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戦争法

2026年8月 4日 (火)

「新生日本のために先駆けて散る」  GHQの全文削除を受けた吉田満『戦艦大和ノ最期』

あと1週間で今夏も8月15日がやってくる。この時期になると思い起こすことがよくある作品「戦艦大和ノ最期」(吉田満)。今、毎週土曜日昼、NHKラジオの「保阪正康が語る昭和人物史」で登場しているのが、この作者・吉田満。全3回のうち8日が2回目。初回で吉田満の肉声を初めて聴いたが、内容は「戦前派、戦中派、戦後派」について。それぞれの世代の立脚点の違いについて、吉田満がていねいに原稿を読むかのように語っていた。きょうの2回目は「戦艦大和ノ最期」の執筆動機について。沖縄特攻作戦で大和が沈没したのは1945年4月。3千人以上いた乗組員のうち9割が海の藻屑と消えた。生き残った吉田がこの作品を書いたのは、それから半年後。クライマックスは艦内の士官ルームでの殴り合いの論争だ。海軍兵学校卒の「職業軍人」と学業半ばで海軍士官となった「学徒兵」の両グループがこの無謀な特攻作戦をめぐり、お互いの立場から論争を繰り広げる。論争は結局、海軍兵学校卒で吉田と同年代の21歳の大尉の言葉で鎮まる。「俺たちは新世日本のために先駆けて散る」。戦中派の彼が戦後を生き直すため、その体験を第3者の視線で、わずか1日で「筆の走るままに書いた」という作品だ。3回目は「敗戦記念日」の来週8月15日(土)にある。ウィキペディアによると、この本の「刊行経緯」が興味深い。1946年12月に雑誌「創元」創刊号に掲載される予定だったが、GHQの検閲で全文削除となり、ゲラ刷りが没収されたという。全文削除については私も知らないでいた。「決定稿保存版」は1974(昭和49)年だったという。


刊行経緯

吉田満は1945年(昭和20年)9月中旬に一日足らずで大学ノートに書き上げた鉛筆書きの草稿(初稿)を、少し肉付けしてから別の大学ノートにペン書きで記した。このノートを吉田の友人O氏など複数の人がやはりペン書きで書き写して清書され、それらが親しい友人・知人らに回覧されることになった[5]

この書き写し(清書)の大学ノートの1冊を読んだ小林秀雄が吉田の勤務先の日銀を訪ねてきて、小林が青山二郎梅原龍三郎と共に発刊準備をしていた雑誌『創元』1946年12月・第1号(創刊号)にぜひ掲載したいと申し出た[5]。しかしながら、この『創元』に掲載される予定だった初稿「戦艦大和ノ最期」は、GHQの下部機関CCD(民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となり、ゲラ刷りが没収されることになった[5]。そのため、吉田はその稿を何人かの人(職場の女性社員など)に清書してもらって保存した[5]。その後にそれを口語体に変化させたりなどの不本意な改稿版で、1947年(昭和22年)以降に雑誌『新潮』や『サロン』に掲載されることになった[5]

雑誌『創元』1946年12月号の稿に対するGHQの全文削除処分の検閲への抵抗の過程では、河上徹太郎小林秀雄吉田健一の奔走で、白洲次郎がGHQとの交渉を取り持ち、白洲正子が、小林秀雄と知り合うきっかけともなった経緯がある[注釈 2]

なお、1947年(昭和22年)に口語体の改定稿「戦艦大和」が「細川宗吉」名義(中国で戦病死した義兄の名前「細川宗平」に因む[5])で『新潮』10月号に掲載された際、三島由紀夫は、直接吉田満に会って検閲前の手書きの初稿(草稿)を直接読ませてもらっており[注釈 3]、その原文(初稿)の感想を「日本人がうたつた最も偉大な叙事詩」と賞讃しながら、「日本人のテルモピレエの戦の細述です。人間の「目」のおそろしさを感じます。事によつたら「心」より神に近いのは目かもしれない、人間が神からさづかつたのは、肉体とか精神とかではなく、「目」だけかもしれない、と思はれて来るのです」と林房雄に伝えて初稿の一読を勧めていた[9]

その後、再び口語体の改定稿「小説戦艦大和」が、雑誌『サロン』1949年(昭和24年)6月号に掲載された。この『サロン』掲載時には、吉川英治、小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、梅崎春生が跋文を寄せた。このサロン版に、少し手直しがなされ、8月に口語体の『軍艦大和』として銀河出版社で出版されたが、1952年(昭和27年)8月に元の文語体での改定稿版が創元社で出版された。

結局は、Photo_20260804133501 (昭和27年)8月となり、その後さらに改稿され、最終的には1974年(昭和49年)に北洋社で出版されたものが決定稿保存版となった。

この作品『戦艦大和の最期』が初版刊行に至るまでの過程には、「戦争肯定の文学であり、軍国精神鼓吹の小説であるとの批判」がかなり強くあったとされ、この作品を「戦争肯定」「軍国精神鼓吹」と非難されたことについて吉田満は初版刊行の「あとがき」で以下のように述べている[6]


この作品の中に、敵愾心てきがいしんとか、軍人魂とか、日本人の矜持とかを強調する表現が、少からず含まれていることは確かである。だが、前にも書いたように、この作品に私は、戦いの中の自分の姿をそのままに描こうとした。ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。我々にとって、戦陣の生活、出撃の体験は、この世の限りのものだったのである。若者が、最後の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、むしろ自然ではなかろうか。(中略)
このような昂りをも戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振舞うべきであったのかを、教えていただきたい。我々は一人残らず、召集を忌避して、死刑に処せられるべきだったのか。或いは、極めて怠惰な、無為な兵士となり、自分の責任を放擲ほうてきすべきであったのか。――戦争を否定するということは、現実に、どのような行為を意味するのかを教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然過ぎて無意味である。誰が、この作品に描かれたような世界を、愛好し得よう。吉田満「あとがき」昭和27年5月[6]

また、この作品が文語体で書かれていることに関しては、特に文語体の嗜好があるわけではなく、「初めから意図したのでもない」として、以下のように吉田は語っている[6]


第一行を書き下した時、おのずからすでにそれは文語体であった。
何故そうであるのか。しいていえば、第一は、死生の体験の重みと余情とが、日常語に乗り難いことであろう。第二は、戦争を、その只中に入って描こうとする場合、“戦い”というものの持つリズムが、この文体の格調を要求するということであろう。吉田満「あとがき」昭和27年5月[6]

 

2026年7月31日 (金)

戦後という時代の一種のお葬式   つかみどころがない空気のようなもの 

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「なるほど~」とうなづける論。それも憲法の専門家の厳しい、というか、鋭い批判だ。そこで「現代俳句」を読みたいなとー。
●まさか立ち合うとは思わなんだ戦後のお葬式
●空気のようにいつの間にか忍びの者が廊下の奥に
●つかみどころがないものに罰と罪の形を着せる
●何と率先して破壊工作に手を染めた私たちの国
●客観的に事情を総合的に勘案すると「気持ち悪い」?
(天下の悪法、「国旗損壊罪」について)
朝日新聞7月31日(金)13版4面

日本の国旗を傷つける行為を禁じる国旗損壊処罰法が先の特別国会で成立した。今後どのような問題、課題が生じるのか。参院審議に参考人として出席し、「違憲のおそれがある」と反対意見を表明した中央大学法学部の橋本基弘教授(憲法)に聞いた。

