池、石張りの外部の床など、装飾的なものは一切排除された古典主義的に構成された建築であり、建築の即物的提示は僕にとって強い興味の対象であった。京博の南門とバルセロナ・パビリオンとの共通性は外部の幾何的余白とか外部に使用されている素材の視覚性という表層的なものではなく、建築家谷口吉生の遺伝子の中に隠れているのではないかと思った。父親は、建築家の谷口吉郎(1904~1979年)である。谷口吉郎は金沢市出身で東京国立近代美術館(1967年)や藤村記念館(1947年)など数多くの作品を残した。

 

思い出すのは学生の時、美術部の合宿で木曽へ行った時、藤村記念館を訪れた。梅雨の明けた七月初旬その年は特に熱い夏で、妻籠宿から馬籠宿まで山道を歩いたがあまりの暑さに、道沿いの翌檜(あすなろ)の木の下に嘘のように綺麗な流れの川で水浴びをした。着替えなんかないからパンツも着けず素裸だった。最初は君島君、続いて富岡君、大木君、大橋さん、井上さん、我謝君、僕、後輩もいた。そして翌日、島崎藤村の生家跡にある藤村記念館へみんなで行った。

 

何時だったろう、祖師谷の古本屋で「雪あかり日記」谷口吉郎 著と出会ったのは。本を手に取って開いて驚いたのは紙質で、黄色というよりも茶色に近く、本を開く時に丁寧にしないと紙が破れてしまうのではなく割れてしまった。文字は読にくい昔の漢字で、印刷もあまり良くなかった。とにかく古い本のように見えた。そこには戦後間もない物不足(何でも全部不足)の時代に出版(昭和22年12月25日)されていて、出版社、著者の建築に対する強い意志と運命的な出会いを感じたので買うことにした。読んだことはなかったが本のことは昔から知っていた。

 

著書によると谷口吉郎は昭和13年(1938年)ベルリンにある日本大使館の建物が、新しい都市計画のために改築されることになったので、この機会に向うに行ってはどうかと云うお話であった。もとより私は先生(伊藤忠太)の御厚意に従った。(雪あかり日記 267頁)

 

この本で特に印象に残ったのは石の事と建築家のカルル・フリードリッヒ・シンケルのことであった。

 

ヨーロッパ人の石にたいする美は何であろうか。

ヨーロッパでは人口的な形の美しさが問題になる。天然の肌を有する石から自然の表面をけずり取り、人口的な形の美を作りだそうとするものである。このようにヨーロッパ的な造形というものは、何から何まで加工の意匠と云いえる。水の流れと苔の美しい日本では、庭石のように、石は天然の肌が、賛美される。大理石のような石質の美しいヨーロッパでは石は加工された面が賞美される。だからロダンも云っている。「石の中に光がある」と。(雪あかり日記 81頁、82頁)

 

私は浅春の日、侘助椿の咲く頃、あの竜安寺の庭を訪れたことがあった。また日ざしの強い夏の日、蝉時雨が石の肌にしみる頃たずねて行ったこともあった。済んだ秋の日、雪の降る冬の日にも私はこの庭を見に行った。京都に行く友に是非この庭を見るように云ってやった時、その友は、心の中に涙が流れたと絵葉書の返事をよこしたこともあった。(雪あかり日記 83頁)

 

何時だったか、美術家のリー・ウーファンがヨーロッパで作品に使用するための大きな自然石を探すのが大変だったと美術書で読んだことがあった。

この北ドイツ一帯の低地は、地質学的に氷河でできた地帯だった。(雪あかり日記 64頁)

どうりで、大使館の建設工事場で地下室や基礎を掘る時、敷地のどこを掘ってもさらさらとした鋸屑のような色をした砂ばかりで、石ころ一つ出てこないのに、私は驚いた。(雪あかり 日記 65頁)

 

結局、日本からアメリカへ持って行った庭石を庭師と共に大西洋を渡ってドイツの建設現場へ搬入されることになったらしい。

 

