大戦起るこの日のために獄をたまわる
治安維持法施行から101年
(1) その「自由」が君らの目的なんだろう
自由律俳句と言えば、「分け入っても分け入っても青い山」の種田山頭火(1982~1940)、「咳をしても一人」の尾崎放哉(1985~1926)が浮かぶ。今年は治安維持法施行(1925年5月12日)から101年。その日のコラム「天声人語」(朝日新聞)は、治安維持法で検挙された自由律俳人、橋本夢道(1903「明治36」年~1974「昭和49」年)を題材にしていた。浅学非才にして、このコラムを読むまで俳句をたしなむ人ならだれもが知っているだろう夢道その人を知らずにいた。それもあり、夢道俳句を導きの糸にますます危うくなり始めているこの機会に、悪名高き治安維持法を改めてチェックしてみたくなった。
治安維持法が俳句という表現の世界にどのように踏み込んでいったか、俳句の弾圧を進めるにあたり、どんな発想、経過、視点、理屈を立てていたのかー。「新たな戦前」という言葉が数年前から聞かれて久しいが、この手の制度や法律は成立してしまうと、勝手に自己肥大していく。そのことは改正を繰り返しながら、権力の暴走に油を注いだ治安維持法の小史を知るだけでわかる。初夏の「天声人語」から問題意識を伝えたいと思う。それも治安維持法と橋本夢道をキイワードにしているが、ひとつの論考というより、引用が多いので、忘備録といえるかもしれない。
以下は5月12日付「天声人語」からー。
俳人の橋本夢道(むどう)は東京・月島の長屋暮らしを何より愛した。〈春らしい夜明けがしてもう隣の足音が伝わってくる家〉。娘の殿岡浩佳(とのおかひろよ)さん(80)は、「本当に物欲がない人で。家も『3歩も歩けば裏に出る』と家族が愚痴るほど狭かった」と懐かしむ▼狭い長屋に多い時は一家8人暮らし。そこに俳句仲間を集めた。銭湯に通い、ステテコ姿で涼んだ。〈ぐっすりつかり銭湯は春の人間の垢(あか)と脂肪に濁っている〉▼五七五や季語に縛られない自由律を詠んだ。俳句は、「生きるための文学」だと信じた。その姿勢は、戦前に多くの俳人が翼賛体制に従う中で反戦的とみなされた。1941年2月の雪の朝、治安維持法違反容疑で長屋から警察署に連行された▼俳人40人以上が検挙された「新興俳句弾圧事件」だ。逮捕直前、特高警察に「自分たちの『身のまわり』のできごとを自由にうたうだけですよ」と説明したら「その『自由』が君らの目的なんだろう」と言われたという▼2年余り身柄を拘束された。保釈後は長屋に戻って、74年に亡くなるまで句を詠み続けた。いま月島は再開発が進み、タワーマンションが建つ。不動産広告には1億円超の物件が並ぶ。夢道の長屋も先月解体された▼街は変わる。だが言葉は残る。〈おたまじゃくしの如(ごと)くいる子の路地に心富む〉〈「あさり、しじみョォ」貧乏路地を起(おこ)しにくる〉。句をそらんじながら路地を歩く。夢道が愛した自由とは。治安維持法の施行から101年の今日、思いをはせる。
(2)『なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』
新興俳句弾圧事件を語るには、「京大俳句会事件」から始めるのが常道だと思うが、それには、この方面の第一人者である荻野富士夫の平凡社新書『検証治安維持法 なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(2024年12月13日 初版第一刷)から教えて阿多もらうのがてっとり早い。新書だが、全8章501頁にもなる同書だが、読ませるのは『第1章 治安維持法小史-施行から廃止まで』、『第2章 治安維持法はだれが、どのように運用したのか』、『第3章 戦時下抵抗と治安維持法の「法の暴力」』、『第7章 治安維持法の威力の震源=「国体」とは何だったのか』だ。
「京大俳句会事件」は第3章『―「法の暴力」』に詳しい。同書から概要を引き出すと以下の内容だ。新興俳句運動の中で最初の標的とされたのが京大俳句会である。1940年2月の平畑静塔(富次郎)、波止影夫(福永和夫)、仁智永坊(北尾一水)ら8人の検挙につづき、8月までに15人が検挙された。京大俳句会を内偵中だった京都府特高課によるもので、「此の指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」とされた(警保局『社会運動の状況』1940年版)。
