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『序説』

2026年1月14日 (水)

「お見舞い」は段ボールいっぱいの野菜  同人誌「序説」の茨城県の仲間から

同人誌「序説」の茨城県の同人から1月14日(水)、段ボールいっぱいの野菜セットが届きました。白菜、キャベツ、大根、長ネギ、マイタケ、菜っ葉、ニンジン、じゃがいもー。このところの「腹直筋血腫」の入院騒ぎで力仕事は厳禁だ。とうことは、つまり、薪ストーブの薪が作れない、すると、自然に薪不足状態になってしまう。Photo_20260114214001 そのたぐいの「お見舞い品」なのだろうね。ありがたいー。御礼を申し上げます。

2025年9月 4日 (木)

「『核』と『原発』がよりリアルな世界に」   同人誌「序説第32号」(9月1日発行)

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 同人誌「序説第32号」(9月1日発行)

「『核』と『原発』がよりリアルな世界に―第七次エネルギー基本計画批判ー」

 富岡洋一郎

 

アメリカがイランの核施設空爆

 <いやはや、核施設を攻撃した?そこまでやるか!>。ニュースに驚いた。「米、イラン核施設空爆 初の本土攻撃か報復必至 トランプ氏『成功』強調」2025年6月23日(月)の朝日新聞一面トップ。記事によると、トランプ米大統領は21日、米軍がイランの核施設3カ所を空爆したと発表した。イランに核開発計画を放棄させるために外交解決を模索してきたが、大きく方針を転換。イランは報復を宣言していて、イランとイスラエルの交戦に端を発した中東の緊張は、米国を巻き込んだ極めて深刻な局面に突入した。

 米紙ニューヨーク・タイムス(NYT)によると、焦点となっていたフォルドゥでは、B2ステルス爆撃機6機から米国製の地中貫通弾「バンカーバスター」12発が投下された。ナタンズとイスファハンの核施設には、潜水艦から「トマホーク」30発が発射された。初期評価ではフォルドゥの核施設は使用不能になったという。トランプ大統領は目的について、「イランの核濃縮能力を破壊して、世界一のテロ支援国家であるイランによる核の脅威を阻止することだった」と説明したという。

 「核の脅威」を取り除くためにイスラエル、アメリカという核保有国がイランの核施設を攻撃するという二重基準そのものである驚くべき暴挙に打って出た。

この「核の脅威」だが、もともと原子力発電そのものにつきもの。そのことをプーチンによるウクライナ戦争に続いて改めて思い起こさせた。そのことを2025年2月18日に閣議決定された「第7次エネルギー基本計画」に絡めて報告しようと思う。

 

原発は自国に向けられた核兵器

栃木県宇都宮市の宇都宮城址公園で2024年11月23日に開かれた集会「さようなら原発!栃木アクション2024」のメインスピーカー、樋口英明・元福井地裁裁判長は「原発は自国に向けられた核兵器です」と強調し、「豊かな国土を守り、次の世代に受け継がせよう」とするには、危険な原発を除去すべきだと促していた。

という文言は、私が代表を務めている市民団体「さよなら原発!日光の会」(会員121人)が政府の「第7次エネルギー基本計画案」に対して2025年1月25日付で資源エネルギー庁長官官房総務課に送ったパブリック・コメント(意見公募)の中の一項目だ。その意見は全7項目から成り、約5300字。メインテーマは、「原発の『最大限活用』の文言は削除すべきである」。その6項目の見出しは「ウクライナ侵略戦争で原発は格好の『軍事標的』となった」。

ここでの意見はこうだ。

計画案では「Ⅲ、第6次エネルギー基本計画以降の状況変化」(10頁)で、「2022年2月にロシアがウクライナ侵略を開始し、世界のエネルギー情勢は一変した」とある。このプーチンによるウクライナ戦争では、ロシアによるザポリージャ原発への攻撃や占領という事態も引き起こされている。「まさか、原発が狙われるなんて!」、と世界を驚かせた。このウクライナ戦争で明らかになったように、原発は恰好の軍事標的であり、その点でも安全性の確保は困難である。つまり、計画案では、原子力は「エネルギー安全保障に寄与する」としている(26頁)が、それはまるで逆であり、その認識は明らかな誤りである。よって、原子力は「エネルギー安全保障に寄与する」という文言は削除すべきである」。

 

「原発回帰政策」批判のパブリック・コメント

 今も続くプーチンのウクライナ戦争を取り上げたが、このパブコメでの第七次エネルギー基本計画案に対して、正面から批判したかったことは、原発回帰路線についてだ。パブコメでは真っ先にそれを以下のように記した。

第7次エネルギー基本計画案(以下「計画案」という)の冒頭、「東京電力福島第一原発事故後の歩み」(6頁)で、「福島第一原発事故から13年が経過したが、原発事故の経験、反省と教訓を肝に銘じて、エネルギー政策を進めていくことが、エネルギー政策の原点である」、あるいは「今後も原子力を活用し続ける上では、安全性の確保を最優先とし、『安全神話』に陥って悲惨な事態を防ぐことができなかったという反省を一時たりとも忘れてはならない」としている。「『安全神話』に陥って悲惨な事態を防ぐことができなかったという反省を一時たりとも忘れてはならない」という計画案の認識は歓迎すべきことである。

ところが、そうは言いながら、今回の計画案では東京電力福島第一原発事故の後、3次にわたる基本計画で掲げてきた原発の「依存度低減」をあっさり削除している。さらに、あろうことか、原発を「最大限活用する」と明記している「Ⅴ 1 (1)エネルギー政策の基本的考え方」(16頁)。言うこととやることがまったく違う見本のような文言である。いわゆる「原発回帰」を鮮明にした言い方だ。

これに朝日新聞が社説(2025年1月22日 「エネルギー基本計画 未来への責任果たす針路に」)で厳しく批判しているが、大方が納得できる言い分だ。「前言も顧みず、手のひらを返すように重大な方針を転換するならあまりに無責任だ。国民への背信ではないか」。この社説でも述べているが、「このまま決定すれば、将来に禍根を残す内容だ」。まったく同感であり、よって、計画案で原発について、基本的な姿勢を繰り返し示している原発の「最大限活用」の文言は削除すべきである。

以上がパブコメの第1項目。さらに第2項目以下の小見出しだけを紹介すると、以下のようだ。

2 ドイツに見習い、「原発ゼロ」への道を進むべきである。

3 「非現実的」な原発2割案は採用すべきではない。

4 エネルギー基本計画案は撤回し、公正な審議体で再審議へ

5 地震国、火山国の原発は安全性の確保ができない

6 ウクライナ侵略戦争で原発は格好の「軍事標的」となった

7 原発は安定供給もできず、経済効率性もなく、環境適合性もない

 

核施設空爆『広島・長崎と本質的に同じ』

 核施設の攻撃を受けたイランは6月23日夜、カタールにある米軍基地にミサイル攻撃を行った。トランプ大統領によると、ミサイル14発のうち13発を迎撃し、一発は異なる方向に向かった。死傷者はなかったという。一方、カタール国営通信はミサイルは計19発と報道した。

 さらに攻撃の応酬が続くのかどうかと心配されたが、6月25日(水)の朝日新聞1面トップは、「イスラエル・イラン 停戦合意 トランプ氏『有効』強調」。記事によると、トランプ米大統領は6月23日午後6時(日本時間24日午前7時)すぎ、イスラエルとイランの間で「完全かつ全面的な停戦が合意された」とSNSに投稿した。7時間後には停戦発効を表明した。

 

 地中貫通弾「バンカーバスター」による核施設攻撃でアメリカが参戦したことで、<長引くウクライナ>戦争に続いて今度は中東戦争か?>と、眉を曇らせていた。ところが、イスラエル・イラン戦争は急転直下、停戦へ。これはこれで良かったと思わせた。だが、26日(木)の朝日新聞は「イラン・イスラエル 停戦維持の姿勢 トランプ氏 核施設空爆『広島・長崎と本質的に同じ』」という耳を疑わせる報道がなされた。見出しだけではその趣旨はすぐにはピンと来ない。記事を読んでいくと、トランプ大統領がこう言ったとある。

「広島や長崎の例は使いたくはないが、あの戦争を終わらせた点で本質的に同じことだった」。

大虐殺そのものである広島・長崎の原爆投下は、原爆の威力を内外に、特にソ連をけん制することも含め、格好の「リトマス試験紙」だった。それが人類初の原爆投下だ。広島・長崎の原爆投下で亡くなった人は21万人、助かった人も原爆症で苦しみ続けている。

 昨年のノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害団体協議会(日本被団協)ならどのように反応しているだろうか、と思っていたら、6月27日(金)の朝日新聞が記事にしていた。同団体代表委員の田中熙巳(てるみ)さんは、取材に対し、トランプ大統領の発言を聞いて、「論外だ」と思った。「きのこ雲の下」に目を向けることなく、軍事力を誇示する姿は、「世界大戦から80年経っても、何も変わっていない」と指摘したとある。