 ■要件や刑罰わからず、違憲のおそれ

 ――成立するまでの過程をどう見ましたか。

 そもそも国旗がたくさん損壊されていて社会不安があるという立法事実がない。内閣法制局での厳格な審査を、議員立法にしたことであえて回避したから、ずさんな法律になったのだろう。

 ――法律のどこに問題があるのでしょうか。

 「国旗を大切に思う国民感情の保護」が立法目的とされているが、これは空気のようなものだ。つかみどころのないものを処罰するから、たちが悪い。「嫌だ」「気持ち悪い」で処罰する法律は他にはない。

 犯罪の構成要件も甘く、何がどこまで適用されるのかが全く見えない。処罰対象とする「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」とはどのような方法なのか。判断は「客観的な事情を総合的に勘案して行う」としている。これでは「後出しジャンケン」と同じ。法に対する信頼が損なわれる破壊行為、破壊工作だ。

 ――参考人質疑では、法律が成立しても実際の適用は難しいとの見解を示しました。

 憲法違反と指摘される可能性があるからだ。何が犯罪で、どういう刑罰が科せられるのかが前もって明確に法律で定められていなければいけないという、罪刑法定主義の明確性の原則に反する。国への最も強力な抗議の手段となる国旗を焼く行為が処罰対象になると、表現の自由にも抵触する。検察は器物損壊罪など別の罪状で起訴するのが無難と考えるだろう。

 ただ、為政者にとっては、実際に適用されなくても、「適用されるかもしれない」という心配が広がれば十分とみているかもしれない。その意識が共有されるだけで、この法律は萎縮効果を発揮することになる。

 ■政府を批判できた「戦後」のお葬式

 ――表現の自由を侵害するおそれのある法律ができたことで生じる影響とは何でしょうか。

 表現の自由の一番の目的は政府を批判することだろう。あるアメリカの憲法学者は、反対意見は「公共財」だと言っている。反対意見を言うことによって、問題点が多くの国民に認識され、考えるよすがになる。それが民主主義としてとても大事なことなんだ、と。

 ある政策が正しいかどうかは、反対意見があって初めて立証される。そういった相互の検証によって初めて何が良いのか、悪いのかがわかってくる。それが省略されてしまうと、正しいものと正しくないものを政府が決めていくことになる。

 表現の自由は、その国が民主的な国家であるか、自由な国家であるかを測るバロメーターだ。

 ――ただ、世論調査では賛成意見が6割を超えています。

 国旗損壊行為を「表現の自由」として認めた米国の有名な裁判がある。弁護人を務めた弁護士が「国民の多数は処罰に賛成であっても、それでも違憲だと言えるかどうかは非常に難しい問題だ」と語っていた。

 世論が歓迎していても、どんな問題が出てくるのかを説明していくことは、我々法律家の役割だ。やはり、この法律は憲法違反だと言わなければならない。

 戦後、政府を批判しても処罰されなかった時代が続いてきた。政府批判のために日の丸を焼いたら処罰される可能性のある法律ができたことを重く受け止める必要がある。戦後という時代の、一種のお葬式のように感じた。(野平悠一)




 

2026年7月16日 (木)

まさか治安時時法の亡霊が現代によみがるとは  不快な「国旗損壊罪」に送る「現代俳句10句」

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盛り上げようぜと声を掛けながら水をぶっかける

まさか治安維持法の亡霊が現代によみがえるとは

初めから有罪が決まっている後出しジャンケン

気分に土足で踏み込むこの道はいつか来た道

気に入らない奴を吊るし上げるにはこの法律で

 

「不快指数」は気象用語から警察用語へ

必ず同調圧力がストップをかける「忖度」で

「くだらない法律」がいずれ「我が家」の玄関に

お子様ランチは外しましたと豪語する罪と罰

嫌いの感情は世間におっかぶせて「敵は本能寺」

(国旗損壊罪を成立させようという暴挙に)

 

2026年7月 4日 (土)

大戦起るこの日のために獄をたまわる   俳句も弾圧した治安維持法から101年

大戦起るこの日のために獄をたまわる

  治安維持法施行から101年 

(1) その「自由」が君らの目的なんだろう 

  自由律俳句と言えば、「分け入っても分け入っても青い山」の種田山頭火(1982~1940)、「咳をしても一人」の尾崎放哉(1985~1926)が浮かぶ。今年は治安維持法施行(1925年5月12日)から101年。その日のコラム「天声人語」(朝日新聞)は、治安維持法で検挙された自由律俳人、橋本夢道(1903「明治36」年~1974「昭和49」年)を題材にしていた。浅学非才にして、このコラムを読むまで俳句をたしなむ人ならだれもが知っているだろう夢道その人を知らずにいた。それもあり、夢道俳句を導きの糸にますます危うくなり始めているこの機会に、悪名高き治安維持法を改めてチェックしてみたくなった。

 Photo_20260703225901 治安維持法が俳句という表現の世界にどのように踏み込んでいったか、俳句の弾圧を進めるにあたり、どんな発想、経過、視点、理屈を立てていたのかー。「新たな戦前」という言葉が数年前から聞かれて久しいが、この手の制度や法律は成立してしまうと、勝手に自己肥大していく。そのことは改正を繰り返しながら、権力の暴走に油を注いだ治安維持法の小史を知るだけでわかる。初夏の「天声人語」から問題意識を伝えたいと思う。それも治安維持法と橋本夢道をキイワードにしているが、ひとつの論考というより、引用が多いので、忘備録といえるかもしれない。

以下は5月12日付「天声人語」からー。

俳人の橋本夢道(むどう)は東京・月島の長屋暮らしを何より愛した。〈春らしい夜明けがしてもう隣の足音が伝わってくる家〉。娘の殿岡浩佳(とのおかひろよ)さん(80)は、「本当に物欲がない人で。家も『3歩も歩けば裏に出る』と家族が愚痴るほど狭かった」と懐かしむ▼狭い長屋に多い時は一家8人暮らし。そこに俳句仲間を集めた。銭湯に通い、ステテコ姿で涼んだ。〈ぐっすりつかり銭湯は春の人間の垢(あか)と脂肪に濁っている〉▼五七五や季語に縛られない自由律を詠んだ。俳句は、「生きるための文学」だと信じた。その姿勢は、戦前に多くの俳人が翼賛体制に従う中で反戦的とみなされた。1941年2月の雪の朝、治安維持法違反容疑で長屋から警察署に連行された▼俳人40人以上が検挙された「新興俳句弾圧事件」だ。逮捕直前、特高警察に「自分たちの『身のまわり』のできごとを自由にうたうだけですよ」と説明したら「その『自由』が君らの目的なんだろう」と言われたという▼2年余り身柄を拘束された。保釈後は長屋に戻って、74年に亡くなるまで句を詠み続けた。いま月島は再開発が進み、タワーマンションが建つ。不動産広告には1億円超の物件が並ぶ。夢道の長屋も先月解体された▼街は変わる。だが言葉は残る。〈おたまじゃくしの如(ごと)くいる子の路地に心富む〉〈「あさり、しじみョォ」貧乏路地を起(おこ)しにくる〉。句をそらんじながら路地を歩く。夢道が愛した自由とは。治安維持法の施行から101年の今日、思いをはせる。