ウンター・デル・リンデンの大通りを、巡邏兵の一隊が、勇ましい軍楽隊を先頭にして、こちらへ近づいてきた。そう、今日は水曜日だった。毎水曜日には、このリンデン街を、巡邏兵の一隊が隊伍をととのえて、「無名戦士の廟」まで進行してくるのが、ベルリンの名物になっていた。(雪あかり日記 89頁)

 

無名戦士の廟(ノイエ・ヴァッヘ)は1816年にカルル・フリードリッヒ・シンケル(1781~1841年)によって設計された。シンケルは新古典主義の建築家で、優れた比例で構成された作品はモダニズムの建築(美学)に影響を与えた。「雪あかり日記」はシンケルの建築を中心に書かれていた。

 

ギリシャ的なものに強い力を認め、今も尚、時代を越え、風土を越えていきいきとした新しい美しさを感ずる芸術的感動の側から、古典を眺めたならば、その古典美を簡単に無視することは容易でない。

現代美術の感情は、その心を深めれば深めるほど、伝統の源泉に心を惹かれ、その伝統の中に、強い力を感じ、それから多くの啓示さへ受けざるをえない。(雪あかり日記 94頁)

 

彼の模倣(シンケルの正しいギリシャの模倣)は決して安易な態度でなく、むしろ謙虚な態度を以て、最高美を探求しようとし学生のように、純真な精進の道を選んだものと云うことができるであろう。(雪あかり日記 187頁)

 

それから、シンケルの後継者(建築家)のことに触れている。ウィーンのオット・ワグナー(1841~1918年)、ペーター・ベーレンス(1868~1940年)、1919年ベルリン大劇場改築をしたハンス・ペルツィヒ(1888~1936年)、ブルーノ・タウト(1880~1938年)、ヴァルター・グロピウス(1883~1969年7月5日)、エーリヒ・メンデルゾーン(1887~1953年)で、ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969年8月17日)の名前がなかったので何故だろうと思った。それからオット・ワグナーを除いて、全てドイツ人のようだった。

 

ちょうど、ベルリンの冬の思い出だったので「雪あかり日記」と云う題をつけてみた。私はヨーロッパの旅行中、いつも「建築」に自分の目を向けていた。いつも私は心を、建築に注いでいた、それで、旅愁をなぐさめてくれるのも建築だった。私は、自分の意匠心が「旅の心」によって、清められるのを感じていた。そんな気持ちを思いだしながら、私はこの日記を書いた。(雪あかり日記 270頁、271頁)

 

南門からアプローチを北に向かって歩いていくと両側に池のある、床から天井までガラス張りのエントランスと本体が石張りの平常展示機能を持つ平成知新館に着いた。平成知新館は南門と同じく谷口吉生の設計で2013年の8月に竣工していた。谷口の作品は東京、金沢、静岡、山形、香川、その他日本各地にあり、ニューヨークにもある超有名な建築家である。東京で見る谷口の作品は他者を寄せ付けない上品なモダニズム建築で、その中でも僕は地下鉄外苑前駅近くにあるオフィスビルが好きだ。でも京都の平成知新館は京都と云う場所的な背景もあってか貴族的なモダニズム建築に昇華しているように思えた。天井の高い暗い展示スペースには国宝が数点展示されていた。その中でも雪舟が晩年現地で実景を写したと云う天橋立図(あまのはしだてず)の存在感にはただ感動した。それから展示スペースの西側にあるレストランの庭園を見ながらのランチ(カレーライス)ではちょっと贅沢な気分を味わった。

 

御所の南西角にある和風造りの交番を通りの反対側にあるマクドナルドの2階から見ている、以前この場所には本屋さんがあったらしい。

 

私は自転車で出かけました。とても天気がよかったから。バッグに「日本歴史」「山本太郎詩集」をいれて、チリンチリンと鈴を鳴らしながら出かけました。堀川今出川の交差点まで。

