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『序説』

2016年8月17日 (水)

47年前、高野悦子は・・・・ 京と(3) 高橋一男+ゴン太

同人誌「序説」第23号(8月1日発行 「霧降文庫」が事務局です)のエッセイから。高橋一男の魅力的な連載です。今回で3回目ー。味わって読んでくださいね。作者は建築家です。読む進めると、「なるほどー」と、なるでしょう。「編集後記」もアップします。

Img_8537_2 京と(3)           高橋一男+ゴン太

 

1969年(昭和44年)2月18日(火)曇 夜半雨

五時頃、ふっと自転車で嵐山に行く。ボートに乗るつもりだったが、時間が遅いせいか、季節外れのせいか、それとも増水のためか、ボート屋は店じまいであった。山陰線のトンネル付近の岩に腰をおろしてラジオのスイッチを入れた。ジャズ、エレキが流れて丁度合った感じであった。川の水は黄土色に濁ってドクドクと流れていた。(二十歳の原点 62頁・63頁)

 

野宮神社を過ぎると坂道の竹のトンネルが続く、近くには山陰本線のトンネルがあって時々列車の通り過ぎる音が聞こえる。トンネルはお墓に行くための山陰本線に架かった橋の西側に見える。雨降りで平日のせいか観光客は少なかった。だから竹だらけの中、竹

と話ながら坂道を歩いた竹箒の先で作ったような道路との境界の塀、先人が考えた機能であり風景であった。山陰本線嵯峨嵐山駅から一キロ程歩いたろうか、世界遺産に登録されている天龍寺の北側を過ぎて竹林の道も過ぎるとT字路に出た右折すると大川内山荘方面へ、少人数ではあるが歩いて行く人がいたが僕は逆方向にある嵐山公園(亀山公園)の方に向かった公園の歩道は景観のダメージにならないように、表面が玉砂利仕上げになっていて下りの坂道と雨で滑りやすくなっていたために、注意はしていたが思いきり転んでしまったビニール傘は宙を舞った。前方から来た人達の中のひとりが「大丈夫ですか」と声をかけてくれたちょっと嬉しかった。(たぶん中国の人だったと思う。)僕は転がる瞬間に柔道の受身をしていたので、怪我をしないですんだ。それにしても玉砂利は雨の日は滑る、ひとつ勉強になったでも頭を打たななくて本当に良かったと内心思った。(中学生の時、柔道の乱取で投げられて頭を打って記憶がとんだ時のことを思い出した。)雨は小降りになっていたがまだ降っていたしばらく行くと保津川(大堰川)が見えてきた。川の流れを見ているといつの間にかその先の着船場にある屋形船の提灯を突いて遊んでいるカラスの動作がおかしくてしばらく見ていた本当に知恵のある生き物だと感心した。気が付けば雨も止んでいて大きな石(岩)に腰かけていた今年もまだ二月の平日(正確には2016年2月29日月曜日)人もまばらであった。屋形船の川下に渡月橋が見えるさすがに多くの人が渡っている。そしてその渡月橋から川下の川が桂川となる、川岸にはボートも置いてあった。47年前の今頃高野悦子はこの近くの岩に腰かけてラジオのスイッチを入れたのだろう。でも来てみて思ったのだがこの場所は山陰本線のトンネルからは少し離れているし、山陰本線のトンネルの近くには岩を見つけることはできなかったがトンネルはイメージしていた風景の中にあって線路はその中に消えていた。ここに来る途中の野宮神社の黒木鳥居は特徴があって、クヌギの木の樹皮を剥がさないで使用する、日本最古の鳥居様式らしい。この鳥居を見て思ったのは、学生の頃、木(もの)を自然の状態というか未加工の状態で美術の作品を作る美術家達がいて「もの派」と呼ばれていた。僕はそのなかでも菅木志雄という美術家に「もの」の見かた、考え方に関して強い影響を受けた。それは出来事の未完成状態の成立というか、うまく説明ができないが彼が提示してきた数々の未完成作品からであった。その中のひとつに1973年の連識体(Renshikitai)という作品がある。細長い板状の自然石を針金で縛りブリッジにして、四隅にある住宅を建てる時、使われる独立基礎のようなコンクリート製の台にのせられていた。この作品は実際には見ていないが、美術雑誌の写真で見た時の印象(驚き)は今でも覚えている。それはあってはならないような作品の提示で、でもそれが嘘のように新鮮で、「もの」に対するアニミズムの持つ優しい視線みたいなものを感じることができた。その後イタリアのジュセッペ・ペノーネやフランスのクロード・ヴィアラという同じような視線を持つ美術家がいることを知り、そして彼らの作品も知った。今になって思うと彼らの存在が僕にとって「ものづくりの基本・発想の原点」になっているような気がしてならない。

 

保津川の流れを見ながら高野悦子がいた京都、そしてあの時から47年も経ってしまったことを考えていた。時間は勝手に過ぎてしまったが、僕はそれ程時間が経ったとは思っていない。彼女の著書(二十歳の原点)からあの時代の京都の風景が見えたし、(イメージできた)街のなかの家のかたちや使われている材料の素材感やその色など、(長い間建築の仕事に関わっていると知らぬ間に、この国の家というシェルターに内在している遺伝子みたいなものが勝手に刷りこまれている)。街を歩いている若者達たちの服装、音楽、など、1969年は多くの若者がフォークソングを歌いギターを弾いていたし、彼女も「高石友也(高石ともや)」のことを書いていた。URCは八月からレコード店などへの直販を始めた。第一回発売が岡林信康と五つの赤い風船、新宿西口フォーク集会のドキュメント「新宿1969年6月」だった。1969年10月21日は“若者の街・新宿”が“政治で燃えた最後の夜だった。(田家秀樹 著・70年代ノート~時代と音楽、あの頃の僕ら~)1969年8月、知人の美術家、加藤アキラさんは京都国立近代美術館の「現代美術の動向」展に招待出品していた。彼女が亡くなって2ケ月後であった。でも彼女は著書のなかで現代美術にはふれてなかった。

 

1951年(昭和26年)に開館した僕と同い年(今年で65歳)の鎌倉近代美術館(カマキン)が3月31日(2016年)で閉館になる前にお別れにいった(鎌倉からはじまった。1951-2016 展)。鎌倉近代美術館は日本で初めての公立近代美術館で日本を代表する近代建築として評価を受けていた。設計者の坂倉準三はル・コルビジェの弟子で、いま話題になっている国立西洋美術館の実施設計にも関わっていた。

僕は朝の10時に家をでて小田急線で藤沢まで行って、東海道本線で戸塚。戸塚からか横須賀線で鎌倉まで一時間くらいかかった。美術館まではそれ程の距離ではなかったので歩くことにしたが到着すると足はガクガクになっていた。美術館には大勢の人がいて大盛況状態、きっと僕と同じように、カマキンにお別れに来たのだろうと勝手に思った。僕は美術館の前にある池のほとりで、朝自分で作ったサンドイッチを食べた。池にうつる美術館の細い柱の感じが二年越しでやっと会えたあのサヴォア邸の柱と重なって見えた。企画展を観て会場の出口近くのショップで過去の展覧会の図録がチョット安く売っていたので、軽い気持ち見ているとエル・アナツイの図録「A Fateful JourneyAfrica in the Works of EI Anatsui」を買った。エル・アンツイは1944年生まれガーナ出身の彫刻家で、世田谷美術館の図書館の図録で知った、以前世田美で展示された「あてどなき宿命の旅路」(1995年)という作品で、どことなく「もの派」的でいいなぁと思った。インスタレーションの作品で使い古された木の台の上に枯れたような細い木が取り付けてあって、しっかりと立っているものもあるが、数は少ないが倒れているものもあった。あとで知ったのだが、台の上の細い木はアフリカでの燃料用の薪で、その薪は女性と子供が集めるとてもハードな仕事でその現実が表現されていた。それからガーナの織物のような作品もあった。役目を終えたアルミ製の瓶の蓋を銅線で繋いでいくと、小さな蓋が集まって大きな面になってタペストリーのように天井から吊るされていて、無数の蓋の色が集まって、不思議なエル・アナツイの世界を作っていた。実はもう一冊買ってしまったディヴィッド・ナッシュの図録「ディヴィッド・ナッシュ展 音威子府の森」だ。ナッシュの作品は時々世田美で見ることができるが、初めて見たのは栃木県立美術館でナッシュが1984年に日光の光徳の奥山でナラ、ニレ、ダケカンバの風倒木に挑んで製作した作品の一部だったと思う。彼は生木を使わず風倒木、立ち枯れ木だけで作品製作をする。死んでしまった自然木に再度生命力を吹き込む作業は、いつ見ても人間と自然との距離感を強く意識させる作品だ。それから図録音威子府(おといねっぷ)という地名だが、それを知ったのは真冬の北海道へSLの写真を撮りに行っていた同人の君島君からだった。雪野原を走るSLそしてその先に海が広がり薄っすらと利尻島が、そして空気まで凍っていた音威子府の写真はすばらしかった。

 

野宮神社の鳥居から君島君の話まできたが、君島君の住んでいる足利は夕日がきれいな街で渡良瀬橋から見る渡良瀬川の流れは以前から桂川の流れに近いものを感じていたし、足利の街も京都の街も同じような重心の低さが僕は好きだった。そんなことを思いながら、保津川(桂川)のボート乗り場近くの岩に座り47年前の高野悦子が見た同じ川の流れと、同じ季節の風を感じていた。

 

東山区の京都国立博物館(京博)内の平成知新館のオープンを知って訪れたが閉館していていたので、今回は開館日を確認してから行った。七条通に面したチケット売り場の南門(ミュージアムショップ)はカワイイ建築だが、1989年に出会ったバルセロナ・パビリオンを思い出させた。バルセロナ・パビリオンは1929年ミース・ファン・デル・ローエが万国博覧会のドイツ館として設計した期間限定の仮設の建築であったが、1986年に復元されていた。水平線が強調された屋根のライン、床から天井までのガラス面、ステンレスの柱、シマメノウ(大理石)、内側から光る(天窓)乳白色のガラスの壁、外部の建物を写す四角形の池、石張りの外部の床など、装飾的なものは一切排除された古典主義的に構成された建築であり、建築の即物的提示は僕にとって強い興味の対象であった。京博の南門とバルセロナ・パビリオンとの共通性は外部の幾何的余白とか外部に使用されている素材の視覚性という表層的なものではなく、建築家谷口吉生の遺伝子の中に隠れているのではないかと思った。父親は、建築家の谷口吉郎(1904~1979年)である。谷口吉郎は金沢市出身で東京国立近代美術館(1967年)や藤村記念館(1947年)など数多くの作品を残した。

 

思い出すのは学生の時、美術部の合宿で木曽へ行った時、藤村記念館を訪れた。梅雨の明けた七月初旬その年は特に熱い夏で、妻籠宿から馬籠宿まで山道を歩いたがあまりの暑さに、道沿いの翌檜(あすなろ)の木の下に嘘のように綺麗な流れの川で水浴びをした。着替えなんかないからパンツも着けず素裸だった。最初は君島君、続いて富岡君、大木君、大橋さん、井上さん、我謝君、僕、後輩もいた。そして翌日、島崎藤村の生家跡にある藤村記念館へみんなで行った。

 

何時だったろう、祖師谷の古本屋で「雪あかり日記」谷口吉郎 著と出会ったのは。本を手に取って開いて驚いたのは紙質で、黄色というよりも茶色に近く、本を開く時に丁寧にしないと紙が破れてしまうのではなく割れてしまった。文字は読にくい昔の漢字で、印刷もあまり良くなかった。とにかく古い本のように見えた。そこには戦後間もない物不足(何でも全部不足)の時代に出版(昭和22年12月25日)されていて、出版社、著者の建築に対する強い意志と運命的な出会いを感じたので買うことにした。読んだことはなかったが本のことは昔から知っていた。

 

著書によると谷口吉郎は昭和13年(1938年)ベルリンにある日本大使館の建物が、新しい都市計画のために改築されることになったので、この機会に向うに行ってはどうかと云うお話であった。もとより私は先生(伊藤忠太)の御厚意に従った。(雪あかり日記 267頁)

 

この本で特に印象に残ったのは石の事と建築家のカルル・フリードリッヒ・シンケルのことであった。

 

ヨーロッパ人の石にたいする美は何であろうか。

ヨーロッパでは人口的な形の美しさが問題になる。天然の肌を有する石から自然の表面をけずり取り、人口的な形の美を作りだそうとするものである。このようにヨーロッパ的な造形というものは、何から何まで加工の意匠と云いえる。水の流れと苔の美しい日本では、庭石のように、石は天然の肌が、賛美される。大理石のような石質の美しいヨーロッパでは石は加工された面が賞美される。だからロダンも云っている。「石の中に光がある」と。(雪あかり日記 81頁、82頁)