(2)『なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』

 新興俳句弾圧事件を語るには、「京大俳句会事件」から始めるのが常道だと思うが、それには、この方面の第一人者である荻野富士夫の平凡社新書『検証治安維持法 なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(2024年12月13日 初版第一刷)から教えて阿多もらうのがてっとり早い。新書だが、全8章501頁にもなる同書だが、読ませるのは『第1章 治安維持法小史-施行から廃止まで』、『第2章 治安維持法はだれが、どのように運用したのか』、『第3章 戦時下抵抗と治安維持法の「法の暴力」』、『第7章 治安維持法の威力の震源=「国体」とは何だったのか』だ。

 「京大俳句会事件」は第3章『―「法の暴力」』に詳しい。同書から概要を引き出すと以下の内容だ。新興俳句運動の中で最初の標的とされたのが京大俳句会である。1940年2月の平畑静塔(富次郎)、波止影夫(福永和夫)、仁智永坊(北尾一水)ら8人の検挙につづき、8月までに15人が検挙された。京大俳句会を内偵中だった京都府特高課によるもので、「此の指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」とされた(警保局『社会運動の状況』1940年版)。

 続いて1933年に創刊された「京大俳句」の「創刊同人」のひとりで、後年、関西医科大学教授も務めている平畑静塔(1905~1997)の場合をとりあげている。

 平畑は五条警察署と太秦警察署で取り調べを受け、400字詰め原稿用紙1000枚以上の(手記)を書かされた。思想係長の警部は「花鳥諷詠の俳句なら又作っていいのだよ」と「忠言」したというが、平畑は戦時下の句作を絶った。平畑は1940年8月の起訴、12月の予審終結を経て、1941年3月の公判で懲役2年・執行猶予3年を言い渡された。

 新興俳句運動に特高の目が光るようになったのは、「戦争俳句」を積極的に発表するようになった1937年後半以降のことであろう。京大俳句会についても、「徹底的戦争反対の立場を採り、戦争に因る惨禍、物資の欠乏、労働強化、生活不安を指摘し、現実暴露、戦争反対を通じて共産主義思想の啓蒙を行い居りたるもの」ととらえていた(『社会運動の状況』1940年版)。「京大俳句」が多くの共鳴者を得た理由の一つに「俳句の世界ではまだ自由に物が言え、書けるようだ」というムードがあったからだと、平畑静塔は語る(『「京大俳句」と「天狼」の時代 平畑静塔俳論集』)  

 「京大俳句」の俳人を検挙した理由は、先に挙げたように、「指導理論は共産主義芸術理論たるプロレタリアリズム乃至社会主義リアリズムに在り、且つ支那事変発生後は巧みなる方法に依り反戦思想の宣伝を為しつつある」ため。もう少し突っ込んだ理由として同書が挙げているところがある。

 1940年夏頃、京都地裁検事局思想検事は「一見何でもない様に見ゆるものが、内部に相当突き進んだものを含んでおり、直感的に反戦反軍的なものを感ぜせしむる様なものが多く見受けられる・・・戦傷の寂しきす姿、戦死者遺家族、特に寡婦の寂しき生活状態、或は下層階級の惨めなる生活状態等を表現して居る」(『「京大俳句関係事件概要」「太田耐造関係文書」』)と報告している。

(3)「戦争が廊下の奥に立ってゐた」

 「京大俳句弾圧事件」に連座した俳人に渡辺白泉(1913~1969)がいる。とくに「銃後俳句」として名高いのが、この2句だ。

 

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(「京大俳句」昭和14年5月号)

 

「銃後といふ不思議な町を丘で見た」(「風」第7号昭和13年4月)

 

 さすがにこの2句は、『昭和俳句の検証 俳壇史から俳句表現史』(川名大 笠間書院 2015年9月15日第一刷)、『渡邊白泉の100句を読む』(川名大 飯塚書店 2021年6月20日第1刷)、ちくま学芸文庫『現代俳句 上』(川名大 筑摩書房 2001年5月9日第1刷)のいずれも掲載している。

 これらの著書で川名大は、白泉の句について、こう評価している。「俳句における社会性の表現という新興俳句における最も困難な課題は、やがて、銃後俳句において白泉自身の手によって果たされるようになる」。

 この「戦争が廊下のー」の句については、「『戦争』が銃後の日常へも否応なく侵入してくる恐れを戦慄的なイメージによって鷲づかみにした傑作」、「銃後といふ不思議なー」についても、「銃後という何の不思議もなく日常化した共同体から抜け出し、丘の上から眺めると、『不思議な町』として目に映るというイロニイによって閉塞の時代状況への違和感と批判精神を込めた傑作」と大きく評価している。

 白泉はほかにもこんな皮肉った、というか、一見、そう思わせながら、実はその物事の本質は違うところにあることを示唆した、いわゆるイロニイで「隠し味」を込めた銃後俳句を書いている。川名大は「銃後俳句において最も果敢に斬新な表現の開拓に試みたは渡辺白泉」と指摘している。その句として次の2句を挙げている。

 

「戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり」

 

「繃帯を巻かれ巨大な兵になる」

 

 この解説がふるっている。というか、私たちの直感を言葉でていねいに示しているというべきか。「戦場へー」の句についての解題は以下のようだ。

 「ここで用いられているのは白泉が最も得意とするイロニイの方法。一見、躍動する勇壮な出陣行進のように見せかけて、『手ゆき/足ゆき/胴ゆきて』と分節化することで、マリオネットのようなぎこちない動きを伝える。そこには自由な意志を奪われた兵隊たちが否応なく戦場へと送り込まれていくことへの鋭いイロニイが込められている」。

 いかにも白泉の傑作だなと思わせたのは、次の一句だ。この一句に俳句の「不思議」な力を知る思いがする。

「石橋を踏み鳴らし踏みて帰る」(「京大俳句」昭和14年5月号)

 この句の意味を知るには昭和14年という時代状況を踏まえないといけない。川名大がこの時代背景を示しながら「なるほどー」と思わせる解説をしている。

 「この句は石橋を踏み鳴らして勇躍出征していった兵隊が、中国大陸の戦場で斃れ、物言わぬ英霊となり、その遺骨の入った箱を胸に抱いた遺族が静々と石橋を踏んで帰ってきたというもの。白泉は、句の表現からの往復行為の主体(主語)である「兵隊」と「遺族」を隠し、しかもその主体を切り替えるという難度の高いレトリックを駆使して、匿されたモチーフを読者に読み取らせようとしたのである。匿されたモチーフは、英霊となった兵隊やその遺族への哀感、そして戦争行為の空しさであろう」(『渡邊白泉の100句を読む』106頁)。

 私などは反戦の俳句といえば、冒頭に挙げた「戦争が廊下の奥に立ってゐた」がまず思い浮かぶ。それくらい知られた句かと思っていた。しかし、川名大によると、昭和40年代では、この句の認知度、受容度は低かった。急激に高まったのは、昭和の末期から平成の初期にかけてのころ。主な原因は「朝日文庫」に収録された「白泉句集」の序文で神田秀夫が鋭い読み解きをしたこと。それに朝日新聞一面コラム「折々のうた」で大岡信のこの句の紹介があったためだという。その後、「白泉といえば、『戦争がー』とセットとなって引用され、一般の人々への知名度も高まった」という。

(4)ホップ、ステップ、ジャンプの治安維持法

 この治安維持法は一度に完成したものではなく、改正から改正を重ね、その猛威をふるうことになる。前史は1923(大正12)年9月1日の関東大震災にさかのぼる。岩波新書『治安維持法と共謀罪』(内田博文 2017年12月20日第一刷)が鋭い批判も含めたその歴史を教えてくれる。