青木書店にいって、お料理の本、ジャズの本、詩の本、写真の本を立ちよみし、「現代の理論」と「海」を買いました。喫茶店「マロン」に入ってコーヒーとトーストを食べました。

ファイト十分になったところで「マロン」を引きあげ広小路にいきました。(二十歳の原点 132頁、133頁)(1969年4月22日)

 

外人の家族が隣に座った。しばらくすると金色の髪をした子供たちは楽しそうにハンバーガー、ポテトフライを食べコーラを飲みだした。彼らにとってマクドナルドは落ち着ける場所なのかなと思った。「マロン」という喫茶店はマクドナルドの隣にあった。そして僕がいるこの場所に青木書店があった。僕はマクドナルドを引きあげ御所の中を通って広小路まで行くことにした。高野悦子も見ただろう九条池も仙洞御所の塀も清和院御門も47年前と変わっていないと思った。でも広小路に立命館大学はなかった。

1968年パリから始まった若者達の異議申し立ての振動は京都まで届いた。1969年彼女はそんな振動する京都の街で、思いきり青春を燃焼した。高野悦子がいた京都。

 

 

柴犬のゴン太です。お久しぶりです。ゴンも今年の7月で10歳です。人の歳だと兄ちゃんと同じくらいだと思います。ゴンも爺さんになってしまいました。

ゴンは兄ちゃんと一緒に去年から今年にかけて北陸へ行ってきました。去年の9月には富山県高岡市の金屋町の古い街を歩きました。ゴンは背が低いから道路からの反射熱が熱かった。帰りに金属で作られた大仏さまに寄りました。みんなが大仏さまの中に入っているので、ゴンも入ろうとしたら注意されてだめでした。でもお昼に食べたカレーうどんの鶏肉は旨かった。11月には石川県輪島の先の朝ドラ「まれ」の舞台になった大沢町へ「間垣」と云う季節風を防ぐための垣根(塀)を見に行ってきました。それから今年になって富山県射水市新湊地区へ運河越しの街並みを見にも行ってきました。

 

兄ちゃんはゴンの目を見て「もうゴンにも兄ちゃんにもネクストはないから、出会ったものをよく見ておくように。」と話していました。

ゴンは犬だけど風化した木の壁、錆びたトタンの屋根や壁の古い家が山や空や海と同じようにあって、人や動物が自然にそして普通に生きている街が好きになりました。

 

 

参考資料

二十歳の原点  高野悦子著  ()新潮社

雪あかり日記  谷口吉郎著  東京出版(株)

70年代ノート~時代と音楽、あの頃の僕ら~  田家秀樹著  毎日新聞社

 

 

編集後記

詩人で表現者の春山清さんが亡くなりました。

「知的好奇心と創造力の欠如は罪悪です。」は春山さんの言葉でした。

 

美術家の八田淳さんが亡くなりました。八田さんは京都の方でした。

「針金八田富士」は印象に残るすばらしい作品でした。

 

 

僕は僕なりに自由に振るまってきたし

僕なりに生きてきたんだと思う

だけどだけど理由もなく

めいった気分になるのはなぜだろう

思ってる事とやってる事の

違う事へのいらだちだったのか

(吉田拓郎の唄で「まにあうかもしれない」の一部。作詞/岡本おさみ 作詞/吉田拓郎 編曲/鳥山雄司)人気ブログランキングへ励みの「いいね」をお願いします。ブログランキングに参加しております

 

2016年8月15日 (月)

高野悦子へのソネット・・・・   磯山オサムの詩

Img_8537

詩 三篇

磯山オサム

 

一 高野悦子へのソネット

 

警笛・1969年6月24日

ヒトハオモイノデ 

ステルヨウイガアル

 

星の扉・しあんくれーる

カラダヲキリサカナケレバ

はかない自由を得られない

 

キオク・沈黙の湖底  

遠くヒザマズク記憶

たどりつく記憶

夜の記憶が 

そのまま鉄路を走り続けている

 