 

私は浅春の日、侘助椿の咲く頃、あの竜安寺の庭を訪れたことがあった。また日ざしの強い夏の日、蝉時雨が石の肌にしみる頃たずねて行ったこともあった。済んだ秋の日、雪の降る冬の日にも私はこの庭を見に行った。京都に行く友に是非この庭を見るように云ってやった時、その友は、心の中に涙が流れたと絵葉書の返事をよこしたこともあった。(雪あかり日記 83頁)

 

何時だったか、美術家のリー・ウーファンがヨーロッパで作品に使用するための大きな自然石を探すのが大変だったと美術書で読んだことがあった。

この北ドイツ一帯の低地は、地質学的に氷河でできた地帯だった。(雪あかり日記 64頁)

どうりで、大使館の建設工事場で地下室や基礎を掘る時、敷地のどこを掘ってもさらさらとした鋸屑のような色をした砂ばかりで、石ころ一つ出てこないのに、私は驚いた。(雪あかり 日記 65頁)

 

結局、日本からアメリカへ持って行った庭石を庭師と共に大西洋を渡ってドイツの建設現場へ搬入されることになったらしい。

 

ウンター・デル・リンデンの大通りを、巡邏兵の一隊が、勇ましい軍楽隊を先頭にして、こちらへ近づいてきた。そう、今日は水曜日だった。毎水曜日には、このリンデン街を、巡邏兵の一隊が隊伍をととのえて、「無名戦士の廟」まで進行してくるのが、ベルリンの名物になっていた。(雪あかり日記 89頁)

 

無名戦士の廟(ノイエ・ヴァッヘ)は1816年にカルル・フリードリッヒ・シンケル(1781~1841年)によって設計された。シンケルは新古典主義の建築家で、優れた比例で構成された作品はモダニズムの建築(美学)に影響を与えた。「雪あかり日記」はシンケルの建築を中心に書かれていた。

 

ギリシャ的なものに強い力を認め、今も尚、時代を越え、風土を越えていきいきとした新しい美しさを感ずる芸術的感動の側から、古典を眺めたならば、その古典美を簡単に無視することは容易でない。

現代美術の感情は、その心を深めれば深めるほど、伝統の源泉に心を惹かれ、その伝統の中に、強い力を感じ、それから多くの啓示さへ受けざるをえない。(雪あかり日記 94頁)

 

彼の模倣(シンケルの正しいギリシャの模倣)は決して安易な態度でなく、むしろ謙虚な態度を以て、最高美を探求しようとし学生のように、純真な精進の道を選んだものと云うことができるであろう。(雪あかり日記 187頁)

 

それから、シンケルの後継者(建築家)のことに触れている。ウィーンのオット・ワグナー(1841~1918年)、ペーター・ベーレンス(1868~1940年)、1919年ベルリン大劇場改築をしたハンス・ペルツィヒ(1888~1936年)、ブルーノ・タウト(1880~1938年)、ヴァルター・グロピウス(1883~1969年7月5日)、エーリヒ・メンデルゾーン(1887~1953年)で、ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969年8月17日)の名前がなかったので何故だろうと思った。それからオット・ワグナーを除いて、全てドイツ人のようだった。

 

ちょうど、ベルリンの冬の思い出だったので「雪あかり日記」と云う題をつけてみた。私はヨーロッパの旅行中、いつも「建築」に自分の目を向けていた。いつも私は心を、建築に注いでいた、それで、旅愁をなぐさめてくれるのも建築だった。私は、自分の意匠心が「旅の心」によって、清められるのを感じていた。そんな気持ちを思いだしながら、私はこの日記を書いた。(雪あかり日記 270頁、271頁)

 

南門からアプローチを北に向かって歩いていくと両側に池のある、床から天井までガラス張りのエントランスと本体が石張りの平常展示機能を持つ平成知新館に着いた。平成知新館は南門と同じく谷口吉生の設計で2013年の8月に竣工していた。谷口の作品は東京、金沢、静岡、山形、香川、その他日本各地にあり、ニューヨークにもある超有名な建築家である。東京で見る谷口の作品は他者を寄せ付けない上品なモダニズム建築で、その中でも僕は地下鉄外苑前駅近くにあるオフィスビルが好きだ。でも京都の平成知新館は京都と云う場所的な背景もあってか貴族的なモダニズム建築に昇華しているように思えた。天井の高い暗い展示スペースには国宝が数点展示されていた。その中でも雪舟が晩年現地で実景を写したと云う天橋立図(あまのはしだてず)の存在感にはただ感動した。それから展示スペースの西側にあるレストランの庭園を見ながらのランチ(カレーライス)ではちょっと贅沢な気分を味わった。

 

御所の南西角にある和風造りの交番を通りの反対側にあるマクドナルドの2階から見ている、以前この場所には本屋さんがあったらしい。

 

私は自転車で出かけました。とても天気がよかったから。バッグに「日本歴史」「山本太郎詩集」をいれて、チリンチリンと鈴を鳴らしながら出かけました。堀川今出川の交差点まで。

青木書店にいって、お料理の本、ジャズの本、詩の本、写真の本を立ちよみし、「現代の理論」と「海」を買いました。喫茶店「マロン」に入ってコーヒーとトーストを食べました。

ファイト十分になったところで「マロン」を引きあげ広小路にいきました。(二十歳の原点 132頁、133頁)(1969年4月22日)

 

外人の家族が隣に座った。しばらくすると金色の髪をした子供たちは楽しそうにハンバーガー、ポテトフライを食べコーラを飲みだした。彼らにとってマクドナルドは落ち着ける場所なのかなと思った。「マロン」という喫茶店はマクドナルドの隣にあった。そして僕がいるこの場所に青木書店があった。僕はマクドナルドを引きあげ御所の中を通って広小路まで行くことにした。高野悦子も見ただろう九条池も仙洞御所の塀も清和院御門も47年前と変わっていないと思った。でも広小路に立命館大学はなかった。

1968年パリから始まった若者達の異議申し立ての振動は京都まで届いた。1969年彼女はそんな振動する京都の街で、思いきり青春を燃焼した。高野悦子がいた京都。

 

 

柴犬のゴン太です。お久しぶりです。ゴンも今年の7月で10歳です。人の歳だと兄ちゃんと同じくらいだと思います。ゴンも爺さんになってしまいました。

ゴンは兄ちゃんと一緒に去年から今年にかけて北陸へ行ってきました。去年の9月には富山県高岡市の金屋町の古い街を歩きました。ゴンは背が低いから道路からの反射熱が熱かった。帰りに金属で作られた大仏さまに寄りました。みんなが大仏さまの中に入っているので、ゴンも入ろうとしたら注意されてだめでした。でもお昼に食べたカレーうどんの鶏肉は旨かった。11月には石川県輪島の先の朝ドラ「まれ」の舞台になった大沢町へ「間垣」と云う季節風を防ぐための垣根(塀)を見に行ってきました。それから今年になって富山県射水市新湊地区へ運河越しの街並みを見にも行ってきました。

 

兄ちゃんはゴンの目を見て「もうゴンにも兄ちゃんにもネクストはないから、出会ったものをよく見ておくように。」と話していました。

ゴンは犬だけど風化した木の壁、錆びたトタンの屋根や壁の古い家が山や空や海と同じようにあって、人や動物が自然にそして普通に生きている街が好きになりました。

 

 

参考資料

二十歳の原点  高野悦子著  ()新潮社

雪あかり日記  谷口吉郎著  東京出版(株)

70年代ノート~時代と音楽、あの頃の僕ら~  田家秀樹著  毎日新聞社

 

 

編集後記

詩人で表現者の春山清さんが亡くなりました。

「知的好奇心と創造力の欠如は罪悪です。」は春山さんの言葉でした。

 

美術家の八田淳さんが亡くなりました。八田さんは京都の方でした。

「針金八田富士」は印象に残るすばらしい作品でした。

 

 

僕は僕なりに自由に振るまってきたし

僕なりに生きてきたんだと思う

だけどだけど理由もなく

めいった気分になるのはなぜだろう

思ってる事とやってる事の

違う事へのいらだちだったのか

(吉田拓郎の唄で「まにあうかもしれない」の一部。作詞/岡本おさみ 作詞/吉田拓郎 編曲/鳥山雄司)人気ブログランキングへ励みの「いいね」をお願いします。ブログランキングに参加しております

 

2016年8月15日 (月)

高野悦子へのソネット・・・・   磯山オサムの詩

Img_8537

詩 三篇

磯山オサム

 

一 高野悦子へのソネット

 

警笛・1969年6月24日

ヒトハオモイノデ 

ステルヨウイガアル

 

星の扉・しあんくれーる

カラダヲキリサカナケレバ

はかない自由を得られない

 

キオク・沈黙の湖底  

遠くヒザマズク記憶

たどりつく記憶

夜の記憶が 

そのまま鉄路を走り続けている

 

耳を閉じ・小舟・天神通丸太町下ル 

生きて・北関東の空

ヒトハオモイノデ 

 

   二 夜想

 

空飛ぶネコの名前はお母ちゃん

もとヒト 青いレインコート

ずっとまえ詩人が

「人はかつて樹だった」と言っていたので

離散の寒い朝 この地にとどまるため

ネコになった

  思い出 不明の鉄路

  月の夜ノ森 

  うすい霧

過ぎた時間と汚れた風のすきま

眼を大きく開き 耳を立て

無垢と 生きている音をさがして飛ぶ

記憶の歪みを直しながら飛ぶ

  もとヒト 金曜日 樹

  空飛ぶねこ ひとり

いつか すべてのいまを伝えるため

  飛ぶ

  空の 空の 夜を

 

   三 たまごのニュース

 

きのうときょう

サヨナラが自由を飛ぶ

たまごのニュース

 

窓越し j国のA首相

美しい国を増幅するために

津波の防護壁は黄金イロに塗りましょう

汚染水は四年後いちごしろっぷに

再利用出来るでしょうと発言しました

 

未来のために ネオンサインの奥深く

大正でもくらしー 

黒色のアンブレラを隠しておきましょう

 

きたるバツバツ年のTおりんぴっく

廃墟の地図に拡大する茶色のシミと活断層 

人形の軍隊が大陸方面に

戦意のウインクを繰り返しているので

消息スジによると

開催を危ぶむ可能性を示しています

j国での二度目の中止となるのでしょうか

 

 思い出のオモテナシに追憶を奪われ

 虚栄と色彩と寛容 

 SNSを永遠の友人としていると

 遠メガネ 帰り道を不明にします

 

関西△組と△組中央が          小指をからませて 地の果ての渡世  

現在も内緒のげばるとを繰り返しています

内部の組員によると 暦売り        

もう〈永遠の嘘〉にもついて行けない

とのことです

 

 世界的水平線 粉雪

 登録されることのない夢

 それでも 

 ときどき森の淵

 〈うぃしゃるおーばーかーむ〉と

 静かに 

 口ずさみましょう


 

 

  

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2016年8月 8日 (月)

死の宙釣りと生の宙釣り  「表現の周辺 8」(冨岡弘)

Img_8537 表現の周辺8     冨岡 弘

 二十歳代に読んだ小説を読み返してみた。何故か今時の村上春樹などは、未だに読んでいない。相当前になるが、「羊をめぐる冒険」が出版されて直ぐに手元に置いたが、そのままで書棚の何処かに眠っている筈だ。そのうち読むだろうが、今は読む気配がない。それで最近読んだのが、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」と「島の果て」の二作品で、両方とも短編で八月十五日の敗戦前後の数日が描かれている。二作品は対をなしていて、前者は主人公である特攻隊長の中尉の心理的葛藤が事細かく描かれている。後者の「島の果て」は、全く同じ時間帯つまり八月一五日をはさんでの数日の、中尉と島の娘「トエ」の恋愛が切なくしかも幻想的に描かれている。

「出発は遂に訪れず」は、最近の小説では決して味わう事のできない緊迫した描写がいたる処に見てとれる。主人公の中尉は、鹿児島と沖縄の中間点に位置する奄美群島の一つ加計呂麻島に赴任する。(本文では、島の名前は加計呂麻島と記されていないが、島尾の作品解説で具体的に語られている。この小説は、彼の戦争体験が下敷きになっている自伝的作品である。)彼は、五十二二十歳代に読んだ小説を読み返してみた。何故か今時の村上春樹などは、未だに読んでいない。相当前になるが、「羊をめぐる冒険」が出版されて直ぐに手元に置いたが、そのままで書棚の何処かに眠っている筈だ。そのうち読むだろうが、今は読む気配がない。それで最近読んだのが、島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」と「島の果て」の二作品で、両方とも短編で八月十五日の敗戦前後の数日が描かれている。二作品は対をなしていて、前者は主人公である特攻隊長の中尉の心理的葛藤が事細かく描かれている。後者の「島の果て」は、全く同名の特攻兵を束ねる隊長としての重責を担っている。勿論上からの発進の命令が下れば、自らも二百三十キロの炸薬を装着した一人用ボート(全長五メートル、横幅1メートル、飛行機エンジンをとりつけたもの)で敵戦艦に突撃するわけである。自爆するのである。