 関東大震災が起きた翌日、山本権兵衛内閣は戒厳令を施行した。さらに緊急勅令「治安維持令」を公布し、国会は12月22日に承諾した。最初の治安維持法はこの治安維持令に代えて、1925(大正14)年に制定された。ただ、治安維持令と治安維持法は内容が大きく異なっていた。治安維持令は言論等規制法だったのに対し、治安維持法は結社規制法だった。

 成立した最初の治安維持法の内容は次の通り。

第一条 国体ヲ変革し又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ヲ以て其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス。

 

 衆議院では野党ばかりか、与党からも疑問や批判の声が相次いだ。大正末期のこの時点では国会はまだまともな論議を交わしていたことがわかる。同書から抜き出してみる。「私有財産制の合法的な改廃を禁じる立法を持つ国はない」、「国民生活よりも権力維持を優先しているのではないか」、「なぜ刑法改正ではなく、治安維持法か」、「濫用の危険は明らかではないか」、「学問の自由を阻害するのではないか」、「立憲制にとって有害であり、法案を撤回すべきではないか」、「陛下の無辜の民を傷つけないか」など。

 治安維持法は今から101年前の5月12日に施行された。治安警察法(明治33年)も存続され、以後、両者は補い合いながら威力を発揮した。この段階では「点」であったが、以後、「面」へと拡大していったという指摘が改正の度に強化されていく治安維持法の怖さを伝えてれる。

 「この法制定は治安維持法の歩みからみると、ホップ・ステップ・ジャンプのうちのホップの段階に該当する。今回は点であったが、以後、一から100へ、そして100から1万へと広がり、面となって日本全体、そして植民地を覆い尽くした」。

(5)死刑も規定した1928(昭和3)年のステップ

  ホップ、ステップ、ジャンプと飛ぶ度にさらに牙をとがらせる治安維持法のステップについて、再び、岩波新書『治安維持法と共謀罪』から。

 1928(昭和3)年の緊急勅令(「治安維持法中改正ノ件」=昭和3年改正治安維持法)。この緊急勅令は6月29日に公布、即日施行された。衆議院特別委員会の質疑で特筆されたのは、水谷長三郎の質問だった。この質疑で共産党の「外郭団体」の取締り、水谷の表現を借りれば、「名を共産党征伐に籍りた左翼運動の征伐」という政府の法改正の意図が明らかになったため。衆議院本会議では斎藤隆夫らの反対討論もあったが、貴族院では全員一致で賛成とされた。議会は翼賛議会の色を帯び始めていた。

 昭和3年改正の主な点は、第一に「国体変革」結社の罪と「私有財産制度否認」結社の罪が分離されたこと。「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者」に選択刑として死刑・無期刑を規定するためだった。そのため、治安維持法の罪は思想的内乱罪、思想的外患罪だということが強調された。治安維け持法違反の罪の性格が大きく変わることになった。

 第二は「国体変革」結社についても、「私有財産否認」結社についても、「結社目的遂行行為の罪」が新たに付け加えられたこと。「国体変革」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は二年以上の懲役または禁錮に、「私有財産制度否認」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は10年以下の懲役または禁錮に処することにされた。

 これは合法左翼政党や労働組合などを共産党の「外郭団体」と称して、この結社目的遂行行為の罪で取り締まることが目的だった。団体活動が結社の目的遂行行為にあたるかどうかも思想検事が判断することになり、超拡大適用された。思想検事が「外郭団体」だと考えれば、実体がなくても「外郭団体」だとみなされ、結社目的遂行行為の罪に問われた。 

(6)「自由」という言葉も、許せなくなっていた

 「京大俳句」への弾圧は、この昭和3年改正治安維持法の最後の段階で起きている。この「京大俳句」の弾圧を皮切りに新興俳句派が次々と弾圧されていく。1941年2月、「土上」、「広場」、「俳句生活」、「日本俳句」の一斉検挙が行われた。この一人が「俳句生活」の編集・発行人であった橋本夢道だ。『橋本夢道物語』(殿岡駿星 2010年11月21日初版 勝どき書房)の「うごけば寒い」の項目(215頁~216頁)が格好の教材だ。

 1940(昭和15)年秋、橋本夢道は月島署に呼び出された。特高の刑事は、「君たちの俳句はあまり風流ではなさそうだな。君たちは芭蕉なんかと違って、風流を求めないのかね」と質問した。

 夢道は「私たちは、自由律俳句といって、身の回りの出来事を自由に詠んで俳句にしているのです」と答えると、その刑事は「その自由が君らの目的なんだろう」と言った。

 時代は「社会主義」だけではなく、「自由」という言葉さえも、許せなくなっていたのだ。夢道はいよいよ身の危険を感じ、一石路(栗林一石路 同盟通信社会部記者、その後、同通信社会部長)と相談して、「俳句生活」をしばらく休刊することにした。

 1940(昭和15)年2月14日、「京大俳句」の同人8人が逮捕された。5月3日には「戦争が廊下の奥に立ってゐた」で知られる「天香」の同人、渡辺白泉ら6人が逮捕された。8月31日には「天香」の西東三鬼が逮捕された。「京大俳句」「天香」の主要同人が逮捕されたので、次は東京の同人誌ではないかとうわさされた。

 プロレタリア俳句への弾圧が始まった。いずれも治安維持法違反容疑で特高の餌食になった。「京大俳句」を皮切りに始まるいわゆる「新興俳句弾圧事件」だ。

 同書によると、1935(昭和10)年から「俳句生活」の編集発行人は夢道になり、発行所も自宅の月島西仲通りに移った。1936(昭和11)年7月、「俳句生活」に「渡満部隊」と題して連作十句を発表した。このときの夢道の俳句を眺めても、「戦争が廊下の奥に立ってゐた」のようなそのまま反戦俳句の系統だなとわかるような句ではない。ただし、一歩踏み込めば、社会の風潮をよしとしない気分が反映されていることはうかがえる。

「渡満部隊をぶち込んでぐっとのめり出した動輪」           

 

「歴史的に部隊が西へ行くこの国の資本がふくれてくる夏」

 

「守り札も肌身にひとりの兵が真白の銃と何を思う」

 

(7)「うごけない」日本人の置かれた状況を嘆いた

「うごけば寒い」。

 夢道の有名な俳句だ。いわばなんて言うこともない短い感慨であり、読んでそのまま素通りしてもおかしくない。だが、この6字を書かせた時期や背景を知っていくと、「確かにそういう意味が込められているのだねー」と、改めて感嘆してしまう一句だ。

 というのも、この句が作られたのは、治安維持法で逮捕された夢道が東京拘置所で独房生活をしていた1942(昭和17)年。逮捕は前年の1941(昭和16)年2月5日、38歳のとき。それから2回目の冬を迎えた時期だ。この境遇を背景にこの句について『橋本夢道物語』を著した殿岡駿星がうまく解説している。2002年に定年退職するまで朝日新聞記者だった書き手だが、夢道の次女の旦那さんであり、夢道の縁者だ。

