とくに「おや?、だが、確かにー」と思えたところが以下ー。
「天皇が代替わりし、国民の意識もリセットされた。とくに戦争を知らない世代の天皇への感情は前の世代よりもフラットになっていた。というよりも無関心が大半だったように思える。新左翼はそこを読み違えた」(「新左翼と天皇」232頁)
キイワードは「フラット」だが、ネットのAIで検索すると、『感情や状態 「元気がない」「生気がない」「単調で退屈な」といった感情や状態を表す際にも使われます。また、炭酸飲料の気が抜けた状態を指すこともあります』。ー。つまりは「戦争責任」や「沖縄問題」などに対する天皇への感情は、前の世代よりも、特別な感情を抱かない、あるいはこだわっていないという意味で使っているのだろう。
(以下は「本やタウン」㏋の本の紹介です)
何が彼らを無謀なゲリラ戦へと駆り立てたのか。
激しい内ゲバ、市民を巻き込むテロ、そして反天皇制闘争へ。
六〇年安保闘争、六〇年代末の全共闘運動、七〇年安保、七〇年代から八〇年代の成田空港反対の三里塚闘争では、反天皇制が主要なテーマになることはなかった。ところが昭和から平成の天皇代替わりに、新左翼の各セクトは封印を解き、反天皇制を最大のテーマに掲げて、炎と爆弾によるゲリラ闘争を展開した。内ゲバと市民を巻き込むテロに突き進んだ彼らの無謀な作戦、それに対する警備・公安警察。本書は暴力闘争の徒花を、現代史の一側面としてまとめる試みである。
この記事には関心がー。斎藤隆夫衆院議員の「反軍演説」ー削除された内容を全部を知りたい。どんなところが軍部や当時の議会のやり玉にあげられたのか。その点を詳しく知りたいなと。「聖戦の美名に隠れてー」ぐらいは知っているが、全体は知らないので。石破首相が身を引くそのお土産にして欲しいなとー。
(以下は本日の朝日新聞ニュースレターから)…
前線(10月2日 朝日新聞ニュースレターから)
反軍演説」議事録の復活案浮上
石破首相が意欲、与野党協議で調整
(写真説明 帝国議会で壇上に立つ斎藤隆夫衆院議員)
日中戦争をめぐって政府や軍部の対応を厳しく批判した斎藤隆夫・元衆院議員(1870~1949)の「反軍演説」について、大半が削除された議事録の全文を復活させる案が与野党内で浮上している。今月中旬に退陣する石破茂首相は実現に向けて強い意欲を示し、自民党の森山裕幹事長に野党との調整を指示。ただ、議事録修正のハードルが高く、実現できるかは不透明だ。
立憲民政党所属の斎藤氏は、戦前戦中にわたって軍部に擦り寄る政治家を批判し、軍が政治に関わることの危険性を説いていた政党政治家。日中戦争が泥沼化していたさなかの1940年2月、帝国議会の衆院本会議で1時間半にわたり、「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて……」などと国民に犠牲を要求する内閣や軍部を追及し、戦争の収拾を求めた。だが、反発した軍部は取り消しを求め、議長の職権で演説の全体として約3分の2にあたる後半部分の約1万字を議事録から削除。軍部の求めに多くの議員が従い、斎藤氏も帝国議会から除名された。翌年12月、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争へと突入した。
反軍演説と呼ばれるこの演説をめぐっては戦後、一部の国会議員が議事録復活を求めていたが、首相もその一人。首相就任前に講演などでたびたびこの演説を引用し、就任後も1月の会合で斎藤氏が議会を追われた経緯に言及し、「議会、そして言論が権力に屈せず、本当のことを言わないと国は傾く」と主張した。
首相は9月に退陣表明に追い込まれたが、森山氏に議事録復活に向け野党との調整を指示。野党側の一部も「戦後80年の今だからこそやるべきだ」(立憲民主党のベテラン)と前向きで、来週中にも議長の諮問機関である衆院議会制度協議会で協議に入る方向で水面下で調整している。
復活実現へのハードルは