 「八月一三日の夕方防備隊の司令官から 特攻戦発動の信令を受けとり、遂に最期 の日が来たことを知らされて、こころに もからだにも死装束をまとったが、発進 の合図がいっこうにかからぬまま足ぶみ をしていたから、近づいて来た死は、は たとその歩みをとめた。」

結果その日は、突撃することはなかつた。しかし、それからが中尉の内的苦悩が始まるのである。

「今私を取りまくすべてのものの運行は、はたとその動きを止めてしまったように 見える。目に見えぬものからの仕返しの 顔付きでそれは私を奇妙な停滞に投げい れた。巻きこまれたゼンマイがほどかれ ることなく、目的を失って放り出される と、鬱血した倦怠が広がり、やりばのな い不満が、からだの中をかけめぐる。矛 盾したいらだちにちがいないが、からだ は死に行きつく路線からしばらく外れた ことを喜んでいるのに、気持は満たされ ぬ思いにとりまかれる。目的の完結が先 にのばされ、発進と即時待機のあいだに は無限の距離がよこたわり、二つの顔付 きは少しもにていない。」

一日生きのびたことにより、いっそう複雑でやるせない心理が宿ってしまい、絶望感が彼を食い裂く。不可視な糸に死が宙吊りにされ、自分ではどうにもならない状態にさらされる。これこそが戦争の悲惨さなのだろう。死が自分自身から引き離され、勝手な思惑に翻弄されてしまう。

 私も六十代まん中ぐらいになるが、時々自分の死について考えてしまうことがある。それはあくまでも個人的な個的死である。平和な時代にはおおむね死は個的なものとしておとずれる。元来死は個々の個人に起こる現象で、それが自然であり、理想的な死に方である筈である。しかし戦争は死を個人のものから何処か別の次元に追いやってしまう。気まぐれとでも言える戦況の変化により、突撃の命令が下されればその時が死ぬときであり、選択の余地など全くない袋小路に追いやられるのである。死は宙吊りにされたままもてあそばれるのである。

「出撃のその日を、恐れおののきながら 早く来てしまった方がいいと待ち望み、 それが望み通り確かにやって来たのだっ たのに、不発のまま待たされているのだ から。すべての生のいとなみが今の私に は億劫となり、両の腕から力が抜け去っ て、体温は低く下ったみたいだ。」

こんな状態で生きているのは、辛過ぎるわけで、生きるために死を覚悟するのではなく、死ぬために毎日生きているだけなのだ。

 八月十四日待機状態は続いていたが、真夜中近くに防備隊からついに連絡があった。   

 「それは特攻戦とは少しも関係のない内 容のものだ。カクハケンブタイノシキカ ンハ、一五ヒショウゴ、ボウビタイニシ ュウゴウセヨ。ヒツヨウナラ、ナイカテ イヲムカエニダシテモヨイガ、ドウカ。」

と連絡があり、翌朝一五日中尉は内火艇には乗らず徒歩で防備隊に出向いた。

 「今日の召集は何でしょうか」

と中尉は訊く。

 「正午に陛下の御放送があるはずだ」

 「無条件降伏だよ」

と返って来た。中尉は、ムジョウケンコウフクと頭の中で反芻したとある。甚だ複雑でやるせない空虚が全身を包みこむ。敗戦を自覚して、命拾いした筈であるにもかかわらず、素直に生を喜んでいない。むしろ混沌としたつかみ所のない空間に放り出された有様である。戦争が終わったからと言って、精神が簡単に平衡感覚をとりもどせるわけでもない。もしかすると死は宙吊りにされたままなのだろうか。

 「世界は、色あせてありふれたものにし ぼんでしまい、そこで手ばなしで享受で きると考えた生の充実は手のひらの指の すきまからこぼれてしまったのか。装わ れた詭弁があとくち悪く口腔を刺激し、 生きのびようと腐心する私を支える強い 論理を見つけ出すことができない。戦争 と軍隊に適応することを努めその中で一 つの役割を占めたことによって出来かけ ていた筋道を、生きのこることによって 否定したことになれば、それでそれ以前 のもとの場所に帰ったことになるとでも いうのか。しかしその考えは私を少しも なぐさめない。生きのびるためにそのと き適宣にえらぶ考えは、環境の大きな曲 がり目のたびごとにまたえらび直さなけ ればならなくなり、とどまるところなく くり返されるにちがいない。刻々の嫌悪 感の中でだけ反応してきた過去が、空襲 と突き当るときの想像と抗命をおそれ、 それらの可能性が自分の意思の結果とし てではなく、自然現象のように去ってし まうと、そのあとに空虚が居残り、新た な局面に出かけて行って対処するエネル ギーが生まれてこない。」

この小説はよくある戦記物ではない。小説家でしか描けない卓越した心理描写は、説得力があり、物理的戦争記録ではなく精神的戦争記録小説として一級のものであるにちがいない。白黒はっきりしないグレーゾーンが見事に描かれている。私は以前から、小説はグレーゾーンを描くのに一番てきした表現方法だと確信していて、詩でも俳句でもなく小説なのだろう。

「出発は遂に訪れず」は、島尾の実体験をもとに描かれた作品で、事実彼は加計呂麻島に特攻隊の隊長として赴任した経験がある。一般大学を繰り上げ卒業した後最初は「第一期魚雷艇学生」であったが、戦況の変化に伴い「第十八震洋隊」を率いることとなる。総勢百八十名の長として、軍人経験が甚だ未熟であったはずの島尾にとっていかに重責であったかは、たやすく想像できる。もし私がこんな立場にいたら、小心者でいくじなしの自分は、簡単に精神異常をきたすであろう。未熟極まりない若者を隊長として任命しまうほど、日本の戦況は末期的であったのだ。魚雷艇も震洋艇も搭乗員の死を運命づけられた兵器であり、極限状態を体験した島尾は、戦後この小説を書かずにいられなかったのだろう。後に彼は、あの有名な作品「死の刺」を書くが、私は「出発は遂に訪れず」の方を高く評価したい。

日本も敗戦後、リアルな戦争は幸い行わずにきている。死が個人からむりやり略奪され宙吊りにされてしまう戦争はどんなことがあっても避けたいが、一方戦争とは全く違った戦後最悪とでも言える大きな出来事は、福島原発事故であろう。放射能汚染による帰宅困難区域は未だ手つかずのままにある。二〇一六年現在九万人以上の厖大と言っていい数の住民が避難状態にあり、荒れ果てた故郷を嘆いている筈。私は原発事故による放射能汚染は、戦争の死の宙吊り状態とは真逆の生(生活)の宙吊り状態であると考える。生の宙吊りもなかなか精神的に過酷であることは、容易に想像できる。事故から5年が過ぎ以前ほどニュースにならなくなっているが、特攻隊の言いようのない空虚感と、避難民のやり場のない怒りと無力感は、どちらも重なる部分があるわけで、自分ではどうにもならない焦燥感、嫌悪感、倦怠感が全身を包んでしまうことが有るのではないか。個人の「死」そして「生」が国の思惑により翻弄されてしまう事態は、何時の時代も起こり得ることなのだ。私の死、私の生、ではない状態は異常な事態であることに、いつも敏感に反応出来ることは、重要であると思う。島尾の作品は、戦争における精神解体記録小説としておそらく永遠に残るものと期待したい。

 

 

 今年の冬は、家から車で二〇分ほどの温泉に、週二回ほど通いました。冬の寒さから身を守るには温泉が一番だと考えています。歳は取りたくないが、そんな温泉に頼る歳になりました。その温泉は三〇〇円で入れる経済にもやさしい村営のもので、午前一〇時から営業していて、なるべく一番風呂を目指して行くのです。土日は避け平日に行くので観光客らしきものは見かけたことはありません。何時も決まって一〇名ほどの人が入っているだけで、わりとスムーズに入浴でき快適です。一〇名ほどの人々ですが、毎回同じような顔ぶれの老人達で、自分も十分老人ですが、風貌から私より少し年上の人が多いように見受けられます。たぶんこの施設の近在の村民が内風呂代わりに使っているのだろうと勝手に解釈しています。近くにこんなに安く入れるものがあるのがすごく羨ましくおもいます。私のような貧乏性には丁度いいのです。

ところで、家の風呂と全く違うのは脱衣所が暖かく、非常に快適に着替えできそれだけでも極楽で、湯船に入る前からの極楽と入ってからの極楽、そうニ度も味わえるのです。それに脱衣所は割と広くゆったりで、いたるとこに張り紙がしてあり空間に心地良い緊張を与えています。代表的な張り紙は、天ぷらそばや生ビールなどの飲食の宣伝用のもので、入浴後利用して下さいということなのだろう。他に天井近くの壁の高い処に、何故かベニスの風景画(リトグラフ)が掛けてある。誰かが寄贈したのだろう寄贈者名が絵の下に張ってある。壁や引き戸の余白からは様々な情報が発信されていて、目のやり場に困り、軽い眩暈を起しかねない。この過剰なまでのアナキーな空間は、一体どんな人によって演出されたのだろうか少し気になる。そんなエネルギーに満ちた場を後に、いよいよ風呂場に入る。何時ものメンバーが何時ものようにゆったり無言のままそれぞれの楽しみ方をしている。男達は寡黙であり黙々と背中を流しそして湯船に浸る。日頃女達のとめどなく続くお喋りに疲れてしまっているのか、全く喋る気配がない。老人になっても男を捨ててないところがいい。ふと洗い場にめをやると一人だけ際立って目立つ、歳の頃なら七〇前後、背中に美人画が見事に描かれているなかなか近寄りがたい風格を感じる人がいます。きっと若い頃は元気が良かったのだろう。相当きれい好きらしく、永遠と体をくまなく丁寧に洗っている。やや潔癖症と思えるほどのこだわりだ。人は見かけでは分らない、その人の秘密を見てしまった思いがして変に愉快な気持ちになった。

私は何時ものルーティンをこなして、最期に決まって露天風呂にはいります。内風呂でよく温まってからでないと、赤城山の裾野から吹き上げてくる寒風は、たちまち全身を冷やしてしまう。だから小走りで露天に滑り込む。壁を隔てて女の露天は何時もの通りお喋りでにぎやかだ。こちらは口を真一文字、あちらは寒風を追いやってしまうほどの笑い声で溢れている。このコントラストが男と女の谷の深さを暗示している。

風呂から上がり脱衣場で帰り仕度を整え、建物を出ると左手のガラス窓越しに大広間が見える。多分100畳は有りそうな本当に広いもので、そこで午前中にもかかわらず、数名の男女がカラオケを楽しんでいる。私の立っているところから、ゆうに30メートルは離れていると思われる場所がステージで、巨大なモニターの真横で着物姿の元お姉さんが、気持ち良さそうに歌っている様は平和そのもので、一足早く春の空気を感じてしまうほどです。実際の周りの山々はまだまだ真冬そのもので、春のかけらもありません。お姉さんの歌声に感謝しながらゆっくりと歩き、ほてった体を少し冷やします。駐車場は直ぐそこです後は何時もの道で帰り、お昼ご飯をつくり食べるだけです。

私の老後のささやかな楽しみの一つを書いてみました。

 

2016年7月28日 (木)

折々の<状況>その2  今夏発刊「序説第23号」

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折々の<状況>その2

                                                         

 富岡洋一郎

 

「事件」・・・・新しい何かが突然に

 

私たちは、今、いや、今も、「事件」でいっぱいの世の中にいる。それも表層でも深層でも。飛び込んでくる事象だけでなく、眼を大きく見開くことで視えてくるそれも。あれから5年目を迎える東日本大震災・福島第一原発事故、それはもちろん、芸能人の最新スキャンダルも、暴力的な政治変動も、さらに個人的な決断も「事件」だー。スロヴェニア生まれの思想界の奇才と呼ばれる、スラヴォイ・ジジェクは『事件! 哲学とは何か』で、これらをあげたうえで、事件の定義のひとつを示す。「事件とは、すべての安定した図式を覆すような新しい何かが突然に出現することだ」、あるいは「事件とは、何よりも原因を超えているように見える結果のことである」と。

 

「原因を超えているように見える結果・・・・」の例として、『事件!』は、恋に落ちた例をあげる。これなどはだれもが胸に手を当てれば、「なるほど!」に。「私たちは特定の理由、(彼女の唇、あの微笑み、など)で恋に落ちるわけではない。 すでに彼女に恋しているから、唇やその他が私を惹き付けるのだ。だから、恋愛もまた事件的である。恋愛は、事件の結果が遡及的にその原因あるいは理由を決定するという循環構造の好例である」