続いて1933年に創刊された「京大俳句」の「創刊同人」のひとりで、後年、関西医科大学教授も務めている平畑静塔(1905~1997)の場合をとりあげている。
平畑は五条警察署と太秦警察署で取り調べを受け、400字詰め原稿用紙1000枚以上の(手記)を書かされた。思想係長の警部は「花鳥諷詠の俳句なら又作っていいのだよ」と「忠言」したというが、平畑は戦時下の句作を絶った。平畑は1940年8月の起訴、12月の予審終結を経て、1941年3月の公判で懲役2年・執行猶予3年を言い渡された。
新興俳句運動に特高の目が光るようになったのは、「戦争俳句」を積極的に発表するようになった1937年後半以降のことであろう。京大俳句会についても、「徹底的戦争反対の立場を採り、戦争に因る惨禍、物資の欠乏、労働強化、生活不安を指摘し、現実暴露、戦争反対を通じて共産主義思想の啓蒙を行い居りたるもの」ととらえていた(『社会運動の状況』1940年版)。「京大俳句」が多くの共鳴者を得た理由の一つに「俳句の世界ではまだ自由に物が言え、書けるようだ」というムードがあったからだと、平畑静塔は語る(『「京大俳句」と「天狼」の時代 平畑静塔俳論集』)
「京大俳句」の俳人を検挙した理由は、先に挙げたように、「指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」ため。もう少し突っ込んだ理由として同書が挙げているところがある。
1940年夏頃、京都地裁検事局思想検事は「一見何でもない様に見ゆるものが、内部に相当突き進んだものを含んでおり、直感的に反戦反軍的なものを感ぜせしむる様なものが多く見受けられる・・・戦傷の寂しきす姿、戦死者遺家族、特に寡婦の寂しき生活状態、或は下層階級の惨めなる生活状態等を表現して居る」(『「京大俳句関係事件概要」「太田耐造関係文書」』)と報告している。
(3)「戦争が廊下の奥に立ってゐた」
「京大俳句弾圧事件」に連座した俳人に渡辺白泉(1913~1969)がいる。とくに「銃後俳句」として名高いのが、この2句だ。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(「京大俳句」昭和14年5月号)
「銃後といふ不思議な町を丘で見た」(「風」第7号昭和13年4月)
さすがにこの2句は、『昭和俳句の検証 俳壇史から俳句表現史』(川名大 笠間書院 2015年9月15日第一刷)、『渡邊白泉の100句を読む』(川名大 飯塚書店 2021年6月20日第1刷)、ちくま学芸文庫『現代俳句 上』(川名大 筑摩書房 2001年5月9日第1刷)のいずれも掲載している。
これらの著書で川名大は、白泉の句について、こう評価している。「俳句における社会性の表現という新興俳句における最も困難な課題は、やがて、銃後俳句において白泉自身の手によって果たされるようになる」。
この「戦争が廊下のー」の句については、「『戦争』が銃後の日常へも否応なく侵入してくる恐れを戦慄的なイメージによって鷲づかみにした傑作」、「銃後といふ不思議なー」についても、「銃後という何の不思議もなく日常化した共同体から抜け出し、丘の上から眺めると、『不思議な町』として目に映るというイロニイによって閉塞の時代状況への違和感と批判精神を込めた傑作」と大きく評価している。
白泉はほかにもこんな皮肉った、というか、一見、そう思わせながら、実はその物事の本質は違うところにあることを示唆した、いわゆるイロニイで「隠し味」を込めた銃後俳句を書いている。川名大は「銃後俳句において最も果敢に斬新な表現の開拓に試みたは渡辺白泉」と指摘している。その句として次の2句を挙げている。
「戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり」
「繃帯を巻かれ巨大な兵になる」
この解説がふるっている。というか、私たちの直感を言葉でていねいに示しているというべきか。「戦場へー」の句についての解題は以下のようだ。
「ここで用いられているのは白泉が最も得意とするイロニイの方法。一見、躍動する勇壮な出陣行進のように見せかけて、『手ゆき/足ゆき/胴ゆきて』と分節化することで、マリオネットのようなぎこちない動きを伝える。そこには自由な意志を奪われた兵隊たちが否応なく戦場へと送り込まれていくことへの鋭いイロニイが込められている」。
いかにも白泉の傑作だなと思わせたのは、次の一句だ。この一句に俳句の「不思議」な力を知る思いがする。
「石橋を踏み鳴らし踏みて帰る」(「京大俳句」昭和14年5月号)