 

「怖いことを語っちゃいけない」という雰囲気がある

 トランプ大統領の語る「核の脅威の阻止」、あるいは「広島・長崎と本質的に同じ」という発言に絡んで、思い起こしたのが、石破茂首相の発言だ。「核抑止力」や「原発ゼロ」などについて、石破首相が以前の自民党総裁選で敗れ、派閥会長を辞任表明する2日前、2020年10月20日、青木美希記者の質問に対する応答。『なぜ日本は原発を止められないのか?』(青木美希 文春新書 2023年11月20日第一刷)の「第5章 原発と核兵器」(163頁~191頁)にある。

 同書では、質問の前提として、石破首相のこれまでの発言を紹介している。いわく、「日本は(核を)作ろうと思えば、いつでも作れる。それはひとつの抑止力であるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、もっとそれこそ突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない」。

 青木さん=石破さんの発言について、「原発がテロの標的になる。あんなに多くの原発が日本海に並んでいることの方が危ないんじゃないか」という意見があります。この点について、どう考えますか。

 石破=(私は)原発ゼロであるほうが望ましいと思っている。そして、核のない世界であってほしいと思っている。日本も核を持つべきだという論だったことは一度もない。「いざとなったら核が持てる」という能力を持つということは全く無意味かというと、それは議論する価値があるんだろう。核廃絶をしながらアメリカの核の傘に頼っている。この矛盾をどう解決していくのかということだと思います。日本が他国から侵略を受けない。報道の自由、思想、信条、みんな否定される国にしたくない。そのために、抑止力が必要だろうと思っている。核廃絶とアメリカの核抑止力の信頼性向上はどうして両立しない。悩んでいて、考えていると夜眠れない。

 この後が、このインタビューのポイントになる。同書はこう続く。

 石破氏に会う前に、私は自衛隊の装備を担当していた人に聞いた。「原発にミサイルが落ちてきたら守れますか」と。彼は笑いながら、「今あるイージス艦とパトリオット(地対空ミサイル)では、1カ所、2カ所なら何とか守れると思いますけど、これだけ原発がたくさんありますからね。とてもじゃないですけど」と言っていた。このやりとりを話した。石破氏は苦笑いした。

石破=私は「防衛大臣」として、「どうするんだ それ」と言ってきました。そういうリスクを少しでも減らしていかないとならない。でも「怖いことを語っちゃいけない」という雰囲気がある。

 同書ではこのやりとりの直後、中間とりまとめ的に眉をひそめるように以下のようにつづっている。

 電源喪失を想定していなかったから、福島第一原発事故が起きたのである。同様に、攻撃を受ける想定をしていないから備えもない。のちに更田(ふけた)豊志原子力規制委員会委員長が日本国内の原発がミサイル攻撃を受けた場合、「放射性物質が攻撃自体によってまき散らされてしまうことですので、こういったことは現在の設備で避けられるものとは考えていません」と衆議院経済産業委員会(2022年3月9日)で述べている。

 この第5章「原発と核兵器」では、学生向けの教科書『放射化学概論』(1983年、共著、東京大学出版会)などを手がけている元東京都立大総長で東京の被爆者の会「東友会」顧問も務めているという佐野博敏さんの取材の結果も記している。福島第一原発事故に絡み、核抑止力について聞くと、佐野さんは笑ってこう返したという。

 「北朝鮮が日本をやっつけようと思えば、原発のどれかにミサイルを打ち込めば同じ事が起こる。あれだけ日本海側に原発が並んでいる。日本は国防上、日本海に弱点をさらけ出している。国防を思うのなら、原発をやめるべきだ」。

 

「ロシアが日韓の原発など攻撃対象リストを作成」(英紙)

冒頭で「原発は自国に向けられた核兵器です」という、樋口英明元福井地裁裁判長の発言を紹介した。ウクライナ戦争のロシアによるザポリージャ原発への攻撃、そして今回のイランの核施設に対するアメリカの空爆をリアルに知ってしまうと、佐野元東京都立大総長の指摘がより現実味を示していることがわかる。

実際、今年1月1日、NHKや毎日新聞で伝えられたのが、「英紙、『ロシア 二日本と韓国の原発など攻撃対対象リスト作成』だ。この記事によると、経済紙フィナンシャル・タイムズは、ロシア軍が日本と韓国との戦争になった事態を想定し、両国の防衛施設や原発など合わせて160カ所の攻撃対象リストを記した将校の訓練用に作っていたと報じた。

このうち82カ所が司令部や基地などの防衛施設。それ以外は民間のインフラで、関門トンネルや東海第二原発などがある茨城県東海村の原子力関連施設など。フィナンシャル・タイムズが2014年までに作られたロシア軍の機密文書を確認したとして、2024年12月31日に報じたとある。この英紙の記事ではこれらの機密文書について、「現在もロシア軍の戦略に関連していると見られる」としている。

北朝鮮については、ウィキペディアの「北朝鮮核問題」によると、もともと2013年4月、北朝鮮は「自衛的核保有国の地位をより強固にする法律」を採択し、「敵対的核保有国」であるアメリカ、米韓相互防衛協約を結んでいる韓国、日米安保条約を結んでいる日本を「核兵器による攻撃対象」に定めている。

これらの報道などを念頭に私も会員の一人である『原子力資料情報室通信』の最新号(7月1日、第613号)で、原子力資料情報室の共同代表兼事務局長である松久保肇さんが執筆した「危機が続くロシア・ウクライナ戦争と原発」で戦時下における原発がいかにもろくて弱いものであるか、白日の下にさらしたと指摘している。

この記事では以下のように伝えている。「原発は戦争で攻撃対象にならないという暗黙の前提はもはや成立しない。それは東アジアに生きる私たちも例外ではない。報道によれば、ロシア軍の機密の攻撃対象リストに茨城県東海村の原子力施設が載っていたという。北朝鮮も日本の原子力施設を攻撃対象だと言っている。交戦によって原発事故の危険が高まるだけではない。交戦時に地震や津波などで原発事故が起きたとき、その事故への対処はまず不可能だ。私たちの生存権を守るためにも原発は無くさなければならない」

 

身も凍る『広島の消えた日―被爆軍医の証言』

この「核」が実際に使われた場合の恐ろしさについて、その一端を以下に紹介したい。ご承知の広島原爆についてだ。原爆投下当時、陸軍広島病院の軍医中尉だった肥田舜太郎さん(1917年~2017年)は、原爆投下前夜、急患のため、郊外に往診に行っていた。そのため、奇跡的に助かっているが、それから軍医として、広島中心部へ向かう。そのとき逃れてくる被爆者たちの惨状についての描写はなんとも目をそむけたくなるむごいものだ。肥田さんは現地で治療にあたり、その後、6千人を超える被爆者を診察してきた被爆医。日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長などを務めていた。

広島の惨状などは肥田さんの著書『広島の消えた日―被爆軍医の証言』(1982年5月 日中出版)『同 増補新版』(2010年3月 影書房)に詳しい。広島原爆については『黒い雨』(井伏鱒二 新潮文庫)が広く知られているが、最近でも『「黒い雨」訴訟』(集英社新書 小山美砂 2022年7月)といった労作も発刊されている。だが、この肥田さんのなんともいえない生々しい文章に出会うのはめったにないことだろう。

『広島の消えた日』によると、当時28歳だった肥田さんが広島原爆に遭ったのは、広島郊外の戸坂村の患者の家の病人の腕をとって注射をしようとしていたとき。すぐに「巨大な爆圧の嵐」に遭い、その家の二間続きの何枚かの畳を飛んで奥の仏壇にいやというほど叩きつけられた。中心部の広島陸軍病院に戻ろうと、借りた自転車で向かっている最中の模様が以下のように記されている。「身も凍る」という言い方があるが、まさにそれを思わせる描写だ。少し長いが引用したい。