 

「新しい何かが突然に出現する・・・」、その典型的な場面に2015年秋、私はたまたま立ち会っている。というか、私の体感をそのまま言葉で明らかにした素晴らしいスピーチを会場で聴いた。東京・代々木公園で開かれた「9・23 さようなら原発さようなら戦争全国集会」。檀上で、上野千鶴子(東大名誉教授)は、感慨深そうに、それでも、「一語一語」をていねいに、いわば、この時代を「総括」した。「70年安保」(もう45年前にもなる!)に関わった彼女はメモを片手にこう語っていた。

「私たち70年安保闘争世代は闘って負け、深い敗北感と政治的シニシズムの淵に沈み込んだ。しかし、2015年夏の経験は40数年間続いた政治的シニシズムを一掃したと私は確信する。議会の配置に変更がない以上、どんなに運動しても議会の中の結果は見えていた。だが誰もあきらめなかった。それどころか、日に日に路上に出る人が増えていった。まっとうなことをまっとうに口にしてよい、そういう時代がきました!」

 

キイワードの「政治的シニシズム」とは、この場合、「お前たちは何てバカなことをやってんだ!」という斜に構えた、我関せずの「冷笑主義」といったところ。72年初春に発覚した「連合赤軍事件」などを契機に潮が引くように去っていった「政治事件」が、昨夏、「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)を先頭にした若者たちの躍動で、再び世の中へ。戦後70年続いた「この国のかたち」を根底から変える「戦争法」を立法化させた政権に「新しいコール」で初々しく抗議。その力が学者、高校生、ママへと広がった。 

作家で明治学院大教授の高橋源一郎は、「SEALDs」メンバー、明治学院大4年の奥田愛基くんを取り上げた「朝日新聞be」(2015年12月19日付)で、「政権へ異を唱えたいと思う人が増えてきたとき、彼らが〃着火剤〃の役割を担った」と評価している。その「SEALDs」のメンバーと語っている『民主主義ってなんだ?』で、彼、高橋源一郎は、上野千鶴子が語った「まっとうなことをまっとうに口にしてよい時代」を、柔らかく言い換えている。別の言葉だが、意味するところは同じだ。「ふつうのことが、ふつうに行われ、風通しのいい社会に」と。

 

「ふつうの子たちが、ふつうに生きていて、社会がおかしくなったと思って、なにかしなきゃならない、って思って、いろいろするようになった。そのふつうのことが、ふつうに行われることが、長い間、ふつうじゃなかった、ってことの意味も、ぼくは考えていた。彼らは、風通しのいい社会になったらいいのに、と思って、運動を始めた。そのことに、ぼくは、深く共感している」(『民主主義ってなんだ?』「はじめに」)

 

「事件」は、「戦争法」抗議以前から起こっていた。反原発首都圏連合が官邸前で始めていた毎週金曜日の「再稼動反対」アクションだ。2012年春から夏へ。数百人、数千人、数万人へ。倍々ゲームのように膨れ上がり、全国各地に次々と飛び火した。私も何度か参加しているこの「事件」についても、高橋源一郎は『ぼくらの民主主義なんだぜ』で、「デモ」について、うまい紹介をしている。市民団体「さよなら原発!日光の会」の代表である私も何度か問われてきたその問題についてのわかりやすい返答だ。

「首相官邸の前に、何万、何十万もの人たちが集まる。そんな風景は何十年ぶりだろうか。長い間、この国では大規模なデモは行われなかったのだ。でも、うたぐり深い人はいて、『デモで社会が変わるのか?』と問うのである。それに対して柄谷行人は、こう答える。『デモで社会は変わる。なぜなら、デモをすることで、《人がデモをする社会》に変わるからだ』」。

「ふつうの子や人が、まっとうなことを、まっとうに口にするため、ふつうに集会やデモを行う」。今や、そういう新たな時代に入った、私はその思いを強くしている。

 

「新しい何かが出現する・・・・」あるいは「原因を超えているようにみえる結果・・・」、その「事件」は、当然、ある種のさまざまな「時間」を伴う。では、「恋」にしても、「デモ」にしても、あるいは、別の何らかの「個人的な決断」でもいいのだが、それについて、それこそ意味深長な指摘をジジュクが『事件!』で語っている。追うのが難しい「時間」についての論考の中で。そのひとつとして、ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクと社会主義者エドゥアルト・ベルンシュタインとの「権力掌握時期尚早」論争、もとりあげている。ローザが反論する。「『時期尚早の』攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから」。これらを挙げながら、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」。こう、たたみかける。さまざまなことが想像できる、このフレーズをかみしめることで、「自分と事件」に遭遇することができるのではないか。

 

「もちろん問題は、行為と言うものはつねに早すぎると同時に遅すぎるということだ。一方では条件が整うことなどありえない。緊急性に屈服せざるを得ない。じゅうぶん待つ時間などない。戦略を練り上げる時間はない。行為はそれ自身の諸条件を遡及的に確立するという確信と危険性を覚悟しなければならない。他方では、緊急だという事態そのものが、行為が遅すぎたということを物語っている。もっと早く行動すべきだったのだ。行為はつねに、我々の行為が遅すぎたために生じた状況に対する反応である。要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ」(『事件!』「真理は誤謬から生まれる」) (初出 月刊詩誌『詩と思想』コラム「詩人の眼」2016年3月号)

 

 

『ミツバチの羽音と地球の回転』が今!                      

 

 「日本にも環境にいい電気はあるだろう?」

「環境認証がついた電気を選べばいいんだ」

「・・・えっ、本当に電気が自由化されていないのかい!」

「そりゃ、変えなきゃだめだ!」

 

 という北欧人とのやりとりからそのドキュメンタリー映画の予告編が始まる。鎌仲ひとみ監督が2010年に制作した『ミツバチの羽音と地球の回転』。原発の建設計画が進められている現地の真向いに位置する瀬戸内海に浮かぶ山口県祝島を中心に、脱原発を国民投票で決めたスウェーデンも「旅する映画」だ。

 この映画の公式ホームページの「もうひとつの選択 立ち上がる未来のイメージ」で、鎌仲監督はこう呼びかける。「社会を変革する、エネルギーをシフトする、その現場で私たちと同じ、一人一人の生身の人間が矛盾と格闘しています。そこに必要なのは、これまでの持続不可能な文明からの転換です。価値がひっくり返る考え方です・・・」。

 この「ミチバチの・・」の映画、全国各地で上映されていた2012年春、私が代表を務めている脱原発社会をめざす市民団体「さよなら原発!日光の会」も日光中央公民館中ホールで自主上映している。関心は高く、午前・午後の2回、合わせて260人以上もの市民でにぎわった。観客の一人で、たまたま日光に帰省していた『週刊 金曜日』の記者は「えっ!日光で、このようなドキュメンタリー映画に足を運ぶ市民がこんなに大勢もいるなんて!」と、驚くほど。

 

 

映画では「本当に電気が自由化されていないのかい!」と言われていたが、この日本でもようやく「電力自由化」がやってくる。4月1日から電力の販売が全面的に自由化される。これまで大企業のような大口需要家だけではなく、東京電力など大手電力と契約するしかなかった家庭でも、電気を買う先を選ぶことができる。「電力自由化で大切なことは」という朝日新聞の「社説余摘」欄(2016年1月15日付、高橋万見子・経済社説担当)によると、ガス、石油、通信など100社以上が新規参入の手続きを済ませている。ガスや携帯とセットで契約すると割引になる、という文言も躍っている。

 

 大手紙でも「電力自由化 新プラン乱立 どれがお得?ネットで検討」(東京新聞1月16日付)、「電気料金プラン 比較サイト次々 割引・ポイントを一覧」(朝日新聞1月16日付)といった記事を掲載し始めた。しかし、2013年秋から2年半にわたり東京電力の「原発電気代不払い運動」を続けてきた私にとっては、「どれがお得?」も「割引・ポイント」について、特別に関心を持てない。東電との契約をやめるのは当然としても、いかに原発からの供給電力ではなく、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを中心とした電力会社を選ぶことができるか。つまり、どんな電源から電気を供給する新規電力会社なのか?そのことに眼を向けている。

 

 原発即時全廃を唱えている私の場合、「原発からの電力について、お金を払う必要性ない」と主張。というか、「あまりもばかばかしい」ということで、毎月、「電源開発促進税」110円と「福島原発維持費100円」(と、私が勝手に算定した)の計210円を電気代から差し引き、送電ストップ予告通知が届いたときに210円を改めて支払う、そういった対応をしてきた。実態は「不払い」というより「遅払い」といった対処か。210円を支払わないとしていたことで、最初の送電ストップ予告が来た際、東電の出先機関に出向き、「抗議文」を読み上げている。同じような対応をしていた栃木県内の人たちと「原発電気代不払いネットワーク」も立ち上げていた。その後も原発電気代は払わないということを毎月の振込用紙に書いてきた。そうした面倒なことも、3月いっぱいで終わりになる。

 

 

 「電力の自由化で大切なことは」に戻ると、高橋万見子・経済社説担当も、福島第一原発事故を契機にこう考えるようになったとつづる。「電気を使う側の意思と責任が目に見えて伝わる社会の必要性を考えるようになった。どんな電気を選ぶかで供給側の改革を促す。自由化はそのための道具だ」と。鎌仲監督の「社会を変革する、エネルギーをシフトする、価値がひっくり返る考え方」に比べ、いかにも控えめだ。抽象的で、一歩引いた記事の展開だ。それにしても、高橋万見子記事は、「行間」にだがー、電気会社を選ぶ際、福島第一原発事故の重大さを思い起こして欲しい、といったことを促してはいる。それにしても、「どんな電気を選ぶかで供給側の改革を促す、自由化はそのための道具だ」はー、どうもしっくりこない。

 

 なぜか。大事なポイントである各電力会社の収支構造やそれがもたらす影響度合いなどについて、一言も触れていない、それがあるからだろう。朝日新聞デジタル(2012年5月23日)によると、経産省が全国10電力会社の2010年度まで過去5年間の電力販売による収益を調べたところ、家庭向け電力は販売量の4割しかないのに、利益の7割を占めていることがわかった。東京電力では、家庭向けが利益の91%を占めていた。だから、私たち家庭の多くが東電をやめて、新電力と契約を結べば、当然、東電はそれこそ大打撃をこうむる。

 

 『東京に原発を!』(1981年)などの著者で知られるノンフィクション作家、広瀬隆の最新刊『東京が壊滅する日 フクシマと日本の運命』(2015年7月 ダイヤモンド社)では、こうした電力会社の収支構造に言及したうえで、家庭の6割以上が安全でクリーンな「新電力」との契約変更を望んでいるとする。そうしてこう指摘する。「新電力の多くは、ガス・通信・自動車業界など日本の一流企業でもある。したがって、電力会社は原発に見切りをつけない限り、膨大な数の顧客を新電力に奪われ、ますます経営が悪化し、自分の首を絞めて最後に窒息するだけである」。

そのうえで広瀬らしい広い視点を提供する。「もともとマンハッタン計画で膨大な収益を求めてスタートした原爆開発と、その落とし子の原子力産業であるから、収益シンジケートの地球規模の鎖の輪の一カ所が切れると、そっくり全部が同時に崩壊するのが経済原理だ」と指摘。その最大の鍵を握っているのが、シンジケートにばくだいな金を注いできた日本だという。そこで今回の「電力自由化」である。それについての広瀬の見方と大手紙の論調とのなんという落差であることか。私たちはその指摘から今回の「電力自由化」が問う重大さを知ることになる。

「『日本の電力自由化』がこの国際的なシンジケートの輪を断ち切れば、いかなる国の原子力協定も、原発輸出計画も、原水爆産業(軍需産業)も、いっせいに経済崩壊する可能性がある」。

広瀬隆がこう強調する電力自由化で、各家庭の「台所」から始まる「雪崩現象」が日本で起きれば、未来の世界が射程に入る魅力的な構図も描けるー。それは冒頭に挙げたドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』、その題名とそっくり重なる視点だ。(初出 月刊詩誌『詩と思想』コラム「詩人の眼」2016年4月号)

 

 

ソーシャルメディアの革命性とはー

 

 337、1290、9251、3385・・・・。この数字、何かと思うでしょうか。実は、私、黒川純のSMS(ソーシャルメディアサービス)の2016年2月中旬のそれぞれのサービスの「ともだち」であったり、「訪問者」であったり、あるいは「投稿」の数だ。337は、FACEBOOKで互いに認証しあっている「ともだち」が337人、TWITTERで私の投稿を受ける人・「フォロアー」が1290人、そのTWITTERに私が投稿した記事が9251本、BLOG「霧降文庫」の1月の月間訪問者の実数が3385人。という意味合いだ。