ただ、実現に向けてハードルは高い。衆院事務局によると、議事録から削除された部分を復活させた前例はないという。
復活できるかどうかは定かではない。
官邸内にも歴史的価値のある議事録の修正に慎重意見もある。官邸幹部の一人は首相に「負の歴史だが、帝国議会ではこうした過去があったということを残すことにも意義があるのではないか」と意見したという。この幹部は「帝国議会の決定を戦後の議会が覆していいのか」とも指摘する。
退陣直前の「レームダック(死に体)」化する首相による「レガシー(遺産)」づくりの側面もある。ただ、首相は周囲に「在任期間中に復活を決めるところまではしたい。俺がやらなければ、誰も未来永劫(えいごう)やろうとしない」と意気込みを語る。(森岡航平、安倍龍太郎)
斎藤隆夫氏の「反軍演説」(要旨)
・ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、〈中略〉国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない
・国民に向って精神運動をやる。国民に向って緊張せよ、忍耐せよと迫る。〈中略〉国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない
・二年有半の間において三たび内閣が辞職をする。政局の安定すら得られない。こういうことでどうしてこの国難に当ることが出来るのであるか。畢竟(ひっきょう)するに政府の首脳部に責任観念が欠けている(斎藤氏の著書『回顧七十年』から引用。原文ママ)
「東太平洋の敵根遽地を強襲」ー。初めて見たミッドウエー海戦などを報じる当時の新聞記事。きょうのtwitterから転載した。このTwitterでは「みんな嘘だったのさ」という書き込みがー。この下りから「大本営参謀の情報戦記」(堀栄三 文春文庫)を思い出した。「大戦果」だという「台湾航空戦」が実はとんでもない劣勢だった、間違ったその情報が生み出される背景などを伝えている。それを思うと、澤地久枝さんの「滄海(うみ)よ眠れーミッドウエー海戦の生と死ー」は、日本側の死者宅だけでなく、アメリカに渡り、米軍パイロットたちの死者宅も訪ね歩く様は襟を正しながら読んだ記憶が。数ある戦記の中でも最大級の労作だと思う。「野火」「俘虜記」などで知られる大岡昇平さんの大作「レイテ戦記」もそうだが、<そこまで追い求めていくのか>、そう思わせる。戦史の事実を死者の鎮魂に向けて、あくまでリアルに浮上させようとする作家の気迫、執念を感じさせてくれたー
(ネットの画像 1945年7月12日深夜、Bー29による宇都宮大空襲)
8月15日以前に記事にして欲しかったが、それにしても、この時期ならではの紹介だろう。「戦後80年、栃木県内でも戦争展が多数開催 企画担当者に思いを聞く」。朝日新聞が8月19日栃木版で紹介している。以下はその転用で
戦後80年を節目に戦争をテーマにした展示会が県内で盛んに開かれている。展示する側はどんな思いなのか。県立博物館で「とちぎ戦後80年 いま、おやと子で知る軍隊・戦争と栃木」を企画した、特別研究員の小柳真弓さんに聞いた。
小柳さんは「実はコロナ禍で、戦争に関わる品々の寄贈がとても増えていたことがきっかけの一つ」という。外出を控えた高齢者を中心に家の中の整理が進んだ結果、戦争に関わる書類や軍刀、記念の杯、軍馬調教用の馬具など様々な寄贈の申し出があったという。「これほど集まるなら展示会ができると思った」
県内には公的機関によって集められ、裏付けのある情報に基づいた戦争資料を展示する常設の施設はない。「展示が始まり、実物を見たいと思っている方がとても多いことが分かった」という。
県立博物館の今回の展示は、宇都宮空襲だけに焦点を当てるのではなく、明治期の宇都宮の「軍都」の成り立ちから掘り下げた。「なぜ空襲にあったのか。背景や文脈も伝えたかった」という。