私は突然、岩陰から急に現れた人影を見て急ブレーキをかけた。自転車がきしんで跳ねて、踊って、草むらに投げ出された。痛みをこらえてはね起きた私は道路の真中に立つその姿を見て思わず息を呑んだ。それは、「人間」ではなかった。それは、ゆれ動きながら私に向かって少しずつ動いてくる。人間の形をしていたが全体が真黒で裸だった。裸の胸から腰から無数のボロ切れがたれ下がり、胸の前に捧げるようにつき出した両の手先から黒い水が滴り落ちている。その顔は、ああ、それは顔なのか。異様に大きな頭、ふくれあがった両の眼、顔半分まで腫れあがっ上下の唇、焼けただれた頭に一すじの毛髪もない。私は息を呑んで後ずさりした。ボロと見たのは、人間の生皮、滴り落ちる黒い水は血液だった。男とも女とも、兵隊とも一般人とも見分けるすべのない焼け焦げた人間の肉塊が引きはがれた生皮をぶらさげてそこにあった。まだ少しは眼が見えるのか、私に向かってうめき声をあげながら両手を差し出して、よろけ、もつれて二、三歩足をいそがせたが、それが最後の力だったのであろう。その場にばったり倒れてしまった。駆け寄って私は脈をとろうとした。しかし、手を触れる皮膚らしいところはその肉塊の腕にはどこにも残っていなかった(中略)とにかく、広島へ急がねば、と自転車を立て直して進みかけた私の足はその場に釘づけになったまま、動かなかった。焼けて、焦げて、ただれて、生皮のはがれた血の滴る群像が道いっぱいにひしめいて、うごめきながら、行く手をふさいでいたのである。立っている人、寄り添っている人、いざる人、はらばう人、どの姿にも人間を意識させる何一つのしるしはなかった(『広島の消えた日―被爆軍医の証言』123頁~124頁)。

 

足利で「オーネット」主催の肥田舜太郎さん講演会

肥田さんは、2005年に脱原発ドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』などの監督で知られる鎌仲ひとみさんとの共著『内部被曝の脅威 原爆から劣化ウラン弾まで』(ちくま新書)も著している。2011年3月11日の福島第一原発事故を受けて、その肥田さんに日光で講演してもらおうと、「さよなら原発!日光の会」で企画を立てていたことがある。ほんとに直前になって、肥田さんが体調不良のため講演をキャンセルせざるを得なかった。肥田さんの代役に「非電化工房」主宰の藤村靖之さん(栃木県那須町)に依頼した。藤村さんは「肥田さんの代役ならば、引き受けざるを得ないね」と、快諾してくれた

 ただ、その後、足利のJAZZ喫茶「オーネット」主催で、確か足利市民会館だったか、肥田さんの講演会が開かれた。閑話休題風に言うと、学生時代、私は半年間、この「オーネット」のアルバイトをしていた。週末のJAZZ演奏会、「熱海殺人事件」などの演劇、写真展、絵画展、詩画展、深夜のダンスパーティや英会話教室など、いわばもうひとつの「私の大学」だった。

 この講演では、「オーネット」のママの「きぃちゃん」(故人)を「序説」準同人で若い時から知り合い、長く親しい友人だった嶋田泰治さん(故人)が大いに手助けしていたことを聞かされている(嶋田さんとは学生時代に足利のキリスト教会の一室を借りた読書会で『ヒューマニズムとテロル』(メルロー・ポンティ)などを読み合った思い出が強い)。講演後の肥田さんを囲んだ「オーネット」の懇親会で肥田さんに私が「日光で講演して欲しかったのですが、残念ですー」と話すと、肥田さんが「いや、あのときはキャンセルしてしまい、申し訳ない」などと応じた。肥田さんは講演会でも懇親会でも「日常的な健康法」も語っていたことをよく覚えている。肥田さんとは、そんな貴重な時間を過ごしている。

 

その肥田さんは2017年に「100歳」で亡くなっているが、肥田さんの『広島の消えた日―被爆軍医の証言』は、今も記憶に鮮明だ。私が日本はまだ批准していない「核兵器禁止条約」に全面的に賛同している確信の大きなひとつが、この本の影響があるぐらいだ。それから80年後の2025年に米国大統領が<広島・長崎を引き合いに核施設への攻撃を正当化するとはー。

 

原発批判「鳥瞰図」のパブコメ作成

 冒頭で挙げたパブコメ本文の後段の大半はやはり脱原発市民団体「原発いらない栃木の会」がまとめたパブリック・コメントから転載している。起案は同会代表の大木一俊弁護士。確か日弁連(日本弁護士連合会)として、ドイツ事情の視察にも出向いている。優秀な弁護士だが、特に環境問題、原発問題については優れた知見を有している。

 私は脱原発のいわば全県的な組織であるこの「栃木の会」の理事も務めており、ほほ毎月1回、宇都宮で開かれる役員会にできる限り出席している。そのため、こうした起案の基本的な考え方については、大木弁護士と同様の姿勢なので、それを採り入れた。

 それにしても、まとめたのが提出期限ぎりぎりだった。書き始めたのは前日の夕方だったが、書き上げたのは翌日の午前4時ごろ。久しぶりに徹夜してしまった。だが、これまでの原発批判について、「見取り図」というか、「鳥瞰図」というか、「しっかり形にすることができたな」という思いがあり、大いに有意義だったと思っている。

 そんな内容でもあり、このパブリック・コメントを首都圏の脱原発団体で構成する「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」のメンバーにも読んでもらおうと、同会のML(メーリングリスト)にも「さよなら原発!日光の会」の会報「げんぱつニュース第52号」とともに送った。すると、ふだんからメールで連絡をとりあっている同会世話人の一人から内容を高く評価する感想が送られてきた。

 

ニュースレター「ピスカートル」にパブコメ要約版

 「冨岡さん、素晴らしいパブコメ及びさよなら原発!日光の会のニュースレターを送って頂きありがとうございます。両方とも素晴らしく読み応えがあり、コメントはいくらでもできそうですが、特にパブコメにおいては、最も指摘すべきことが多数書かれていて、また、一般の人が読んでもすぐに理解できるものとなっていて申し分ないです。

 このパブコメを読んでいて、『国民すべてがこのレベルでパブコメを書けたら本当に原発は全て廃炉になる!』とさえ思いました。逆に我々の運動は市民にこれくらいの論ができるようにすることを目的とし、目指していかなければいけないだよな!とも思いました。このような素晴らしいパブコメ、ニュースレターを作成したこと自体にもそうですが、そういった運動をされていることに敬意すら抱きました」。

 かなりしっかりしたパブコメだと思っていたが、ここまでの評価を受けるとまではー。そう思いながら、1月29日に以下のように返信した。

 「パブコメ、きちんと読んでいただきありがとうございます。それも『読み応えがあった』とお伝えいただき、少し無理して書き上げてよかったと思いました。ふだん考えている脱原発のことをパブコメにどう反映させられるか、という視点で書き上げたものです。それも「原発の最大限活用」に焦点を当てて。さらに展開するには「電力の需給増問題」、「原発のコスト」、「核燃サイクル」、「再生可能エネルギーと環境アセス」などがあります。それらも書き込もうと考えていましたが、焦点がぼけてしまう可能性があると思い、あえてそれらは取り上げませんでした」

 このやりとり前後して、「さよなら原発!日光の会」のパブコメについて、やはり「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」の別の世話人から、「ニュースレター『ピスカートル』(発行元・「今、憲法を考える会」 連絡先・東京都新宿区西早稲田 キリスト事業所連帯合同労働組合気付)から転載依頼がお願いされている」というメールが入ってきた。ただし、誌面の都合からか、パブコメ全文ではなく、3200字の「要約版」でという注文がついていた。

 パブコメは世間に知ってもらう公的な意見なので、「要約版」といえど、転載は歓迎すべきこと。「ピスカートル」掲載は第74号(3月5日発行)ということだが、最近の掲載記事をチェックしてみたら、東海第二原発問題、沖縄、虐殺のガザ、関西生コン事件、陸上自衛隊訓練場問題など、硬派の話題でいっぱい。それもあり、すぐに転載快諾を返答した。

 その第74号はA4版12頁。トップ記事は「ガザ『停戦』とガザ『一掃』―ネタニヤフとトランプの狙いはなにかー」(早尾貴紀・東京経済大学教員)、さらに「私たちは呆れ果てても諦めないー子ども脱被ばく裁判上告棄却で総括集会―」(片岡輝美・子ども脱被ばく裁判の会共同代表)、「韓国クーデター(内乱)と日本の報道」(佐野通夫・東京純心大学)、「トランプの『乱心』と〈和平〉への道」(菅孝行)。いやはや硬派そのもののニュースレター。そこに「さよなら原発!日光の会」の第七次エネルギー基本計画案批判の要約版が名を連ねた。

 

 意思決定への市民参加を保障する「オーフス条約」

 と、まぁ、「第七次エネルギー基本計画案」に対する「さよなら原発!日光の会」のパブコメについてのてん末を記してきたが、原発回帰路線をさらに鮮明にさせる政策とあって、私たちのように全国からたくさんの意見が寄せられた。報道によると、その数、4万3千件以上。これまでのパブコメで最大規模、それも大半が反対意見だったという。

 ところが、この大量の投稿について、国側が「対策」を検討する旨の報道が相次いだ。「市民の意見を制限する方向の見直しを強く憂慮する」として、「オーフスネット」や私もネットでふだん情報提供を受けている「原子力市民委員会」や「ワタシノミライ」などの各NPOが5月13日に院内集会(衆議院第二議員会館第七会議室)で「政策決定プロセスに幅広い市民参加を」を開いた。そして「パブリック・コメントの制限ではなく、市民参加の機会の保障を」という「共同声明」を出している。