この句の意味を知るには昭和14年という時代状況を踏まえないといけない。川名大がこの時代背景を示しながら「なるほどー」と思わせる解説をしている。
「この句は石橋を踏み鳴らして勇躍出征していった兵隊が、中国大陸の戦場で斃れ、物言わぬ英霊となり、その遺骨の入った箱を胸に抱いた遺族が静々と石橋を踏んで帰ってきたというもの。白泉は、句の表現からの往復行為の主体(主語)である「兵隊」と「遺族」を隠し、しかもその主体を切り替えるという難度の高いレトリックを駆使して、匿されたモチーフを読者に読み取らせようとしたのである。匿されたモチーフは、英霊となった兵隊やその遺族への哀感、そして戦争行為の空しさであろう」(『渡邊白泉の100句を読む』106頁)。
私などは反戦の俳句といえば、冒頭に挙げた「戦争が廊下の奥に立ってゐた」がまず思い浮かぶ。それくらい知られた句かと思っていた。しかし、川名大によると、昭和40年代では、この句の認知度、受容度は低かった。急激に高まったのは、昭和の末期から平成の初期にかけてのころ。主な原因は「朝日文庫」に収録された「白泉句集」の序文で神田秀夫が鋭い読み解きをしたこと。それに朝日新聞一面コラム「折々のうた」で大岡信のこの句の紹介があったためだという。その後、「白泉といえば、『戦争がー』とセットとなって引用され、一般の人々への知名度も高まった」という。
(4)ホップ、ステップ、ジャンプの治安維持法
この治安維持法は一度に完成したものではなく、改正から改正を重ね、その猛威をふるうことになる。前史は1923(大正12)年9月1日の関東大震災にさかのぼる。岩波新書『治安維持法と共謀罪』(内田博文 2017年12月20日第一刷)が鋭い批判も含めたその歴史を教えてくれる。
関東大震災が起きた翌日、山本権兵衛内閣は戒厳令を施行した。さらに緊急勅令「治安維持令」を公布し、国会は12月22日に承諾した。最初の治安維持法はこの治安維持令に代えて、1925(大正14)年に制定された。ただ、治安維持令と治安維持法は内容が大きく異なっていた。治安維持令は言論等規制法だったのに対し、治安維持法は結社規制法だった。
成立した最初の治安維持法の内容は次の通り。
第一条 国体ヲ変革し又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
第二条 前条第一項ノ目的ヲ以て其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス。
衆議院では野党ばかりか、与党からも疑問や批判の声が相次いだ。大正末期のこの時点では国会はまだまともな論議を交わしていたことがわかる。同書から抜き出してみる。「私有財産制の合法的な改廃を禁じる立法を持つ国はない」、「国民生活よりも権力維持を優先しているのではないか」、「なぜ刑法改正ではなく、治安維持法か」、「濫用の危険は明らかではないか」、「学問の自由を阻害するのではないか」、「立憲制にとって有害であり、法案を撤回すべきではないか」、「陛下の無辜の民を傷つけないか」など。
治安維持法は今から101年前の5月12日に施行された。治安警察法(明治33年)も存続され、以後、両者は補い合いながら威力を発揮した。この段階では「点」であったが、以後、「面」へと拡大していったという指摘が改正の度に強化されていく治安維持法の怖さを伝えてれる。
「この法制定は治安維持法の歩みからみると、ホップ・ステップ・ジャンプのうちのホップの段階に該当する。今回は点であったが、以後、一から100へ、そして100から1万へと広がり、面となって日本全体、そして植民地を覆い尽くした」。
(5)死刑も規定した1928(昭和3)年のステップ
ホップ、ステップ、ジャンプと飛ぶ度にさらに牙をとがらせる治安維持法のステップについて、再び、岩波新書『治安維持法と共謀罪』から。
1928(昭和3)年の緊急勅令(「治安維持法中改正ノ件」=昭和3年改正治安維持法)。この緊急勅令は6月29日に公布、即日施行された。衆議院特別委員会の質疑で特筆されたのは、水谷長三郎の質問だった。この質疑で共産党の「外郭団体」の取締り、水谷の表現を借りれば、「名を共産党征伐に籍りた左翼運動の征伐」という政府の法改正の意図が明らかになったため。衆議院本会議では斎藤隆夫らの反対討論もあったが、貴族院では全員一致で賛成とされた。議会は翼賛議会の色を帯び始めていた。
