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戦争法

2024年8月26日 (月)

ナチスムに至る政治的暴力に視点の新書   「ナチズム前夜 ワイマール共和国と政治的暴力」

これは「遠い昔」や「遠い場所」の話ではないー。オビにそうあるが、確かに。ナチスが、ヒトラーが、「全権委任法」を成立させ、ヒトラーの独裁を法的にも正当化させ、確立させた最大のポイントが、1933年3月23日のことだ。社会民主党の94名が反対したが、3分の2以上の441名が賛成した。

                                                           

この新書「ナチズム前夜 ワイマール共和国と政治的暴力」(原田昌博、集英社新書)。8月14日に発刊されたばかりだ。かつて、林健太郎「ワイマール共和国  ヒトラーを出現させたもの」(中公新書)を興味深く手にしたが、新書でワイマール共和国の崩壊に至る情景を全面から描くのは久しぶりかも。                                                                

 

それもナチスなど当時のドイツがいかに政党をバックに拳銃などの凶器による殺人もいとわない暴力的な世界にあったか、それも白昼の街頭や集会、デモ、酒場で。警察事件報告や著名人日記などから、これでもかというぐらい次々と再現させている。それも政治的、日常的、国家的とレベルを腑分けしながら。そのところに大きな特色があり、ため息をつきながらだか、一気読みさせられた。                                                          

 

392ページと新書としては大著だが、内容が豊かでそう思わせない。いやいや、エピソードいっぱいの労作だと思わされた。ベストセラーになることを願う。まゆをひそめざるをえない現代の政治的動向と重ね合わせながら、そこにあった悲劇の歴史を現場に立ち会うように知ることができるのではないか。 Photo_20240827150501

2024年8月18日 (日)

群馬県太田空襲、地上からの映像を発見    「B29」の編隊が1945年2月10日に来襲

禁じられた撮影…B29捉えた新映像をAIでカラー化“日本人が見た”太田大空襲【報道ステーション】(2024年8月16日) - YouTube

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昭和20年2月10日の群馬県太田市大空襲。84機のB29.初めての空襲で160人以上が犠牲になったという、中島飛行機太田工場の撮影班が記録したとある。この映像は幻の攻撃機「連山」の初飛行の記録に続く1分30秒間。地上から見た編隊で飛ぶB29の高い空の光景と空襲から避難する当時の太田の人たちー。「次の世に記録に残すためにではなかったか」という識者のコメントがあるー。私の親父も中島飛行場に勤務していたというが、終戦時は特攻基地で知られる九州鹿屋基地の飛行整備兵だったはず。確か「鹿屋飛行場に来襲した米軍機グラマンの機銃掃射から逃げまくった。グラマンのパイロットの姿が、いや、顔が見えるほど近い距離だった」と語っていた。そう言われたのをよく覚えている。太田生まれの太田育ち、団塊の世代の私も初めて見た驚きのびっくりの映像だ。

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2024年8月14日 (水)

ソ連参戦で1945年8月14日に満州で起きた大量虐殺事件    2019年にドキュメンタリー映画「葛根廟事件の証言」が

1945年8月14日に大量虐殺事件「葛根廟事件」があったのだー。たまたまラジオを聞いていたら、玉音放送前日に、ソ連参戦のため、引き揚げ避難中の日本人民間人が戦車などのソImg_6446_ 20190626_hp_top_19201080jpg 864592004f345c7d3d91213a133495b7_4jpg 81k3hbzonl_ac_uf10001000_ql80_ 連兵に襲われ、1000人以上の女性や子どもたちなどが虐殺された事件を知った。生き残ったのは百数十人とされる。生存者12名の証言を元にしたドキュメンタリー映画「葛根廟事件の証言」がつくられ、つい2019年に公開されていた。満州からの逃避行のむごさは証言や映画で承知していたはずだが、恥ずかしながらこんな大きな事件を知らなかった。改めてこの大事件を伝え、さらにほかにも同様の事件があり、「満州避難三大悲劇」と呼ばれているという。それらも調べながら、このドキュメンタリー映画もぜひ観たいとアップへ。

(ドキュメンタリー映画「葛根廟事件の証言」の作品紹介から)

太平洋戦争が終結する前日に満州で起きた、旧ソ連軍による民間日本人の大量虐殺事件「葛根廟事件」を題材にしたドキュメンタリー。1945年8月14日、旧満州から引き揚げ避難中の日本人の一団が、ラマ教寺院葛根廟(内モンゴル自治区)付近で旧ソ連軍に襲撃され、1000人以上が死亡した。生存者は百数十人に過ぎないとされ、犠牲者の多くは女性と子どもだった。敗戦の混乱時に満州で日本人が遭遇した惨劇の中で最も犠牲者が多かった事件と言われるが、報道で取り上げられることは少なく、その存在はこれまであまり知られることがなかった。生存者ら12名の証言をもとに事件をたどり、被害者の人生をどのように変えたのかを描き出す。福岡インディペンデント映画祭2018でドキュメンタリー部門最優秀作品賞を受賞。