最初に始めたのは、BLOGで、2010年6月から。「3・11」の10ケ月前だ。「3・11」から3週間後、岩手県の災害支援に出掛けた際、「あと3人の手が欲しい」「軽トラをもう一台」といった呼び掛けがTWITTERで行われていた。その現場からトンボ返りした2011年4月にTWITTERを始め、さらに2年後、FACEBOOKも始めた。このSMSに加え、「脱原発団体」や「反戦争法」や「半貧困ネット」といった市民団体のML(メーリングリスト)が5つあり、このネット間を往復する日々が続いている。

もともとはアナログ派を自認していた。というか、メール時代からそれほど積極的に関わってもいなかった。だが、「3・11」以後、必要に迫られて始めたSMSで、デジタル派だと思われるようになってしまったようなのだ。本人の意思、思惑を超えて、今では、こうした市民団体の複数のSMS担当をおおせつかっているところだ。さて、その私にとって、今では毎日着替える衣服のような存在になっている。

 

 2011年のチェニジアのジャスミン革命から、またたく間に、エジプト、リビア、バーレンへ。「アラブの春」がこのソーシャルメディアの、SMSが大きな役割を担ったことは繰り返し報道され、記憶にも新しい。なぜ、チェニジアでFACEBOOKに端を発する革命が起きたのか?自身、TWITTERで61万6千人のフオロワーを持つ津田大介は『動員の革命―ソーシャルメディアは何を変えたのか』(2012年4月10日初版、中公新書ラクレ)で、実はアフリカで一番IT化が進んでいるのが、チュニジアだったと言っている。その実情を含めた指摘は私にとって初耳だった。 おっと~、問題はその革命の構造を伝えることではなく、この『動員の革命』の指摘、視点を私のSMS体験を重ねながら、提示したいことにある。「はじめに」で、彼、津田大介は以下のように結論を先取りしている。

 

 わたしたちを取り巻く情報環境は、ここ数年のソーシャルメディアの台頭によって大きく変わりました。その本質は「だれでも情報を発信できるようになった」という、陳腐なメディア論で言われがちなことではなく、『ソーシャルメディアがリアル(現実の空間・場所)を《拡張》したことで、かつてない勢いで人を『動員』できるようになった』というところにあるのです。ネットを通じて短期間に人が動員されるとどのような社会変革が起きるのかー。

 

 問題意識ははっきりしている。この延長で最も魅力的な見方は以下にある。

 

 ソーシャルメディアというのは、実は人が行動する際に、モチベーションを与えてくれるもの――言い換えると、背中を押してくれるメディアとして機能しているのです。「この人が言うことなら信頼できる」という行動するための判断材料がつまびらかにされるので、自分でもできることを協力しようと思える。それは東日本大震災でも大きな力を発揮しました(略)とにかく人を集めるのに長けたツールです。人を集めて行動させる。まさにデモに代表されるように、人が集まることで圧力となり、社会が変わります。そのソーシャルメディアの革命性が最大限発揮されたのが「アラブの春」でした。

 

 キイワードは「動員」。そのSMSによる典型的な事例が2011年秋、日光市のJR日光駅舎を会場に私などが実行委形式で企画した京都の詩人・河津聖恵さんの詩の講演会と朗読会がある。演題は「ひとりびとりの死者へ」へ、「ひとりびとりの生者」から。「3・11」以後、たまたまTWITTERで偶然知り合った河津さんと意気投合。日光で詩のイベントを行うことを決めた。このとき、私のBLOGでは「河津聖恵の世界」と題して24回にわたって、彼女の詩の世界を紹介。前売券1200円、当日券1500円のイベントを成功させようとした。結果はー。参加者70人ほど。「日光詩人クラブ」があるわけでもない、小さな地方都市で、こうしたイベントの「動員」がよく成立したと思う。

 

 最近で言えば、国会前や日比谷公園などである戦争法反対抗議や脱原発の集会・デモについて、仲間に情報連絡する際は、もっぱらFACEBOOKの「公開イベント招待」を使っている。これなどは「動員」はもちろんだが、それ以前に「情報の共有」、「知恵の交換」といった意味合いもある。〈世の中はこんなふうに訴えているよ、こんな形で行動を起こしているよ〉、そんなことを伝えようという思いも込めて。

 最近の例では、今春2月27日(土)、日光市市民活動支援センターを会場に開いた「小規模自家発電ワークショップ」がある。ソーラー発電システムを自分で組み立てようという自主講座だ。主催は「さよなら原発!日光の会」。FACEBOOKMLなどで呼び掛けたところ、定員25人のところ、希望者が次々と。30人を超えてしまったので、募集をストップしたほど。これなどは「動員」をかける一方、「情報の共有」と「知恵の交換」を狙った典型例だ。ただし、ソーシャルメディアに慣れている人ばかりではないので、応募の手段は、SMSが半数、電話や会議などで「参加するよ」といった以前の手段がた半数という実態だ。

 

 「動員」といえば、デモや集会もそうだが、やはり選挙だろう。たけなわの米大統領選では、民主党のバーニー・サンダース上院議員(74)の思わぬ躍進が大きく報道されてきた。東京新聞の「米大統領予備選(下) 証言者 サンダース支持の大学生」(2月24日付)では、これまで話題にしてきたSMSについて、こんな結びの記事になっている。

 「サンダースが若者に愛される理由の一つは、インターネットのソーシャルメディア候補だから。つまり、サンダースが掲げた『人種、差別、収入の平等』という、若者が一番関心のある政策とネットがうまくかみ合って広がっていると思うんだ。僕自身、サンダースの政策はネットで知った」

 ここでは「動員」を象徴に、「情報の共有」、「知恵の交換」といった原理が働いているー、そのことを示したリアルタイムの情況がある。(初出 月刊詩誌『詩と思想』コラム「詩人の眼」2016年5月号)

 

 

 すべては政治的な「力の源」からー                   

 

 ・・・こうして議会民主主義はついに葬り去られた。テロをともなってはいたが、共産党と一部の社会民主主義者の逮捕をべつにすれば、すべてはきわめて合法的におこなわれた。議会は憲法上の権威を渡し、かくして自殺した。もっとも、その死体は防腐処理をほどこして放置され、ときとして声明を伝える蛮声の反響版の役をつとめた。ほんとうの選挙はもうないと思われたから、議員はお手盛りで調達した。独裁の法的基礎をなすのは、この全権委任法だけであった・・・・。

 

 もうお分かりでしょう。ときは1933(昭和8)年3月27日、ドイツ第三帝国、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)のヒトラー政権が手にした全権委任法(正式名は「国民と国家の困難除去のための法律」)。「議会は自殺した」とあるが、同法の内容を知れば、確かにそうなるだろう。

 名著『第三帝国の興亡 1 アドルフ・ヒトラーの台頭』(ウィリアム・シャイラー)から示した。同書によると、わずか5条項のその法律は、国家予算の統制権、外国との条約の承認権、憲法修正の発議権を含む立法権を、向こう4年間、議会から取り上げて、内閣に渡すことになっていた。それだけではない、内閣が制定する法律は首相によって起草され、「憲法から逸脱することもある」と、規定していた。

 全権委任法の成立には憲法の修正が必要であり、それには議員の3分の2の承認が必要だった。共産党は81議席あったが、1カ月前の2月27日の国会議事堂炎上事件による大統領緊急令で「欠席」になるため、この3分の2の壁を超えることが可能だった。大統領緊急令「国家を危殆に瀕しめる共産主義者の暴力行為にたいする防衛措置」により、4000人ほどの共産主義者の役人と、多数の社会民主義者、自由主義者の指導者が逮捕された。結局、採決は賛成441対反対94(すべて社会民主党票)。5月2日、全国の労働組合本部は占拠され、組合基金は没収された。組合は解散させられ、幹部は逮捕された、さらに・・・・・。

 

 とまぁ、ナチスの全権委任法について、もう一度おさらいするのは、自民党が「緊急事態条項」を改憲の有力な項目にあげているためだ。安倍首相は「極めて重く大切な課題だ」と強調してきた。たまたま3月22日の朝日新聞がこの緊急事態条項を「特集」していた。「いちからわかる!緊急事態条項」と題して大きく展開している。それによると、自民党は12年に発表した「憲法改正草案」で、外部からの武力攻撃や内乱、大規模災害などで首相が緊急事態を宣言すれば、内閣の判断で法律と同じ効力を持つ緊急政令を制定したり、人権を制限したりできるようにするなど、内閣への権限集中を大幅に認めている。だが、記事では憲法に緊急事態条項がない日本では、すでに法律で政府に一定の権限を集中させる仕組みが用意されているとする。

 WEBRONZA(3月14日)の「緊急事態条項の実態は『内閣独裁権条項』である」(木村草太)を重ね合わせて示すと、侵略を受けた場合は、「武力攻撃事態法」、内乱には「警察官職務執行法」や自衛隊の治安出動条項、災害には「災害救助法」や「災害対策基本法」、さらに「国民保護法」・・・。

 

 「いちからわかる・・・・」記事では緊急事態条項に対する各党の考えを紹介したうえで、「そもそも憲法とは、立憲主義とは何かを考える材料を提示していきます」という結び。海外の事例、特にナチスの独裁という手痛い目に遭っているドイツの場合、その反省から緊急事態条項には「司法のチェックも入っている」ことを紹介するなど親切なつくりになっている。しかし、問題点は行間から読んで欲しい、といった流れに終わっており、どうにも物足りない。これに対し、視点がしっかりしているのが先に挙げたWEBRONZAの木村草太の論考だ。自民党草案を検討したうえで、こう指摘する。

 

「内閣は、曖昧かつ緩やかな条件・手続きの中で、緊急事態を宣言できる。そして、緊急事態宣言中、三権分立・地方自治・基本的人権の保障は制限され、というより、ほぼ停止され、内閣独裁という体制が出来上がる。これは、緊急事態条項というより、内閣独裁権条項だと呼んだ方が正しい」。

 そのうえで今の緊急事態に対処する法律そのものが「かなり強力な内容」だと指摘し、以下のように提言する。その判断はそれなりに説得力がある。

「過剰だという評価はあっても、これで不足という評価は聞かれない。さらに、これらの法律ですら足りないなら、不備を具体的に指摘して、まずは法改正を提案すべきだ。その上で必要な法案が現憲法に違反するということになって初めて、憲法改正を争点とすべきだろう。具体的な法令の精査なしに、漫然と『今のままではダメなのだ』という危機感をあおる改憲提案に説得力はない」。

 

 「ヒトラーは戦争の準備を『平和と安全の確保』と言いました。何かどこかで聞いたことがありませんか?そして、『平和を愛し、国のために戦って欲しい』と。自民党の政権公約には緊急事態条項の新設が含まれています。ナチスの『全権委任法とそっくり』だという指摘もあります」。

 

 緊急事態条項の危うさを,このようにズバリ指摘をしたのは、この1月、宇都宮で栃木県初の「サウンドデモ」を呼びかけた日光市の十代の若者、七田千沙さん(「ともだち」なので、私は「ちーちゃん」と呼んでいます)。3月19日、日光総合会館であった「日光市民連合」(戦争させない総がかり日光市民連合)の結成総会の一コマ。共同代表のひとりでもある私は、開会の冒頭であいさつ。ベトナム戦争もイラク戦争も「集団的自衛権」の名の下に進められ、終わってから参加した各国がその戦争に大義がなかったことに気づかされたことに触れ、「憲法違反の戦争法廃止を!」と強く呼び掛けた。

 

 「戦争法」施行から、「緊急事態条項」=「内閣独裁権条項」=「全権委任法」の成立へ。それをさせないために「大衆的規模の政治的抵抗」が今、さらに必要とされる。

 

 「アラブの春」に大きな影響を与えたジーン・シャープの(『独裁体制から民主主義へ 権力に対抗するための教科書』(ちくま学芸文庫)は、こう語りかける。

 「政治的な力の源はすべて、民衆側が政権を受け入れ、降伏し、従順することによっており、また社会の無数の人々や多機関の協力によって成り立っている。ところが、これらは保証されたものではないのだ」。(初出 月刊詩誌『詩と思想』コラム「詩人の眼」2016年6月号)

 

 

これこそが、「本丸」の危険性―。                               

 

「国家緊急権を憲法化するかどうかは、あやふやな議論でやってはいけないことなのです。国家緊急権というのは、権力の暴走を防ぐために憲法で縛っているところを、緊急のときだけ解いてしまおうとするものです。これは立憲主義の根幹に関わる、痛みを伴う議論のはずです」(樋口陽一)