耳を閉じ・小舟・天神通丸太町下ル 

生きて・北関東の空

ヒトハオモイノデ 

 

   二 夜想

 

空飛ぶネコの名前はお母ちゃん

もとヒト 青いレインコート

ずっとまえ詩人が

「人はかつて樹だった」と言っていたので

離散の寒い朝 この地にとどまるため

ネコになった

  思い出 不明の鉄路

  月の夜ノ森 

  うすい霧

過ぎた時間と汚れた風のすきま

眼を大きく開き 耳を立て

無垢と 生きている音をさがして飛ぶ

記憶の歪みを直しながら飛ぶ

  もとヒト 金曜日 樹

  空飛ぶねこ ひとり

いつか すべてのいまを伝えるため

  飛ぶ

  空の 空の 夜を

 

   三 たまごのニュース

 

きのうときょう

サヨナラが自由を飛ぶ

たまごのニュース

 

窓越し j国のA首相

美しい国を増幅するために

津波の防護壁は黄金イロに塗りましょう

汚染水は四年後いちごしろっぷに

再利用出来るでしょうと発言しました

 

未来のために ネオンサインの奥深く

大正でもくらしー 

黒色のアンブレラを隠しておきましょう

 

きたるバツバツ年のTおりんぴっく

廃墟の地図に拡大する茶色のシミと活断層 

人形の軍隊が大陸方面に

戦意のウインクを繰り返しているので

消息スジによると

開催を危ぶむ可能性を示しています

j国での二度目の中止となるのでしょうか

 

 思い出のオモテナシに追憶を奪われ

 虚栄と色彩と寛容 

 SNSを永遠の友人としていると

 遠メガネ 帰り道を不明にします

 

関西△組と△組中央が          小指をからませて 地の果ての渡世  

現在も内緒のげばるとを繰り返しています

内部の組員によると 暦売り        

もう〈永遠の嘘〉にもついて行けない

とのことです

 

 世界的水平線 粉雪

 登録されることのない夢

 それでも 

 ときどき森の淵

 〈うぃしゃるおーばーかーむ〉と

 静かに 

 口ずさみましょう


 

 

  

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2016年8月 8日 (月)

死の宙釣りと生の宙釣り  「表現の周辺 8」(冨岡弘)

Img_8537 表現の周辺8     冨岡 弘

 二十歳代に読んだ小説を読み返してみた。何故か今時の村上春樹などは、未だに読んでいない。相当前になるが、「羊をめぐる冒険」が出版されて直ぐに手元に置いたが、そのままで書棚の何処かに眠っている筈だ。そのうち読むだろうが、今は読む気配がない。それで最近読んだのが、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」と「島の果て」の二作品で、両方とも短編で八月十五日の敗戦前後の数日が描かれている。二作品は対をなしていて、前者は主人公である特攻隊長の中尉の心理的葛藤が事細かく描かれている。後者の「島の果て」は、全く同じ時間帯つまり八月一五日をはさんでの数日の、中尉と島の娘「トエ」の恋愛が切なくしかも幻想的に描かれている。

「出発は遂に訪れず」は、最近の小説では決して味わう事のできない緊迫した描写がいたる処に見てとれる。主人公の中尉は、鹿児島と沖縄の中間点に位置する奄美群島の一つ加計呂麻島に赴任する。(本文では、島の名前は加計呂麻島と記されていないが、島尾の作品解説で具体的に語られている。この小説は、彼の戦争体験が下敷きになっている自伝的作品である。)彼は、五十二二十歳代に読んだ小説を読み返してみた。何故か今時の村上春樹などは、未だに読んでいない。相当前になるが、「羊をめぐる冒険」が出版されて直ぐに手元に置いたが、そのままで書棚の何処かに眠っている筈だ。そのうち読むだろうが、今は読む気配がない。それで最近読んだのが、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」と「島の果て」の二作品で、両方とも短編で八月十五日の敗戦前後の数日が描かれている。二作品は対をなしていて、前者は主人公である特攻隊長の中尉の心理的葛藤が事細かく描かれている。後者の「島の果て」は、全く同名の特攻兵を束ねる隊長としての重責を担っている。勿論上からの発進の命令が下れば、自らも二百三十キロの炸薬を装着した一人用ボート(全長五メートル、横幅1メートル、飛行機エンジンをとりつけたもの)で敵戦艦に突撃するわけである。自爆するのである。