 殿岡のその解説の「読み込み」はなかなか読ませる文章だ。

 「真冬の獄は寒い。火の気は全くない。こたつもなければ、湯たんぽもない。独房に敷いた布団の中で、ただ震えている。コンクリートに囲まれた独居房は体温が奪われるだけだ。夢道は、冷たい紙石板に、かじかんだ手で石筆を持って、震えながら作句した。『うごけば寒い』は単純に読めば、真冬の独房の布団の中で、寒いのを我慢してじっとしている姿が想像できる。少しでも動けば、冷たい空気が隙間から入ってきて、よけいに寒くなる。足の指一本でも動かせない寒さだ。文字をそのまま解釈したら、そういうことになるが、句の意味はそれだけではないと思う」

 続いて、この句の意味を問う。「うごけば寒い」は、夢道の代表句のひとつとされている。確かに以下の解説というか、分析を読むと、この句が「代表句と言われるのも、確かにもっともだな」と思える。

 「『動けば』の言葉の裏には、自由を求め、反戦を主張して活動することで、その先に待っているのは、『寒い』非人間的な結果、ということではないか。奥村商店の封建的な規則に反しての「自由恋愛結婚」で首になった。虐げられた労働者や農民の立場に立って『自由律』という形式でプロレタリア俳句、反戦俳句へ『うごけば』、その結果『寒い』獄の中に入れられる。じっとうごかず、ぬるま湯の中にいれば、夢道の人生は安楽だったかもしれない。しかし、夢道はうごかずにはいられなかった。その結果、理不尽な弾圧が待っていた。夢道は獄中でつくづく、『うごけない』日本人の置かれた状況を嘆いたのだろう」(同書229頁~230頁)

(8)「大戦起るこの日のために獄をたまわる」

 1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。その当日に読まれた夢道の俳句をチェックしてみた。『橋本夢道全句集』(1977年10月31日第一刷、463頁、未来社)から。定価4800円。こんなかなり高額の俳句集も発刊されていたのだねーと感心することしきり。私は「栃木県内全図書館横断検索」による日光図書館経由で借り出したのだがー。

「夢道有名俳句」でチェックすると、必ず取り上げている句がある。

「大戦起るこの日のために獄をたまわる」

 確かににそういう、いわば「名句」なのだろうなと思う。特に結びの「獄をたまわる」とい謙譲語がいい。式典のスピーチなどで「ご支援をたまわる」というあれだ。「たまわる」をネットで調べると、「たまわる」は、「諦観と告発」とある。だが、私に言わせると、いわばいらないのに、それを「ありがたくいただく」のだが、「たまわる」という言い方で、治安維持法違犯逮捕・拘留について、たっぷり皮肉を込めたその一言だと思う。ということなら、この句はどうしても「たまわる」でなければならかった。

 ネットの『AI回答』はこうなっている。

 「この句は、太平洋戦争へ突き進む日本で、治安維持法などにより思想弾圧を受けた俳人自身の境遇を詠んだものとされています。『獄をたまわる』という言い方は、皮肉をこめつつも『国家から授かったもの』として自分の投獄を捉え、大戦に向かう体制の一部として自分が排除されている現実を、冷徹に見つめる表現になっています。とても大つかみに言うと、大戦が始まる、『この日のためにこそ、自分はあらかじめ牢屋に入れられたのだ』という、時代への諦観と告発が同居した一句だと読まれます。戦争に異を唱える者が、戦争開始の前に排除されたという構図が、短い言葉の中で強く示されています」。

「大戦起る」のその日、夢道は以下の句も作っている。

「雑役が走って来てああ大戦ハワイに起る」

「大戦起る獄に尋常にいるほかなし」

「九つの渦も巻かばや真珠湾」

「大戦起る満天の星を獄舎の上におく」

(9)「偽装せる共産主義運動」という論理

 ホップ、ステップ、ジャンプの仕上げにあたるジャンプの新治安維持法は1941(昭和16)年5月15日に施行された。この年の12月8日、ハワイ急襲から始まる太平洋戦争が起こされる。『治安維持法と共謀罪』によると、同法施行を受けて全国唯一の予防拘禁所が奥多摩刑務所内に開設された。予防拘禁を裁判所が決定するにあたって唯一の争点とされたのは日本人の現在の思想状況からみて「転向」したといえるかどうかであった。問題は「転向」の基準で、この基準は暫時、引き上げられていった。1930年代前半の「転向」基準によれば合格とされた者も、この引き上げにより不合格とされていくことになった。

 思想犯保護観察法が制定されて思想犯保護観察制度を通じて「転向」補導の制度化が進行するとともに、「国民精神総動員」に向けてイデオロギーの収斂が図られはじめるなかで、当局はもはや「共産主義思想を放棄した」という消極的な「改悛」だけでは満足せず、積極的な「改悛」を「転向」に求めるようになったからである。すなわち、「完全に日本精神を理解せりと認められると至りたるもの」を超えた「日本精神を体得して実践躬行(自らの力で実際に行うこと)の域に到達せるもの」という基準がそれであった。

 ここを読んでいた際、「おや?『日本精神』とは何を示すのか?」と、ハタと思った。やはり、内田博文が指摘していた。「『日本精神』とは何かは当局でさえも回答に窮する事柄であった。当局が『日本精神』を真に理解していたかどうかは大いに疑問であった」

 昭和16年改正治安維持法の適用対象は飛躍的にその裾野を拡げることになった。治安当局によると、自由主義や民主主義に立脚して反ファシズムを唱える、あるいは戦争反対を表明するサークルなどの活動も取締りの対象とされることになった。大院審判例による治安違法の逸脱解釈・適用追認の傾向は新治安維持法下で、一段とその傾斜を強めた。

 「偽装せる共産主義運動」という論理もこの期の大審院判例の特色を示すものであった。これにより治安維持法の適用対象はすべての政治・経済・社会・学術・文化・宗教運動にまで拡がることとなった。

 「反ファッショ運動」や「帝国主義戦争反対」運動も、さらには「国民生活安定」を求める運動、「政治的自由の剥奪反対」の運動、「官僚独善的対外対内政策反対」の運動、「長時間労働の短縮、なかんずく徹夜作業絶対反対」の運動、「小作料減免、減税、強制献金反対」の運動、「兵士の給与の改善、即日帰還」の運動、「公債の強制反対」の運動、「重工業偏重かつ経済実情無視の統制反対」の運動などなどでさえも、しかも、たとえそれが自由主義や民主主義に基づくものであったとしても、「人民戦線運動」(=「偽装せる共産主義運動」)だと見なされればいつでも治安維持法違反で検挙され得ることになった。

 「民族意識の高揚」などでさえも、治安維持法上の犯罪と目された。朝鮮の人々による民族独立のための文化運動などは内乱未遂罪や内乱予備罪で問えないことから、治安維持法で検挙されることがめざされた。この検挙も大審院は許容した。この文章に続いて、「治安維持法と共謀罪」の著者である内田博文は怒りをそのまま吐き出すように批判する。

 「このような法解釈はもはや法律家の解釈といえない。非論理的で政策的な類のものであった。その妥当性を担保するものは必罰性と被告人の捜査段階および公判段階での『自白』供述以外なかった」(同書44頁)

(10)「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」

 フォームの始まり

 結びに今回のテーマの導きの糸にした橋本夢道の横顔の紹介へ。「ウィキペディア」によると、丁稚奉公から世の中に出て行った苦労人であることがわかる。の終わり徳島県名東郡北井上村(現在の板野郡藍住町)の小作農に生まれる。本名・橋本淳一。小塚尋常小学校卒後、藍玉問屋の奥村商店に丁稚として奉公。14歳のとき深川の東京支店に抜擢される。このころ『萬朝報』に載っていた荻原井泉水の句に惹かれ句作を試みる。