 「東日本大震災を奇貨として国家緊急権の憲法化をねらうというのは、まやかしです。東日本大震災に関連しておかしいと思うのは、『想定外』の原発事故という人災があったのだから、それに対応する修正をしなくてはいけないのに、原発事故への対応策は特段、強化されていない。危機への対応を怠りつつ、そのくせ、国家緊急権を憲法化したいと、自民党は言う」(小林節)

 次々と魅力的な見方、判断が繰り出す。まさにスリリングな対談の見本そのものだ。護憲派の第一人者とされる樋口陽一・東大名誉教授と衆院憲法審査会で安保法制案は「憲法違反」と断じた憲法学者の一人で改憲派の重鎮とされる小林節・慶応大名誉教授。『「憲法改正」の真実』(集英社新書、2016年3月22日第一刷)。

 ここで問題になっているのは、自民党の憲法改正草案。小林教授によると、東日本大震災の翌年、2012年の第二次草案で「緊急事態」を扱う第9章(98条、99条)が新しく提案された。「緊急事態」の章は、日本国憲法はもちろん、2005年の自民党第一次草案にもなかったという。「緊急事態条項」とは、災害に限らず、内乱でもテロでも同じことで、とにかく事態を悪化させないためには、国家は迅速に動くしかない。通常の立法・行政のプロセスを無視し、憲法で保障されている「国民の権利」を踏みにじってでも動くしかない局面では、瞬時に決断して、国家の実力を総動員して、危険を押さえることが必要である。これが国家緊急権と呼ばれるものの内容だという。

 私たち市民も「それなら国家緊急権も憲法に加えることもやむをえないのではないか?」、そう思わされてしまう、それに対する疑念が冒頭の発言だ。というか大いなる批判、いや警告なのだ。小林教授は「あの自民党に改正草案そのままの緊急事態条項を与えたらどうなるか(略)つまり、これは日本国憲法を停止させ、独裁制度に移行する道を敷くのと同じなんですね」とも。

そのうえで、法を超えることをあらかじめ許す法、つまり権力担当者の使い勝手の良い法をつくってでも、危機的な状況でなんとか社会秩序を維持しよう、というのが緊急事態についての法制を求める人々の理由―。だとすると、その彼らが「一度、その法を超えることを許された法に頼ると、これは手放せなくなる。国家緊急権は劇薬かつ麻薬です」(樋口教授)。

  同書によると、「国家緊急権」を新設した自民党改正草案(第99条三項)では、緊急事態の宣言が発せられた場合には、国民は「国その他公の機関の指示に従わなければならない」とされる。現行の国民保護法では、国民への要請は協力を求めるという形でしか規定されていない。あえて、国民に協力の義務を課していない。ところが、改正草案では「従わなければならない」、憲法にそう国民の義務が書かれてしまう。

 すでに有事の際に民間船を借りあげる場合に船員を予備自衛官として活動させる計画が報道されている。全日本海員組合は当然にも反発し、「断固反対」の声明を出していた。ところが、海員組合の2016年1月29日の「声明」によると、防衛省は今年度の予算案に海上自衛隊の予備自衛官補として、21人を採用できるよう盛り込んだ。太平洋戦争で1万5518隻の民間船舶が撃沈され、6万609人もの船員が犠牲になったという。その体験がある海員組合は「民間人である船員を予備自衛官穂とすることに断固反対し、今後あらゆる活動を展開していくことを表明する」と声明している。だが、いくら全日本海員組合がこのように断固反対しても、改正草案が憲法となれば、義務化されてしまうのだ。

  憲法尊重義務が国民全部に課せられてしまうのは、この緊急事態条項についてだけではなく、憲法全体について課せられてしまう条項がある。日本国憲法第99条に対応している自民党改正草案第102条のことだ。

 二人は、その条文を示しながら、さらに批判を強める。

(日本国憲法)

 第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この法を尊重し擁護する義務を負ふ

(自民党日本国憲法改正草案)

 第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。

      2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

 日本国憲法は、まず国務大臣や国会議員らが憲法を「尊重し、擁護する義務」を負っているのだが、自民党改正草案では、最初に「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない」とされる。普通の市民が読んでも、「?」というものだ。

 この点について、両氏の指摘のポイントが「コト」の重大性を示している。

 「樋口陽一 何度でも繰り返しますが、国民が国家に注文をつけるものが憲法です。とすると、国民に向かって、『憲法に従え』と言うこの草案は、もはや近代憲法ではないのですね。緊急事態条項とその直後に設けられたこの条文を読めば、改正草案が何をねらっているのか、その基本姿勢がはっきり浮かびあがってくる」。

 「小林節 しかも、この緊急事態条項について、野党と国民の理解が得られやすい『お試し改憲』だと世間は思っているでしょう。しかし、それはちょっと違う。これこそが『本丸』なのではないでしょうか。先ほど説明したとおり、『永遠の緊急事態』を演出し、憲法を停止状態にすることができる」

 

 2016年4月19日(火)午後2時、栃木県日光市の中心部にあるスーパー「かましん」、その裏口と表口で、「戦争法廃止全国2000万人署名」を求める声が響いた。私が共同代表の一人である「日光市民連合」(戦争させない総がかり日光市民連合)による「19日行動」のひとつ。熊本地震の「救援募金」の呼び掛けも兼ね、80分間で2万1593円の浄財を得た。署名は脱原発署名に比べると、市民の反応はやや鈍く、59筆にとどまった。

 そこでハンドマイクを手にした私は、「『憲法改正』の真実」の樋口教授と小林節教授のやりとりから、買い物客にこう呼びかけた。「2015年夏、国会審議の模様を通して、権力が憲法を遵守しないという異様な状態があきらかになりました。憲法擁護義務がある権力が、安倍政権が、憲法違反を侵すというこの状況は、いわば、権力による『静かなクーデター』が起きているのです」  (初出 月刊詩誌『詩と思想』コラム「詩人の眼)2016年7月号)

 

 

悩みながらふんぞり返るのだ。                   

 

 その詩の素晴らしさは弾圧を受けながらも、鋭い観察眼と世の中を恐れぬ肝っ玉の表現にある。それだけではない。連帯感や孤立感の中にある抒情も含めて心に深く浸透してくる言葉を織り上げている。今の時代は文学、それも詩が読まれず、詩のような言葉が遠ざけられていると、よく言われるが、彼の詩を知れば、もっと詩を読みたい、詩を知りたい、詩的な世界を味わいたいと思うのではないかー。

 

 以上のような指摘で、その彼とはだれか?詩人という詩人は「あっ、彼だな!」と思い浮かべると思う。その賞を知らない詩人はいないだろうから。北海道が生んだ戦前の詩人、39歳で生涯を閉じた小熊秀雄、その人だ。その彼の詩の特徴を示した冒頭の文章は、私・黒川純がかつて書いたもの。私が事務局を務めている同人誌『序説』(1974年創刊)の第13号で、小熊秀雄について書いた小さなエッセイ「戦争に非ず事変と称す」から。発刊は2006年4月で、もう10年も前になる。

 

 と、急に小熊秀雄のことを思い起こしたのは、政権と市民がにらみあいながら、「火花」を散らせしている今の社会・政治の情況もさることながら、たまたま5月19日、顔見知りの郵便屋さんが配達してくれた封筒の中身が「小熊秀雄協会 入会のご案内」だったため。差出人は旧知のその小熊秀雄賞詩人でFacebookでも「ともだち」になっている佐相憲一さん。その紹介は簡潔で要領を得た内容だ。

 「奔放なアバンギャルド詩精神で時代と人間への鋭い洞察力をみせた詩人・小熊秀雄(1901~1940)、それを受け、硬軟自在に言葉を紡いだ詩人・作家・英米文学翻訳家の木島始(1928~2004)、文学運動と良書出版の功績に加え自らのルーツを表現した玉井五一(1926~2015)。類まれな個性で文学芸術をリードしたこの3名の作品世界と仕事を現代に伝え偲ぶ当会に、あなたも入会されませんか?」。

 小熊秀雄協会については、名前は知っていても、どんな経緯で設立されていたのか、あいにく私は、この「入会案内」を手にするまで知らないでいた。それによると、小熊秀雄協会は、彼の各種作品の魅力を現代に伝え、その生涯を偲ぶために、1982年より毎年開かれてきた長長忌(じゃんじゃんき)を主行事として、木島始と玉井五一によって設立された。長長忌は池袋モンパルナスの会に実働を頼る運営で昨年まで盛会を続けているが、かんじんの小熊秀雄協会は木島、玉井両氏が他界し、宙ぶらりんとなっているという。そこで今回、5人の世話人で小熊秀雄協会の再建・継承を宣言することになったのだという。代表は、詩人・評論家である佐相憲一さんとなっていた。年会費は「庶民的な」1000円だというから、私もぜひ参加したいと思う。

 

 と、考えるまでもなく、あっさりと小熊秀雄協会に参加しようと思わせる小熊秀雄の詩とはどんなものなのか?、詩人以外の読者は不思議がることだろう。そこでひとつの典型的といってよい、と私が勝手に思ってきた小熊の詩「しゃべくり捲れ」の、そのほんの一部を挙げてみたい。と、書きながら、『小熊秀雄 人と作品』(岡田雅勝 清水書院 1991年1月)をチェックしていたら、この「しゃべくり捲れ」は、「小熊の詩作品を代表する」とあった。

 

私は、いま幸福なのだ

舌が廻るということが!

沈黙が卑屈の一種であるということを

私は、よっく知っているし、

沈黙が、何の意見を

表明したことにも

ならない事を知っているからー。

若い詩人よ、君もしゃべくり捲れ、

我々は、だまっているものを

どんどん黙殺して行進していい、

・・・・・

月は、口をもたないから

光りをもって君の眼に語っている、

ところで詩人は何をもって語るべきか?

4人の女は、優に一人の男を

だまりこませる程に

仲間の力をもって、しゃべくり捲るものだ、

プロレタリア詩人よ、

我々は大いに、しゃべったらよい、

仲間の結束をもって、

敵を沈黙させるほどに

壮烈にー。

 

 この詩の中に「プロレタリア詩人よ」とあるが、『小熊秀雄 人と作品』などによると、小熊秀雄がプロレタリア詩人会に入会したのは、30歳の1931(昭和6)年だった。「プロレタリア文学運動に入り、魚が水を得たように元気に活動的になった」(小熊の妻・つね子「小熊秀雄との歳月」)。翌年の1932(昭和7)年、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)と発展的に解消し、小熊も参加した。その年、ナルプも構成団体のひとつとする日本プロレタリア文化連盟(コップ)が弾圧された。小熊も検挙され、29日間の拘留を受けた。さらに1933(昭和8)年、小林多喜二が虐殺されたという知らせで仲間のところに駆け付けたところで検挙され、再び29日間の拘留を受けた。

日本プロレタリア作家同盟は1934(昭和9)年に解体宣言を出したが、小熊はその翌年の1935(昭和10)年に第一詩集『小熊秀雄詩集』と長編叙事詩集『飛ぶ橇(そり)』を刊行している。小熊秀雄はプロレタリア文化運動が終わった時期から登場したことになる。それだけに「しゃべくり捲れ」が弾圧で衰退していた当時のプロレタリア詩壇に与えた影響は大きかったのだろう。「ヴィトゲンシュタイン」(清水書院)などの著書もある岡田雅勝は、彼の「最後のふんぞり返り」だと解説しているが、これは「なるほどー」と思わされた。

 

 「もし詩人がさまざまな圧力や束縛によって歌うことを止めたとしたら、それは詩人として生きていないのだ。〈しゃべくり捲れ〉という小熊の叫びは、自分が詩人としての路を選んだ以上は、もうその路を歩むことしか残されておらず、歌うことで自分の路が絶たれるとすれば、もう自分は生きる方途がないという最後のふんぞり返りであった。それは歌うことを止めた詩人に対する非難であり、弾圧に屈している詩人たちに勇気をもって立ち上がることに詩人の存在理由があるという促しでもあった」

と、まぁ、今から80年前の小熊秀雄の「詩想」をなぞっていたら、この解説がいちいち胸にぐっさり刺さってきた。「東日本大震災・福島第一原発事故」が起きたその春からtwitterでそれこそ機関銃のように140字詩を「しゃべくり捲って」いた。1カ月で何十という詩をネットや同人誌で発表していたほど。その私がこのところ、「多忙」にかまけて、詩を考える時間とはほとんど縁がない状況を自ら黙認していた。

 

「小熊秀雄協会」への入会の案内が飛び込んできたのは、そんなとき。これも何かの縁だ。小熊は『小熊秀雄詩集』(日本図書センター 2006年2月)の「序」でこう問いかけている。「そしてこの一見間抜けな日本の憂愁時代に、いかに真理の透徹性と純潔性を貫かせたらよいか、私は今後共そのことに就いて民衆とともに悩むであろう」。私も悩みながら、自分で自分にふんぞり返って、「しゃべくり捲って」みることにしよう。(初出 2016年5月23日 BLOG「霧降文庫」) ブログランキング