 「八月一三日の夕方防備隊の司令官から 特攻戦発動の信令を受けとり、遂に最期 の日が来たことを知らされて、こころに もからだにも死装束をまとったが、発進 の合図がいっこうにかからぬまま足ぶみ をしていたから、近づいて来た死は、は たとその歩みをとめた。」

結果その日は、突撃することはなかつた。しかし、それからが中尉の内的苦悩が始まるのである。

「今私を取りまくすべてのものの運行は、はたとその動きを止めてしまったように 見える。目に見えぬものからの仕返しの 顔付きでそれは私を奇妙な停滞に投げい れた。巻きこまれたゼンマイがほどかれ ることなく、目的を失って放り出される と、鬱血した倦怠が広がり、やりばのな い不満が、からだの中をかけめぐる。矛 盾したいらだちにちがいないが、からだ は死に行きつく路線からしばらく外れた ことを喜んでいるのに、気持は満たされ ぬ思いにとりまかれる。目的の完結が先 にのばされ、発進と即時待機のあいだに は無限の距離がよこたわり、二つの顔付 きは少しもにていない。」

一日生きのびたことにより、いっそう複雑でやるせない心理が宿ってしまい、絶望感が彼を食い裂く。不可視な糸に死が宙吊りにされ、自分ではどうにもならない状態にさらされる。これこそが戦争の悲惨さなのだろう。死が自分自身から引き離され、勝手な思惑に翻弄されてしまう。

 私も六十代まん中ぐらいになるが、時々自分の死について考えてしまうことがある。それはあくまでも個人的な個的死である。平和な時代にはおおむね死は個的なものとしておとずれる。元来死は個々の個人に起こる現象で、それが自然であり、理想的な死に方である筈である。しかし戦争は死を個人のものから何処か別の次元に追いやってしまう。気まぐれとでも言える戦況の変化により、突撃の命令が下されればその時が死ぬときであり、選択の余地など全くない袋小路に追いやられるのである。死は宙吊りにされたままもてあそばれるのである。

「出撃のその日を、恐れおののきながら 早く来てしまった方がいいと待ち望み、 それが望み通り確かにやって来たのだっ たのに、不発のまま待たされているのだ から。すべての生のいとなみが今の私に は億劫となり、両の腕から力が抜け去っ て、体温は低く下ったみたいだ。」

こんな状態で生きているのは、辛過ぎるわけで、生きるために死を覚悟するのではなく、死ぬために毎日生きているだけなのだ。

 八月十四日待機状態は続いていたが、真夜中近くに防備隊からついに連絡があった。   

 「それは特攻戦とは少しも関係のない内 容のものだ。カクハケンブタイノシキカ ンハ、一五ヒショウゴ、ボウビタイニシ ュウゴウセヨ。ヒツヨウナラ、ナイカテ イヲムカエニダシテモヨイガ、ドウカ。」

と連絡があり、翌朝一五日中尉は内火艇には乗らず徒歩で防備隊に出向いた。

 「今日の召集は何でしょうか」

と中尉は訊く。

 「正午に陛下の御放送があるはずだ」

 「無条件降伏だよ」

と返って来た。中尉は、ムジョウケンコウフクと頭の中で反芻したとある。甚だ複雑でやるせない空虚が全身を包みこむ。敗戦を自覚して、命拾いした筈であるにもかかわらず、素直に生を喜んでいない。むしろ混沌としたつかみ所のない空間に放り出された有様である。戦争が終わったからと言って、精神が簡単に平衡感覚をとりもどせるわけでもない。もしかすると死は宙吊りにされたままなのだろうか。