昭和3年改正の主な点は、第一に「国体変革」結社の罪と「私有財産制度否認」結社の罪が分離されたこと。「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者」に選択刑として死刑・無期刑を規定するためだった。そのため、治安維持法の罪は思想的内乱罪、思想的外患罪だということが強調された。治安維け持法違反の罪の性格が大きく変わることになった。
第二は「国体変革」結社についても、「私有財産否認」結社についても、「結社目的遂行行為の罪」が新たに付け加えられたこと。「国体変革」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は二年以上の懲役または禁錮に、「私有財産制度否認」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は10年以下の懲役または禁錮に処することにされた。
これは合法左翼政党や労働組合などを共産党の「外郭団体」と称して、この結社目的遂行行為の罪で取り締まることが目的だった。団体活動が結社の目的遂行行為にあたるかどうかも思想検事が判断することになり、超拡大適用された。思想検事が「外郭団体」だと考えれば、実体がなくても「外郭団体」だとみなされ、結社目的遂行行為の罪に問われた。
(6)「自由」という言葉も、許せなくなっていた
「京大俳句」への弾圧は、この昭和3年改正治安維持法の最後の段階で起きている。この「京大俳句」の弾圧を皮切りに新興俳句派が次々と弾圧されていく。1941年2月、「土上」、「広場」、「俳句生活」、「日本俳句」の一斉検挙が行われた。この一人が「俳句生活」の編集・発行人であった橋本夢道だ。『橋本夢道物語』(殿岡駿星 2010年11月21日初版 勝どき書房)の「うごけば寒い」の項目(215頁~216頁)が格好の教材だ。
1940(昭和15)年秋、橋本夢道は月島署に呼び出された。特高の刑事は、「君たちの俳句はあまり風流ではなさそうだな。君たちは芭蕉なんかと違って、風流を求めないのかね」と質問した。
夢道は「私たちは、自由律俳句といって、身の回りの出来事を自由に詠んで俳句にしているのです」と答えると、その刑事は「その自由が君らの目的なんだろう」と言った。
時代は「社会主義」だけではなく、「自由」という言葉さえも、許せなくなっていたのだ。夢道はいよいよ身の危険を感じ、一石路(栗林一石路 同盟通信社会部記者、その後、同通信社会部長)と相談して、「俳句生活」をしばらく休刊することにした。
1940(昭和15)年2月14日、「京大俳句」の同人8人が逮捕された。5月3日には「戦争が廊下の奥に立ってゐた」で知られる「天香」の同人、渡辺白泉ら6人が逮捕された。8月31日には「天香」の西東三鬼が逮捕された。「京大俳句」「天香」の主要同人が逮捕されたので、次は東京の同人誌ではないかとうわさされた。
プロレタリア俳句への弾圧が始まった。いずれも治安維持法違反容疑で特高の餌食になった。「京大俳句」を皮切りに始まるいわゆる「新興俳句弾圧事件」だ。
同書によると、1935(昭和10)年から「俳句生活」の編集発行人は夢道になり、発行所も自宅の月島西仲通りに移った。1936(昭和11)年7月、「俳句生活」に「渡満部隊」と題して連作十句を発表した。このときの夢道の俳句を眺めても、「戦争が廊下の奥に立ってゐた」のようなそのまま反戦俳句の系統だなとわかるような句ではない。ただし、一歩踏み込めば、社会の風潮をよしとしない気分が反映されていることはうかがえる。
「渡満部隊をぶち込んでぐっとのめり出した動輪」
「歴史的に部隊が西へ行くこの国の資本がふくれてくる夏」
「守り札も肌身にひとりの兵が真白の銃と何を思う」
(7)「うごけない」日本人の置かれた状況を嘆いた
「うごけば寒い」。
夢道の有名な俳句だ。いわばなんて言うこともない短い感慨であり、読んでそのまま素通りしてもおかしくない。だが、この6字を書かせた時期や背景を知っていくと、「確かにそういう意味が込められているのだねー」と、改めて感嘆してしまう一句だ。
というのも、この句が作られたのは、治安維持法で逮捕された夢道が東京拘置所で独房生活をしていた1942(昭和17)年。逮捕は前年の1941(昭和16)年2月5日、38歳のとき。それから2回目の冬を迎えた時期だ。この境遇を背景にこの句について『橋本夢道物語』を著した殿岡駿星がうまく解説している。2002年に定年退職するまで朝日新聞記者だった書き手だが、夢道の次女の旦那さんであり、夢道の縁者だ。