見学者にどう見てもらいたいか。「今も戦争があり世界情勢が動いている。過去の時代を振り返り、今の時代に理性的に考え、行動する際の判断基準や材料にできるのでは」と話す。「戦争は白か黒かではない。市民や軍人の目線、文化・芸術への影響など、いろんな立場や角度で見てもらいたい」
戦争体験や被害の語り部が少なくなりつつあるが、「語り部の方たちは二度と戦争を繰り返さないという思いで語る。私たちも、記録や資料を残すのは同じ思いだ。モノに語ってもらってその時代の空気を感じてもらうことで、そういう思いも伝わると思う」。
80年目の8月15日(金)に初めて知った長崎原爆映画。「長崎ー閃光の影でー」。8月1日から全国公開されていたのですね。広島原爆を描いた「ヒロシマ」「黒い雨」は観ているが、長崎原爆映画はこれまで知りませんでした。なので、ぜひ、いずれこの「長崎ー閃光の影でー」を観ようと思いますー。
(以下はネットにあった公式㏋からの画像と「解説・あらすじ」です)
う~ん、彼らが「かわいそう」という、この記事は2回も読んでしまいましたー。9回も特攻に出撃し、不時着なども含め9回とも「生還」してきた『不死身の特攻兵』(新書)を思い浮かべながら。この特攻兵は「死んでこい」と言われながら、何度も生還してしまう。そのため、「上層部がこうなったらあんたを殺してしまおうと、付け狙っているよ」。その情報を現地の新聞記者に教えられて知る。その場面がとくに印象に残っている。彼らが散ってから「戦後80年」。明治維新から1945年の期間よりも、2025年までの戦後80年のほうが今や長くなった。という記事を確かきょうの朝日新聞で読んだばかりだ。<えっ!。一口に戦後というが、そんな長い期間となったのか>。と思うことしきり。そんな8月16日(土)だった。
「英霊や 死を強いられた 美辞麗句」
特攻隊員は「志願」だったのか 死へ送り出す命令書、書く手が震えた
平川仁2025年8月15日 6時00分
国を、家族を守るため、命を捨てた――。特攻隊員の遺影や遺書が、人々の心を震わせている。その記憶から、「影」の部分が薄らいでいないか。
特攻(特別攻撃)
航空機などで乗員ごと体当たりする自殺攻撃。日本軍の戦況が悪化した1944年10月、フィリピンでの戦いで初めて「神風特別攻撃隊」が米艦に突入し、45年春からの沖縄戦では九州や台湾各地から特攻隊が出撃した。人間魚雷「回天」といった特攻兵器も作られ、約6千人が戦死したといわれる。
東京都の商社員(33)は、端正な文字が並ぶ遺書にじっくり見入っていた。2回目の訪問という。
昨年訪れた時に「今の日本人にはない覚悟」を感じ、大学進学も就職も「行き当たりばったり」で決めていた自分に気付いた。この1年で社内での新規事業を立ち上げるなど、生き方や仕事への向き合い方が変わったという。
「家族や国を思って命を捧げた姿に感銘を受けた。自分も一生懸命生きなきゃ、と思える」
特攻は、特別攻撃の略。航空機や人間魚雷などで体当たりし、生きては帰れない作戦だ。
太平洋戦争末期、知覧は陸軍最大の特攻出撃基地だった。平和会館は知覧飛行場の跡地にあり、多い年で70万人が訪れる。
知覧特攻平和会館の館内。「死ね大空で」などと寄せ書きされた日の丸や、映画のためにつくられた特攻機のレプリカが展示されている=2025年7月10日午後2時43分、鹿児島県南九州市知覧町郡、平川仁撮影
展示は遺書、遺品、遺影が中心で、隊員たちの心情にフォーカスする。特攻隊員たちは自ら志願した、との説明もある。
八巻聡学芸員(49)は「元々は博物館というより、神社仏閣の一部のような施設だった」と話す。
戦時中は「軍神」「神鷲」などとたたえられた特攻隊員たち。慰霊活動が始まるのは、連合軍による占領が終わった1952年ごろからだ。この年の春、東京に「特攻平和観音像」がつくられ、翌年「奉賛会」が結成された。発起人には、及川古志郎・元海軍大将、菅原道大・元陸軍中将ら特攻作戦を指揮した旧日本軍将校たちの名が並ぶ。