2019年製作/74分/日本
劇場公開日:2019年12月21日

2024年8月10日 (土)

今もすばらしい音色を響かせた「疎開ピアノ」   「非核平和コンサート」in日光道の駅ニコニコ本陣広場で   

月10日(土)13時~14時半ー。「非核平和コンサート 2024」(in日光市道の駅ニコニコ本陣広場)。疎開ピアノの音色を聴きたいと、参加した。用事があったのでイベントの途中からだったが、太平洋戦争で東京から旧藤原町川治小に児童とともに疎開していたピアノー。川治温泉の地元自治会のリーダー・関本昭さんによると、川治小閉校をきっかけに自治会経由で腕のいい調律師の手で再生された、そのピアノを大切に保管してきた歴史や一度は東京に里帰りしたこともあるエピソードも聴くことができた。

そのピアノを見事に今市少年少女合唱団の一員か、高校1年生の中島安邦さんが弾いてくれた。その音色には正直に感嘆した。ピアノを弾く腕も良かったのだと思うのだが、こちらが思っていた以上のとてもいい響きを味わえた。戦火に散った一家4人の物語を今市少年少女合唱団と仲間たちが、語りとともに「哀しく明るく」歌い上げる児童合唱「ちいちゃんのかげ送り」、会場の参加者と一緒に歌う「花は咲く」「ふるさと」ー。

パンフによると、最初に「日光市非核平和都市宣言」や作文披露、オープニング曲「千羽鶴&折り鶴」も。イベントの構成や選曲がしっかりしていたうえ、合唱団のリーダー、小林芳枝さんが目配りの効いたわかりやすい司会を進めていたことで、あっという間の1時間半だった。会場はカンカン照りの広場だか、客席は大きなテント内。夏の涼風が通り過ぎていたこともあり、快適であくまで爽やかな残暑の夏の非核平和コンサートだったー。 454565863_7885568931571885_7179726023629 454590770_7885568924905219_1728614165937 454668037_7885665814895530_6565348040047

2024年8月 8日 (木)

三ヶ月で177人に死刑判決の恐怖政治   1789年から10年間の「フランス革命」

ただいまこれまであまりなじみがなかった「フランス革命」へ。「物語 フランス革命」(中公新書 安達正勝)と「物語 フランス革命」(佐藤賢一 集英社)「Ⅰ 革命のライオン」、「Ⅱ バスティーユの陥落」、「Ⅲ 聖者の戦い」ー。「自由、平等、友愛」あるいは「国民主権」で知られる大革命、フランス革命は1789年から1799年までの10年間というー。革命が生んだ「天才」ナポレオンがまたたくまに皇帝になっていくまでという区分だ。日本はまだ徳川幕府第11代将軍家斉の寛政時代から始まるという。

ルイ16世も王妃マリー・アントワネットも反革命家も政敵たちもギロチンにかけ、結局は失脚させられて自らもギロチンに消えた恐怖政治の代名詞、ロベスピエールー。その弁護士の彼も最初は熱烈な死刑廃止論者だったのをこの新書で初めて知るー。設立された悪名高き革命裁判所は、1793年の最後の3ヶ月、10月―12月に395人の被告のうち177人に死刑の判決を下した。二審はなく、即ギロチンへ。半数近くが死刑になったというからさすがに。確かに反革命や対外戦争で疑心暗鬼の末といいながら、革命の大義に矛盾する不名誉な恐怖政治が続いたときもー。 454577388_7867756206686491_8546720136223 454285333_7867756210019824_2448165158648 454262532_7867756203353158_4057550140862

2024年8月 7日 (水)

当時国内では上映されなかった幻の映画「ひろしま」   「広島が死んだ日」を直視するために

2013070114310250_ja_1 8月6日ヒロシマ、8月9日ナガサキー。この日はこの映画「ひろしま」を。1953年だから、「原爆の子」(新藤兼人監督)と同じ年に制作されていたのは、初めて知りました。題名は知っていたが、差浅学菲才にして、観る機会はなかった。この機会にきょうにもぜひ観ることに。このBLOG「霧降文庫」でもいわゆるシェアしますー。