 1922年より自由律俳句誌「層雲」に投句、井泉水に師事する。1929年、俳句を通じて知った荻田静子と結婚。しかし、奥村商店は自由恋愛を禁じており、プロレタリア俳句運動に関わったこともあって奥村商店から解雇される。1937年、プロレタリア俳句誌「旗」を創刊。その後「プロレタリア俳句」「俳句の友」と改題するが発禁となる。1934年、一石路らとともに「俳句生活」を創刊、編集を担当する。

 そして、1941年、「京大俳句」事件を始めとする新興俳句弾圧事件に連座し、2年の間拘留される。夢道は1974(昭和49)年10月9日死去。71歳だった。この年、私は24歳の大学6年生だったが、「除籍」を選び、東京へ向かっていた。

 夢道の句碑がふるさと、徳島県板野郡藍住町の正法寺川沿いにある。高さ2.7㍍、幅2.2㍍の巨大阿波青石に刻まれている(『藍住町議会だより』2013年2月25日など)

 「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」         (了)

2026年5月18日 (月)

「君は兵士」の反戦歌で検挙された「ナオコ」  朝日記事「ロシアで生き続ける反戦歌」

 

論説委員コラム「序破急

 「君がどんな戦争で戦おうとも、ごめん、私は反対側に立つ。今の君は、この地球上で最も悲しい存在だ」

 ウクライナで戦うロシア軍兵士をモチーフにした反戦歌が、ロシアの若者の間で静かに広がっている。シンガー・ソングライター、モネトチカの「君は兵士」というバラードだ。傷ついた兵士への憐憫(れんびん)をにじませながら、戦争そのものには断固として反対する意志を表した。

 軽やかな声とポップな曲調に鋭い社会批評や皮肉を忍ばせるのが、彼女の持ち味だ。若者を中心に人気があった。侵攻後まもない2022年5月、「自由に発言したい」とリトアニアに渡り、活動の場を国外に移した。ロシア当局からスパイに近い意味合いの「外国の代理人」に指定されている。

 モネトチカの歌はロシアの表舞台から消えた。でも、若者の心から消えたわけではない。昨秋、サンクトペテルブルクの路上でナオコと名乗る18歳のミュージシャンがモネトチカの曲を演奏した。その姿は動画サイトで視聴できる。大勢の若者がナオコを囲み、「君は兵士」を一緒に口ずさんだ。戦争に疑問を抱く若者が少なくないことが伝わった。

 治安当局は路上演奏を無許可の集会とみなし、歌を「軍の信用を失墜させた」としてナオコらを検挙して罰金を科した。歌が体制の脅威になり得ることをロシアの支配者は知っている。

20251028

【(2025年)10月29日 AFP】ロシアで禁止されている反戦の曲を歌ったとして逮捕された18歳のストリートミュージシャンの裁判が28日、首都サンクトペテルブルクの裁判所で開かれた

 

 ソ連崩壊前夜の1980年代後半、伝説のロックシンガー、ビクトル・ツォイの代表曲「変化を!」が閉塞(へいそく)感漂う社会に生きる無数の若者の心をつかんだ。「我々の心が変化を求めている」「我々の目が変化を求めている」「我々は変化を待っている」というサビの一節は、改革を求める民衆を鼓舞した。

 旧ソ連圏の抗議運動で歌い継がれ、2020年のベラルーシでの反体制運動でも、この一節が合言葉になった。ロシア当局はモネトチカが第二のツォイになることを恐れている。

 ウクライナ戦争が長引く中、プーチン政権は反戦感情が国内に広がることを恐れ、厳しい言論統制を敷いている。だが、若者を拘束し、路上を封じても、人々の記憶までは消し去れない。歌が心の奥で響き続ける限り、当局が民衆を完全に沈黙させることはできない。

 

2026年5月14日 (木)

熱い味噌汁をすすりあなたいない  「新興俳句弾圧事件」を知っておこう

熱い味噌汁をすすりあなたいない

う~む。これが「反戦思想なのかー」。として、弾圧、留置・懲役へ。とんでもない軍国主義社会にしたもんだと。あきれるばかりなり。ネットで検索すると、ウィキペディアより、「しんぶん赤旗」のほうが丁寧に戦前に「新興俳句弾圧事件」を解説していたー。

「2006年3月11日(土)「しんぶん赤旗」

戦前は、俳句も弾圧されたの?
 〈問い〉 最近、俳句を始めたのですが、俳句仲間から「戦前は俳句も弾圧されたのよ」と聞きました。どんな句がひっかかったのですか? (北海道・一読者)

 〈答え〉 戦前の天皇制政府は、戦争反対と主権在民を求めた日本共産党に対して残虐な弾圧でのぞみ、ついでそれを国民全体に広げ、表現の自由を圧殺していきました。それは言論・文化のあらゆる分野に及びました。

 俳句の分野でも真っ先に『プロレタリア俳句』が1931年2月発刊と同時に発禁とされます。そのころ俳句界では高浜虚子の「ホトトギス」から水原秋櫻子が離脱(同年10月)し、新興俳句が広がりをみせていました。短詩型が特徴の俳句は、現実への鋭い視点と、みずみずしい感性がなければ成立しません。しかし、特高警察の弾圧は、この俳句成立の根本条件ともいえるものにむけられました。

 1940年2月から8月、新興俳句の中心だった俳誌『京大俳句』の会員である平畑静塔、波止影夫ら15人が相次いで特高警察によって検挙されます。

 熱い味噌汁をすすりあなたいない

 ホスピタル鏡を朝な女のみがく

 これが「反戦思想を含せしめたる作品」とされました。

 黙々と鉄槌ふり我等何を見る

 ネクタイを締めて薄給かくす夏

 これが「銃後の生活苦等を素材としたる反戦俳句」とされました。裁判所はこれをもって「一般大衆に階級的、反戦、反軍的意識を浸透せしめ、其(そ)の左翼化に努め、以(もっ)てコミンテルン日本共産党の目的遂行の為(ため)にする行為」(「京大俳句」事件の「予審終結決定書」)としたのです。
Photo_20260513231701  41年2月には、荻原井泉水の俳句革新に共鳴しプロレタリア文学理論を句作に導入した栗林一石路が橋本夢道らとつくった自由律系の『俳句生活』や『日本俳句』(『生活派』改題)、新興俳句関係の『広場』『土上(どじょう)』という東京の4俳誌の13人が、同年10月には山口県宇部市で『山脈』の山崎青鐘ら10人が検挙されます。同年12月8日の太平洋戦争開戦前夜のことです。

 戦争の進行とともに、えん戦気分につながる表現もチェックされ、43年6月には鹿児島で『きりしま』の面高秀ら3人、同年12月には秋田で『蠍(さそり)座』の2人が検挙されるなど、地方の小さな俳句同人誌にも及びました。『土上』主宰の嶋田青峰は留置場で病気が悪化し伏せったまま3年後に死去しました。(喜)

 〈参考〉田島和生著『新興俳人の群像「京大俳句」の光と影』(思文閣出版)、『特高警察黒書』(新日本出版社)、『日本プロレタリア文学集・40』(同)の谷山花猿解説

 〔2006・3・11(土)〕

2026年4月21日 (火)