 このときの院内集会では、大阪大学の大久保規子教授が「政策決定プロセスへの市民参加を実現するための条件―オーフス条約を手がかりに」と題した講演をしている。主催者がアップしてくれたこのときの講演のレジュメはA4版16頁もある。

 このレジュメでも紹介されている「オーフス条約概要パンフレット」(A4版19頁、国連欧州経済委員会)によると、オーフス条約の締約国は、ヨーロッパ、コーカサス、中央アジアに及ぶ国々で、EUも条約に加盟している。「条約は、地域内を通じて関連する立法構造と実践影響を及ぼし、これを強化することによって、人々の健全な環境への権利を認めるための効果的なツールであることが証明されています。締約国は3年ごとに会合を開き、条約の実施状況を検討し、今後の作業計画をつくります」とある。

 

 というわけで、この共同声明の核となっているのは、原発政策などが典型だが、環境分野での市民参加を権利として保障する「オーフス条約」(「環境問題における情報へのアクセス、意思決定への市民参加及び司法へのアクセスに関する条約」)などをめぐる指摘だ。日本はまだ批准していない。今回、その「オーフス条約」も含めた共同声明の大事さを知った次第。今さらながら「浅学非才」について恥じ入ってもいるが。

 ウクライナ戦争、そして今回のアメリカのイラン核施設への空爆・攻撃から、これまで以上に「核」と「原発」がよりリアルな世界になっていることを伝えている。脱原発はこれを世界から遠ざけるための方策、政策、手段のひとつだが、今の原発・エネルギー政策についてのパブコメでは、「馬の耳に念仏」、いや、意見を承知しているが、あえて聞き流す「馬耳東風」的な性格になっている。それをくつがえす方法のひとつとして、日本はまだ批准していない「オーフス条約」という世界の取り決めがある。そんな大事な条約があることを遅ればせながら知ることができた。さぁ、今度はそれをどのような方法で具体化していけばいいのか。

 結びにその「市民参加の機会の保障を」という共同声明のポイントとなる部分を紹介したい。以下は「共同声明」から。

現在の日本においては、市民の参加権が保障されておらず、実効的な市民参加の仕組みがありません。そのために、市民は、政策について意見を伝えようと、パブリック・コメントの機会を利用しています。環境分野では、1992 年の国連環境開発会議(地球サミット)で採択された「環境と開発に関するリオ宣言」において環境問題の解決には市民参加が不可欠であることが確認され、第10 原則では「環境問題は、それぞれのレベルで、関心のある全ての市民が参加することにより最も適切に扱われる。」と述べられています。環境問題は地球規模の課題であり、問題を解決する政策を実現するためには、市民ひとりひとりが社会変革の必要性を理解し、自らの行動を変容させることが求められるからです。1998年には、国連欧州経済委員会(UNECE)のイニシアティブにより、市民参加を権利として保障するオーフス条約が採択されました。オーフス条約では、①情報アクセス、②意思決定への参加、③司法アクセスの三つの権利を市民の手続的権利として保障しています(了)。

 

2025年9月 3日 (水)

日本初のイコン画家になった女性   「先駆ける魂・画家<山下りん>の生涯」

Photo_20250903235901 明治の初期、絵画を学びに帝政ロシアに渡った茨城県笠間市出身で日本で初めてロシア正教のイコン画(聖像画Photo_20250903234701 Photo_20250903234702 )を描いた画家 山下りん(1857~1939)を知らずにいましたー。今回、同人誌「序説第32号」(9月1日発行)で同人の磯山オサム君が地元の「偉人」、山下りんをエッセイ「先駆ける魂・画家<山下りん>の生涯」で描いてみせてくれたので、知ることができた。作家・朝井まかてさんが山下りんを描いた歴史小説「白光」を出しているの知ったのもこのエッセイから。ネットで朝日新聞でも「朝井まかてさん」をとりあげていたのも知りました。その磯山オサム君の原稿を紹介してみたいー。私もまずは朝井まかての「白光」を読むことからー。

 

   桜町文庫の窓(6)

磯山オサム+ハル

 先駆ける魂・画家〈山下りん〉の生涯

 明治五年初夏、《明治の世にて、私も開化いたしたく候》の書置きを残し、十五歳の少女が家出をした。              

行く先は、江戸から名を変えたばかりの東京。絵を学び画家を目指すため、常陸国茨城郡笠間から四日を歩き通し、本所緑町の旧笠間藩下屋敷内の、親戚生沼家にたどり着いた。

時代はまだ戊辰戦争の終了(明治二年)から三年、廃藩置県は前年、明治激動の初頭。

 

 山下りんは、安政四年五月二二日(一八五七年六月一六日)常陸国笠間藩に生まれ、幼年期から庭の写生や錦絵などの模写を好んだ。本名は山下利ん。二一歳で洗礼を受け、ハリスト正教徒。聖名はイリナ。りんは、〈山下りんイリナ〉という洗礼名を気に入っていた。 

七歳のとき死去した父は、笠間藩士の重常、母は多免(ため)。石高と父の死から、家庭は裕福ではなかったと推測する。二三歳(明治十三年)、単身ロシアに留学。後に六十一歳で郷里に戻るまで、イコン画家として絵筆をとり続ける。

 

りんの家出は、数日後に兄の重房に笠間に連れ戻された。住まいのある五騎町では、その無鉄砲さが伝わった。当時の世相は、女性が意志を持ち絵師(画家)になることを理解しない。十五歳の娘が自分の思いのため、家出をすることは、さらに常道を超える行為とされる。しかし、翌年家人を説得し上京。十六歳のりんは、南画や浮世絵師などに師事した。

母と兄の上京の同意は、意志の固さと、幼馴染が嫁ぎ先の暮らしづらさから、何度も離縁を実父に頼み聞き入れられず、実家から嫁ぎ先への帰路、赤子ともに自死したことも影響している。

りんを主人公とした、朝井まかての小説『白光』には、《おなごは嫁いで子を産んで育てて、それしか生きる術がないのでしょうか。絵の道を志す心は、それほど道理を外しておりましょうか》と、上京の強い意志を語らせている。兄重房はりんを〈大無鉄砲者〉とし、《しかと、開化の道を行け》を、上京の言葉として書かれている。

 

明治六年、上京のりんは親戚生沼家より、浮世絵師国延の通い弟子となるが、絵が下手という理由でわずか四日で暇をもらっている。

 小田秀夫著『山下りん・信仰と肖像画に捧げた生涯』のなかで、小田はこれを《山下の描写力は確かに抜群であるから、この国延という人では不満であったろう》と述べている。

二人目の師は、役者絵で知られる浮世絵師の豊原国周。ここは住み込みの内弟子となり、同じ弟子にうとまれて退所。次は丸山派の月岡藍雪。内弟子とは名ばかりで、借金取りの対応から、内職の団扇の下絵書きまで行い、九カ月で退所した。いずれも短い期間としても、浮世絵・南画・丸山派と明治の初頭の絵画状況から、学ぶ方向は日本画。

 

 上京から二年(明治八年)、りんは南画師中丸清十郎につく。中丸清十郎(一八四〇~一八九五年)は、当初文人画を学んだ。後に石版や西洋画に移り、明治九年工部美術学校の一期生となった。高橋由一らと、日本初期の西洋画家として知られる。

 『白光』では、入門の面接の際《君は南画を学びたいのかい。それとも西洋画かい》と聞かれ落胆したように《先生は西洋画に転向なされたのですか》と尋ねている。

 明治初頭、西洋画は材料や技法もあまり知られていない。徳川幕府が、幕末安政三年(一八五七年)蕃所調所の画学局を作った。明治維新により研究は止まったが、幕府は西洋画法を学ぼうとしていた。これにより、高橋由一らを輩出しているが、四番目の師の中丸ですら、西洋画を学ぶため、教える傍ら工部美術学校に入校した。

 工部美術学校は、日本最初の公立美術教育機関。

 新政府が西欧文化に追いつくため、明治九年〈西洋美術教育〉のみを目的に開校され、

明治十六年(一八八三年)廃止された。その理由は時代が国粋的傾向になり、西洋美術の排斥があった。その六年後に開校の、東京芸大の前身〈東京美術学校〉は、当初日本画が中心、西洋美術は排され、女子の入学が許されたのは、戦後一九四五年になってから。

 

 中丸清一郎への師事が、山下りんの画家としての運命を変える。

 十八歳、入門の初め、りんは内弟子となった。内弟子は住まいを確保すること、家事を手伝い学費を節約。上京して二年、生活に困窮している。

明治十年、工部美術学校が女子の募集を始めることを、中丸から伝えられた。

明治新政府は、欧米の女子教育の水準を知り、工部美術学校以外にも公立・私立の女子学校を設立させている。

りんは毎月二円の学費の支払いが出来ないことを知りながら、絵師としての技量を試すために入試を受け合格。入学出来ないあまりの落胆が、旧笠間藩主〈牧野貞寧〉の耳に入る。笠間領内の優秀な者として、学費を牧野家が支援することになった。