 「世界は、色あせてありふれたものにし ぼんでしまい、そこで手ばなしで享受で きると考えた生の充実は手のひらの指の すきまからこぼれてしまったのか。装わ れた詭弁があとくち悪く口腔を刺激し、 生きのびようと腐心する私を支える強い 論理を見つけ出すことができない。戦争 と軍隊に適応することを努めその中で一 つの役割を占めたことによって出来かけ ていた筋道を、生きのこることによって 否定したことになれば、それでそれ以前 のもとの場所に帰ったことになるとでも いうのか。しかしその考えは私を少しも なぐさめない。生きのびるためにそのと き適宣にえらぶ考えは、環境の大きな曲 がり目のたびごとにまたえらび直さなけ ればならなくなり、とどまるところなく くり返されるにちがいない。刻々の嫌悪 感の中でだけ反応してきた過去が、空襲 と突き当るときの想像と抗命をおそれ、 それらの可能性が自分の意思の結果とし てではなく、自然現象のように去ってし まうと、そのあとに空虚が居残り、新た な局面に出かけて行って対処するエネル ギーが生まれてこない。」

この小説はよくある戦記物ではない。小説家でしか描けない卓越した心理描写は、説得力があり、物理的戦争記録ではなく精神的戦争記録小説として一級のものであるにちがいない。白黒はっきりしないグレーゾーンが見事に描かれている。私は以前から、小説はグレーゾーンを描くのに一番てきした表現方法だと確信していて、詩でも俳句でもなく小説なのだろう。

「出発は遂に訪れず」は、島尾の実体験をもとに描かれた作品で、事実彼は加計呂麻島に特攻隊の隊長として赴任した経験がある。一般大学を繰り上げ卒業した後最初は「第一期魚雷艇学生」であったが、戦況の変化に伴い「第十八震洋隊」を率いることとなる。総勢百八十名の長として、軍人経験が甚だ未熟であったはずの島尾にとっていかに重責であったかは、たやすく想像できる。もし私がこんな立場にいたら、小心者でいくじなしの自分は、簡単に精神異常をきたすであろう。未熟極まりない若者を隊長として任命しまうほど、日本の戦況は末期的であったのだ。魚雷艇も震洋艇も搭乗員の死を運命づけられた兵器であり、極限状態を体験した島尾は、戦後この小説を書かずにいられなかったのだろう。後に彼は、あの有名な作品「死の刺」を書くが、私は「出発は遂に訪れず」の方を高く評価したい。

日本も敗戦後、リアルな戦争は幸い行わずにきている。死が個人からむりやり略奪され宙吊りにされてしまう戦争はどんなことがあっても避けたいが、一方戦争とは全く違った戦後最悪とでも言える大きな出来事は、福島原発事故であろう。放射能汚染による帰宅困難区域は未だ手つかずのままにある。二〇一六年現在九万人以上の厖大と言っていい数の住民が避難状態にあり、荒れ果てた故郷を嘆いている筈。私は原発事故による放射能汚染は、戦争の死の宙吊り状態とは真逆の生(生活)の宙吊り状態であると考える。生の宙吊りもなかなか精神的に過酷であることは、容易に想像できる。事故から5年が過ぎ以前ほどニュースにならなくなっているが、特攻隊の言いようのない空虚感と、避難民のやり場のない怒りと無力感は、どちらも重なる部分があるわけで、自分ではどうにもならない焦燥感、嫌悪感、倦怠感が全身を包んでしまうことが有るのではないか。個人の「死」そして「生」が国の思惑により翻弄されてしまう事態は、何時の時代も起こり得ることなのだ。私の死、私の生、ではない状態は異常な事態であることに、いつも敏感に反応出来ることは、重要であると思う。島尾の作品は、戦争における精神解体記録小説としておそらく永遠に残るものと期待したい。

 

 