以下はtwitterで視た記事のコピーです。


ンラインで無料で、ご覧いただけます
📽️映画「ひろしま」(1953年)

被爆した当事者たちの手記をもとに脚本が製作され、市民の急性被爆の症状や差別、続く貧困についても詳細に表現されている貴重な映画です。当時国内で上映はされず、幻の映画ともいわれています。

 

2024年8月 4日 (日)

ピカドンから8年目、瓦礫が散乱する原爆ドーム  1953年作品「原爆の子」(音羽信子主演)

またやっくる8月6日と9日。1953年の映画作品「原爆の子」を観る。新藤兼人監督、主演は若い頃の音羽信子。両親と妹を原爆で失った教諭という設定だ。「第22回原爆写真展」(日光市杉並木公園ギャラリー、今市平和委員会主催)で。上映時間85分だが、あっという間に。ピカドンから8年目のまだ瓦礫が散乱する広島原爆ドームを知る。被曝で盲目になった老人、下敷きになり片足が不自由な花嫁、原爆症で死にゆく少女、不妊症になった友だち、病床で亡くなる父親、そして主人公も飛び散ったガラス片を片腕に。何年経ってもさまざまな人たちがヒロシマの被害を受け続ける。瀬戸内海の小島の小学校教諭の主人公、石川先生がかつて広島で教えた保育園の児童たちを訪ね歩く物語だ。ふと、やはり瀬戸内海の小豆島を舞台にした「二十四の瞳」の大石先生と子どもたちのストーリーを思い浮かべさせた。70年前の作品にようやく出逢えたという感じですー。DVDは6000円だったそうですー。 454217673_7849630855165693_3331817487752 453842862_7849630861832359_4608295029983 453884863_7849714098490702_8343842113834

2024年7月28日 (日)

フランス革命を知りたくなって2冊を注文ー  「物語フランス革命」と「フランス革命夜話」

「物語フランス革命」(中公新書)と「フランス革命夜話」(中公文庫)をネット書店「本やタウン」経由で注文したばかり。ヘーゲルやカントがえらくこのフランス革命を評価しているのはさまざま場面で知ることがあった。それに加え、ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクについての論考をこのところそれなりに読み込んでいるが、彼女の演説にやはりフランス革命からの引用がたびたび出てくる場面に出合っている。それに左翼路線をめぐるサルトル・カミユ論争も理解するにしても、フランス革命の経過、背景、評価を知ることが必要だろうと思わされたこと。さらに言えば、パリコンミューンにしろ、ボナパルトについてのマルクスの論考にしろ、フランス革命についての全体像をつかむことでさらに理解が深まるに違いないと思ったためー。

 

 どういうわけか、浅学菲才にして、フランス革命に絞った著作はほとんど手にしていなかったことに気づいたため。関心はロシア革命であり、第一次世界大戦、シベリア出兵であり、未完のドイツ革命であり、ワイマール共和国、ナチス・ヒトラー、第二次世界対戦、太平洋戦争、ヒロシマ・ナガサキーに。いずれ、フランス革命についての著作へ。と、思っていたところ、twitterで中央公論社がフランス革命についての2冊の本を紹介していた。それに「これはちょうど読みたいと思っていたところ」と、リツイートしておいたのが昨夜。中央公論社twitterはひんぱんに書籍を紹介しているが、いい内容と別にいいやという内容とバラバラだが、宣伝手法としてはうまいと思っている。というか、なんとなく思っている知りたい本をそれなりにアップしており、私も何度かこれらの著作をリツイートしているぐらいだ。Photo_20240728203001 71pe63hcm0l_ac_uf10001000_ql80_

2024年7月12日 (金)

中国内戦に巻き込まれた闇に埋もれた日本兵      元残留日本兵のドキュメタリー映画「蟻の兵隊」    

facebookともだちがきょう7月12日にアップした映画情報ー。「蟻の兵隊」。本のほうは積ん読になっているので、読みたいが、まずは映画を(新潮文庫の「蟻の兵隊」は絶版になっているよう)。日光図書館でDVDを貸し出しているのは承知しているので、この際、日光図書館で借りで観ようかなとー。この夏、東京・渋谷ではアンコール上映されるようだがー。


(以下は、facebookにアップされていた内容です)
の夏になんとしても伺い観たい映画 「蟻の兵隊」。8/3(土)-8/16(金) 渋谷のシアター・イメージフォーラムにて「蟻の兵隊」をアンコール上映します。上映時間は連日11:00 初日上映後に舞台挨拶させていただきます。この夏、主人公の奥村和一さんは生誕100年を迎えます。20歳で戦争に行った人が生きていれば百寿を迎えるのですから、たしかに日本の戦争は遠くなりました。しかしながら、ウクライナにつづきガザも戦火に見舞われ、引きずられるように日本でも防衛力の増強が叫ばれています。戦争の足音が近づくいま、その戦争とは何か、戦争がいかに人間の理性を剥奪するのか、元中国残留日本兵・奥村和一の鬼気迫る姿から、再び多くを感じてほしいと願っています。