上京から四年、明治十年(一八七七年)二十歳のりんは、日本初の女子美術学生となる。

この年工部美術学校の女子合格者は六名。あとから神中糸子が入学し、在校は七名。

横山由季子の『日本における洋画の歴史と明治から戦前にかけての女性洋画家たち』では、入学者七名のうち卒業生はない。生涯家庭に入らず画業に専心したのは、りんと神中糸子(一八六〇~一九四三年)の二人。

卒業生がないのは、当初の教授アントニオ・フォンタネージが帰国。次の教授の教育技量に反発、男子学生の多くが退学したと同時に、女子の学生も次々に退学したことによる。ここにも、明治の先進の女性達の気概が見える。

 神中糸子は、和歌山藩洋学教鞭方の父を持ち、美術学校中退後小山正太郎に学び、多くの作品を残す日本女流洋画家の先駆者。

 同じ入学に、山室政子がいる。

 政子(安政五年・一八五八~一九三六年)は、信州村田藩士を父に持ち、ハリストス正教会の神学校寄宿舎から通学。工部省工作局長、大島圭介の娘、大島雛。初代警視総監川路利良の娘、川路花子など、上流階級の子弟がいるなか、政子は小遣いも昼食もなく、片方ずつ拾った下駄で美術学校に通い、りんと同じ境遇。大島や川路の、上流階級の教養としての学びと離れている。政子は後に、石版画家として活躍した。

 

 りん二十一歳、美術学校在学中の明治十一年、日本ハリスト正教会の洗礼を受ける。山室政子の影響で教会に通っていたこと。教会が西洋文化の窓口になっていたことも理由のひとつ。すべてを学びにつなげる想いを想像する。

 日本ハリストス正教会は、神田駿河台の〈東京復活大聖堂〉通称ニコライ堂で知られてる。現在の建物は、関東大震災後に再建されたもの。歴史的には、東方教会やギリシャ正教の流れをもち、幕末函館で布教を始めた。東北各地を中心に教会を設立し、信者は、戊辰戦争を幕府側で戦った武士も多い。後に一部は自由民権運動と繋がり、宮城県金成正教会の信徒鈴木文治などは、労働運動の草分けとなった。

 りんは正教会で、東北訛りの日本語を話す、神父ニコライと出会う。美術学校の教授フォンタネージと同じくニコライからも多くの影響を受けた。

 フォンタネージはイタリアに生まれ五十八歳、王立美術学校の職からいわゆるお雇い外国人として来日した。

 大下智一の『山下りんー明治を生きたイコン画家』では、屋外でのデッサンの授業などを《一途に学んだりんの青春の軌跡・フォンタネージに学んだこの時期が、もしかしたら、最も充実していたのではないだろうか》としている。

 宣教師ニコライはロシア生まれ、文久元年(一八六一年)布教のため函館に着任。明治五年(一八七二)上京し後に駿河台に聖堂を建て、一生を伝道のため日本で過ごした。

明治太政官のキリスト教禁制の廃止は、明治六年二月のこと。

ニコライとの出会いもまた、りんの画業の方向をかえている。

 

明治十三年十月、りんは工部美術学校を退学する。フォンタネージの帰国後、後任の教授の力量不足に落胆したことが主で、経済的にも困窮があった。すでに山室政子と神中糸子は退学。りんは学校に残れば絵を描けると、助手として学費の免除をうけて学んでいた。

大下智一の『山下りん・・』では、この時期を《写生と内職のうちに不遇の日々を送っていたのだ》としている。

 

明治十三年十二月十一日、りんは横浜からロシアに向け船で出発する。

日本初の女子のロシア留学生。

西欧画とイコンを学ぶため、期間は五年。

朝井まかての『白光』は、《「お前さん、絵の勉強をしに行きなされ」・「いずこの学校でございますか」・「ロシアの都さ・サンクトペテルブルグ」・・・主教ニコライを見つめる、夕暮れの光と影がゆらいだ》の留学前のニコライとりんの会話がある。

ロシア語も話せない、二十三歳の女子画学生が、イコン画が主としても外国で絵を学ぶ

ために、翌年三月十日にペテルブルグの女子修道院に到着した。

行程の約三か月は、横浜から航路、香港・シンガポール・スエズ・黒海を経て一月三十日に船を降りオデッサに到着。その後汽車によりモスクワを経由して。船では、最下等の切符のため、部屋もなく廊下や船倉で寝ていたが、立ち寄る港や町に西洋文明を感じ、風景の美しさに驚き感動していた。

 

りんが二年間滞在していたのは、サンクト・ペテルブルグのノヴォジェーヴィチ復活女子修道院。修道女三百人、諸工女五百人と規模が大きく、イコン工房も備えていた。

この時代のロシアはクルミア戦争の敗北や社会主義の台頭で、政情は不安定。りんもまた西洋美術を学ぶと考えていたが、修道院内で、イコン画作成の修業となった。

 

りんが技法を学んだイコン画は、主にキリスト教で用いられ、正教会では総装的なものではなく聖なるもので、祈りの対象。カトリックでは聖像画。プロテスタントは偶像崇拝として、否定されている。構成は原則的には影を付けず、対象に立体感を持たせず平面的。主な画題は、聖人・天使・聖書のなかの出来事。イコン画を描くものは、正教の一員であり、神のために働く者とされている。イコン画と言えば、おもに正教のものを指す。

正教の伝統的画法は〈ギリシア画・ビザンチン様式〉。この時代、西欧化されたイコンは〈イタリア画・ルネッサンス様式〉を志向したが、りんが学ぶロシアでは、〈ギリシア画〉が復古していた。

工部美術学校でイタリア西欧画を学んでいたりんは、これを〈ヲバケ絵〉と呼んでいる。

留学中のりんは、女子修道院でのイコン画に疑問を持ち、修道女としての規律と、人間関係に悩んだ。海老沢小百合の『画執の人』

では《・・・数々の名画に接するうちに、りんは当初から違和感を抱いていた、伝統のイコンをなぞり描くことに段々と意欲が薄れてきた。イコンの領域を深めるには、あまたの宗教画の革新的な表現法を身につけたいとの思いがふつふつと湧いてくる。信仰はともかくとして画に関して、もはや妥協ができなくなってきたのだ》長い引用となったが、留学中の思いを適格に表している。

 ロシアに来て翌年、〈帝国美術アカデミー〉への入学許可の知らせが来る。りんは希望し、エルミタージュ美術館での模写を学びとしていたが、修道女としての規範を超えるとして、美術館への出入を止められた。

 

 明治十六年三月(一八八二年)二十六歳、留学を中断しドイツを経て、フランスのマルセイユから、航路コロンボ・香港を経由し帰国する。十六歳で上京したりんの、十年の学びの旅は激動。五年の留学期間を二年で戻ったことから、〈失意の帰国〉とされるが、明治の始まりに、直接西洋文化に触れたことは得難い体験。

 帰国後、神田駿河台の正教会内に住み、ロシア帝国美術アカデミーで学んだ銅版画の仕事なども行ない、正教会内のアトリエでイコン画の制作に従事した。

 イコン画は、作成者の署名がない。

りんの画も、自らのために描いた一点を除き無署名。

しかし、正教会の現在のホーム・ページには〈山下りんのイコン〉とあり、日本各地の正教会の名が掲げられ、りんのイコン画のリストがある。正教会のりんに対する心ある対応が伝わる。

 

司馬遼太郎『街道をゆく』は、週間朝日に長く連載された、著者代表作の一つ。三十三巻の『白河・会津のみち、赤坂散歩』に、『野バラの教会』と『山下りん』の項目がある。

『野バラの教会』は、白河旧城下を散策中に出会った「白河基督(ハリストス)正教会聖堂」と教会の成り立ちや建物の紹介。りんのロシア留学。正教会に掲げられている、イコン画の解説を中心に書かれている。

『山下りん』では、ロシア正教とイコン画やりんの生涯を記している。

この中で司馬遼太郎は、白河正教会のりんのイコン画を《ここでの山下りんのイコンは、形式からまったくはなれた一個の宗教的な油彩画としかおもえない。・・・たとえば、イコンの中のイエスは、エンピツのように細長いはなである。りんの場合、そういう基本型から外れまいとしているようだが、描法や構図はりんそのものである。・・・女子神学校の二階で、このようないわば自由なイコンを描きつづけた背景に、ニコライ主教がいたことを思えば、ニコライという人はよほどおおきな人物であったことがわかる》。長い引用だが、このようにりんのイコン画を評価している。