これはさらに知られて欲しい生涯  治安維持法下で獄死した飯島喜美さん

Photo_20260421133901えっ?、治安維持法下、栃木刑務所でそんな獄死があったのかー」と。朝日新聞4月20日(月21面の「栃木版」で。大逆罪で一度は死刑判決を受けた金子文子の獄死はよく知られているが、この24歳で亡くなったという飯島喜美さんはこの記事を読むまで知らないでいた。記事によると「飯島喜美の不屈な青春」(仮題)として、2028年の上映が予定されているという。

 

 ちなみにウィキペディアから引くと、金子 文子(かねこ ふみこ、1903年1月25日 - 1926年7月23日[1])は、大正日本アナキストニヒリスト関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、朝鮮人朴烈と共に検挙され、予審中に朴が大正天皇皇太子の殺害を計画していたとほのめかし、文子も天皇制否定を論じたために、大逆罪で起訴され、有罪となった。後に天皇の慈悲として無期懲役に減刑されたが、宇都宮刑務所栃木支所に送られてそこで獄死した。

 

(以下は朝日新聞記事から)

治安維持法下の弾圧で獄死した飯島喜美

その生涯を映画化する動き

由利英明
写真・図版
15歳の時の飯島喜美さん(左)=1927年8月5日、藤田広登さん提供
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 2028年春に廃止される女子受刑者収容施設、栃木刑務所(栃木県栃木市)で、戦前戦中に獄死した人たちがいる。その一人で、刑期も死因も正確にはわからず、治安維持法下の弾圧に抵抗してずさんな扱いを受けたとみられる飯島喜美さん(享年24)の生涯を映画化する動きが出ている。

 飯島さんが就職した会社で働いた玉川寛治さん(92)がまとめた「飯島喜美の不屈の青春」(発行・治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟千葉県本部)などによると、飯島さんは1911年に千葉県で生まれた。27年に東京の紡績工場に就職して労働運動に加わり、29年に当時最年少の17歳で共産党に入党。旧ソ連・モスクワに派遣されたり、労働運動を組織したりするなど、党員として活躍した。

 だが、33年に治安維持法違反容疑で特高警察に逮捕され、35年12月に宇都宮刑務所栃木刑務支所で命を落とした。同所は栃木刑務所の前身で、今とは別の場所にあった。

食事は牛乳1本だけ

 飯島さんは逮捕後、厳しい取り調べにもかかわらず供述を拒んだとみられ、計11回も勾留が延長されたことを示す資料が残っている。

 一方で、判決文は見つかっておらず、3年とも7年前後とも言われる刑期も、いつ刑務支所に収監されたのかもわかっていない。

 飯島さんは勾留中に結核を発病したとみられるが、病名を示す資料もない。刑務支所に移されてから亡くなるまで、2~3カ月ほどだったと考えられている。

 玉川さんの本の編集に携わり、映画では監修を務める藤田広登さん(91)は「勾留された(東京の)市谷刑務所で結核が蔓延(まんえん)しては困るから、急いで判決を下して栃木刑務支所に送ったのでは」とみる。

 その刑務支所での処遇は劣悪だったようだ。病気でも独房に留め置かれ、まもなく動けなくなった。食べることができないため食事は牛乳1本だけで、最後は飲むことさえできなかった。それでもそのままにされ、看守は見回りの時に亡くなったことに気づいたとみられる。

 玉川さんの本によると、こうした厳しい状況は同じく収監された仲間たちの証言から推測する部分がほとんどだが、父親が残した資料もある。刑務支所は、飯島さんが危篤であることや、治療中にもかかわらず亡くなったら遺体は学術研究のため千葉医科大に送ることなどを父親に電報や封書で伝えていた。

「謎に包まれた犠牲者」

 ただ、仲間たちの証言から「治療中」という説明は虚偽だとみられる。飯島さんが共産主義思想を放棄するなどと明かした遺言も父親に伝えられたが、遺言を残すのは難しい状況で、藤田さんは「勝手に作ったのが真相では」と指摘する。

 父親は、刑務支所で娘を火葬して遺骨を送ってほしいと希望した。国から弾圧された共産党員の葬儀は難しかったことなどが理由と考えられるが、刑務支所は認めなかった。最終的には36年、遺体を引き取っていた千葉医科大が火葬して遺骨を送ると父親に伝えた。

 刑務支所には、飯島さんと同時期に治安維持法違反罪でほか6人も収監されていたが、いずれも取り調べで話しており、判決文やそれに類する資料は残っている。

 しかし、国からの弾圧や虐待に最後まで抵抗したとみられる飯島さんについては、わからない部分が多い。最期を迎えた刑務支所内での処遇の実態も解明されていない。

 藤田さんは「喜美さんほど謎に包まれた犠牲者はいない。判決文を探すことなど、彼女の略歴の空白を埋めていく作業はまだまだ続いている」と明かす。

2028年の上映めざす

 ただ、断片的とはいえ仲間たちの証言はあり、玉川さんは「飯島喜美の人柄のおかげ」と語る。

 父親が保存していた資料は、最終的には飯島さんのおいの木下豊さん(72)に計39点が渡った。木下さんは「飯島喜美は闘い抜いて生き抜いた。残念ながら短い人生と言われるけれど、短い間にこれだけのことをやったと引き継がれていくべきだ」と訴える。

 藤田さんによると、玉川さんの本を原案とする映画「飯島喜美の不屈の青春」(仮題)は、飯島さんの一生とその後をフィクションも織り交ぜて描き、劇映画として28年の上映をめざすという。



 

2026年3月29日 (日)

軍国主義日本から抜け落ちた視点からー  大佛次郎論壇賞「人びとの社会戦争」

「軍国主義日本起こした戦争に巻き込まれる国民という視点から抜け落ちる、普通の人びとの「社会戦争」ーというところに大いに興味が。いわゆる戦争責任をめぐる「定説」に疑問を投げかけ、その「実像」に迫る本なのだろう。それが大佛次郎論壇賞受賞とあれば、これはぜひ手にとー。目次チェックでこれは魅力的だなと思えたのは、「全体主義の魅力」、「草の根からの翼賛体制」、「対米強硬論のうねり」などの項目。ただ、著者がこだわっていることが大いにうかがえるキイワードの「解放」と「引き締め」、そのイメージの内容や設定が今いちひとつわからないでいる?これは手にとることで知ることになるのだろうー。以下は「本やタウン」HPの本の紹介からー。

私たちの社会はどうあるべきか。私たちは何を願い、何を戦っていたのか―。近代化を成し遂げ、帝国になった大正期以降、普通の人びとの社会を舞台にした「解放」と「引締め」をめぐる「戦い」が、本当の戦争になるまで。軍国主義日本が起こした戦争に巻き込まれる国民という視点からは抜け落ちる、普通の人びとの「社会戦争」のダイナミズムから近現代日本の実像を追う。大佛次郎論壇賞、毎日出版文化賞受賞者の渾身の大作。

 

人びとの社会戦争

日本はなぜ戦争への道を歩んだのか

岩波書店
益田肇 


価格
4,730円(本体4,300円+税)
発行年月
2025年09月
判型
A5

 

序章 人びとは何を戦っていたのか
第1部 解放の時代(瓦解と解放 一九一〇‐二〇年代;くすぶる苛立ち:草の根社会保守の台頭 一九一〇‐二〇年代;解放の行き詰まり 一九二七‐三一年;幸せとは何か 一九二七‐三一年)