(以下は映画解説ー)

第2次世界大戦終結後、中国に残留して内戦に巻き込まれた日本兵を巡る“日本軍山西省残留問題”にスポットを当てたドキュメンタリー。軍の命令に従って残留した約2600人の兵士たち。ところが政府はその事実を否定し、彼らを脱走兵として扱った。国を相手に裁判を続ける残留兵のひとりである奥村和一が、真相を求めて再び中国を訪れる。メガホンを取るのは、デビュー作「延安の娘」が世界中の映画祭で絶賛された池谷薫。

2005年製作/101分/日本
配給:蓮ユニバース
劇場公開日:2006年7月22日



Top_imgjpg 在庫状況:絶版のためご注文いただけません



蟻の兵隊  日本兵2600人山西省残留の真相    新潮文庫 いー102ー1

新潮社 池谷薫  価格 482円(本体438円+税)



発行年月 2010年08月 判型 文庫
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内容情報
[BOOKデータベースより]

昭和二十年八月、日本は無条件降伏した。だが彼らの帰還の道は閉ざされていた!北支派遣軍第一軍の将兵約二六〇〇人は、敗戦後、山西省の王たる軍閥・閻錫山の部隊に編入され、中国共産党軍と三年八カ月に及ぶ死闘を繰り広げた。上官の命令は天皇の命令、そう叩き込まれた兵に抗うすべはなかったのだ―。闇に埋もれかけた事実が、歳月をかけた取材により白日の下に曝される。

序章 蟻の兵隊たち
第1章 終戦
第2章 密約
第3章 軍命
第4章 偽装解散
第5章 死闘
第6章 壊滅
終章 真実

2024年6月23日 (日)

沖縄戦で犠牲になった北海道出身者は1万807人  ウクライナ戦争で「道産子たちの沖縄戦記 あゝ沖縄」発刊

6月23日は沖縄戦で組織的な戦闘が終わった「沖縄慰霊の日」。戦後79年目だ。それに合わせた沖縄戦の記事が朝日新聞に掲載された。県民の4人に一人、20万人が犠牲になった沖縄戦。それがよく報道されるが、沖縄戦で犠牲になった兵士のうち、1万807人は北海道出身者だったという。もちろん、都道府県では断トツに多い。私も北海道には札幌、帯広、釧路と3カ所を新聞社の辞令で出入りし、計8年間も暮らしていた。相次ぐ炭鉱閉山、ソ連崩壊と北方4島、昭和天皇死去、十勝岳噴火、泊原発訴訟、アイヌ民族報道、過労死問題や「山が動いた」報道、ラムサール条約と環境問題などを報道していたが、沖縄戦における道産子たちの犠牲については、浅学菲才にして、承知していなかった。かってそれを1964年4月1日から267回も「北海タイムス」(1998年廃刊)で連載していた記者の妻が「道産子の沖縄戦戦記 あゝ沖縄」として、発刊した。発刊の決断はウクライナ戦争がきっかけだったという。沖縄慰霊の日にあたり、この朝日新聞記事を読む意義があるだろうとー。

(以下は朝日デジタルにある「道産子たちの沖縄戦 あゝ沖縄」の記事です)

連載267回に込めた記者の執念 道産子の沖縄戦「死に際を遺族へ」

佐々木洋輔
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沖縄県営平和祈念公園に立つ清水藤子さん=2024年3月、沖縄県糸満市、浜田哲二さん提供
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 夫は北海道兵の沖縄戦を取材し、全267回の連載にまとめた。それから60年、今も分厚い新聞スクラップが、兵士たちの墓碑銘の塊に見える。妻の清水藤子さん(79)=北海道月形町=はそう語る。

 夫・幸一さんが北海タイムスで連載「あゝ沖縄」を始めたのは1964年4月1日だった。延べ1835人の兵士や民間人らが登場し、そのほとんどが死ぬ。

 沖縄県によると、太平洋戦争末期の沖縄戦で死亡した北海道出身者は1万807人。約12万人が犠牲となった沖縄県に次いで、都道府県別で2番目に多い。3番目の福岡県は約4千人だ。