 りんはイコンの制作とともに、神学校ではロシア語やイコンの画法を、生徒に教えている。

 栃木県足利市出身の牧島如鳩(一八九二~一九七五年)は、明治四十一年神田ニコライ神学校に入学。りんよりイコン画法を学んだ生徒のひとり。牧島は正教会の伝道者で、イコン画と仏画を合わせた独特の画風の宗教画を描いた。白河教会に勤務し後年足利ハリストス正教会に戻った。足利教会の十点ほどのりんのイコン画は、市の重要文化財に指定されている。

 帰国後のりんは、札幌・一関・盛岡・白河など、各地に建てられる正教会のためのイコンの制作に費やす。各行政の多くが、足利市と同じく、山下りんのイコンを文化財などに指定している。

 

 明治二十二年、上京より十六年。りん(三十二歳)は、初めて帰省をしている。東北本線より水戸線の開通がありこれを利用した。小田秀夫の書によると、この時の詳細な記録はなく、《筑波山に登り、大洗に遊んだ》とされている。ある期間の滞在と想像するが、郷里を出ての波乱をどのように振り返ったのだろうか。

 明治二十四年、工部大学校の教授として来日し、三菱一号館などの設計を手掛けたジョサイヤ・コンドルの実施設計にによって、神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。当初のイコンはペテルブルグ在住の画家によるもの。後年りんも九点のイコンを描き、終生の仕事のひとつとなる。

 もう七・八年前になるだろうか、神田のニコライ堂を訪ねた。受付で拝観料を払うと聖堂に入ることが出来る。案内のかたに「山下りんのファンで笠間から来た」と告げると、入場制限の場を超えて見学させてくれた。ところが別のシスターが来て、「この部屋にはりんのイコンはないので退室」と告げられた。この時は、なんと話の分からない人と思い、ニコライ堂を後にした。

 今回この『窓』を書くため資料を読むと、

シスターの言葉が、正しかったと理解した。

 大正十二年(一九二三)、関東大震災により、ニコライ堂の一部が被災。りんのイコンも数点を残し消失している。この年にはすでに帰省をしているので、修復や再度の作画はない。

自分の知識の浅さを知った。

 

 明治四十五年、ニコライ大主教が永眠。明治天皇も亡くなり、日清戦争・日露戦争を過ぎ時代は大正と変わる。

 明治期の、りんのエピソードの幾つか。

 明治二十一年(三十一歳)、神中糸子と箱根

にスケッチ旅行に行く。

 二十四年、来日するロシア皇太子に献上するイコン画を描くが、皇太子を襲撃する大津事件となる。

 三十六年、イコン補修のため京都正教会へ行き、大阪・京都を二か月ほど巡る。

 四十二年、木村香雨に師事、南画を学ぶ。

 

 大正七年(一九一八)、六十一歳のりんは故郷の笠間に帰る。

 白内障により、イコンを描くことが難しくなったのが主な理由だが、ロシア革命による政情不安定もそのひとつ。ロシア本国の正教会は迫害を受け、経済的支援のない国内の正教会も困窮した。日露戦争に続きロシア革命で、正教会を見る人々の眼にも変化があった。

 笠間に戻ったりんは、養子に出ていた弟小田峯次郎を頼った。正教会からの年金と幾分かの蓄えで、会う人もなく自然を相手に暮らし、夕方になると二合の酒を買いに行った。

 日本で初の女子美術教育を受け、初めてのロシア留学生となったことなど、人に伝えれば多くのエピソードがあるにもかかわらず、りんは語たらない。机の上には大きな絵筆を置いたが、絵を描くこともなかった。

女子美術教育に長く携わった、工部美術学校の同窓の神中糸子もまた同様。六十四歳で

福岡に渡ると、絵筆を取らず短歌をたしなんだ。二人の晩年は、〈力を尽くしたあとの余生〉を感じさせる

 昭和十一年(一九三六)ふだん来客のないりんに、後の日本画家海老沢東丘(一九〇五~一九九五年)が、教えを乞うために訪ねてきた。当初は断ったが、画材やこれまでのデッサンなどを与え、絵画の心を伝えた。

 東丘を義父に持つ海老沢小百合の書では、このあたりを《ぽつりぽつりと静かに語られる一言一句に、東丘のなかで頑なに結んだ芯がゆっくりと溶けていくようだった》と記している。

 

 江戸の末期から、昭和は地続き。

 安政四年に生まれたりんは、昭和十四年まで生きた。同じく神中糸子も、万延元年に生まれ昭和十八年まで生きた。

 ともに惜しみなく学び、自らの絵を描き尽くした。

 イコン画家を辞めた後のりんは、郷里で二十年を過ごし、八十三歳で死した。私は、この沈黙する二十年間の姿勢が好きだ。晩年を過ごした小田家の敷地内に、記念館《白凛居》が建つ。その小さな佇まいは、りんの生涯の姿にふさわしい。

 

りんにはイコン画家との冠がある。平面に頼るイコンから少し出て、柔らかな人物表現を持つ、確かな独自のイコンを創造した。しかし残された絵画・図版などから、あえて〈画家山下りん〉と称したい。

ロシア留学時に作品を模写して学んだ、ペテルブルグのエルミタージ美術館。そこにロシア皇太子に贈ったイコン画『ハリストス復活』が、皇太子の遺品として残されている。

西洋絵画への唯一の道と希望であった美術館に、枠に金の蒔絵が施された、りんのイコン画が保存されているという。

 

  文庫の窓(参考資料)

1 『白光』 二〇二四年・文春文庫 著者

 朝井まかて。一九五九年大阪生まれ。二〇一四年『恋歌』で直木賞。本書は山下りんの生涯を書く、文庫本文五六一ページの長編

2 『山下りん・信仰と聖像画に捧げた生涯』

 一九八〇年・筑波書林(ふるさと文庫) 著者 小田秀夫。一九一一年茨城県笠間市生まれ。著者はりんの弟小田峯次郎の孫にあたる。書はりんの生涯を記した、ドキュメントと言えるもの。個人年表と、多くのエピソードを参考にした。

3 『山下りん』 一九八二年・㈱日動出版部 著者 小田秀夫。前書と同様山下りんを主題とするが、本書はエルミタージュ美術館など、りんを巡る旅を添えている。小田の書が〈山下りん〉の存在を世に伝えたと言える。

4 『日本における洋画の歴史と明治から戦前にかけての女性洋画家たち』 二〇二四年 記事 著者 横山由紀子。一九八四生まれ、東京国立近代美術館研究員。明治初期工部美術学校で学んだ、女性徒たちの記録。記事の初頭に〈美術学校の女性徒たち〉という、山下りん・神中糸子・山室政子など六人の生徒と、フォンタネージ教授の集合写真が掲載。カメラを見る、当時の生徒達の視線の凛々しさ。 

5 『山下りん・明治を生きたイコン画家』

 二〇〇四年北海道新聞・ミュージアム新書24 著者大下智一。 一九六七年函館市生まれ、道立近代美術館学芸員。評伝にとどまらず、北海道正教会にある、りんのイコンの報告なども記載。イコン画に関する部分を、多く参考にした。

6 『画執の人 山下りん・木村武山と海老沢東丘』 二〇一九年㈱六輝社 著者海老沢小百合。一九四七年熊本生まれ、イラストレーター。晩年の笠間における、りんの唯一の弟子といえる東丘の義娘。評伝と共に、笠間に戻った後の記述が詳しい。東丘に託された、りんのデッサンなどの図版が多数記載されている。

7 『街道をゆく㉝白河・会津のみち、赤坂散歩』 二〇二四年朝日新聞出版・朝日文庫 

 著者 司馬遼太郎(一九二三~一九九六年)大阪市生まれ、産経新聞記者を経て歴史小説や紀行文で人気作家に。『梟の巣城』で直木賞。三十三巻も〇九年に出版以来、7刷りを重ねるベストセラー。項目『野ばらの教会』は主に白河基督(ハリスト)正教会聖堂と山下りんの歴史。項目『山下りん』は、ロシアや正教とイコン画についてが多く記載されている。記事の取材のために、司馬は笠間市内の〈白凛居〉を訪れている。項目『幕末の会津藩』は、会津攻めの官軍の無慈悲を問う。会津愛にあふれる。

 ハルは長毛種の十五歳のネコ(女子)。お手伝いをすると言い、カウンターのうえで正座をしています。

 

2025年8月31日 (日)

同人誌「序説第32号」、あす9月1日(月)発刊します   創刊1974年12月から51年目に

Zu Photo_20250831192601 1974年の創刊から51年目となる同人誌「序説第32号」(129頁)ー、あす9月1日(月)に発刊されます。同人の美術家の手による表紙と「『核』と『原発』がよりリアルな世界にー『第七次エネルギー基本計画』批判ー」など、見出し部分と「編集後記」をアップします。頒価500円ー。