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2016年6月23日 (木)

時代の空気、時代の精神とー  「序説第23号」編集後記

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序説第23号(2016年8月1日発行)-。発行日の1カ月前だが、同人誌「序説」はこんな雰囲気だよ~と、伝えるために。「編集後記」をアップ。制作作業はこれからなのだが(笑い)。写真は「序説第18号」の表紙です。

 編集後記

 ▼1974年創刊の同人誌『序説』第23号をお届けします。というか、休刊していた『序説』が再開され、「第二期序説」として、1年に一度発刊しているその冊子の11年目を発刊しますーといったほうが、より正確かもしれない。1年に一回とはいえ、今回の執筆陣は、いずれも常連でもあり、テーマも内容も筆使いも、ずいぶんと手慣れた、いわゆる「力作」がそろっています(いや、ほんとうにー)。プロの作家たちではない、素人の同人誌集団が、時代の空気、時代の精神とふだんどう向き合っているのか?生活と並走しながら、どう言葉を選び取っているのか?。それが直接的に、間接的に示されている、そう思っています▼特に昨今は、暴走する政治が目に余るため、日常生活でその「余波」をかぶりやすい状況にあります。この編集後記の最後の、最後の締め切り日でも事務局の黒川は、その状況にどっぷりと。6月19日(日)に、「平和憲法を守り 戦争法廃止を求める栃木県民パレード」(宇都宮城址公園)を控え、野党統一候補のカンパのための道具づくり、日光から宇都宮へ向かう参加者の貸し切バスの確認、私が共同代表を務めている「日光市民連合」のぼり旗とポールの用意、当日の「コール」についての問い合わせ、迫る参院選に向けたポスティング要員との連絡、ネット選挙と公選法についての連絡応答、「法定はがき」名簿印刷のチェック・・・それらを終えてから、この編集後記にとりかかっています▼ほんとうは、初夏の暑さの中、今冬の薪ストーブの「薪づくり」にいそしまなければならないのです。薪の確保はこの霧降高原の「生命線」なので、このほうを優先させたいところ。私の基本姿勢は「晴耕雨読」なのですから(笑い~)。ところが、私から言わせると、とんでもない発想の政府のとんでもない手法を阻むため、やむなく、こんな政治の風景の中に飛び込んでいるのが実状です。それがどんな危うい時代を示そうとしているのか、今回の『序説第23号』を、素直にお読みいただければ、うなずけることでしょう▼ところで、今号づくりを迎えるにあたって、大きな「発見」?大きな勘違いをしていたことがわかりました。この「黒川純」の名前です。創刊号から、このペンネームを使っているので、すでに40数年。そのうち、「純」は、「ジュン」から。そのジュンはこれまでずっと『さらばモスクワ愚連隊』(五木寛之)の登場人物だと思い込んでいたのです。実際は『青年は荒野をめざす』(同)の主人公「ぼくは北淳一郎、面倒だからジュンでいい」の「ジュン=純」だったのですー▼いつから、そんな思い込みをしていたのか?不思議です。が、心情としては、前向きな「青年は荒野をめざす」より、後ろ向きの(実際、エンディングに入ると暗い内容になってしまう)「さらばモスクワ愚連隊」の主人公のほうが似合うと思っていたのかもしれない。若いときから中年にさしかるまで「明るい破滅願望型」を自認していたせいもあるので。それでずっと、ジュン間違いをしたのか?と▼と、すると、今回までの思い違いに「ハッと」気づかされたのは、「夕日の未来志向型」に転換せよ、というお天道様の助言、「天の声」なのかもしれない。と、勝手に我田引水型の発想にしてしまおう~。そのくらい能天気の姿勢でもいいから、今や、老舗?となってきた社会派同人誌『序説』を継続しなさい、続けていきなさいと。そう重ね合わせる、そう読み違いをすることができそうです(最後は強引に「笑い」)(黒川純)


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2016年2月 7日 (日)

「序説」第23号に向けて  同人との連絡作業を急げ~。

 宇都宮できょうあった福島みずほさんの講演会を断念し、もう1カ月以上も延期していた同人誌『序説』第23号の同人連絡、それをを伝える作業中ー(私が事務局なので)。

 
 今年は総会を群馬県で7月31日に開き、8月1日に発行する。なので第一次締め切りは6月10日、最終締め切りは6月17日となるか。となると、あともう4カ月となる。
 

 同人(東京、群馬、茨城、福島、栃木に暮らす同人10人、群馬と栃木の準同人3人)に早く連絡しないといけない。1年に一回発行しているのだが、一年が早いこと、早いこと。来年の2017年は第24号。今から42年前!、

                            Photo
 全共闘運動が坂道を転げ落ちていった1974(昭和49)年創刊の第一次「序説」が12号で休刊。その後、四半世紀、25年間の休刊を経て、再開。その第二次「序説」も12年間に12号。ちょうど二倍になるのを記念し、日光霧降高原で総会(という名前の大懇親会)をやることに決めているのです。

2015年12月16日 (水)

原発安全神話と皇軍不敗神話 岸田秀『絞り出し ものぐさ精神分析』

  Img_5555_2 いやはや原発絶対安全神話と皇軍不敗神話が「同類」だという指摘があるとは知りませんでした。「不敗の皇軍が敗北する構造は、絶対安全の原発が爆発する構造とまったく同じである」と。
 
 ネットを検索していたら、たまたまフロイト精神分析学者で、私の好きな筆者のひとり、岸田秀さん(1933年生まれ 元和光大教授)が「最新刊」を出していることを知って、すぐに注文へ。人類は本能が壊れた動物であり、すべての行動は自我を安定させるために、幻想・物語に従って行動しているー。御存じ「唯幻論」の大御所。著者44歳のとき、1977年(もう40年弱前なのですねー)に発刊した『ものぐさ精神分析』が爆発的な支持を受けた(岸田さんによると、その逆の批判・非難こうごうも)。
 
 私もこの『ものぐさ精神分析』に夢中になり、自分の行動を<正当化>していた時代もあるので。2008年の『「哀しみ」という感情』以来、<その後がないね?>。と思っていたら、最近、『絞り出し 精神分析』を発刊していたのでした。「今度こそ本当に最後の雑文集」とこの本、「唯幻論始末記」に「唯幻論批判に対す反批判」や「唯幻論の背景」など、いかにも「最後の雑文集」にふさわしい論が立ち並んでいる。
 
 その中に、この精神分析雑文集の一連のエッセイに「原発と皇軍」、あるいは「歴史のなかの原子力発電」も。いずれも10数ページのエッセイだが、さすが「唯幻論」の立場からの斬り方の視点は衰えていない。原発を廃止するかどうかの判断をめぐる岸田さんの方法は、私からすると、いただけない。しかし、これまでの原発安全神話について、以下のような展開をするところは、「なるほど~」と、思わされたのでありました。
 
鋭い視点なので、紹介へ。
 
(以下は『絞り出し ものぐさ精神分析』から)
  この原発絶対安全神話は、かつての日本軍における皇軍不敗の神話、死を恐れぬ忠勇無双の日本兵は絶対に強いという神話と同類である。軍の上層部には、この神話を本気で信じている者がいたらしい。とにかく何らかの神秘的理由で、皇軍は不敗なのだと思っているから、敗北する可能性を検討して、それを防ぐ具体的対策を立てるなんて面倒で不必要なことはしないし、そもそも敗北する可能性を考えることが敗北を招くという言霊信仰のようなものもあるから、作戦計画は粗雑になり、必然的に敗北することになる・・・・不敗の皇軍が敗北する構造は、絶対安全の原発が爆発する構造とまったく同じである(「原発と皇軍」 岸田秀『同書』18頁 2014年5月30日第一刷発行 青土社)  

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(折々の<状況>その39)

2015年11月30日 (月)

ジュッテン・ニイイチが三島由紀夫を追いつめた(その1) 折々の<状況>

Img_5415 ジュッテン・ニイイチが三島由紀夫を追いつめた(その1)

 

 10・21 私たちにとっては、「ジュッテン・ニイイチ」そのことがよくうなずける展開だ。「なるほど、そういうことだったのか!」。この『三島由紀夫 作品に隠された自決への道』(柴田勝二 祥伝社新書 2012年11月10日第一刷)の展開や終章である「第八章 <神>となるための決起」を読み進めると、確かに。とはいえ、当日、1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地総監室のバルコニーからまかれたアジびら、檄文を読めば、そのことは一目瞭然だったのだね。

 国際反戦デーはウイキペディアによると、始まりは1966年。当時の総評が「ベトナム反戦スト」を行い、それを世界に呼び掛けたことによるという。68年は新左翼による新宿騒乱となり、翌1969年は新宿を中心に各地で機動隊と衝突、逮捕者1594人を数えたという。檄文で三島はこの国際反戦デーに何が起きたかと問う。「このデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終わった。その状況を新宿で見て、私は、『これで憲法は変わらない』痛感した」とつづる。機動隊に新左翼各派が封じ込められたことを以下のように残念がる。少し長いが、三島らの行動の視点がよくわかるところだ。この1969年10月21日の国際反戦デーは「自衛隊にとって悲劇の日」だというのだ。

 

 その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。

 

 「三島由紀夫 作品に隠れた・・・」によると、三島と知己があり、三島の私兵組織『盾の会』の訓練も受け持ったことがある山本勝(きよかつ)の『自衛隊「影の部隊」 ――三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社 2001年)に、国際反戦デーにこんな行動計画があったという。つまり、三島らは、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出動が必至になったとき、まず、三島と「盾の会」が身を挺してデモ隊を排除し、次いで自衛隊主力が出動し、戒厳令的状態下で首都の治安を回復することを目指すが、万一、デモ隊が皇居に侵入した場合には、「盾の会」の会員がそれを「断固阻止」するという展開を描いていた。その「万一」の場合には、三島はデモ隊を殺傷した責任をとって切腹するはずであり、現に三島は隊員を赤坂に集結させていたという。

 つまり、「現実の事態は、そのはるか手前で収束されてしまったのであり、これによって、憲法改正の可能性も、『盾の会』の存在意義も当面消失したという認識を、三島は抱くことになった」。


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(続く)

 

(折々の<状況>その38 2015・11・30)

2015年9月 1日 (火)

エッセイ 京と (2)(高橋一男) 「序説」第22号、9月1日発刊

社会派同人誌「序説」第22号、本日の9月1日、発行されました。8月29日~30日に那珂川町で同人発刊記念会(呑み会?)を挙行。深夜まで「精神のキャッチボール」を8人で(同人は10人だが、自治会役員の仕事などで2人が欠席)。小詩編「夜ノ森」発(2015年茨木新聞新春詩壇最優秀賞作品)やエッセイなど多彩に。「霧降文庫」にどっさりありますー(編集委員会事務局は日光霧降高原なので)。Img_2804_2
最初は、京と (2)(高橋一男)から紹介します。

京と (2)        高橋一男+ゴン太(耳の湿疹のため今回は休み)

 

狭い階段を下りて地下のお店に行くと満員だったので一階のお店に行った。混雑はしていたが席を譲ってくれた人がいて、しばらくすると水とガラスの灰皿と新しいマッチ箱を店員の女性が持ってきた。

マッチ箱にはCyTwomlyに似た絵が描かれていた。

ぼくはホットコーヒーをお願いした。(先日行ったときには、地下のお店もすいていてコーヒーの他にドーナツとトーストを食べたが最高に旨かった。それから緘黙のマスターの印象もよかった)お店はレンガの内壁で、チョットした湿度とタバコの煙とコーヒーの香りを感じる薄暗い空間で、学生の頃よく行った喫茶店の風景であった。

前に座っている老舗の御主人という感じの老人は先ほど席を譲ってくれた人で、黒いカシミヤのロングのコートにステッキがよく似合い、タバコの吸い方もお洒落であった。

 

 

去年(2014年)の暮れ行った「六曜(ろくよう)社」という三条河原町交差点近くにあるお店で「そこにはまだ昭和の空間があって」、クリシェ的には「ぼくたちの思いっきり青春だった時と同じ空間」があった。

 

1969年(昭和44年)4月15日(火曜日)小雨が降る日だった。

高野悦子はこの店(ろくよう)でオンザロックとジンライムを飲みアスパラを食べた。

彼女の著書「二十歳の原点」には、その日のことが記されている。

「ろくよう」には、もう恥ずかしくていけない、私のすべてをひっかけちゃったもの。

見ず知らずの隣りの学生風な男に、「自然をどう思いますか、青い空、広い海」なんて話かけちゃたんだから。全力投球なんてかっこいいこといってるけど醜い。

肉体的にはたしかに存在しているが一体何なのかよくわからない。私は地道に追求していかなくてはならないと思っている。後ろをふりかえるな。そこの暗闇には汚物が臭気をはなっているだけだ。「ろくよう」に独りで呑みだしてから私はよく笑った。そして泣いた。泣  き笑いのふしぎな感情ですごした。 (二十歳の原点 117頁)