第2部 引締めの時代(満州事変とは何だったのか 一九三一‐三四年;全体主義の魅力(一)絆、団結、一体感の希求 一九三一‐三四年;全体主義の魅力(二)対立、格差、多様性の嫌悪 一九三四‐三七年)


第3部 戦いの時代(戦争の魅力(一)国内相克の克服 一九三七‐三八年;戦争の魅力(二)人びとはなぜ戦争を欲したのか 一九三七‐三八年;草の根からの翼賛体制 一九三八‐四〇年;大政翼賛会とは何だったのか 一九三八‐四〇年)


第4部 なぜ日本は対米戦争を選んだのか(氾濫する理想と正義 一九三八‐四一年;国内事情の重み 一九四一年四月‐九月;対米強硬論のうねり 一九四一年八月‐十月;大東亜戦争と人びとの社会戦争 一九四一年九月‐一二月)

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第5部 引き続く社会戦争(解放の再来:あふれ出る個性と多様性 一九四五‐五〇年;引締めの再来:巻き返す草の根社会保守 一九四七‐五二年)
終章 解放と引締めをめぐるもう一つの戦い

 

2026年3月26日 (木)

「何が私をこうさせたか」  100年前に大逆罪で死刑判決

3月25日(水)、本日の朝日新聞で一番印象に残った記事が、この天声人語の「金子文子の生きた時代」。SNSではこの映画について盛んにコメントが。ネットで検索したら、2017年に岩波が文庫で発行してました。「反骨のアナキスト」だけではとても収まらない彼女の短い生涯に思いをはせる。「天声人語」と「岩波文庫」を添付しますー。


天声人語)金子文子の生きた時代
2026年3月25日 5時00分

 金子文子(ふみこ)が大逆罪で死刑の判決を受けたのは、1926年の3月25日、ちょうど100年前のきょうである。恩赦で無期懲役に減刑された後も、頑として転向を拒んだ反骨のアナキストは獄中で自死した▼手記をまとめた著書『何が私をこうさせたか』で、彼女は雄弁に語っている。いかにその生い立ちが悲惨であったか。貧困に苦しみ、虐待され、いかに過酷な運命を生きたか。立っても、しゃがんでも、幸福な生活を空想しても、それは消えないと▼「人間は人間として平等であらねばなりませぬ」。それなのに、貧乏人は勉学の機会も奪われ、富める者はますます富み、権力ある者はなんでも好き放題である。「こうなった社会を、万人の幸福となる社会に変革することは不可能だ」と文子は断じた▼「人間が生きるのぞみを失うというのは、こういうことなんだな」。予審判事だった立松懐清は彼女を哀れみ、そんな言葉も家族に漏らしている。「これじゃ世の中を呪いたくなるのは当たり前だ」(本田靖春著『不当逮捕』)▼国家というものが常に前面に出て、個々の人間を蹴散らした時代である。異論を唱える者はとことん痛めつけられ、無情に弾圧された。そんな社会はもう真っ平だと人びとが思ったところに、この国の戦後は始まっている▼それから81年。弱い者がどうしようもなく悲しむ世は変わったか。文子のような苦しみを強いられる人間はいなくなったか。いま、彼女の言葉が妙に心に刺さるのは、どうしてか。

 

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何が私をこうさせたか

獄中手記
岩波文庫 青N123ー1

岩波書店
金子文子 



価格
1,353円(本体1,230円+税)
発行年月
2017年12月
判型
文庫
関東大震災後、朝鮮人の恋人と共に検束、大逆罪で死刑宣告された金子文子(一九〇三‐二六)。無籍者として育ち、周囲の大人に虐げられ続けながらも、どん底の体験から社会を捉え、「私自身」を生き続けた迫力の自伝を残す。天皇の名による恩赦を受けず、獄中で縊死。

手記の初めに


小林の生れ故郷
母の実家
新しい家
芙江
岩下家
朝鮮での私の生活
村に還る〔ほか〕

 

2026年3月23日 (月)

悪名高き「全権委任法」が成立した日  ヒトラー内閣1933年3月24日

Photo_20260323234201 twitterで「岩波書店」がこの本の宣伝・紹介をしていた。そうか、悪名高き「全権委任法」は1933年の3月24日に成立したのだった。「それに合わせた宣伝はわかるが、それにしても発行が2022年11月とこの手のテーマでは意外と新しい?ー」。と思っていたら、「憲法とヒトラーの一世紀後に」というテーマの「終章」を追加していたのだね。


ヴァイマル憲法とヒトラー
戦後民主主義からファシズムへ
岩波現代文庫 学術456
岩波書店000 池田浩士 価格1,694円(本体1,540円+税) 発行年月 2022年11月 判型 文庫

第一次世界大戦後の戦後民主主義を体現するヴァイマル憲法の下で、ヒトラーは合法的に政権を獲得した。社会民主党と対立したローザ・ルクセンブルクらの虐殺、憲法の緊急事態条項による民主政治の機能不全などヴァイマル共和国の「影」の部分を冷静に描くとともに、ドイツの人びとを魅了したナチズムの本質を抉り出す。戦争への反省が失われつつあることを問う「後章」を新たに収録。
1 もう一つの戦後民主主義とドイツのファシズム(一九三三年一月三〇日―ヒトラー内閣の誕生;ナチスは合法的に国家権力を掌握した;革命運動としてのナチズム)
2 ドイツの敗戦、もっとも民主的な憲法(ドイツ革命からヴァイマル共和国へ;ヴァイマル憲法と最初の戦後民主主義;匕首伝説の説得力)
3 戦争する国をボランティアが担う(国民はなぜナチズムを支持したのか?;自発性と社会参加―善意とやる気の組織化;「労働奉仕」の法制化と義務化)
4 死と政治(ヒトラー政権はまず最初に誰を抹殺したか?;国家儀礼から戦争国家へ―ファシズム政治の大道;ボランティア労働からホロコーストまで)
5 遙かな国の遠い昔ではなく(ナチス・ドイツと歴史認識;二つの憲法、二つの戦後民主主義;「戦争のできる国」から「戦争する国」へ)
後章 憲法とヒトラーの一世紀後に

世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list

全権委任法
1933年3月、ヒトラー内閣が成立させた内閣に絶対的権限を付与する法律。これによってヴァイマル憲法の議会制民主主義は抹殺された。

 ドイツにおいて、1933年3月24日に成立した「全権委任法」は、正式には「民族および帝国の困難を除去するための法律」といい、「帝国暫定憲法」とも呼ばれている。あるいは略して授権法ともいう。この法律は、内閣に対し無制限の立法権を賦与し、さらに大統領の諸権限は縮少さるべきでないと規定した。議会の立法権は、完全に、廃止されたわけてはないとはいえ、事実上、有名無実なものとなり、その結果、それは、例外的な事情においてのみ、したがって装飾的な目的のためにのみ、用いられるようになった。
 これは1932年選挙で230議席を占めて第一党となり、翌年1月に成立したヒトラー内閣が、1933年2月27日の国会議事堂放火事件によって共産党を事実上排除したのに続く、第二のクーデタの意味があった。まもなく全ブルジョワ政党は完全に自発的に解散し、6月に社会民主党、7月に共産党が禁止されて、ドイツ共和国のドイツの議会政治・政党政治は終わりを告げた。
 日本では日中戦争突入後の第1次近衛内閣の時、1938年に成立した国家総動員法がある

 

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