 沖縄県平和祈念資料館などによると、沖縄で戦った日本軍第32軍の主力である第24師団に北海道出身者が多かったことが背景にある。1939年に満州で編成された第24師団だったが、兵員補充は第7師団(旭川)によって担われた。44年に沖縄に移動。45年4月1日、米軍の沖縄本島上陸を迎えた。

 連載時は敗戦からまだ19年。帰還したことに自責の念を感じ、口を閉ざす人も多かった。幸一さんは、全道を訪ね歩き、手記の収集や証言を収集。「パスポート」を取得し、72年の本土復帰前の沖縄にも渡航し、関係者を訪ね歩いた。

《やがて平和な時がきたら、雪の降る北海道へ一緒にいくべよ》

 連載は一人で執筆した。

 《半田は、穴の中でうつぶせになって死んでいた。手りゅう弾自決。(中略)函館の留守宅に、妻と三人の子供を残して》(80回 半田上等兵自決)より

 《ようやく朝方、死体のかたづけが終わる。いままで死体がころがっていたところに、みんなは疲れたからだを横たえた》(214回 死のゴウ)より

 《「やがて平和な時がきたら、こんな焼け野原は捨てて、雪の降る北海道へ一緒にいくべよ」(中略)娘たちも、兵隊も、そんな日は、もう再びないことを、知っていた》(23回 勇ましい女子義勇軍 道産子を励ます)より

 記事は米軍が「ありったけの地獄をあつめた」と称した沖縄戦を、現場の兵士一人ひとりの目線で描く。一方で、沖縄住民たちとの極限下での交流にも紙幅をさいた。

 文末には、「戦記係」と称した遺族窓口を記載し、読者からの問い合わせや情報提供にも対応したという。連載には必ず、「戦没一万八十五柱の霊にささぐ」(原文まま。「柱」は当時の戦死者数)と添えた。

 幸一さんの執念を「弔いの気持ちがあったのではないか」と、藤子さんは推し量る。

 戦時中、幸一さんは旭川の第7師団にいた。予備役再教育係として、召集した兵士を前線へ送り出す任務だったという。「自分が送り出した兵士が沖縄で死んだのではないかという思いを抱え、道産子兵士の死に際を遺族に知らせたいと思ったのでは」と藤子さんは言う。

 退職後は釣りや山菜採り、読書をして過ごしたという幸一さんだが、時折、スクラップを眺めては、ぶつぶつと何かをつぶやいていたという。

 北海タイムスが98年に廃刊し、幸一さんは2006年に死去。「あゝ沖縄」は藤子さんの手元に残ったスクラップだけとなった。「自分の手元にだけ置いておくのは、苦しすぎた」

 藤子さんは昨年、悩み抜いた末、書籍化を決める。

 知人で郷土史を研究する楠順一さん(69)らの協力を得て17年に、40万字を超えるスクラップの全てを文字に起こし、ブログでインターネットにアップしていた。

 その作業は約2年に及んだ。途中、文字起こしを担当した男性の一人は戦場の凄惨(せいさん)な描写に、精神的にめいるほどだったという。

 ブログは注目を集め、遺族らから感想などの投稿が寄せられるようになる。沖縄の遺骨収集をするボランティアグループが、ブログから遺族の住所をたどり、戦没者ゆかりの手紙を返還できた事例もあった。

 ただ、藤子さんには、日記のように描かれた記事が「沖縄での敢闘が美談のように読まれかねないのでは」という不安があり、書籍化に踏み切れないでいた。

 22年2月のロシアのウクライナ侵攻が思いを固めた。連日報じられた地上戦で兵士が銃を撃ち合う姿が沖縄戦に重なった。

 出版への資金150万円はクラウドファンデングで調達。昨年12月27日。1千部の自費出版にこぎ着けた。12月27日は幸一さんの命日だった。

 本のタイトルは連載と同じ「あゝ沖縄」。591ページに及ぶ。ブックカバーには6月に北海道で咲く「エゾノリンゴ」をあしらった。藤子さんがスケッチしたものだ。「エゾノリンゴは6月の道内でわっと咲いて、パラパラと散る。鎮魂にふさわしいと思った」

 藤子さんは3月、「あゝ沖縄」を持ち、初めて沖縄の地に赴いた。幸一記者が取材した場所を訪問し、沖縄県平和祈念資料館などに献本。藤子さんは「夫の記者として最大の仕事を沖縄に納めた」と話した。

 沖縄戦で組織的な戦闘が終結した6月23日は、沖縄慰霊の日。きょう79回目を迎える。(佐々木洋輔)

 「道産子たちの沖縄戦記 あゝ沖縄」は、清水幸一著、月形歴史研究会編。出版元のかりん舎やインターネットで購入できる。税込み2970円

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