 

 

「ろくよう」でトーストを食べ、吉郎君(石原吉郎)の詩をペラペラ読んで、バイトの時間になったので自転車でホテルへいきました。 (二十歳の原点 167頁)

 

 

「風もない空間にある塵のような私の存在」 (二十歳の原点 168頁)

 

 

日も暮れて川原町通を四条通に向かって歩く、小雨が降っていて年の暮れなので街は混雑していた。数年前からかある一定の距離を歩くと足が、時には腰が痛くなって自分の意志通りに足が動いてくれない時がある、例外にもれず今日も京都で足が痛みだしたので、持っていたビニール傘を杖替わりにした。四条川原町交差点まで行くと左折をして四条大橋まで歩いて鴨川に面していてチョット色っぽくて年老いた西洋建築(ヴォーリズ建築事務所 

1926年竣工)の中華の店に行った。お米がパラパラのチャーハンが旨かった。窓越しに見える鴨川、そしてその先に見える歌舞伎座と祇園の街と東山。この角度から見る鴨川は久しぶりであった。川上にまだのホテルフジタがあった頃、窓から見た年の暮れの鴨川の景色であった。ホテルフジタあった場所には高級ホテルが建っている。街が動いている何かに向かって動いている、京都も例外ではなかった。

ぼくが京都へ行くようになったのは、1980年頃からだったと思う。特に古い街並みや建築が好き、興味があったからではなくて、自分で仕事を始めた(独立)ことで、時間が自由になったことと、伏見稲荷大社での不思議な空間体験と当時夢中になっていた高松伸(建築家)の建築が京都にあったからだと思う。ポストモダン最盛期の時代で、今から思うと、ぼくが15歳の時から教えてもらった建築は機能性、合理性が中心のモダニズムの建築で、それこそが正義の建築だと信じていた。それが独立する頃には大きく変わって過去の時間を建築に塗りこむような建築表現(建築の視覚性)が現れて、何か建築が自由になったようで、建築の大きな可能性みたいなものを、勝手に感じていた。吉田保夫、安藤忠雄そして高松伸、とにかくカッコイイ(cool)建築を設計するのが関西の建築家達であった。(吉田保夫の建築は実際には体験していない)

 

 

1969年(昭和44年)3月16日(日曜日)

きのう、お目ざめの時、空は青空だった。春に近いことを思わせる。ブルーの空と純白の雲、あの雲の中を鳥のようにフワフワ飛んでみたらなんて夢想にふける。「松尾」で食事した。お金もないのに、計二七〇円。「松尾」で知床半島の写真をみて海と原始的な自然にひかれる。それから網走の流氷。青年よ。野に街に出よう!(二十歳の原点、84頁より)

 

 

(今年の六月末の晴れた日)自転車に乗って「松尾」に向かう、烏丸御池近くの宿泊先から東洞院通を四条通りまで行って右折する。このあたりは京都というよりも日本屈指のクオリティーの高いオフィス街である。四条通りを西に向か走る。移り変わる街のシークエンスは作業服姿の人たちが多く見受けられる工場のエリア、高層のマンションが建っていて数多くの人達が住んでいるエリア、それから故郷の国道で前橋から桐生までの間で目にする子供頃から見慣れている気取ってない風景のエリア、約7キロメートルの距離を自転車に乗って途中で感じたことは、ぼくの京都に対するイメージとは違った京都の風景が展開されたことであった。しばらく行くと桂川に架かる松尾橋に着いた。早く着いたので、さっそく松尾大社参道の近くの「松尾」(松尾蕎麦)に行ってみると店主らしき人がお店の前を掃除していた「すいません、お店何時からですか」と聞いてみると「11時から」との返事であった。時計を見るとまだ10時半になるところだったので、近くの松尾大社に行ってみることにした。松尾大社には重森三玲最晩年の設計として作庭(昭和50年)されている庭があることは知っていた。(昭和50年作庭の庭だから高野悦子はこの庭のことは知らないはずだ)同じ重森の作庭の庭でも、平石と苔が市松模様になっているミニマルな東福寺の庭とはちがって、松尾大社の庭は美術的にいうと曲線、自然石(緑泥片岩)を大胆に使った表現主義ぽい庭だった。

 

 

時間も過ぎて、いい時間になったので再度「松尾蕎麦」に行ったがお客さんはいなかった。店内は落ち着いた昔ながらのお蕎麦屋さんで「知床半島の写真」も「網走の流氷の写真」もなかった。46年の間にはお店の改修もあったろう。しかし、天井は当時のままかもしれない、今見ている天井は彼女も見ていた天井だと思うと嬉しくなった。なにか遠い記憶の中にある足利のお蕎麦屋さんにいるような変な懐かしさと同じような時間の重さを感じた。(改修工事では壁の変更は一般的であるが天井には手をつけないことも多い)店員の女性が水を持って来てくれたので、山菜そばのセットをお願いした。関東の人には考えられないくらい、透明で味のうすい汁の山菜そばではあったが何年も塩分控えめの生活をしている、ぼくには上品な味でたいへん旨かった。

 

 

松尾公園に散歩にいった

タバコをもっていった。

吸いたいと思ったし 外で吸うことも恐れた

吸わなかった  (二十歳の原点 41頁より)

 

 

「松尾公園」へ行こうと調べたがよく分からなかったので、松尾橋を渡った左側にあったコンビニで聞いてみるとたまたま地元の方でいて、親切に教えてくれた。「松尾公園」とは松尾橋から渡月橋までの桂川に沿った嵐山側の河川敷の緑地帯ことで、「嵐山東公園」だということが分かった。ぼくはタバコを吸った。まわりには誰もいなかった。46年前、彼女もこの公園で同じようにタバコを吸い、青春を苦悩し、美しい夜空の星を見ながら故郷の西那須野のことを思ったこともあっただろう。同じ街の川でも、桂川と鴨川では表情というか、風景というか、あきらかに何かが違うような気がした。今、この場所にある住宅、お店、集合住宅、事務所、などの建物の多くはこの46年の間に建て替えられていた。46年という時間が意味するもの、そして認識させてくれるもののすべてが街の風景となって、ぼくの目に映った。

 

自由のしるしよ 煙草よ 眼鏡よ  (二十歳の原点 46頁)

 

屋上から町並みを眺めると四方を山に囲まれた箱庭のような京都の町がある。せせこましく立ち並んだ小さな家々、ばかばかしいほど密集している小さな存在。 (二十歳の原点  206頁)

 

屋上から眺めるマッチ箱のような家々に生活している人々なのです。 (二十歳の原点 207頁)

 

その日は、夜のアスファルト道路をスカボローフェアを口ずさみながら歩いて下宿に帰ったのを覚えている。 (二十歳の原点 216頁) (1969年6月21日) 

 

 

個々の建築には他者に対して影響を与える磁場(引力)と建築の質である磁束密度があると自分勝手に考えている。

 

左京区の一乗寺駅の近くにある「恵文社」(恵文社一条寺店)という本屋さんへ「街を変える小さな店」という本を買うために行った。本はどこでも買えるが著者(堀部篤史)がこの本屋さんの店長であったことと、本のタイトルからこの本屋さんがどんな場所にあって、どんな人たちがいて、どんな磁場、磁束密度を出しているのか感じてみたかったからである。以前この本屋さんの道路を挟んで反対側には京一会館という映画館があって、開館時間前には若者の列できたらしい。今でも街には当時の余韻(昭和の風景)があって、「こころ旅」の火野正平のようなファッションを売るお店、小さなパン屋さん、小さな食堂など個人のお店が目立ち、無理のない普通さが街に集まる多くの若者たちに受け入れられている。そして帰りには、自転車に乗って寺町通沿いで御所の南にある三月書房で「70年代のノート(田家秀樹 著)」を買った。

 

本屋さんで思い出すのは、子供の頃お年玉を貰うと市内循環のバスに乗って田舎から都会にある「換乎堂」へ行った。換乎堂は群馬県庁や前橋市役所に近く、国道50号線に面していた。高校生になると学校帰りに「換乎堂」の2階にあったギャラリーで初めて見るアバンギャルドの美術の世界に興奮し、「換乎堂」の知的空間を体験した。

換乎堂は白井晟一(建築家、京都生まれ、1905-1983)の設計で1954年に竣工していて白井晟一著「無窓」の中で、「換乎堂」にふれている。「文人社長たる施主はいかなる夢をもちどのような造形を建築家に期待されたのであろう」「施主はだまって設計者にサイコロをへらせた」そして「半年の間の知遇への追懐が心たのしく残っている」という施主に対するリスペクトの文章で終わっていた。

恵文社一乗寺店も換乎堂(白井晟一の設計した換乎堂は現存せず)も本屋さんという共通点だけでなく、存在そのものが持つ、街に対しての同じような磁場(文化)を強く感じた。

 

 

diatxt number 09「特集」<京都イメージ>をめぐって 京都芸術センター  「住友文彦」氏の連載「情報と美術」が印象に残った。カッセル・ドクメンタ11のことから始まり20世記の美術(美術館コレクション)が大まかな分類で巨匠を見つけだすことができるような展示方法がとられている。ことや20世紀の美術が外界や概念の再開―表象という表現モデルを破棄して、見えるもの/見えないもの、すなわち、経験的なもの/超越的なものという2項対立の無効化であったと考えたこと。それから、実験工房の結成(1951年)メンバーのひとり秋山邦晴がアーネスト・サトウの助手をしていたこと、実験工房のメンバーのほとんどが美術や音楽のアカデミックな教育を受けず、団体にも属さないでCIE(民間情報教育局)図書館(開架式)で知の情報を得て同時代の日本美術にはない作品を構想したことなどに深い興味を持った。

カッセル・ダクメンタの国際展は実際に見たことはないが、1992年のカッセル・ドクメンタ9ディレクターのヤン・フートのことは知っていた。1986年ベルギーのゲントで彼が企画したジャンブル・ダミ(友人の部屋)展、50ケ所の住宅を会場として、51人のアーティストが作品を制作した国際展は住宅を外部に開き、限られた期間ではあるが、住宅が公共的な空間となり、個々の住宅の磁場がお互いに繋がり面となって大きな平面(床面積)を持った美術館になった。街と住宅の関係性(可能性)に興味を持った。アーネスト・サトウ(1927-1990)は父親が群馬県生まれで、京都「俵屋」の当代主人、佐藤年さんの夫で「新即物主義」の系譜を引く写真家でもあり、彼の作品「リバーサイドパーク、雪の朝」は絵のようなアメリカの風景の静けさそのものが表現されていた。

 

 

参考資料

二十歳の原点 高野悦子著 (株)新潮社

diatxt.09 「特集」<京都イメージ>をめぐって 京都芸術センター (株)星雲社

街を変える小さな店 堀部篤史著 (株)京阪神エルマガジン社

美術の解剖学講座  森村泰昌著  (株)平凡社

俵屋の不思議  村松友視(ともみ)著  (株)世界文化社

 

編集後記

 

同人の郡司君と話していると、栃木弁のやさしい言葉の響きから、いつも高野悦子を思い出してしまう。というよりも、高野悦子と話しているような錯覚に陥ってしまうのです。栃木弁を話す漫才のU字工事とはちょっと違って、もっと色っぽくて知的なのです。郡司君は学生の時、彼の下宿で、ヨーゼフ・ゲッペルスの話をしてくれました。郡司君は栃木ネイティブ(今までの生活の場が栃木県内だから)なのです。高野悦子も京都の立命館大学へ入学するまでは郡司君のようにやさしくて知的な話し方をしていたのでしょう。

 

高橋一男

2015年8月28日 (金)

「序説第22号」総会は29日  総会資料は12枚にも

 Img_2804_3 社会派同人誌「序説 第22号」総会資料、ようやくできあがる。明日29日(土)、栃木県那珂川町であるのです。仲間うちなので、口頭でもかまわないのだが、いちおう「記録」として、残しておくために。

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整理していたら、1年前に陸前高田市の詩人から「創刊40周年祝金5000円」の寄贈を受けていたことを思い出しました。その5000円に昨日、「対面」したのです~。「あっ!、そういえば」と。1年間、封をしていたのですね。ふ~ん、「なかなか、余裕だね」。と、独り言を口にしていたのです(笑い)。

 

さらにきょう29日に4枚を加え、総会資料は計12枚も。同人にいろいろと伝えたいことがあるのですねー

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