殿岡のその解説の「読み込み」はなかなか読ませる文章だ。
「真冬の獄は寒い。火の気は全くない。こたつもなければ、湯たんぽもない。独房に敷いた布団の中で、ただ震えている。コンクリートに囲まれた独居房は体温が奪われるだけだ。夢道は、冷たい紙石板に、かじかんだ手で石筆を持って、震えながら作句した。『うごけば寒い』は単純に読めば、真冬の独房の布団の中で、寒いのを我慢してじっとしている姿が想像できる。少しでも動けば、冷たい空気が隙間から入ってきて、よけいに寒くなる。足の指一本でも動かせない寒さだ。文字をそのまま解釈したら、そういうことになるが、句の意味はそれだけではないと思う」
続いて、この句の意味を問う。「うごけば寒い」は、夢道の代表句のひとつとされている。確かに以下の解説というか、分析を読むと、この句が「代表句と言われるのも、確かにもっともだな」と思える。
「『動けば』の言葉の裏には、自由を求め、反戦を主張して活動することで、その先に待っているのは、『寒い』非人間的な結果、ということではないか。奥村商店の封建的な規則に反しての「自由恋愛結婚」で首になった。虐げられた労働者や農民の立場に立って『自由律』という形式でプロレタリア俳句、反戦俳句へ『うごけば』、その結果『寒い』獄の中に入れられる。じっとうごかず、ぬるま湯の中にいれば、夢道の人生は安楽だったかもしれない。しかし、夢道はうごかずにはいられなかった。その結果、理不尽な弾圧が待っていた。夢道は獄中でつくづく、『うごけない』日本人の置かれた状況を嘆いたのだろう」(同書229頁~230頁)
(8)「大戦起るこの日のために獄をたまわる」
1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。その当日に読まれた夢道の俳句をチェックしてみた。『橋本夢道全句集』(1977年10月31日第一刷、463頁、未来社)から。定価4800円。こんなかなり高額の俳句集も発刊されていたのだねーと感心することしきり。私は「栃木県内全図書館横断検索」による日光図書館経由で借り出したのだがー。
「夢道有名俳句」でチェックすると、必ず取り上げている句がある。
「大戦起るこの日のために獄をたまわる」
確かににそういう、いわば「名句」なのだろうなと思う。特に結びの「獄をたまわる」とい謙譲語がいい。式典のスピーチなどで「ご支援をたまわる」というあれだ。「たまわる」をネットで調べると、「たまわる」は、「諦観と告発」とある。だが、私に言わせると、いわばいらないのに、それを「ありがたくいただく」のだが、「たまわる」という言い方で、治安維持法違犯逮捕・拘留について、たっぷり皮肉を込めたその一言だと思う。ということなら、この句はどうしても「たまわる」でなければならかった。
ネットの『AI回答』はこうなっている。
「この句は、太平洋戦争へ突き進む日本で、治安維持法などにより思想弾圧を受けた俳人自身の境遇を詠んだものとされています。『獄をたまわる』という言い方は、皮肉をこめつつも『国家から授かったもの』として自分の投獄を捉え、大戦に向かう体制の一部として自分が排除されている現実を、冷徹に見つめる表現になっています。とても大つかみに言うと、大戦が始まる、『この日のためにこそ、自分はあらかじめ牢屋に入れられたのだ』という、時代への諦観と告発が同居した一句だと読まれます。戦争に異を唱える者が、戦争開始の前に排除されたという構図が、短い言葉の中で強く示されています」。
「大戦起る」のその日、夢道は以下の句も作っている。
「雑役が走って来てああ大戦ハワイに起る」
「大戦起る獄に尋常にいるほかなし」
「九つの渦も巻かばや真珠湾」
「大戦起る満天の星を獄舎の上におく」
(9)「偽装せる共産主義運動」という論理
ホップ、ステップ、ジャンプの仕上げにあたるジャンプの新治安維持法は1941(昭和16)年5月15日に施行された。この年の12月8日、ハワイ急襲から始まる太平洋戦争が起こされる。『治安維持法と共謀罪』によると、同法施行を受けて全国唯一の予防拘禁所が奥多摩刑務所内に開設された。予防拘禁を裁判所が決定するにあたって唯一の争点とされたのは日本人の現在の思想状況からみて「転向」したといえるかどうかであった。問題は「転向」の基準で、この基準は暫時、引き上げられていった。1930年代前半の「転向」基準によれば合格とされた者も、この引き上げにより不合格とされていくことになった。