編集後記    黒川純

昭和、平成、令和を生きてきているので、私たち「序説」同人のだれもがもうほとんど歴史的人間になっている。なにしろ、今回の「序説第32号」にしても、創刊51年目となるのだから。1971年の沖縄返還協定粉砕闘争、ベトナム反戦運動、連合赤軍事件、昭和天皇死去、1995年の阪神大震災と地地下鉄サリン事件、イラク戦争、2011年の福島第一原発事故、東日本大震災、コロナ、ウクライナ戦争、2025年初夏のイラン核施設空爆と、次々と歴史そのものに立ち合っている。ということで、このごろいやがうえにも「歴史」に向き合ってきたな、という思いを抱えるようになっている。そのせいもあり、そのものズバリ、歴史家、国際政治学者であるE・H・カー(エドワード・ハレット・カー、1892年~1982年)の『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波新書)を手にした▼この新書は学生時代に一度、手にしているが、半可通だった記憶がある。初版は1962年3月。手元の新書は2025年4月発行で、第96刷。息の長い定番中の定番の新書だ。若者時代から半世紀を経たが、今回も全部は理解できなかった。ただ、全254頁のうち、数少ない「なるほどねー」とほほ納得したというか、すんなり頭に入ってきたのは、第6章「広がる地平線」にある以下のフレーズだ。「科学にせよ、歴史にせよ、社会にせよ、人間現象における進歩というものは、もっぱら、人間が既存の制度の断片的改良を求めるにとどまることなく、理性の名において現存制度に向かって、また、公然たると隠然たるとを問わず、その基礎をなす前提に向かって根本的挑戦を試みるという大胆な覚悟を通して生まれてきたものであります」▼すんなりと読み通してしまいそうなこのフレーズが妙に頭にこびりついたのだが、それはこの文章のキイワードである「進歩」について。それも物事がしだいに望ましい方向に進んでいくという「進歩」という言葉そのものではない。<「進歩」を「変革」に置き換えた場合、確かにそういうことが言えるよね>。そう思えたため。変革とは、物事を根本から変えて新しくすることだ。「変革というものは、その基礎をなす前提に向かって根本的挑戦を試みるという大胆な覚悟を通して生まれてきた」。つまり、根本的、抜本的、徹底的などを指す「ラジカル」という私たちの時代の言葉に置き換えて読めたため。それで思わず気に入った文句だったのだなと思えた▼もともと「序説」は、「戦後の鬼っ子」と呼ばれた半世紀前の怒れる若者たちで創刊している。当然、既成の風潮、制度、体制、つまり、世の中の仕組みに対して、<これはどう考えても根本からおかしいぞ、そのまま認めるわけにいかない>、という気分や構えに満ちていた。そのためにそれこそ「根本的挑戦を試みてきた」という、今では歴史的な時間を共有していた。『歴史とは何か』の「進歩」のフレーズに思わずスパークしたのは、その記憶が今も鮮明だったためだと思う▼「序説」は昨秋の6日間、「序説創刊50周年記念展」を栃木県日光市杉並木公園ギャラリーで開いた。この記念展の連絡に必要だったこともあり、時期を同じくして序説の「ライン」をスタートさせた。このやりとりで特に盛り上がったのが、今号の「あとがき」について連絡を取り合っていた際、話題の中心が「アングラ」に及んだとき。「黒テント」「赤テント」や「浅川マキ」の「ガソリン・アレイ」、さらに「ちあきなおみ」の「夜へ急ぐ人」「紅い花」「黄昏ビギン」などに「いいね」が。「何でみんな若かりし日の話しになると、こうも素直に盛り上がってしまうのか」。そんな言葉も飛び交っていたが、世の中に向けて「変革」を形にしようとしてきた視線、見方、姿勢がこうした「空気」を共にさせてきたのではないか。それを思わせる私たちの「歴史」が次々と引火して「花を咲かせた」夏の一夜だった(黒川 純)

 

2025年7月29日 (火)

創刊51年目の同人誌「序説第32号」、校正中ー  計129頁で9月1日発行へ

「戦後の鬼っ子たち」が1974年に創刊してから、51年目!になる同人誌「序説第32号」の校正が始まりました。第31号は139頁だったが、今回の第32号は129頁に。私は論考「『核』と『原発』がよりリアルな世界に」(1万2千字)、事務局の「編集後記」(1800字)、「あとがき」(1500字)の3本を担当している。けっこう注意して提稿したつもりだったが、校正したら、計10カ所も直しがあったー。発行は9月1日の予定。乞うご期待(昔、少年時代に観た映画館の映画予告編ではいつもこの「乞うご期待」という文字がくっきりと。よほど印象的な文句だったのだなと思うことしきり)ー。Photo_20250728233901 号

2025年7月19日 (土)

「憲法」の視点からのこの記事は大事だとー  「参政党の創案で消された私たちの『権利』」

国家元首とか国民主権とかが注目されてしまうが、こうした思想の自由、表現の自由、職業選択の自由、裁判を受ける権利、黙秘権などに言及する記事、つまり、どこで線を引けばいいのかを判断させてくれる目線の確かさがある。それを思わせるいい記事だと思う。でも、もっと早く、各マスコミがこうした報道をしていくべきだったのではないかと。ともあれ、私なぞは、参政党は、打ち出している政策以上にもてはやされ過ぎていると思っている。「これはちょっと危ういのではないか」、そう思わざるを得ない党の全体の思想性、考え方、構え方が透けてみえるようになっているからだー。以下はTwitterから転載してみた。
今の憲法にはあるのに?参政党の創案で消された私たちの「権利」
毎日新聞2025/7/16 12:00(最終更新 7/16 13:23)
参政党の独自憲法構想案で明記されなかった権利や自由
 長らく憲法改正が政治課題となる中、参院選が行われている。改憲、護憲、論憲。憲法に対する各政党の立場は異なるが、参院選前の5月に独自の憲法構想案を公表して「創憲」を訴えるのが参政党だ。
 その中身を見てみると、現行の日本国憲法では明記されているのに、盛り込まれなかった「権利」がある。今の日本に暮らす私たちにはありながら、なくなったものとは――。消えた「法の下の平等」
 「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
 日本国憲法14条は、そう記す。これによって定められているのが、誰もが等しく扱われるべきだという「平等権」だ。たとえば、地方と都市部の人口差によって生じる選挙の「1票の格差」。1人の政治家を選ぶにあたり、有権者の数はなるべく等しくあるべきだという考えは、この条文に基づく。
参政党の独自憲法構想案。日本国憲法では「主権の存する日本国民」(第1条)とされているが、参政党案では「国は、主権を有し」という文言がある
 ほかにも、「女性は離婚後100日間、再婚できない」という女性だけに課された民法上の定めが2024年4月に廃止された。これは、法の下の平等に反するという最高裁の判断が15年にあったことがきっかけになった。
 このように、男女の性差や生まれた土地によって差別されないという原則も14条が保障する。ただ、参政党案には、これに該当する条文はなく、法の下の平等という考え方も盛り込まれなかった。6月に党が作った解説本「参政党と創る新しい憲法」(編著者・神谷宗幣党代表)も、その理由には触れていない。
「表現の自由」「職業選択の自由」もなく
 同様に、参政党案では書かれていない権利がほかにもある。憲法19~22条には、それが明記されている。
「思想・良心の自由」(19条)
「信教の自由」(20条)
「表現の自由」(21条)
 「居住、移転、職業選択、国籍離脱の自由」(22条)
 この四つの条文は、それぞれ国民が自由に行使できる権利を定めている。どんな思想を持っても構わず、どんな宗教を信じても構わない。どんな職業を選ぶか、どこに住み、どの国に移るかも自らの判断で決めることができる。
 政府による言論統制があった戦前の反省から、権力批判を含む言論の自由が21条には明記され、検閲を認めないとも書かれている。この四つの条文が示す権利は、参政党の憲法案には見当たらない。
「黙秘権」もなくなって……
 また日本国憲法の特徴の一つに、「世界的にも類例を見ないほどに詳細」(日本弁護士連合会)と評される、刑事手続きに関する人権規定がある。31~40条が、これに当たる。これらは刑事司法における容疑者や被告の権利で、たとえば「裁判を受ける権利」を32条で保障し、36条では拷問を禁じている。
こうした条文が並ぶのは「戦前に人権侵害が多く起こった実態に対する反省の表れ」(参院憲法審査会)とされる。一方の参政党案では、刑事人権保障を定める条文はない。それにより、裁判を受ける権利のほかに「黙秘権」(38条)も失われている。
 神谷氏が編著を担った前述の解説本には「個人の権利が、結局は私益にすぎず」という一節がある。参政党の憲法案は、そんな思想を背景にしている。【春増翔太】

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2025年7月12日 (土)