知覧にも55年、同じ将校らによって観音像が安置された。
開眼式を伝える旧知覧町の町報には、河辺正三・元陸軍大将の「純真無垢(むく)の至誠を以(もっ)て、正(まさ)に帰するが如(ごと)く、必死必中の壮挙を敢行せられた」と隊員を顕彰する発言が載っている。
変化が表れるのは70年前後からだ。元軍人らが定年退職世代にさしかかったこともあり、知覧への訪問者が増えた。遺族からも多くの遺品が寄せられるようになった。
町は特攻を「観光資源」とも捉え始める。71年の町議会議事録には、観光振興には「特攻基地の開発が第一義的」とする特別委員会の報告が記されている。
75年に公園の休憩所の2階に町営の「特攻遺品館」が設置され、87年には町が5億円をかけて建設した現在の平和会館が開館した。90年からは平和スピーチコンテストを始めるなど、隊員の家族愛や人間性も強調されるようになった。
88~91年に館長を務め、2015年まで語り部も務めた松元淳郎さん(97)は軍隊経験はないが、友人が特攻で戦死した。「家族や恋人、国を守るために命を懸けた若者がいたことを知ってほしいと考えた」と語る。
戦争体験を語る多胡恭太郎さん。陸軍のパイロット候補時代の写真に目をやり、「虚栄心の塊じゃった」とつぶやいた=2025年7月17日午後4時58分、岡山県津山市、平川仁撮影
岡山県津山市で暮らす多胡恭太郎さん(100)も、知覧を何度も訪れ、涙を流してきた。館内に並ぶ遺影を見ただけで、耐えられない気持ちになったという。
関西学院大学に在学中の44年8月、陸軍の飛行学校に入隊。特攻作戦が始まると、自分たちも特攻隊員になると告げられた。
45年1月に台湾に派遣。ただ、飛行部隊の司令部で、台湾から沖縄への出撃命令書を書く係になった。
「一緒に飯を食った」隊友たちを、特攻に送り出す役目。命令書を書く手が震えた。
戦時中の多胡恭太郎さんの写真。反省の気持ちを忘れないため、部屋に飾っている=2025年8月6日午後3時34分、岡山県津山市、小玉重隆撮影
特攻隊員は「志願者」で構成される建前だった。でも、飛行学校の仲間は、肺病になろうと部屋の隅のほこりをわざと吸っていた。別の隊員は出撃時、機体をあらぬ方向に走らせて事故を起こして生き延びた。「みんな生きたかったんだ」と多胡さんは言う。
福岡市には、出撃に失敗した特攻隊員を収容する施設があったと、多くの証言が残る。多胡さんの部隊では、「逃げたら福岡送り」が脅し文句として使われていた。
選択肢はなかった。
だから、きれいに整った隊員たちの遺書を見てわき上がる感情は、すばらしいでも、ありがとうでもない。「かわいそう」なのだという。
「大義名分がないと、人は死ねない」。だから、強いられた大義名分だったとしても、遺書にはその大義を書くしかない。「『死にたくないけど、命令で行かされます』という本心は書けんでしょ」
操縦桿(そうじゅうかん)を握り飛び立った仲間の様子を語る多胡恭太郎さん=2025年8月6日午後2時23分、岡山県津山市、小玉重隆撮影
家族や国を守ろうという気持ちは、みなあったと思う。でも、隊員たちは飛行学校で体当たり攻撃の操縦をたたき込まれ、たった数カ月で前線に送られた。日本軍全体で約3300機が出撃し、敵艦への命中率は1割強だったとする研究もある。
一方で、特攻に送り出した指揮官たちの多くは、戦後を生き延びた。陸軍の司令官の一人は晩年も、特攻について「国民愛国思情の勃発」であり、「誰いうとなく自然発生」したものだと書き残している。
知覧では近年、隊員の遺書を読んで語り合い、生き方や仕事への向き合い方を見つめ直そうというツアーも人気だ。催行会社が少なくとも数社ある。
「軍隊の非情さを、知らんのでしょうね」
腕も未熟で、乗るのは老朽機。死への道に送り出された側の記憶は、十分伝わっているのだろうか。多胡さんは気がかりだ。
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