思想犯保護観察法が制定されて思想犯保護観察制度を通じて「転向」補導の制度化が進行するとともに、「国民精神総動員」に向けてイデオロギーの収斂が図られはじめるなかで、当局はもはや「共産主義思想を放棄した」という消極的な「改悛」だけでは満足せず、積極的な「改悛」を「転向」に求めるようになったからである。すなわち、「完全に日本精神を理解せりと認められると至りたるもの」を超えた「日本精神を体得して実践躬行(自らの力で実際に行うこと)の域に到達せるもの」という基準がそれであった。
ここを読んでいた際、「おや?『日本精神』とは何を示すのか?」と、ハタと思った。やはり、内田博文が指摘していた。「『日本精神』とは何かは当局でさえも回答に窮する事柄であった。当局が『日本精神』を真に理解していたかどうかは大いに疑問であった」
昭和16年改正治安維持法の適用対象は飛躍的にその裾野を拡げることになった。治安当局によると、自由主義や民主主義に立脚して反ファシズムを唱える、あるいは戦争反対を表明するサークルなどの活動も取締りの対象とされることになった。大院審判例による治安違法の逸脱解釈・適用追認の傾向は新治安維持法下で、一段とその傾斜を強めた。
「偽装せる共産主義運動」という論理もこの期の大審院判例の特色を示すものであった。これにより治安維持法の適用対象はすべての政治・経済・社会・学術・文化・宗教運動にまで拡がることとなった。
「反ファッショ運動」や「帝国主義戦争反対」運動も、さらには「国民生活安定」を求める運動、「政治的自由の剥奪反対」の運動、「官僚独善的対外対内政策反対」の運動、「長時間労働の短縮、なかんずく徹夜作業絶対反対」の運動、「小作料減免、減税、強制献金反対」の運動、「兵士の給与の改善、即日帰還」の運動、「公債の強制反対」の運動、「重工業偏重かつ経済実情無視の統制反対」の運動などなどでさえも、しかも、たとえそれが自由主義や民主主義に基づくものであったとしても、「人民戦線運動」(=「偽装せる共産主義運動」)だと見なされればいつでも治安維持法違反で検挙され得ることになった。
「民族意識の高揚」などでさえも、治安維持法上の犯罪と目された。朝鮮の人々による民族独立のための文化運動などは内乱未遂罪や内乱予備罪で問えないことから、治安維持法で検挙されることがめざされた。この検挙も大審院は許容した。この文章に続いて、「治安維持法と共謀罪」の著者である内田博文は怒りをそのまま吐き出すように批判する。
「このような法解釈はもはや法律家の解釈といえない。非論理的で政策的な類のものであった。その妥当性を担保するものは必罰性と被告人の捜査段階および公判段階での『自白』供述以外なかった」(同書44頁)
(10)「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」
フォームの始まり
結びに今回のテーマの導きの糸にした橋本夢道の横顔の紹介へ。「ウィキペディア」によると、丁稚奉公から世の中に出て行った苦労人であることがわかる。の終わり徳島県名東郡北井上村(現在の板野郡藍住町)の小作農に生まれる。本名・橋本淳一。小塚尋常小学校卒後、藍玉問屋の奥村商店に丁稚として奉公。14歳のとき深川の東京支店に抜擢される。このころ『萬朝報』に載っていた荻原井泉水の句に惹かれ句作を試みる。
1922年より自由律俳句誌「層雲」に投句、井泉水に師事する。1929年、俳句を通じて知った荻田静子と結婚。しかし、奥村商店は自由恋愛を禁じており、プロレタリア俳句運動に関わったこともあって奥村商店から解雇される。1937年、プロレタリア俳句誌「旗」を創刊。その後「プロレタリア俳句」「俳句の友」と改題するが発禁となる。1934年、一石路らとともに「俳句生活」を創刊、編集を担当する。
そして、1941年、「京大俳句」事件を始めとする新興俳句弾圧事件に連座し、2年の間拘留される。夢道は1974(昭和49)年10月9日死去。71歳だった。この年、私は24歳の大学6年生だったが、「除籍」を選び、東京へ向かっていた。
夢道の句碑がふるさと、徳島県板野郡藍住町の正法寺川沿いにある。高さ2.7㍍、幅2.2㍍の巨大阿波青石に刻まれている(『藍住町議会だより』2013年2月25日など)
「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」 (了)
手記の初めに
父
母
小林の生れ故郷
母の実家
新しい家
芙江
岩下家
朝鮮での私の生活
村に還る〔ほか〕