同人誌『序説第32号』「編集後記」出稿   創刊51年目、9月1日発行へ   

創刊51年目の同人誌『序説第32号』(9月1日発行)の原稿の最終締め切りである7月10日(木)に事務局担当なので、「編集後記」を出稿した。直近にトランプ大統領の米軍がイランの核施設に空爆を加えるという事態が起きるなど、このところ驚くべき出来事が次々と。4年目に入ったウクライナ戦争など、その報道を毎日見聞きしている。つまり、我々もいわゆる歴史の生き証人となっているのだ。『序説』そのものが創刊から半世紀を越えている。当然、それぞれ高齢になっている同人たちも私ももう「歴史」そのものに。そう思うことがけっこうあるので、その感慨を背景に「編集後記」にしてみた。

Photo_20250712181201 序説第32号」「「編集後記」

 

昭和、平成、令和を生きてきているので、私たち「序説」同人のだれもがもうほとんど歴史的人間になっている。なにしろ、今回の「序説第32号」にしても、創刊51年目となるのだから。1971年の沖縄返還協定粉砕闘争、ベトナム反戦運動、連合赤軍事件、昭和天皇死去、1995年の阪神大震災と地地下鉄サリン事件、イラク戦争、2011年の福島第一原発事故、東日本大震災、コロナ、ウクライナ戦争、2025年初夏のイラン核施設空爆と、次々と歴史そのものに立ち合っている。ということで、このごろいやがうえにも「歴史」に向き合ってきたな、という思いを抱えるようになっている。そのせいもあり、そのものズバリ、歴史家、国際政治学者であるE・H・カー(エドワード・ハレット・カー、1892年~1982年)の『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波新書)を手にした▼この新書は学生時代に一度、手にしているが、半可通だった記憶がある。初版は1962年3月。手元の新書は2025年4月発行で、第96刷。息の長い定番中の定番の新書だ。若者時代から半世紀を経たが、今回も全部は理解できなかった。ただ、全254頁のうち、数少ない「なるほどねー」とほほ納得したというか、すんなり頭に入ってきたのは、第6章「広がる地平線」にある以下のフレーズだ。「科学にせよ、歴史にせよ、社会にせよ、人間現象における進歩というものは、もっぱら、人間が既存の制度の断片的改良を求めるにとどまることなく、理性の名において現存制度に向かって、また、公然たると隠然たるとを問わず、その基礎をなす前提に向かって根本的挑戦を試みるという大胆な覚悟を通して生まれてきたものであります」▼すんなりと読み通してしまいそうなこのフレーズが妙に頭にこびりついたのだが、それはこの文章のキイワードである「進歩」について。それも物事がしだいに望ましい方向に進んでいくという「進歩」という言葉そのものではない。<「進歩」を「変革」に置き換えた場合、確かにそういうことが言えるよね>。そう思えたため。変革とは、物事を根本から変えて新しくすることだ。「変革というものは、その基礎をなす前提に向かって根本的挑戦を試みるという大胆な覚悟を通して生まれてきた」。つまり、根本的、抜本的、徹底的などを指す「ラジカル」という私たちの時代の言葉に置き換えて読めたため。それで思わず気に入った文句だったのだなと思えた▼もともと「序説」は、「戦後の鬼っ子」と呼ばれた半世紀前の怒れる若者たちで創刊している。当然、既成の風潮、制度、体制、つまり、世の中の仕組みに対して、<これはどう考えても根本からおかしいぞ、そのまま認めるわけにいかない>、という気分や構えに満ちていた。そのためにそれこそ「根本的挑戦を試みてきた」という、今では歴史的な時間を共有していた。『歴史とは何か』の「進歩」のフレーズに思わずスパークしたのは、その記憶が今も鮮明だったためだと思う▼「序説」は昨秋の6日間、「序説創刊50周年記念展」を栃木県日光市杉並木公園ギャラリーで開いた。この記念展の連絡に必要だったこともあり、時期を同じくして序説の「ライン」をスタートさせた。このやりとりで特に盛り上がったのが、今号の「あとがき」について連絡を取り合っていた際、話題の中心が「アングラ」に及んだとき。「黒テント」「赤テント」や「浅川マキ」の「ガソリン・アレイ」、さらに「ちあきなおみ」の「夜へ急ぐ人」「紅い花」「黄昏ビギン」などに「いいね」が。「何でみんな若かりし日の話しになると、こうも素直に盛り上がってしまうのか」。そんな言葉も飛び交っていたが、世の中に向けて「変革」を形にしようとしてきた視線、見方、姿勢がこうした「空気」を共にさせてきたのではないか。それを思わせる私たちの「歴史」が次々と引火して「花を咲かせた」夏の一夜だった(黒川 純)

 

2024年10月29日 (火)

これから世の中の荒波に向かっていくんだとー  「大学6年生」だった半世紀前の学生証「発見」で

半世紀前の1974年12月創刊の同人誌「序説」。つい半月前に日光市杉並木公園ギャラリーで「序説創刊50周年記念展」を6日間にわたって開催し、この創刊号など最新の第31号までの全号を展示した。タテカン文字風の表紙は当時の私が書いているのだがー。定価300円ー。その年はわけあって、「大学6年生」。たまたまその年である1974年の学生証の顔写真(「指名手配写真」ではありません)をきょう「発見」したので、並べてみて感慨にふけようと。今は白髪頭だが、このときはふさふさの長髪だった。眼鏡と口ひげのやや鋭い視線から、これから世の中の荒波に向かっていくんだという青年像が浮かんでくるかも(笑い)とー(期間限定でアップしようとー)。Photo_20241030234401 1974

2024年10月24日 (木)

創刊50年の「序説」が下野新聞に   文化面で「記念号に感慨」とー

同人誌「序説」創刊50年 旧足利工大関係者ら 記念号で感慨ー という記事が本日、10月24日(木)栃木県の地元紙(27万部)「文化面」(20頁)に掲載されていました。下野新聞を読んだ足利市のFさんから「記事を読み、ぜひ序説第31号を読みたいのですがー」という問い合わせがありました。それで下野新聞に掲載されていることを知り、コンビニで買い求めました。聞くと、Fさんは足利工大の土木科一期生とか。足利工大に勤務(土木科の教授だったかどうかPhoto_20241024231801 ?)、「定年後、今は週に2回ほど非常勤講師で」と。

 

同人、準同人の故・川島洋雄さん、君島好信くん、高橋一男くんとも交友があったようです。川島さんとよく飲み歩いたようで、足利の法楽寺をよく知っていました。さっそく序説第31号や記念展チラシなどをレターパックで送りましたー。それにしても、下野新聞はたぶん、贈られてきた序説第31号を読んだだけで記事に。事務局の私のところには特に問い合わせはなかったので。ふつうならば、必ず事務局に問い合わせますが、なぜ、問い合わせがなかったのか?、なぜ、9月1日発行の序説第31号のことが今になって、記事になったのか?、いずれも理由はうかがい知れませんが、ともあれ、「序説」が新聞記事になったのは初めてかも。

2024年10月22日 (火)

同人誌「序説」準同人の悲報が届いた    誠実な人柄の半世紀にわたる友人だった 

Photo_20241022112901 Photo_20241022113001 Photo_20241022113201 悲報が届いた。私が事務局を務めている同人誌「序説」の準同人のひとりが死去した。亡くなったのは18日(金)。74歳。春まで元気だったが、夏ごろにあごのがんがわかり、手術を受けたが、体調が思わしくなく、そのまま自宅で療養していた。リンパに転移していたが、ほかに転移はないと聞いていた。しかし、がんの進行度は「ステージ4」だったという。10月に入り、症状が悪化し、足利日赤病院に入院していた矢先だったという。







彼と私は同世代。学生時代に読書サークルをつくり、キリスト教会の一室で、メルロー・ポンティの「ヒューマニズムとテロル」などを読み合ってきた。彼はその後、「佐野地区労」議長、「わたらせユニオン」書記長、「反貧困ネット栃木」共同代表、「原発いらない栃木の会」理事など、栃木県の労働運動、市民運動で欠かせない誠実な人だった。思えば半世紀にわたる友人だった。

今春、彼から「序説に使って」と、3万円のカンパがあった。私は「序説の原稿も書いて」と話したが。先週の16日で終えた「序説創刊50周年記念展」の費用はぜんぶで3万円弱。彼のカンパだけですべての記念展費用がまかなえるほど。展示会のことで手紙を送っていたが、応答がなかったため、心配していた。記念展が終わり、18日に親しい弁護士に問い合わせ、病状について聞いていたところだった(今思うと、その日に彼は亡くなっていた)

「告別式」はあす23日(水)11時~、足利市八椚町(やくぬぎ)225―1,「JA足利・レインボー足利東ホール」で。「原発いらない栃木の会」代表に頼まれた香料も持参し、参列する。もちろん「同人誌『序説』一同」の香料も。合掌。嶋田泰治さんへー。





 

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