 今年の冬は、家から車で二〇分ほどの温泉に、週二回ほど通いました。冬の寒さから身を守るには温泉が一番だと考えています。歳は取りたくないが、そんな温泉に頼る歳になりました。その温泉は三〇〇円で入れる経済にもやさしい村営のもので、午前一〇時から営業していて、なるべく一番風呂を目指して行くのです。土日は避け平日に行くので観光客らしきものは見かけたことはありません。何時も決まって一〇名ほどの人が入っているだけで、わりとスムーズに入浴でき快適です。一〇名ほどの人々ですが、毎回同じような顔ぶれの老人達で、自分も十分老人ですが、風貌から私より少し年上の人が多いように見受けられます。たぶんこの施設の近在の村民が内風呂代わりに使っているのだろうと勝手に解釈しています。近くにこんなに安く入れるものがあるのがすごく羨ましくおもいます。私のような貧乏性には丁度いいのです。

ところで、家の風呂と全く違うのは脱衣所が暖かく、非常に快適に着替えできそれだけでも極楽で、湯船に入る前からの極楽と入ってからの極楽、そうニ度も味わえるのです。それに脱衣所は割と広くゆったりで、いたるとこに張り紙がしてあり空間に心地良い緊張を与えています。代表的な張り紙は、天ぷらそばや生ビールなどの飲食の宣伝用のもので、入浴後利用して下さいということなのだろう。他に天井近くの壁の高い処に、何故かベニスの風景画(リトグラフ)が掛けてある。誰かが寄贈したのだろう寄贈者名が絵の下に張ってある。壁や引き戸の余白からは様々な情報が発信されていて、目のやり場に困り、軽い眩暈を起しかねない。この過剰なまでのアナキーな空間は、一体どんな人によって演出されたのだろうか少し気になる。そんなエネルギーに満ちた場を後に、いよいよ風呂場に入る。何時ものメンバーが何時ものようにゆったり無言のままそれぞれの楽しみ方をしている。男達は寡黙であり黙々と背中を流しそして湯船に浸る。日頃女達のとめどなく続くお喋りに疲れてしまっているのか、全く喋る気配がない。老人になっても男を捨ててないところがいい。ふと洗い場にめをやると一人だけ際立って目立つ、歳の頃なら七〇前後、背中に美人画が見事に描かれているなかなか近寄りがたい風格を感じる人がいます。きっと若い頃は元気が良かったのだろう。相当きれい好きらしく、永遠と体をくまなく丁寧に洗っている。やや潔癖症と思えるほどのこだわりだ。人は見かけでは分らない、その人の秘密を見てしまった思いがして変に愉快な気持ちになった。

私は何時ものルーティンをこなして、最期に決まって露天風呂にはいります。内風呂でよく温まってからでないと、赤城山の裾野から吹き上げてくる寒風は、たちまち全身を冷やしてしまう。だから小走りで露天に滑り込む。壁を隔てて女の露天は何時もの通りお喋りでにぎやかだ。こちらは口を真一文字、あちらは寒風を追いやってしまうほどの笑い声で溢れている。このコントラストが男と女の谷の深さを暗示している。

風呂から上がり脱衣場で帰り仕度を整え、建物を出ると左手のガラス窓越しに大広間が見える。多分100畳は有りそうな本当に広いもので、そこで午前中にもかかわらず、数名の男女がカラオケを楽しんでいる。私の立っているところから、ゆうに30メートルは離れていると思われる場所がステージで、巨大なモニターの真横で着物姿の元お姉さんが、気持ち良さそうに歌っている様は平和そのもので、一足早く春の空気を感じてしまうほどです。実際の周りの山々はまだまだ真冬そのもので、春のかけらもありません。お姉さんの歌声に感謝しながらゆっくりと歩き、ほてった体を少し冷やします。駐車場は直ぐそこです後は何時もの道で帰り、お昼ご飯をつくり食べるだけです。

私の老後のささやかな楽しみの一つを書いてみました。

 

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